海を離れた頃には、水平線の向こうにあった雲が空の半分を覆っていた。駅までの道を歩く間にも風は強くなり、商店の軒先に掛けられた旗が大きな音を立てる。千夏は乾ききっていないスカートの裾を押さえながら、大喜の隣を歩いていた。砂浜では気にならなかった湿った制服が、海風から離れると急に重く感じられた。ローファーの中には砂が残り、歩くたびに足の裏で細かな粒が動いている。大喜がスマートフォンで時刻を確認した。
「予定してた電車には間に合いそう」
「乗り換えは?」
「二回。最初の電車が遅れてなければ、最後も余裕あるよ」
「今のところは?」
「遅延情報は出てないよ」
しかし、すぐに冷たいものが千夏の頬へ落ちた。立ち止まって空を見上げると、黒い雲がですでに覆いつくされていた。もう一滴が額へ当たり、次は制服の肩に黒い点を作った。
「降ってきたね」
「まだ距離あるけど走ろう」
二人が駆け出すのと、雨脚が強くなるのはほとんど同時だった。数十メートルも進まないうちに、雨は地面から跳ね返るほど激しくなった。大喜は保冷バッグを胸元へ抱え、千夏は通学用バッグを頭の上へ持ち上げる。駅の入口へ飛び込んだ時には、制服の肩から腕まで色が変わっていた。
屋根を叩く雨音が、構内放送を聞き取りにくくする。改札前には多くの人が集まり、全員が電光掲示板を見上げていた。表示されていた列車の時刻は消え、代わりに赤い文字が流れている。大喜は濡れた前髪を手で上げながら、掲示板を見た。
「運転見合わせ……」
「この雨だから?」
「雨よりも強風のせいだって」
構内放送が繰り返される。暴風雨の影響により、この先の区間で運転を見合わせていること。再開時刻は未定であること。振替輸送については、駅員へ確認すること。
大喜はすぐに改札横の窓口へ向かった。千夏も後ろに並ぶ。前の客も同じことを聞いているらしく、駅員は何度も路線図を示していた。ようやく順番が来ると、大喜はスマートフォンの乗り換え画面を見せた。
「ここまで帰りたいんですけど、別の路線から帰れますか」
「別路線へ出るなら、この駅まで移動する必要があります。ただ、そちらへ向かう県道が冠水していて、バスは通行止めになっています」
大喜は路線図へ目を落とした。
「タクシーで別の駅まで行くことも難しいですか」
「その道路を越えないといけないので、残念ながら今のところ、ここから先へ移動する手段はないですね」
「そうですか……電車は、いつ頃動きそうですか」
「風が規制値を下回ってから線路の安全確認に入るので、少なくとも今夜中の再開は難しいかもしれません」
駅員は二人の制服へ目を向け、声を和らげた。
「お二人とも高校生ですか」
「はい」
「保護者の方へ、早めに連絡してください。駅の近くに宿泊施設もありますから、必要であればご案内します」
「分かりました。ありがとうございます」
窓口を離れると、大喜は改札の外へ戻った。雨はさらに強くなっている。駅前の道路には水がたまり、車が通るたびに歩道まで水しぶきが上がった。大喜はスマートフォンを握ったまま、千夏を見た。
「ごめん、ちーちゃん。俺が海まで誘ったから」
「雨を降らせたのは大喜くんじゃないよ」
「でも、帰れないかもしれないし」
「私も一緒に来るって決めたんだから、大喜くんだけのせいにしないで。今は家に連絡しよう」
「……うん」
大喜は人の少ない壁際へ移り、母へ電話を掛けた。呼び出し音が二度鳴ったところでつながる。大喜は駅名を伝え、雨で電車が止まったこと、別の路線も遅れていて、今日中に帰れるか分からないことを順番に説明した。
「怪我はしてない。ちーちゃんも一緒にいる。二人とも制服が濡れたくらい」
電話の向こうで、大喜の母が何かを確認している。大喜は駅の掲示板を見ながら答え、最後に宿泊施設の案内を受けたことも伝えた。
「分かった。駅から動く時は、また連絡する」
通話を終えると、大喜は千夏の方へ戻ってきた。
「今から迎えに来ても、道が混んでて三時間以上かかるかもしれないって。途中で通行止めになったら、こっちまで来られないし」
「そうだよね」
「お母さんが駅の近くで泊まれるところを探すから、俺たちはここから動かないようにって」
