大喜がバドミントンを始めてから、体育館での時間は少しずつ変わっていった。
千夏はバスケのコートで夢佳と走り、大喜は隣のコートでシャトルを追う。床を打つボールの音と、ラケットがシャトルを弾く乾いた音。響く音は違う。見ている場所も、使う道具も、走る線も違う。
それでも、二人が同じ体育館にいることは変わらなかった。
大喜は、バドミントンにすぐ夢中になった。
最初は空振りばかりだった。シャトルは軽く、思ったより遠くへ飛ばない。ラケットの真ん中に当てるだけでも難しい。足を出すのが遅れて、シャトルが目の前に落ちることも何度もあった。
それでも、大喜はやめなかった。
拾えなかったシャトルを見て、悔しそうに唇を結ぶ。すぐに拾いに行って、もう一回、とラケットを構える。家に帰ってからも、ラケットの握り方を確かめるように手を動かして、母親に「家の中では振らないで」と注意される。
「振ってないよ」
「今、完全に振ろうとしてたでしょ」
「握ってただけ」
「その握ってただけで、花瓶に当たりそうだったの」
そんなふうに言われても、大喜は少し経つとまた手の中でグリップを作る。何も持っていなくても、指が勝手にラケットを思い出してしまう。
大喜がそこまで夢中になった理由の一つは、千夏の言葉だった。
バドミントン、かっこいいね。
千夏は何気なく言っただけだった。けれど大喜には、その言葉がずっと残っていた。
ちーちゃんが、かっこいいと言ってくれた。
それなら、もっと上手くなりたい。もっとちゃんと打てるようになりたい。千夏が見た時に、本当にかっこいいと思ってもらえるくらい、シャトルを追えるようになりたい。
千夏も、大喜の変化には気づいていた。
少し前まで自分の後ろをついてきていた大喜が、今は自分のコートで何かを追いかけている。空振りしても、転びそうになっても、すぐにシャトルを拾いに行く。失敗した時の悔しそうな顔も、うまく返せた時の嬉しそうな顔も、バスケをしていた頃よりずっと大喜らしく見えた。
「大喜くん、また練習してる」
練習の合間に千夏がそう言うと、大喜は少し得意そうに笑う。
「だって、まだ全然当たらないし」
「でも、前より当たってるよ」
「ほんと?」
「うん。さっきの、速かった」
千夏がそう言うだけで、大喜の顔はぱっと明るくなる。
夢佳はその様子を横で見て、少し不思議そうに首を傾げた。
「ナツ、あの子のことよく見てるね」
「大喜くん?」
「うん。さっきから、バドミントンの方ばっか見てる」
千夏は少し考える。
「うん。頑張ってるなって」
「ふーん」
夢佳はそれ以上何も言わなかった。夢佳にとって大喜は、千夏の後ろをついてくる小さい男の子という印象だった。けれど、千夏が大喜を見る時の顔は、他の年下の子を見る時とは少し違っていた。
心配しているようでもあり、嬉しそうでもあり、少しだけ誇らしそうでもある。
夢佳はまだ、その違いを深く考えるほど興味を持っていたわけではない。ただ、ナツはあの子のことをよく見ている。そう思っただけだった。
その頃、千夏の周りにはもう一人、よく一緒にいる友達がいた。
守屋花恋。
花恋は千夏の幼稚園からの友人で、明るくて、少しませていて、人の表情をよく見る子だった。大人が何を言いたいのか、友達が何をごまかしているのか、全部分かるわけではないのに、なんとなく気づくところがあった。
母親同士の付き合いもあり、千夏の家に遊びに来ることも多かった。
ある日、千夏の家に花恋が遊びに来ていた時、大喜も母親に連れられてやって来た。
玄関に立った大喜は、千夏の姿を見るとすぐに笑った。
「ちーちゃん」
千夏もいつものように返す。
「大喜くん、いらっしゃい」
花恋はそのやり取りを見て、少し目を丸くした。
「ちーちゃん?」
大喜は不思議そうに花恋を見る。自分がいつも呼んでいる名前を、なぜそんなふうに繰り返されたのか分からない顔だった。
千夏は少し笑って説明する。
「大喜くん、私のことずっとそう呼ぶの」
「へえ」
花恋は大喜を見る。
自分より年下で、千夏の隣にいると少し安心した顔をする男の子。人見知りしているのか、花恋を見た後すぐに千夏の方へ視線を戻す。けれど挨拶はちゃんとしようとしているらしく、姿勢を正した。
