千夏が遠征先から猪股家へ戻ったのは、空がすっかり暗くなってからだった。玄関の扉を開けると、キャリーケースの車輪が段差に引っかかった。奥から足音が近づき、大喜が靴下のまま玄関へ下りてくる。
「おかえり、ちーちゃん」
「ただいま」
「荷物、持つよ」
「大丈夫。転がすだけだから」
「階段は転がせないでしょ」
大喜は千夏の返事を待たず、キャリーケースの持ち手を受け取った。千夏は通学用のバッグだけを持ち、先に靴を脱ぐ。猪股家の家族にも迎えられ、千夏は遅い夕食を取った。大会の結果はすでに連絡していたため、食卓では会場の広さや宿舎での出来事、帰りの移動について話した。長い遠征から戻った千夏を気遣い、食事が終わると早めに休むよう勧められた。
荷物を部屋へ運び、着替えを済ませてからリビングへ戻ると、大喜は床に座り、片脚を伸ばしてストレッチをしていた。テレビの音量は小さく、キッチンでは大喜の母が食器を片づけている。千夏はソファへ腰を下ろし、麦茶の入ったグラスを両手で包んだ。
「大喜くん、少し話していい?」
「うん。試合のこと?」
大喜は伸ばしていた脚を戻し、千夏の方へ身体を向けた。千夏が帰ってきた時から聞きたいことはあったはずだが、自分から試合の詳細を尋ねようとはしていなかった。
「最後、私が打ったんだ」
「空いたところに戻ってきた球?」
「うん。渚が二人引きつけてくれて、私の前には一歩分くらい余裕があった。迷わず打てたと思う」
「打ったことを後悔してる?」
「それはしてない。あそこは打つ場面だったから」
千夏はグラスの中で揺れる氷を見た。シュートを避けたわけではない。誰かへ責任を渡そうともせず、リングを見て跳んだ。それでも、正しい判断だったことと、結果を受け入れられることは同じではなかった。
「でも、入れたかった。勝ちたかった」
大喜は急いで励まそうとはせず、千夏が次に話すのを待った。
「みんなで追いついたし、先輩たちともっと試合したかった。大喜くんが言ってくれた『頑張れ』も、ちゃんと持ってコートに入ったよ」
「そっか。試合の前に、少しでも役に立てたならよかった」
「役に立ったよ。あの電話の後、明日のことだけ考えて寝られたから」
「それでも、外したのは悔しいんだね」
「うん」
「だったら、次も同じところで打てるように練習するんでしょ」
「そうする。今度は入れたい」
「俺も、最後に返された球が課題」
大喜は自分の右手を一度開き、膝の上へ戻した。
「シングルスでは全国に出られなかったし、ダブルスも決勝には届かなかった。ベスト4まで行けたのはうれしいけど、負けたこともかなり悔しい」
「うん」
「次の大会では優勝したい」
「私も、ウィンターカップで勝ちたい。最後のシュートだけじゃなくて、前半のリバウンドや守備も全部見直す」
「また練習だね」
「それ以外にできること、あまりないから」
「俺も同じ」
千夏は麦茶を一口飲んだ。最後の一本を忘れようとは思わなかった。大喜も、全国ベスト4という結果の中に敗戦の悔しさを隠してはいない。二人とも、負けた場所へ戻るのではなく、その悔しさを持ったまま次のコートへ進もうとしている。千夏も、次に同じ場所でボールを受けた時、もう一度迷わず打てる自分でいたかった。しばらくして、千夏はグラスをテーブルへ置いた。
「それと、電話してよかった」
「テレビ電話?」
「うん」
千夏は膝の上で指を組み直した。談話スペースで渚たちに聞かれていた時よりも、大喜を前にして話す今の方が、言葉を選ぶのに時間がかかった。
「声を聞けたのもよかったし……顔を見て話せたから、落ち着いた」
「顔も?」
「自分からテレビ電話にしたんだから、そこは聞き返さないでよ」
「ごめん。ちょっと意外だったから」
「言うの、結構恥ずかしいんだけど」
「俺も、画面を見ながら頑張れって言うのは恥ずかしかったよ」
「知ってる。最初に自分で言ってたから」
「でも、ちーちゃんが電話してよかったと思ったなら、俺もよかった」
