放課後の体育館へ入ると、大喜はラケットを出す前に、コートの外をストレッチを交えて二周歩いた。授業の合間にも固まらない程度に身体を動かし、水分も普段以上に取った。朝練では強度を抑えたが、放課後は基礎打ちの後に短いゲーム形式まで入って問題ないと判断していた。大喜がシューズの紐を締め直していると、隣で針生も脚を伸ばし始める。
「どうだ」
「もう動く分には問題ないです。長くやる必要はないと思いますけど」
「俺も今日はまだ抑えておく。インハイ前に故障したくねえしな」
「太ももの方ですよね」
「試合で結構前後に動かされたからな。お前は?」
「ふくらはぎですね。アイシングして、温めての繰り返しで」
「まぁまだ万全じゃねぇな。じゃあ基礎打ちの後、ダブルスの形だけやるか」
「お願いします」
二人は互いの状態を確認してからコートへ入った。身体は県予選直後より回復していたが、ダブルスの途中で大喜に打てる球が来ると、また無意識にサイドラインから余裕を取って内側へ収めた。
「今の、百で振ってないだろ」
「力まないようにはしました」
「西田もほとんど動いてねえぞ」
「……はい」
大喜自身、外へ出さないつもりで打ったわけではなかった。だからこそ、打つ直前に身体が勝手に安全な方へ寄ったことが気になった。
次は、すぐに決めようとせず、先に相手を動かしてから打った。余裕を作れた球では最後まで振り切れる。だが、早い段階で浮いた球や、外せば流れが変わると感じる場面では、まだ制球を先に選ぶ。技術的に打てないのではない。失敗する可能性が強く見えた時だけ、自分で扱える範囲へ球を収めようとしていた。
「大学の練習、午前からになりそうですか」
「たぶんな。向こうの選手が午後から集まるらしいから、基礎打ちは先にやるって」
「最初からゲームに入るより、その方がいいですね」
「大学生の球に慣れる時間は欲しいしな。前日は軽めにするか」
「監督と相談して、そうしましょう。針生先輩も、今日の張りが残るなら落とした方がいいと思います」
「分かってる。お前こそ明日急に増やすなよ」
針生は軽く答え、タオルで汗を拭く。大喜も水を飲み、体育館の反対側へ目を向けた。
女子バスケットボール部では、千夏へ守備が集まった時に周囲がどう動くかを五対五で確認していた。千夏は二人に寄られれば逆側へ預け、一年生が迷えば声を出す。ところが守備では、渚がカバーへ入ろうとした場所へ千夏も動き、二人が重なった外側からシュートを決められた。
監督が笛を鳴らした。
「鹿野、今のカバーは他に任せろ」
「はい」
「周りが見えているのはいい。でも、見えた場所を全部お前が埋めたら、ほかの選手が動けない」
「分かりました」
次のプレーで千夏は自分のマークに残り、代わりに声で味方を動かした。それでも休憩へ入ると、一年生へ位置を説明し、作戦ボードまで運ぼうとする。身体が動かないのではない。動けるからこそ、見えた仕事を全部自分で拾おうとしていた。
「千夏、水」
「ありがとう。先に休んでてよかったのに」
「休みながら持ってきたの。次、外の声は私が出すから」
「でも、逆側が遅れたら」
「その時は私が言う。千夏が先に全部やったら、私たちが判断する前に終わっちゃうから」
「分かった」
「じゃあ、今度は任せて」
「うん」
千夏はようやくベンチへ座った。水を飲みながらも、視線は監督のホワイトボードへ向いている。休憩に入っても、自分が次にすべきことを探しているようだった。大喜は脚を伸ばしながら、千夏の様子を見ていた。全体練習が終わる頃には、窓から入る光が夕方の色へ変わっていた。
大喜はシャトルの筒を倉庫へ運び、ネットの近くに残ったシャトルを拾った。片づけを終えて廊下へ出ると、女子バスケットボール部の用具を積んだボールかごが向こうから近づいてくる。押しているのは渚だった。大喜は廊下の端へ寄り、かごが通れる幅を空けた。
「お疲れさまです」
「お疲れ。そっちも今日は軽め?」
「はい。まだ軽めですね」
大喜はボールかごの向こうにいる千夏へ目を向けた。一年生と話しながら、床に残っていたマーカーまで集めている。
「ちーちゃん、県予選の後からずっとあんな感じですか」
「あんな感じって?」
「自分の練習が終わっても、誰かに声をかけたり、何かやることずっと探しているんで」
渚も千夏の方を見る。
「前から周りは見てたけど、最近はちょっと多いかな」
「今日も、渚先輩が守るところまで先に動いてましたよね」
「見てたんだ」
「同じ場所に二人入って、外が空いてたので」
「そう。私が行くって声を出したんだけど、千夏も来てた」
渚はボールかごの取っ手へ手を置き直した。