「はじめまして。いのまたたいきです」
「守屋花恋です」
花恋も少し大人びた声で返す。
「大喜くんって呼んでいい?」
「うん」
「じゃあ、私は花恋ちゃんでいいよ」
「花恋ちゃん」
大喜は素直に繰り返した。
花恋は満足そうに頷く。
「よろしい」
「花恋、何それ」
千夏が笑う。
花恋はその時、すぐに気づいた。
大喜は千夏のそばにいると落ち着く。
そして千夏は、大喜に少し甘い。
おやつの時間、大喜がうまく袋を開けられずにいると、千夏がすぐに手を伸ばした。
「貸して」
「自分でできるよ」
大喜は少しむきになって言うが、袋の端はなかなか切れない。力を入れすぎると中身が飛び出しそうで、顔だけが真剣になっていく。
千夏はしばらく見ていたが、結局手を伸ばした。
「ちょっとだけ」
端を少し切って、大喜に返す。
大喜は何もなかったように受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
花恋はその横でじっと二人を見る。
「ちー、大喜くんには優しいね」
「そう?」
「うん。私の時は、自分で開けなよって言うのに」
千夏は少し困った顔をした。
「花恋は自分で開けられるでしょ」
「大喜くんだって、もうちょっと頑張れば開けられたかもよ」
「でも、飛び散ったら大変だし」
「へえ」
花恋がわざとらしく頷く。
「大喜くんは特別なんだ」
千夏は首を傾げた。
「大喜くんはまだ小さいから」
大喜はすぐに反論する。
「小さくない。ひとつしか変わらないじゃん」
花恋は笑った。
「小さいよ」
「小さくない」
「じゃあ、ちーの後ろに隠れないでよ」
大喜は少しだけ千夏の服を掴んでいた手を離した。
千夏はその様子に気づき、口元を緩める。
「花恋、大喜くんをいじめないで」
「いじめてないよ。確認してるだけ」
「何を?」
「ちーがどれくらい大喜くんに甘いのか」
「甘くないよ」
「今の顔、甘いよ」
千夏は自分の顔に手を当てた。
「どんな顔?」
「大喜くんを見る時の顔」
大喜は二人の会話の意味が分からず、お菓子を食べながら首を傾げた。
その日から、花恋は千夏と大喜の間に自然に入るようになった。
三人で公園へ行く時も、家で遊ぶ時も、体育館帰りに少しだけ寄り道する時も、花恋は千夏の隣にいて、大喜は千夏の近くにいた。
花恋は大喜をからかうのが好きだった。
「大喜くん、またちーの隣?」
「別に」
「別にって顔じゃないよ」
「どんな顔」
「ちーの横、取られたくない顔」
大喜はむっとする。
「取られたくないとかじゃない」
「じゃあ、私がちーの隣行くね」
花恋が千夏の腕にくっつくと、大喜は一瞬だけ目を丸くする。何も言わない。けれど、千夏の反対側へ回ってくる。
花恋はそれを見て、楽しそうに笑った。
「ほら」
「何が?」
「何でもない」
千夏は大喜を見る。
「大喜くん、こっち狭くない?」
「狭くない」
「花恋もいるから、歩きにくかったら言ってね」
「大丈夫」
大喜はそう言って、千夏の横を歩いた。
花恋はそれを見ながら、少し面白いものを見つけた気分になった。
千夏は誰にでも優しい。困っている子がいれば声をかけるし、忘れ物をした友達には自分のものを貸す。大人の話もちゃんと聞く。そういうところは、花恋もよく知っていた。
けれど、大喜に対する優しさは少し種類が違う。
大喜が何かをすると、千夏はすぐに見ている。大喜が褒められると、千夏も嬉しそうにする。大喜が疲れると、千夏の隣に戻ってくる。大喜が千夏を呼べば、千夏はほとんど反射のように振り返る。
姉弟と言えば近いかもしれないが、それだけでもない気がする。
花恋には、そこが面白かった。
夏になると、三人で近所の夏祭りに行くことになった。
夕方、浴衣ではなく動きやすい服で集まった三人は、母親たちに見送られて祭りの通りへ向かう。提灯が並び、屋台の匂いが漂い、人の声が遠くから聞こえてくる。
大喜は少しそわそわしていた。
「ちーちゃん、あれ何?」
「わたあめ」
「食べたい」
「あとでね」