大喜が照れたように頬を指でかいたため、千夏もそれ以上は続けなかった。代わりに、自分の足元へ目を向ける。今は靴下の下にも、結び目の感触はなかった。
「あとね、ミサンガが切れちゃった」
「いつ?」
「試合が終わって、着替えた時に気づいた。どこかで引っかかったのかもしれない」
「なくした?」
「切れた方はバッグに入れてある」
「そっか」
「お揃いじゃなくなっちゃった」
最後の一言だけは、もっと軽く言うつもりだった。しかし、口にすると自分が思っていたより寂しそうな声になった。大喜は自分の足首へ目を向けることなく、畳んでいたタオルの端をそろえた。
「じゃあ、また次の目標に向かってだね」
「そうだね、また作ろうかな」
「今度は俺も一緒に作る。前は、ちーちゃんに作ってもらったから」
「まだ大喜くんの切れてないでしょ」
「そしたらちーちゃんのを作る」
「じゃあ今度は二人で作ろう」
返事をしてから、千夏はグラスへ手を伸ばした。すぐに受け入れたことを大喜は気にしていないようだったが、氷の解けた麦茶を飲み終えるまで、千夏は顔を上げられなかった。大喜はストレッチへ戻り、千夏もソファから下りてマットの端を借りた。移動で固くなった脚を伸ばしながら、明日からの練習について二人は話した。
八月二十六日。
夏休み中の登校日を終えた栄明高校では、午後の部活動が始まろうとしていた。制服から練習着へ着替えた千夏が体育館へ入ると、女子バスケットボール部の部員たちは、いつものようにボールを出すのではなく、コートの中央へ集まっていた。渚の手には三角形のパーティーハットがあり、その隣の同級生は、黒いひげのついた眼鏡を持っている。千夏は二人を見て足を止めた。
「帽子だけでいいんじゃない?」
「まだ何も言ってないけど」
「それを見たら分かるよ」
「分かったなら話が早いね。誕生日おめでとう、千夏」
「ありがとう。でも、ひげ眼鏡はいらないと思う」
「帽子とセットだから」
「誰が決めたの?」
「みんな」
「私は入ってないよね」
「本人を入れたら反対するから、入れてません」
渚が千夏の頭へパーティーハットを載せ、顎の下へ細いゴムを掛ける。左右を同級生に塞がれた千夏は逃げられず、ひげ眼鏡も着けさせられた。女子バスケ部員たちから笑い声が上がる中、渚は自撮り棒を伸ばし始めた。
その頃、男子バドミントン部も練習着へ着替え、体育館へ向かっていた。大喜と匡が入口へ近づくと、新体操部のバッグを肩へ掛けた雛が廊下の反対側から歩いてくる。
「雛」
大喜に呼ばれ、雛は足を止めた。
「何?」
「インターハイ三位、おめでとう」
「俺からも、おめでとう。全国三位はすごいよ」
匡にも言われ、雛は一度二人の顔を見比べた後、腰へ手を当てた。
「ありがとう。でも、二人とも今言う?」
「学校で会うの、遠征から帰ってきて初めてだろ」
「メッセージでは送ったけど、直接も言いたかったから」
「それなら受け取っておく。でも、三位で満足したわけじゃないからね。もっと上を目指すんだから」
「雛なら、そう言うと思った」
「大喜も匡も、今に満足してないでしょ」
「うん。次は優勝したい」
「俺も、まずは全国に出場しないと」
「じゃあまた頑張らないとね」
雛は自分の練習場所へ向かおうとしてから、女子バスケ側の騒ぎへ顔を向けた。
「千夏先輩、すごい眼鏡着けてない?」
「今日、誕生日だから」
「それで大喜が呼ばれそうな感じなの?」
大喜が聞き返す前に、コートの中から渚の声が飛んだ。
「猪股君も、こっち来てちょうだい」
大喜は自分を指さした。
「俺もですか?」
「幼馴染の誕生日なんだから、一緒に祝いなよ。練習が始まる前に写真撮るから、早く」
「女子バスケ部の写真じゃないんですか?」
「今日は特別」
大喜が針生たちの方を見ると、すでにコートへ入っていた針生が片手を上げた。
「写真一枚でアップには遅れねえよ。行ってこい」
「分かりました」
雛も自分の練習場所を指した。
「じゃあ、私も練習始まるから」
「雛も頑張って」
「大喜もね。匡も」
「うん」