「千夏がいると助かることは多いよ。でも、千夏が全部先にやったら、ほかの選手が自分で決める前に終わっちゃうから」
「ちーちゃんは、渚先輩たちができないと思ってるわけじゃないと思います」
「それは分かってる。たぶん、見えたら自分が行った方が早いって思うんだよ」
「昔から、そういうところはありますね」
「そうなんだよね」
大喜は短く頷いた。
「自分でできることなら、頼む前にやろうとするので」
「でもインターハイでは、千夏一人に合わせて動くチームじゃ勝てないから」
体育館の中から、千夏が渚を呼んだ。
「じゃあ、行くね」
「ありがとうございました」
「私は見えたことを言っただけだよ、こちらこそありがとね」
渚はボールかごを押し、千夏の待つ体育館へ戻っていった。大喜が体育館へ戻ると、針生がネットの支柱を壁際へ運んでいた。大喜は反対側を持ち、二人で倉庫へ向かう。
「渚と何話してたんだ」
「女子バスケの練習のことです」
「お前、バスケ部に転部すんの?」
「しませんよ、何言ってるんですか」
針生は支柱を所定の位置へ置き、手を離した。
「バドは早く整理しないとですね」
「そうだな。決める球だけ、振り終わりが小さくなってる」
「外さないようにしてるつもりはないんですけど」
「無意識なら、そっちの方が厄介だな。県ならあの球でも押し切れる。でも全国じゃ、相手も普通に返してくる。今後のシングルスでも引きずるぞ」
「だから、先に足を使って相手を崩します」
「それはいい。相手を動かして、振り切れる状況を作って感覚を取り戻すしかないしな」
「はい」
針生はそれ以上尋ねなかった。大喜が昨日と別人になったわけではない。今は、先輩として答えを与えるより、大喜のやり方に付き合う方がよかった。
「大学練習の日、午前からですよね」
「そうなると思う。何か予定あんのか」
「いや、今から決めようかと」
大喜は体育館の出入口にある掲示板へ目を向けた。学校からのお知らせに交じり、地域の夏祭りのポスターが貼られている。来月の土曜日、夕方から商店街と河川敷に屋台が並ぶらしい。大喜は日付をスマートフォンへ入力した。着替えを済ませて校舎側の出入口へ向かうと、女子バスケットボール部も片づけを終えたところだった。
千夏は渚たちと一緒に廊下へ出てくる。大喜に気づくと手を上げ、駅へ向かう部員たちへ声をかけた。
「私、帰るね」
「うん、お疲れ」
「また明日」
「お疲れさま」
渚は大喜にも軽く手を振り、ほかの部員たちと駅の方向へ歩き出した。大喜と千夏は校門を出て、住宅街へ向かった。雨は降っていないが、雲が低く、夕方の空は灰色に覆われている。千夏はバッグを肩へ掛け直しながら、大喜へ尋ねた。
「今日は練習できた?」
「うん。身体は問題なかった」
「昨日、振り切れなかった球は?」
「打った。でもコートに入れることを無意識に考えてて、いつもの速さがなかった」
「自分で分かったの?」
「針生先輩に言われた。百で振ってないって」
「そうなんだ」
大喜は歩きながら、今日のラリーを思い返した。
「針生君、すぐ気づいたんだね」
「うん。最初は調整だからかなって思ったけど、言われた後はごまかせなかった」
「もう一回やったの?」
「同じ形を何回か。相手を動かした後の安全圏からなら、最後まで振れた」
「そっか」
「昨日、ちーちゃんに話せたからかもしれない」
千夏が大喜を見る。大喜は前を向いたまま続けた。
「まだ全部整理できたわけじゃないけど、振り切れなかったことを知られても、それで終わりじゃないって思えたから」
「うん」
「だから、針生先輩に言われた時も、大丈夫ですって終わらせないで、もう一回同じ形を頼めた」
「それなら、話してよかった」
「うん、だからありがとう」
千夏はすぐに別の言葉を重ねず、大喜と並んで歩いた。しばらく進んだところで、大喜が今度は千夏へ顔を向けた。
「ちーちゃんは、今日かなり動いてたね」
「見てたの?」
「休憩中に。疲れてるわけじゃないのは分かったけど」
「何か気になった?」
「自分の場所じゃないところまで、先に埋めてたことかな」
千夏の返事が遅れた。
「渚が遅れると思ったから」
「でも、渚先輩も同じところに行こうとしてた」
「うん。重なっちゃった」
「後輩にもずっと位置を教えてたし、休憩になっても作戦ボード見てたよね」
「大喜くん、思ったより見てるね」
「目に入ったから」
千夏は前を向き、バッグの肩紐を握り直した。
「インターハイに行くなら、県予選と同じじゃだめだから。私が止められた時も、チームが動けるようにしないと」
「そのために、ちーちゃんが全部見るの?」
「全部じゃないよ」
「でも、みんなが動く前に、ちーちゃんが先に動いてた」