「分かった」
二人は駅の待合室へ移った。濡れた制服が冷房の風に当たり、肩から体温を奪っていく。大喜は売店で温かいお茶を二本買い、そのうちの一本を千夏へ差し出した。
「ありがとう」
「何か食べる?」
「ケーキ食べたから、まだ平気」
「でも、夕飯は食べないと」
「大喜くんもね。今はお茶で温まろう」
待合室の窓へ雨が打ちつける。電車を待つ人の中には、迎えを頼む電話を掛けている者もいれば、駅員から宿泊施設の案内を受けている者もいた。小さな子供を連れた家族は、床へ広げた路線図を囲んでいる。大喜は何度か運行情報を更新したが、表示は変わらなかった。二十分ほど経った頃、母から電話が掛かってきた。
「うん。まだ駅にいる」
大喜は通話しながら立ち上がり、千夏にも近くへ来るよう手招きした。
「駅から歩いて五分くらい……分かった。そこへ行く」
通話を終えると、大喜はメモ画面を開いた。
「近くの民宿に二部屋空きがあるって。お母さんが事情を話してくれた」
「よかった」
「高校生だけだから、着いたら女将さんと直接話すって」
「私もお母さんに連絡入れとかないと」
「うん」
雨が弱まる様子はなかった。二人は駅の売店で傘を買い、教えられた民宿へ向かった。一本ずつ持っていても、道路を流れる水と横から吹き込む雨を避けきれない。千夏はローファーの中へ水が入るのを感じながら、大喜の後を追った。
民宿は、駅前の大通りから一本入った場所にあった。二階建ての建物で、玄関の脇には木製の看板が掛けられている。軒下には鉢植えが並び、雨に打たれた葉が照明を反射していた。大喜が引き戸を開けると、奥から六十代ほどの女性が出てきた。
「電話をいただいた猪股さんですね」
「はい。猪股大喜です」
二人は学生証を取り出し、女将へ見せた。女将は名前と学校を確認すると、安心させるように微笑んだ。
「ひどい雨だったでしょう」
「急にすみません」
「こういう時のための宿ですから、気にしなくて大丈夫ですよ。ご家族と連絡が取れる状態にはしておいてくださいね」
「はい」
「分かりました」
大喜が母へ電話を掛ける。つながると宿に着いたことを伝え、女将へスマートフォンを渡した。女将は帳場の椅子へ腰を下ろした。
「お電話代わりました。民宿の者です。はい、お二人とも無事に到着されました」
女将は大喜と千夏の方を見ながら、穏やかな口調で続けた。
「はい、二部屋ご用意できております。明日の朝、電車の運行状況を確認してから駅へ向かっていただきますね。……はい、鹿野さんのお母様の連絡先も伺っています。何かありましたら、そちらと猪股さんの両方へご連絡します」
女将は何度か相槌を打った後、大喜へ電話を返した。
「もしもし。うん、分かった。朝も連絡する」
通話を終えると、女将は二人へ宿帳を差し出した。住所と電話番号、保護者の連絡先を書き終えるまで、玄関の外では途切れることなく雨音が続いていた。
「制服、随分濡れていますね。乾燥室へ掛けておけば、朝にはかなり乾くと思います。浴衣とタオルを用意しますから、今夜はそちらを使ってください」
「ありがとうございます」
「お腹も空いているでしょう。夕飯は片づけたところだけど、あるもので何か作りますね」
「すみません」
「遠慮しないで。温かいものを食べた方が、落ち着くわ」
女将の声は、雨の中を歩いてきた二人を迎えるというより、遅く帰ってきた孫に話すように柔らかかった。玄関へ入るまでは、帰れないことばかりを考えていた。けれど、乾いたタオルを手渡されると、千夏はようやく肩の力を抜くことができた。
大喜の部屋と千夏の部屋は廊下を挟んで向かい合い、どちらも六畳ほどの和室だった。部屋の奥には小さな窓があり、雨に煙る屋根と暗い道路が見えた。
千夏は浴衣とタオルを受け取り、自分の部屋へ入った。濡れた制服を脱いで浴衣へ着替えると、ようやく肩の冷たさが消えた。制服は女将に渡し、乾燥室へ掛けてもらう。通学用バッグの中身は無事だったが、ハンカチと外側のポケットは濡れていた。スマートフォンには、母からのメッセージが届いている。