大喜はすぐに別の屋台を指さす。
「じゃあ、あれ」
「金魚すくい?」
「やりたい」
「あとでね」
花恋は二人の後ろを歩きながら笑った。
「ちー、大喜くんのお母さんみたい」
千夏は振り返る。
「違うよ」
「でも、さっきから全部答えてる」
「だって大喜くん、初めて見るもの多いから」
大喜は少し不満そうに言う。
「初めてじゃない」
「じゃあ、この前の夏祭り覚えてる?」
千夏が聞くと、大喜は黙った。
花恋は吹き出す。
「覚えてないんじゃん」
「覚えてないだけで、初めてじゃない」
「それ、ほぼ初めてじゃない?」
大喜は言い返そうとして、言葉に詰まった。千夏が笑うと、大喜も少しだけ口元を緩める。
人混みが少し増えてくると、大喜は自然に千夏の服の裾を掴んだ。
千夏はそれに気づくと、何も言わずに大喜の手を取る。
「はぐれないようにね」
「うん」
大喜は当然のようにその手を握った。
花恋はその後ろで目を細めた。
人混みの中で、千夏が大喜の手を取る。大喜がその手を疑わずに握る。
あまりにも自然だった。
花恋が同じことをしたら、きっと「何?」となる。少なくとも、こんなふうに何も説明せず、何も照れず、当たり前のようにはならない。
これが私より先に出会っていた幼馴染の力か。
花恋はそんなふうに納得した。
屋台の列に入ると、千夏は大喜がどこを見ているかすぐに気づいた。
「あれ、食べたい?」
大喜は少し驚いて頷く。
「うん」
千夏はかき氷の屋台を指さした。
「大喜くん、青いの好きそう。ブルーハワイにする?」
「うん。青がいい」
大喜は迷わず答えた。
「ちーは?」
花恋が聞く。
「私はイチゴ」
「ちー、赤いの似合うよね」
「そう?」
「うん。大喜くんは青」
「なんで?」
大喜が聞くと、花恋は少し考えるふりをした。
「なんとなく。ちーがそう言ったから」
「理由になってない」
「ちーが言うなら、だいたい合ってるんじゃない?」
大喜は千夏を見る。
千夏は困ったように笑っている。
三人は近くの段差に座り、かき氷を食べた。大喜は青いシロップのかかった氷を真剣にすくい、ひと口食べて目を丸くする。
「冷たい」
「かき氷だからね」
千夏が笑う。
少しして、大喜の舌が青くなっているのを見て、千夏がまた笑った。
「大喜くん、舌青い」
「ちーちゃんも赤い」
「私はイチゴだから」
大喜は少し得意そうに、自分のかき氷を千夏の方へ差し出した。
「ちーちゃんも食べる?」
「いいの?」
「うん」
千夏は小さく一口もらう。
「こっちもおいしい」
「でしょ」
大喜は嬉しそうに笑った。
花恋が横から言う。
「私には?」
大喜は少し考えてから、花恋にも差し出した。
「はい、花恋ちゃんもどうぞ」
花恋は笑いながら一口もらう。
「大喜くん、案外優しいね」
「案外って何」
千夏が少しだけむっとする。
「大喜くんは優しいよ」
大喜は千夏にそう言われて、分かりやすく嬉しそうな顔をした。
花恋はその顔を見て、また笑う。
「はいはい」
「何?」
「ちーが言うと、大喜くんすぐ嬉しそう」
大喜はかき氷のカップを見下ろす。
「別に」
「また別にって言った」
「別に」
「二回言った」
千夏は花恋を軽くたしなめる。
「花恋」
「分かった分かった。ねえ、次あれ見に行こうよ」
花恋は射的の屋台を指さした。
大喜は一度千夏を見る。
「ちーちゃんも行く?」
花恋は少しだけ口を尖らせた。
「私が誘ったんだけど」
千夏は笑って言う。
「行こう、三人で」
三人で歩く。
けれど、気づけば千夏と大喜が隣にいて、花恋が少し横にいる形になる。花恋は怒るわけではなかった。むしろ、だんだん面白くなってくる。
この二人、ずっとこうなんだ。
そう思った。
金魚すくいの屋台では、大喜が真剣な顔でポイを構えた。
「破れやすいから、そっとね」
千夏が言う。
「分かってる」
大喜は慎重に水へ入れる。
一匹、赤い金魚が近づいた。
大喜は息を止めるようにして、ポイを動かす。
破れた。
「あ」
大喜は固まる。
花恋が笑いをこらえた。
「早かったね」
「今の、金魚が速かった」
「金魚のせいにした」
千夏は隣でしゃがみ込む。