「分かった」
大喜は女子バスケ側へ回った。渚は千夏の隣にいた部員を一人ずらし、その空いた場所へ大喜を入れる。
「猪股君、もっと千夏に寄って。端の子が画面から外れてる」
「もっとですか?」
「自撮り棒にも限界があるから、協力して」
「渚、十分近いよ」
「千夏も反対側へ寄ったら、そっちの先輩が入らなくなるでしょ」
左右から部員たちが詰め、大喜と千夏の肩が触れた。まだ画面の端にいた部員の顔が半分ほど切れている。千夏は自撮り棒の画面を見てから、大喜へ半歩近づいた。肩だけでなく、練習着越しに腕の外側まで触れ合う。
「ちーちゃん、狭くない?」
「私が離れたら全員入らないから、このままでいいよ」
「分かった」
大喜は写真へ入るための距離としか考えていない様子で、渚の掲げるスマートフォンへ顔を向けた。千夏はひげ眼鏡を掛けたまま、隣にある大喜の肩を意識しないよう、同じ方向を見る。
「最初は眼鏡ありで撮るよ」
「普通の写真もちゃんと撮ってね」
「もちろん。三、二、一」
女子バスケ部員たちが声をそろえた。
「千夏、誕生日おめでとう!」
シャッター音が鳴った。全員で手を上げた写真、千夏のひげ眼鏡を指さす写真と続き、最後は眼鏡を外して普通に笑った写真を撮る。自撮り棒の範囲へ全員を入れるため、大喜は最初よりも顔を千夏の方へ寄せていた。千夏の髪が大喜の頬へ触れたが、大喜は位置を変えずカメラを見ている。千夏だけが、最後の写真で笑うまでに少し時間がかかった。撮影が終わると、大喜は女子バスケ部員たちへ頭を下げた。
「ありがとうございました。ちーちゃん、誕生日おめでとう」
「ありがとう」
「また後で」
「うん。練習頑張って」
「ちーちゃんも」
大喜が男子バドミントン部へ戻ると、渚は撮影した写真を確認し始めた。千夏はパーティーハットとひげ眼鏡を外し、渚のスマートフォンを横からのぞく。部員たちに囲まれた自分と、その隣でいつもと同じように笑う大喜が画面に映っていた。
「渚、写真あとで送ってね」
「もちろん。眼鏡ありも?」
「全部送って」
「普通のだけじゃなくて?」
「全部欲しい」
「猪股君が写ってる写真も?」
「大喜くんだけ切る必要ないでしょ」
「それもそうだね」
渚は一度だけ笑い、それ以上はからかわなかった。スマートフォンをバッグへしまうと、自分からボールかごを押し、部員たちへアップを始めるよう声を掛ける。練習では、インターハイで課題となったリバウンドの位置取りに時間が使われた。ゴール下の選手が相手を背中へ入れ、外にいる選手もボールが落ちる方向を予測して中へ入る。
渚は外へ弾かれた球を拾うと、そのまま速攻の先頭へ走った。千夏も自分のマークだけを見るのではなく、味方がどこを押さえているかを確認し、空いた場所へ身体を入れる。新しい大会へ向けた練習は、すでに始まっていた。練習後、千夏は監督に呼ばれた。
汗を拭いて制服へ着替え、監督室を訪れる。机の上には秋までの練習日程と、新体制の部員表が広げられていた。監督は千夏へ椅子を勧めると、部員表の上へペンを置いた。
「吉谷と小池から、受験に専念したいと正式に申し出があった。二人は今日で引退する」
「今日で、ですか」
「本人たちとも何度か話した。残る三年生はウィンターカップまで続ける。キャプテンもそのままだ」
「はい」
「ただ、副キャプテンだった吉谷が抜ける。鹿野、お前に後を任せたい」
噂として聞いていた時から、二人が抜けた後のことを考えなかったわけではない。しかし、自分が副キャプテンに選ばれるとは思っていなかった。
「私に、ですか」
「そうだ」
「渚も試合中に周りへ声を掛けていますし、チームを動かせると思います」
「もちろん評価している。渚は自分から流れを変えられる選手だし、周囲を動かす力もある。お前と比べて、どちらが上かを決めたわけではない」
監督は部員表に目を落とし、二年生の名前が並ぶ位置を指した。
「鹿野は自分に守備が集まった時、空いた味方を見つけられる。練習でも、一年生が遅れていれば、そのまま置いていかずに声を掛けている。新しいチームには、違う見方のできる選手が必要だ」