千夏は自分からも電話を掛けた。心配を掛けたことを伝えると、母は天候まで責任を感じる必要はないと言い、明日の朝にもう一度連絡するよう告げた。通話を終える頃には、部屋の時計は八時を過ぎていた。
一階の食堂へ下りると、大喜は先に座っていた。紺色の浴衣を着て、濡れた通学用バッグをタオルで拭いている。向かいの席へ座った千夏に気づき、大喜は手を止めた。
「お母さんと話せた?」
「うん。心配してたけど、宿に泊まれて安心したって」
「そっか」
「大喜くんのお母さんにも、お礼を言ってたよ」
「うちのお母さん、こういう時はすごく動くから」
「昔からだよね。遠足で忘れ物した時も、私の分まで確認してくれた」
「それはちーちゃんのお母さんもでしょ。俺が熱出した時、病院まで連れていってくれたし」
長く付き合いのある両家だからこそ、離れた場所にいてもすぐに話が通じたのだろう。二人だけで帰れなくなったことは不安だったが、誰にも頼れない状況ではなかった。女将がご飯と味噌汁、野菜を入れた卵焼き、小さな煮物の皿を運んでくる。どれも派手な料理ではなかったが、湯気と出汁の匂いが食堂に広がった。
「冷えているでしょうから、温かいうちにどうぞ」
「ありがとうございます」
「いただきます」
二人が箸を取ったことを確かめると、女将は帳場へ戻っていった。食堂の壁掛けテレビでは、大雨に関する情報が流れている。二人が使う路線は引き続き運転を見合わせ、再開は明朝以降になる可能性があると伝えられていた。大喜はしばらく食事を続けた後、箸を置いた。
「ちーちゃん」
「何?」
「誕生日の最後が、こんなことになってごめん」
「また謝ってる」
千夏が思わず笑うと、大喜は困ったように眉を下げた。
「だって、海へ行こうって言ったのは俺だし」
「まだ今日は終わってないよ。海もケーキも楽しかったし、今は民宿でご飯まで食べてる」
「予定にはなかったけど」
「予定にないから覚えてることもあるんじゃない?」
「これは忘れそうにない」
大喜もようやく笑った。それ以上、自分を責める言葉は続かなかった。千夏は卵焼きを一口食べ、冷えていた身体へ温かさが戻ってくるのを感じた。食堂には、テレビの音と食器の触れ合う音だけが流れている。猪股家の食卓なら、大喜の父や母が話へ入り、祖父がテレビの音量を変える。食事が終われば、誰かが麦茶を追加し、誰かが食器を運ぶ。
今夜は、家族の声がない。向かいに座っているのは、いつも一緒に食卓を囲んでいる大喜なのに、浴衣姿で二人だけというだけで、同じ距離には思えなかった。大喜が味噌汁の椀へ手を伸ばす。浴衣の袖が下がり、毎日ラケットを振っている腕が普段より広くのぞいた。
千夏は海で足を取られた時のことを思い出した。身体を一気に引き戻した腕の力。制服越しに触れた胸元。転ばないように支えてくれた大喜は、二人の身体が近づいたことなど気にせず、怪我をしていないかだけを確認していた。思い出した途端、目の前にいる大喜まで意識してしまう。千夏は自分の皿へ視線を戻した。
「ちーちゃん、どうしたの?さっきから箸が止まってる」
「ちょっと熱かっただけ」
「もう湯気出てないけど」
「今から食べるところ」
千夏は煮物を口へ運んだ。大喜は深く追及せず、自分の食事へ戻る。こうして何も知らない顔で隣にいてくれることが、うれしくもあり、もどかしくもあった。
食事を終えると、二人は女将へ礼を言い、それぞれの部屋へ戻った。雨音は、二階の方が近く聞こえた。
千夏は畳の上へ座り、渚から送られてきた誕生日の写真を確認した。ひげ眼鏡を掛けた自分を部員たちが囲んでいる写真。全員で手を上げた写真。眼鏡を外し、大喜が隣に入った最後の写真。画面の中の大喜は、いつもと同じ顔で笑っている。
千夏は最後の写真をしばらく見てから、スマートフォンを伏せた。今日のうちに、何かを変えたいと思っていたわけではない。けれど、誕生日を祝うために海まで連れてきてもらい、夜まで二人同じ場所にいる。このまま別々の部屋で眠るより、もう少しだけ大喜のそばにいたかった。
廊下へ出ると、階段横の棚にトランプや将棋が置かれていた。千夏が紙箱に入ったトランプを手に取ると、帳場から上がってきた女将が気づいた。