「大喜くん、もう一回やる?」
「やる」
「じゃあ、今度は水をあんまりすくわないようにしてみたら?」
「うん」
千夏は口で説明するだけで、手は出さなかった。大喜は自分でやりたがっている。それを、千夏はちゃんと分かっていた。
二回目、大喜は一匹だけ金魚をすくえた。
「取れた!」
大喜の顔がぱっと明るくなる。
千夏も自分のことのように喜んだ。
「すごいね、大喜くん」
「うん!」
花恋はその横顔を見る。
大喜は千夏に褒められると、本当に嬉しそうにする。
千夏は大喜ができたことを、自分のことのように喜ぶ。
二人とも、それを特別なことだとは思っていない。
だからこそ、花恋には少し面白かった。
次に、千夏は牛串の屋台の前で立ち止まった。
「これ、好き」
大喜は千夏の顔を見る。
「ちーちゃん、これ好きなの?」
「うん。でも熱いから、ゆっくり食べるんだよ」
「ちー、シブイの好きだね」
花恋が言う。
千夏は少し笑って、牛串を一本買い、三人で分けることにした。
大喜は真剣な顔で、千夏がふうふうと冷ましながら食べるのを見ていた。
「大喜くんも食べる?」
「うん」
「熱いよ」
「分かってる」
大喜は小さくかじって、すぐに眉を寄せた。
「熱い」
「言ったでしょ」
千夏が笑う。
花恋はその横顔にも気づく。
千夏は大喜が欲しそうなものを、言われる前に見つける。
大喜は大喜で、千夏が好きだと言ったものを、ちゃんと覚えようとしている顔をしている。
「ちーちゃん、牛串好きなんだ」
「うん」
「覚えた」
「覚えなくてもいいよ」
「やだ、覚える」
大喜はそう言って、もう一口小さく食べた。
帰り道、大喜は少し眠そうだった。歩く速度が遅くなり、千夏の手を握る力も弱くなる。
「眠い?」
千夏が聞くと、大喜は首を振る。
「眠くない」
「眠そうだよ」
「眠くない」
花恋は後ろから言う。
「大喜くん、意地張ってる」
「張ってない」
大喜はそう言うが、次の瞬間、小さくあくびをした。
千夏は笑って、大喜の手を少し握り直す。
「もう少しだから」
「うん」
遠くで、花火の音が小さく響いた。
大喜は眠そうにしながらも、千夏の手を離さなかった。
花恋はそのやり取りを見ながら思う。
大喜は、千夏に手を引かれるのが似合う。
そして千夏は、大喜の手を引く時、少し嬉しそうに見える。
家の近くまで戻ると、大喜は母親に引き渡された。眠そうな顔で、それでも千夏に手を振る。
「ちーちゃん、またね」
「うん。またね、大喜くん」
「花恋ちゃんも、またね」
「うん。またね、大喜くん」
大喜が帰った後、花恋は千夏の横顔を見る。
千夏はまだ、大喜の方を見ていた。
「ちー」
「何?」
「大喜くんのこと、好きだね」
千夏は何の迷いもなく頷いた。
「うん。好きだよ」
花恋は少しだけ意外そうに目を丸くする。千夏は本当に何も意識していない顔だった。あまりにもまっすぐで、言った本人が何を言ったのか分かっていないように見える。
「そういう意味じゃなくて」
「どういう意味?」
千夏が首を傾げるので、花恋は少し笑った。
「ううん。今はいい」
「変な花恋」
「ちーが分かってないだけ」
「何を?」
「だから、今はいいって」
花恋にも、まだ恋のことがはっきり分かっていたわけではない。
ただ、千夏が大喜を見る時の顔は、他の人を見る時と少し違う。それは、弟を守るような顔にも見えたし、大切なものを見つけた時の顔にも見えた。
その違いが何なのか、花恋にもまだはっきりとは分からなかった。
けれど花恋は、これからもこの二人を見ていきたいと思った。
見ていたら、きっと面白い。
それに、たぶん。
千夏がいつかその違いに気づく時、自分は近くにいたい。
花恋はそんなことを思いながら、千夏の隣を歩いた。
千夏はまだ少しだけ、大喜が帰っていった方を気にしている。
「ちー」
「今度は何?」
「今度、大喜くん来たら、私もちーの隣座るね」
「いいよ」
「大喜くん、怒るかな」
「怒らないよ」
「ほんとかな」
花恋が笑うと、千夏もつられて笑った。
まだ、誰にも名前のつけられない距離。
けれどそれは確かに、三人の間で少しずつ形を持ち始めていた。