「でも、自分で動いた方が早いと思って、先にやってしまうこともあります」
「そこは直す必要がある。副キャプテンになれば、自分が全部やるだけでは回らない。周りが動けるようにすることも覚えるのがいい」
「はい」
「最初からできるとは思っていない。分からないことは、キャプテンや残る三年生に聞けばいい。吉谷にも必要なら相談しろ」
千夏は膝の上で手を組み直した。
「私で、できるでしょうか」
「できると決めつけて任せるわけじゃない。任せる中で、できるようになってほしいと思っている」
「……分かりました。やります」
「明日の練習前に、私から全員へ正式に伝える。それまでは、今日残っている部員に話す程度でいい」
監督室を出ると、渚を含む数人の部員が体育館の入口近くで待っていた。ボールや備品の片づけは終わっており、全員制服へ着替えている。千夏が近づくと、渚がバッグを肩へ掛けた。
「呼ばれてどうだった?」
「吉谷先輩が引退するから、副キャプテンを任された」
「千夏が?」
渚は驚いた後、千夏の顔を見直した。
「そういうの、苦手じゃない?」
「たぶん、得意ではないと思う」
「だよね。自分で全部やろうとするところあるし」
「うん。でも、選んでもらったからには頑張るよ」
「そっか。じゃあ、明日からよろしく、副キャプテン」
「急に呼び方変えないでよ」
「今だけ。練習中は今までどおり千夏って呼ぶ」
「その方がいい」
「困ったら言ってね。私も自分で言いたいことは言うから」
「それは知ってる」
「なら話が早いね」
近くにいた同級生たちも、驚きながら千夏へおめでとうと声を掛けた。千夏は一人ずつに礼を言い、監督からの正式な発表は明日になると伝える。部員たちが帰り始めると、千夏は男子バドミントン部のコートへ顔を向けた。しかし、すでに練習は終わっており、大喜の姿もラケットバッグも見当たらない。昇降口へ向かうと、匡が靴を履き替えているところだった。
「匡君、大喜くん見なかった?」
「大喜なら、練習が終わってすぐ出ていきましたよ」
「もう帰ったの?」
「帰ってはいないと思います。西田先輩から自転車を借りて、あとで戻るって言ってました」
「どこへ行ったか聞いてない?」
「そこまでは聞いてないです。かなり急いでた感じでしたが」
匡は靴紐を結び終え、立ち上がった。
「大喜から連絡来てません?」
「そうだった」
千夏がスマートフォンを確認すると、大喜からメッセージが届いていた。
『少し待ってて。戻ったら一緒に帰ろう。』
「待っててって来てた」
「なら戻ってくると思います。俺は先に帰ります」
「教えてくれてありがとう」
「誕生日、おめでとうございます」
「匡君も覚えてたの?」
「体育館中に聞こえてましたから。あの眼鏡も見ました」
「忘れてほしいな」
「写真まで撮ってたので、無理だと思います」
匡は口元を緩め、校門の方へ歩いていった。千夏は体育館前のベンチへ腰を下ろした。監督に呼ばれた時の言葉を、一つずつ頭の中へ戻していく。副キャプテンに選ばれたことはうれしかった。期待されているなら、それに応えたいけれど、自分のプレーだけでも足りないものが多い。インターハイでは最後のシュートを決められず、前半には相手へ何本もリバウンドを取られた。
自分自身がもっと成長しなければならないのに、チーム全体のことまで考えられるのだろうか。スマートフォンが震え、画面に千夏の母の名前が表示された。
「もしもし」
「千夏、誕生日おめでとう」
「ありがとう、お母さん」
「練習はもう終わった?」
「今終わったところ。今日はみんなにも祝ってもらったよ」
「写真は撮った?」
「渚が撮ってくれた。後で送るね」
「変な眼鏡とか着けさせられてない?」
「どうして分かるの?」
「部活の誕生日って、だいたいそういうことするでしょう」
「ひげ眼鏡だった」
「似合いそう」
「お母さんまで言わないでよ」