「それ、自由に使ってくださいね」
「ありがとうございます」
「雨に濡れて疲れているでしょうから、あまり夜更かしはしないようにね」
「はい。少し遊んだら戻ります」
女将は柔らかく笑い、そのまま一階へ下りていった。千夏はトランプを持ち、大喜の部屋の前まで歩いた。扉を叩く直前になって、自分の浴衣姿を意識する。猪股家の自分の部屋から、いつもの部屋着で大喜を訪ねるのとは違った。
今夜なら、いつもより一歩だけ踏み込めるかもしれない。そう考えた自分に驚き、千夏はトランプの箱を持ち直した。好きだと伝えるところまでは考えていなかったが、二人で過ごす時間を増やすことくらいは、今の自分なら選べる気がした。そう考えている間に、向こうから扉が開いた。
「ちーちゃん?」
大喜は千夏と同じように、宿の浴衣を着ていた。手には空になったペットボトルがあり、廊下へ出ようとしていたらしい。
「どうしたの?」
「これ、借りたんだけど」
千夏はトランプの箱を持ち上げた。
「まだ寝ないよね」
「うん。水を買いに行こうと思ってた」
「じゃあ、戻ってきてから少しやらない?」
「いいよ。何する?」
「大喜くんが戻るまでに考えておく」
「負けた時に雨のせいにしないでよ」
「まだ始めてもいないのに、勝つつもりなの?」
「ちーちゃん、トランプ得意だった?」
「大喜くんには勝ち越してたと思う」
「そうだったかなあ」
大喜は階段を下りていった。千夏はトランプを持ったまま、開いた扉の前に残る。大喜の部屋には、自分の部屋と同じ低い机と座布団が置かれていた。千夏は部屋の中央へ入らず、扉の近くで大喜を待った。大喜が水のペットボトルを二本持って戻ると、扉を閉め切らず、少しだけ開けたままにした。
「何するか決めた?」
「最初はスピード」
「本当に?」
「嫌なの?」
「ちーちゃん、負けるともう一回って言うから」
「負けるって決めないで」
二人は机を挟んで座り、トランプを分けた。一度目は、大喜がルールを確認している間に千夏が先に札を出し、すぐに決着がついた。大喜は納得せず、二度目を始める。今度は互いに出せる札が重なり、机の中央へ手を伸ばすタイミングが何度も重なった。千夏は大喜の手を避けようとして、出すはずだった札を一枚落とした。
「今のは、大喜くんが邪魔した」
「触ってないよ」
「急に手を出したから」
「スピードなんだから、急に出すでしょ」
大喜は笑いながら椅子を数センチ後ろへ動かした。千夏も札を拾い、手元へ戻す。大喜の指が近づいただけで海の感覚を思い出したことは、本人には言えなかった。三度目の勝負を始めようとしたところで、千夏のスマートフォンが震えた。画面には渚の名前が表示されている。通常の音声通話ではなく、テレビ電話だった。
千夏は大喜へ画面を見せた。
「渚から」
「出なくていいの?」
「出るけど、この部屋だって分かったら説明が長くなりそう」
「俺、映らないところにいるよ」
大喜は札を持ち、壁際へ座る場所を変えた。千夏は机の上にトランプを置き、通話へ応じる。画面には部屋着姿の渚が映り、髪を乾かした直後なのか、肩にタオルを掛けていた。
「千夏、改めて誕生日おめでとう」
「ありがとう」
「ひげ眼鏡の写真も、ちゃんと保存してね」
「それは考えておく」
「部の共有にも入れたから、もう逃げられないけど」
渚は笑った後、少しだけ姿勢を正した。
「それと、副キャプテンのこと。今日ちゃんと話せなかったから、今伝えておこうと思って」
「うん」
「プレッシャーもあると思うけど、千夏一人に任せるつもりはないよ。私もサポートするし、みんなで上手くなって、チームで強くなろう」
「ありがとう」
「千夏が全部決めて、私たちがついていくんじゃなくて、私たちも自分で考えるから。困った時はちゃんと言ってね」
「うん。私も、明日みんなに聞こうと思ってた。今まで吉谷先輩がしてたことも、これからチームに必要なことも、私だけで決めたくないから」
「なんかすっきりしたような顔してるね」
「そうかな」
「練習が終わった時より、肩に力が入ってない。何かいいことでもあった?」