千夏はすぐには否定しなかった。自分が何かを言えば、一年生の迷う時間を短くできる。渚が間に合わないと思えば、自分が一歩入る方が早い。実際には間に合っていたとしても、失点してから後悔するより、自分が動く方を選んでしまう。
「私、みんなを信用してないわけじゃないんだよ」
「分かってるよ」
「ちゃんとできるところを見せないとって思ってるだけ。インターハイに行くチームなんだから」
「ちーちゃん一人が見せるの?」
「一人でやるつもりはないよ」
千夏の言葉は、そこで止まった。大喜もすぐには返さなかった。
「無理してるの、ちーちゃんもじゃない?」
千夏は大喜を見た。
「私は無理してないよ。身体も平気だし」
「疲れてるって意味じゃないよ」
「じゃあ、どういう意味?」
「自分でできることを、全部自分がやることにしようとしてるってとこかな」
大喜は歩みを止めず、言葉を続けた。
「ちーちゃん、任せて失敗するより、自分が動いて失敗した方がいいって思う時あるでしょ」
「……あるかもしれない」
「でも、それだと渚先輩たちが自分で判断する前に、ちーちゃんを待つチームになるって」
「渚と話したの?」
「用具を運んでた時に少しだけ。渚先輩も、ちーちゃんに任せきりにしたくないって言ってた」
「そうなんだ」
千夏は何歩か黙って歩いた。
「監督にも、見えた場所を全部埋めるなって言われた」
「うん」
「分かってはいるんだけど、試合で同じことが起きたらって思うと、先に動いた方がいい気がして」
大喜は一度だけ頷いた。
「俺も今日、いつもなら決められる球だったけど、失敗しないことを知らないうちに優先してた」
「私は大喜くんみたいに、球を弱くしてるわけじゃないけど」
「俺も弱くするつもりはなかったよ」
「そうだった」
千夏が息を漏らすように笑った。大喜も笑い、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「ちーちゃん、来月の土曜日って練習あるよね」
「土曜日は基本あるよ。どうして?」
「体育館の掲示板に夏祭りのポスターがあって、そろそろだなって思い出して」
大喜が画面に表示した日付を見て、千夏は自分の予定を思い返した。
「この日なら、たぶん午後まで練習。まだ時間は出てないけど」
「俺も針生先輩と大学の練習に行く。でも、夕方には終わると思う」
「そうなんだ」
「練習が終わった後、少しだけ行かない?」
千夏は画面から大喜へ視線を移した。
「大喜くんから誘ってくれると思わなかった」
「急だった?」
「ううん。驚いただけ」
「予定が合わなかったら無理しなくていいよ」
「行きたくないって言ってないよ」
二人は赤信号の前で足を止めた。
「どうして夏祭り?」
「昨日、ちーちゃんが外に連れ出してくれたでしょ」
「うん」
「あの時間が自分にとって良かったから。すぐ全部が変わったわけじゃないけど、自分だけで考えてた時よりは気持ちの整理ができた」
大喜はスマートフォンをポケットへ戻した。
「ちーちゃんも、練習の中で役割を探さなくていい時間があってもいいのかなって」
「夏祭りに行っても、インターハイのことは考えるかもしれないよ」
「屋台の前で守備位置までは考えないでしょ」
「人の流れを見て、立つ場所は考えるかも」
「それはバスケじゃないよ」
「似てるかもしれない」
「じゃあ、俺が先に空いてる場所を探す」
「今度は大喜くんが全部やろうとしてるよ」
「本当だ」
信号が青に変わる。横断歩道を渡りながら、千夏の笑い声が続いた。
「夏祭り、行きたい」
「本当?」
「うん。練習が終わる時間、分かったら言うね」
「俺も大学の練習時間を確認しとく」
「浴衣は無理そうだね」
「浴衣じゃなくてもいいよ。練習後なら、動きやすい服の方が楽だと思う」
「残念だけど、そうしようか」
千夏は歩きながらスマートフォンを取り出し、予定表を開いた。該当する土曜日には、女子バスケットボール部の練習とだけ記されている。その下へ「夏祭り」と入力し、保存する。大喜は画面をのぞき込まず、隣を歩いていた。
「大喜くん」
「何?」
「誘ってくれてありがとう」
「まだ行ってないよ」
「誘ってくれたことに言ってるの」
「そっか」
「うん」
大喜は一度頷き、前を向いた。次の練習でも、大喜のスマッシュは振り切れないかもしれない。千夏もまた、味方が判断する前に、自分から声を出し、空いた場所を埋めるかもしれなかった。二人とも、自分の中にあるものをすべて整理できたわけではない。
それでも、千夏の予定表には、練習とは別の予定が一つ増えていた。二人は夏祭りの会場までの道を話しながら、猪股家へ向かって歩いた。