電話の向こうで母が笑った。千夏もつられて笑った後、スマートフォンを持つ手を膝へ置いた。
「今日、もう一つあったんだ」
「何?」
「副キャプテンに選ばれた」
「すごいじゃない」
「うん。選んでもらったから、しっかりやりたいと思ってる」
「そうね」
「でも、ちゃんとできるか分からない」
千夏はスマートフォンを少し握りしめる。
「インターハイでも、大事なところでシュートを外した。バスケのことだけでも、もっと成長しないといけないのに、チーム全体のことまで考えられるのかなって、私で大丈夫なのかなって」
「副キャプテンになったら、自分の練習をしちゃいけないの?」
「そういうわけじゃないけど、両方ちゃんとやらないといけないから」
「今から、両方を完璧にやる方法を決めないと駄目なの?」
「それは……分からない」
「なら、まずやってみればいいんじゃない。やってみて、うまくいかなかった時に、その時に考えても遅くはないのよ」
「失敗して、みんなに迷惑を掛けたら?」
「迷惑を掛けないように一人で抱えて、動けなくなる方がみんな困るわ」
千夏は返事をせず、体育館の閉じた扉を見た。
「つらい時には、誰かに頼りなさい。助けてもらうことと、役目を果たしていないことは同じじゃないから」
「誰に頼ればいいの?」
「監督でも、先輩でも、同級生でもいいでしょう。千夏が信頼していて、ちゃんと話を聞いてくれる人に、自分から話してみたら」
「……うん」
「人に頼られるって、結構うれしいものよ」
「分かった。ありがとう、お母さん」
通話を切り、スマートフォンを膝の上へ置いた。背後から靴底が地面を擦る音が聞こえ、千夏は振り返った。制服のシャツの袖を肘までまくった大喜が、ベンチの後ろに立っていた。通学用のバッグとは別に、紺色の保冷バッグを肩へ掛けている。
「大喜くん、いつからいたの?」
「最後の方。電話してたから、終わるまで待ってた。待たせちゃってごめんね」
大喜はベンチの前へ回り、紺色のバッグを背中側へ動かした。
「どこに行ってたの?」
「ちょっと受け取りに」
「そのバッグ?」
「これはまだ秘密」
「秘密があるんだ」
「ちーちゃん、今から少し出かけよう」
「今から?」
「もう今日はこのまま帰る予定だったよね」
「どこへ行くの?」
「着くまで秘密」
紺色のバッグには、形の崩れていない四角い荷物が入っている。大喜が何を受け取りに行ったのか、おおよその見当はついた。しかし、大喜が秘密にしたいなら、気づかないふりをすることにした。
「分かった。家に連絡しないとね」
「大丈夫、もう連絡してるよ」
「そこまで決めてたの?」
「向こうで何か食べようと思って」
「遠い?」
「乗り換えがうまくいけば、二時間かからないくらい」
「それは少しじゃないと思う」
「でも、今日行きたいんだ」
「今日じゃないと駄目?」
「うん、誕生日だから」
その答えを聞くと断る理由を探す気にはなれず、駅に向かった。大喜は改札へ入ってからも、路線図の行き先を千夏に見せようとしなかった。乗り換え案内を確認する時には、スマートフォンの画面を自分の身体へ寄せる。
「そこまで隠さなくてもいいんじゃない?」
「途中で分かったら驚かないでしょ」
「もう十分驚いてるよ」
「じゃあ、成功してる」
「そういうことなの?」
最初の電車は混んでいた。二人はドアの近くに立ち、大喜は紺色のバッグが倒れないよう、自分の足の間に挟んでいる。千夏は中身について尋ねなかったが、大喜が何度もバッグの状態を確かめるため、気づかないふりを続ける方が難しかった。乗り換えた電車では、二人分の席が空いていた。
窓から見える建物が低くなり、空が広くなっていく。千夏は流れる景色を眺めながら、隣で何度も時刻表を確認する大喜へ顔を向けた。
「大喜くん、この前から考えてたの?」
「今日のこと?」
「うん」
「誕生日に何かしたいとは思ってたよ。海へ行こうって思いついたのは、さっきだけど」
「さっきなんだ」
「家でもよかったけど、やっぱどこか行きたいなって思って」
「どうして?」
「非日常感って、わくわくしない?」
大喜は何でもないことのように答え、また乗り換え案内へ目を戻した。自分のために行き先を調べ、何かを予約し、練習後に自転車を借りて受け取りに行った。一つ一つは大喜ならしてくれそうなことでも、それらを今日のために重ねてくれたことがうれしかった。電車を降りると、風の匂いが変わっていた。改札を抜け、駅前の道を歩く。建物の間から青い水面が見えたところで、千夏は足を止めた。
「うわ、海だ」
「うん」
「本当に海まで来たの?」
「見えてるでしょ」
「そうじゃなくて。学校から海へ来るとは思わなかった」
「驚いた?」
「驚いた。大喜くん、時々思い切ったことするね」
「誕生日だから、これくらいしてもいいかなって」
到着した頃には、日が傾き始めていた。水面には夕方の光が伸び、砂浜を歩く人たちの影も長くなっている。制服姿の二人は周囲から浮いていたが、千夏は気にすることなく、砂浜へ下りる階段を駆けていった。
「ちーちゃん、制服だよ」
「足だけなら大丈夫」
千夏は階段の下でローファーを脱ぎ、靴下も丸めて靴の中へ入れた。スカートの裾を片手で押さえながら、裸足で波打ち際へ走っていく。寄せてきた波が足首へ触れ、千夏は声を上げた。
「冷たい!」
「急に入るからだよ」
「大喜くんも来て」
「スラックス濡れるって」
「裾を上げれば大丈夫」
「その前に靴脱がないと」
大喜は保冷バッグを階段へ置き、靴と靴下を脱いだ。スラックスの裾をふくらはぎの下まで折り返し、波打ち際へ入る。千夏が足で水を跳ね上げると、水滴が大喜のシャツへ飛んだ。
「ちーちゃん、制服だって言ったよね」
「それくらいなら乾くよ」
「自分は濡れてないからって」
「じゃあ、大喜くんもやれば?」
「後悔しても知らないよ」
大喜が足を動かすと、千夏の膝下へ予想以上の水が飛んだ。
「思ったより多い」
「ちーちゃんがやれって言ったんでしょ」
「もう少し加減すると思った」
「俺も、ここまで飛ぶと思わなかった」
二人は波が寄せるたびに前へ入り、強い波が来れば後ろへ逃げた。砂が足の裏から流れ、立っている場所が少しずつ沈んでいく。千夏は次の波を避けようと後ろへ下がったが、引いていく水に足元の砂をさらわれ、身体が横へ傾いた。
「ちーちゃん!」
大喜が千夏の腕をつかみ、そのまま自分の方へ引き寄せた。千夏の肩が大喜の胸元へ当たり、空いていた手も大喜の脇腹へ触れた。倒れずに済んだものの、二人の間には身体を離すための隙間がほとんど残っていなかった。
「大丈夫?」
「……うん」
大喜は千夏の腕を支えたまま、足元が安定しているかを確かめている。千夏はシャツ越しに、大喜の胸や肩の硬さを感じた。耳には大喜の鼓動も聞こえている気がする。小学生の頃に転びそうになった時とは違う。毎日ラケットを振り、走り込みを続けてきた身体だった。腕をつかむ手にも、自分を一気に引き戻した力が残っている。
頬に熱が集まり、千夏は大喜の胸元から身体を離した。
「本当に平気?」
「平気。砂に足を取られただけ」
「腕、痛くない?」
「痛くないよ」
「もう少し浅いところにしよう。今度は本当に転ぶかもしれないから」
「分かった」
大喜は最後まで、千夏が怪我をしていないかを心配しているだけだった。千夏は表情を見られないよう先に階段の方へ歩いた。濡れた足を乾いた砂へ乗せても、腕をつかまれ、身体ごと引き寄せられた感触はすぐには消えなかった。二人は波から離れ、砂浜へ下りる階段へ腰を下ろした。大喜は紺色のバッグを開き、中から白い箱を取り出す。千夏は初めて気づいたように箱へ目を向けた。
「ケーキ?」
「分かってた?」
「今分かった」
「本当に?」
「うん」
「電車の中でバッグを見てた気がしたけど」
「倒れそうだったから見ただけだよ」
「なら、ちゃんと秘密にできたんだ」
満足そうな大喜を見て、千夏は最後まで気づかないふりをしてよかったと思った。箱の中には、二人で食べ切れる大きさの丸いケーキが入っていた。苺と薄いチョコレートの板が載り、誕生日を祝う短い文字が書かれている。大喜は保冷剤や紙皿、フォークと一緒に、小さな蝋燭とマッチ箱を取り出した。
「マッチまで持ってきたの?」
「店で蝋燭をもらったから。火がないと誕生日っぽくないでしょ」
「風があるよ」
「階段の壁があるから、少しは避けられると思う」
大喜はケーキの中央へ蝋燭を一本立て、マッチを擦った。小さな炎が風に揺れ、一度目は蝋燭へ移る前に消える。二度目は千夏も風上から手を伸ばした。二人の手で囲われた中で、マッチの火が蝋燭へ移る。
「ついた」
「すぐ消えそうだから、早く歌う」
「歌うの?」
「そこまで決めてきたから」
「大喜くんが?」
「俺以外いないでしょ」
大喜は一度息を整えた。最初の音が少し高く、途中から恥ずかしくなったのか、歌う速度が次第に速くなる。最後に千夏の名前を入れるところだけは、千夏の顔を見て歌った。千夏は途中から笑いをこらえられなくなった。それでも最後まで聞き、歌い終わると両手で拍手をする。
「ありがとう」
「笑いすぎじゃない?」
「だって、途中からすごく速くなったから」
「海で長く歌うのも恥ずかしいと思って」
大喜は蝋燭を指した。
「ほら、ちーちゃん」
「うん」
千夏が息を吹くと、炎が消えた。細い煙が夕方の風へ流れていく。
「誕生日おめでとう」
「ありがとう、大喜くん」
大喜はケーキを切り、紙皿へ分けた。苺は少し傾いていたが、クリームは崩れていない。練習が終わる時間や電車の乗り換え、保冷剤の量まで考えながら運んできたのだろう。二人は海を見ながらケーキを食べた。大喜は自分の苺を最初に食べ、千夏は最後まで残す。幼い頃から変わらない食べ方だった。
「今日の写真、後で送ってもらえるんだよね」
「うん。渚に頼んだ」
「ひげ眼鏡のも?」
「大喜くんが写ってるから、仕方なく」
「俺がいない写真も眼鏡着けてたよ」
「そうだった?」
「外そうとして止められてた」
「細かいところまで見てたんだね」
「隣にいたから」
「……近かったね」
「全員入れるためでしょ」
「うん。そうだね」
大喜はケーキを食べ続けた。千夏は最後に残した苺をフォークへ刺す。大喜が隣にいる写真を後から見返したいと思ったことは、本人には言わなくてもよかった。ケーキを食べ終える頃、千夏は監督室で広げられていた部員表を思い出した。
「今日、監督に呼ばれたんだ」
「副キャプテンのこと?」
「聞こえてた?」
「お母さんとの電話で、そこだけ少し」
「吉谷先輩が引退するから、私が副キャプテンになった」
「おめでとう」
「みんなにも同じことを言われた。でも、何をすればいいのか分からない」
千夏は空になった紙皿へフォークを置いた。
「選んでもらったから、しっかりやりたい。監督は、周りを見られるところを評価してくれたって言ってた」
「ちーちゃん、よく見てるからね」
「でも、自分のプレーだってまだ足りないよ。インターハイでも最後のシュートを外したし、リバウンドも取られた。自分がもっと成長しないといけないのに、チームのことまで考えられるのかなって」
「お母さんは何て?」
「まずやってみて、うまくいかなかったら、その時に考えればいいって。つらい時は誰かに頼りなさいって」
「それがいいと思うよ」
「でも、副キャプテンに選ばれたのは私だよ」
「……一人で何でもする役じゃないと思う」
大喜は自分の紙皿を膝の上へ置いた。
「俺も針生先輩と組み始めた時、自分ができるところは全部やらないとって思ってた」
「ダブルスで?」
「うん。俺は後ろから打つ方が得意だから、前にいる時も早く後ろへ戻ろうとしてた。針生先輩は前が得意だから、先に前へ入ろうとしてた」
「二人とも、得意なところに行きたがるんだね」
「それで、二人の間を使われた。インターハイの最後も、二人とも後ろへ戻りかけて、前へ落とされた」
大喜は砂浜へ目を向けた。
「どっちが何をするか最初から決めるだけじゃなくて、その時にいる場所で、相手が何をするか見ないといけなかった。針生先輩に任せた方がいい球もあったし、俺が残った方がいい時もあった」
「副キャプテンとは違うと思うけど」
「違うけど、一人で全部やろうとすると、見えなくなるところがあるのは同じかもしれない」
大喜は千夏へ顔を向けた。
「一人で何でもする役じゃないと思う。きっと、今までのちーちゃんを見てきたみんなが、頑張るちーちゃんを助けてくれるよ」
「みんなが?」
「今日の誕生日だって、ちーちゃんが頼んだわけじゃないのに、みんなで準備してたでしょ」
「ひげ眼鏡まで」
「そこまで含めて」
「それはなくてもよかったかな」
「でも、みんな楽しそうだったよ」
大喜は笑った後、言葉を選ぶように続けた。
「ちーちゃんが困ってたら、渚先輩も、残る先輩たちも何か言うと思う。副キャプテンだから一人でやるんじゃなくて、みんなとやるために何をするか考えればいいんじゃないかな」
「みんなとやるために」
「俺もまだできてないけど。全国でできなかったから、次はそうしたいと思ってる」
大喜は千夏の悩みに答えを出そうとしているのではなかった。自分が針生と失敗し、考えたことを、そのまま千夏へ渡している。母からは、つらい時には誰かに頼るよう言われた。大喜からは、役目を一人で全部行う必要はないと言われた。
同じことを言われたようで、少しずつ違う。母は千夏自身が苦しくなった時のことを考え、大喜は一緒に戦う人との間にできるものを話していた。
「明日、みんなと話してみる」
「副キャプテンのこと?」
「うん。今まで吉谷先輩が何をしてたのか、残る先輩たちにも聞いてみる。渚たちにも、私だけで決めないで話す」
「それがいいと思う」
「大喜くんも、針生君と話すの?」
「明日、映像を見ながら聞く。自分では気づいてないところ、たくさんあると思うから」
「じゃあ、お互い聞くところからだね」
「そうだね」
副キャプテンとして何をすればよいのか、答えが出たわけではなかった。明日の練習でどのタイミングで声を掛ければよいのかも、ウィンターカップまでにどんな副キャプテンになればよいのかも決まっていない。それでも、体育館を出た時のように、一人でやることを増やし続けなくてもよいと思えた。千夏は立ち上がり、ケーキの箱へ紙皿とフォークを戻した。
「もう一回、海に入っていい?」
「転ばないようにね」
「今度は大丈夫」
「さっきも大丈夫だと思ってたでしょ」
「大喜くんが助けてくれたから、大丈夫だった」
「次も間に合うとは限らないよ」
「じゃあ、近くにいて」
千夏が言うと、大喜は保冷バッグのファスナーを閉めながら、迷わず頷いた。
「分かった」
千夏は先に波打ち際へ向かった。濡れたスカートの裾が脚へ触れる。腕をつかまれ、大喜の胸元へ引き寄せられた時の熱も、まだ完全には引いていなかった。それでも、今度は足元を確認しながら水へ入る。大喜も隣へ並んだ。
夕日は海へ近づき、水面の色が少しずつ変わっている。遠くの空には、夕焼けとは違う暗い雲が集まり始めていた。
「大喜くん」
「何?」
「今日、連れてきてくれてありがとう」
「誕生日だからね」
「ケーキも、歌も」
「歌は忘れていいよ」
「忘れないと思う」
「そんなに変だった?」
「そうじゃなくて、今年の誕生日のこと、たぶんずっと覚えてる」
部員たちに囲まれて撮った写真。副キャプテンに任命されたこと。母からの電話。制服のまま乗った電車と、夕方の海。転びそうになった自分を引き寄せた大喜の腕と、不器用な誕生日の歌。そして、何をすればよいか分からないと、大喜へ話せたこと。
「ひげ眼鏡も?」
「それは忘れたい」
「写真に残ってるから無理じゃない?」
「大喜くんが見なければいいんだよ」
「俺も写ってるのに?」
「大喜くんのところだけ切り取って送る」
「それだと、ちーちゃんが写ってないでしょ」
「大喜くんが写ってればいいんじゃない?」
「何の写真か分からなくなるよ」
大喜が笑った。千夏は波が来る前に一歩下がった。今度は足を取られず、大喜の腕を借りることもなかった。けれど、大喜は約束したとおり、すぐ隣にいた。