千夏は壁際の大喜を見た。大喜は声を出さずに自分を指したが、千夏はそれには答えず、画面へ顔を戻した。
「お母さんと大喜くんに話したら、考えがまとまっただけ」
「そっか。なら、明日はみんなでも話そう。でも警報が残ってたら集合時間を遅らせるって、監督から連絡が来てたね」
「私も電車が止まってて、帰れる時間がまだ分からないから、朝になったら連絡する」
「やっぱりそっちも止まってるんだ。……っていうか、千夏、浴衣着てない?」
「え?」
渚の顔が画面へ近づいた。
「後ろも畳だよね。旅館?」
「民宿」
「海へ行ったって言ってたけど、そのまま泊まってるの?」
「雨で帰れなくなったから」
「一人じゃないよね」
渚が何気ない調子で尋ねた。千夏は一瞬、大喜と目を合わせた。考えるより先に言葉が出る。
「家族みんなで来てるよ」
画面の向こうで、渚が一度瞬きをした。
「家族みんなで?」
「うん。予定が変わって、この辺に泊まることになったの」
「急だね」
「雨がすごかったから」
「そっか。宿があってよかったね」
渚はそれ以上追及せず、明朝七時までに練習の予定を連絡すると伝えた。
「千夏が間に合わなかったら、私たちでアップを始めておくから、無理に急がなくていいよ」
「ありがとう。駅へ向かう前に、私からも連絡する」
「誕生日の最後が大変だったね。今日はちゃんと休みなよ」
「渚もね。明日、また連絡する」
「わかった。んじゃ、おやすみ」
「おやすみ」
通話が終わると、部屋には雨音が戻った。大喜は膝の上に置いていた札を机へ戻す。
「家族みんなで来てるんだ」
「咄嗟に出たの」
「お母さんたち、家にいるけど」
「分かってるよ。細かく説明したら、どうして二人で海に行ったのかまで聞かれそうだったから」
「誕生日だからって言えばいいんじゃない?」
「それで納得しなかったら、大喜くんが代わりに説明してくれる?」
「別にいいけど」
「私はよくないの。この話は終わり」
大喜はそれ以上聞かず、札を持ち直した。今度はスピードではなく、七並べをすることにした。二人で行うため、使わない札が多く、相手がどの数字を持っているのかも普段より分かりやすい。千夏は大喜が止めている場所を見抜き、出せるはずの札をあえて残した。大喜も同じことを考えているらしく、机の上では同じ列ばかりが伸びていく。
「そこ持ってるでしょ」
「何のこと?」
「ハートの八。さっきから、出せるのに出してない」
「大喜くんもスペード止めてるよね」
「俺は出せないだけ」
「本当に?」
「見せたら勝負にならないでしょ」
「じゃあ私も言わない」
千夏が札を選んでいる間、大喜は手元の札を並べ直していた。何枚か見比べたあと、ふと思い出したように顔を上げる。
「ちーちゃん」
「何?」
「そういえば、今日話しておきたいことがあったんだ」
千夏の指が、カードの角で止まった。大喜の声は、さっきまでと変わらない。それでも、その言葉だけが雨音から切り離されたように聞こえた。今日が終わる前に、もう少しだけ近づきたいと思っていた。自分が伝えられずにいる言葉を、大喜が先に口にするのかもしれない。期待してはいけないと考えるより先に、持っていた札を握る指へ力が入った。
「今度のアジア大会の代表には選ばれなかったんだけど」
大喜は一度言葉を切り、今度は隠さずに笑った。
「また、世代別代表の強化合宿に呼んでもらえた」
千夏は手元の札を見たまま、息を吐いた。思い描いた言葉とは違った。それでも、落胆より先に、大喜の声に含まれた明るさが届く。千夏はカードを机へ置いて、すぐに顔を上げる。
「すごいね。おめでとう、大喜くん」
「ありがとう」
「今日、決まったの?」
「今日、監督から正式に聞いた。アジア大会へ行く選手だけじゃなくて、強化対象で呼ばれた選手も集まって一緒に練習するんだって」
「いつから?」
「学校が始まった後に数日。授業は休むことになるけど、学校には監督から話してくれる」
大喜はスマートフォンを開き、監督から送られた予定を確認した。参加者の名前までは書かれていなかったらしく、画面を見た後、机へ戻す。
「代表じゃないのは悔しいけど、全国で負けた後にまた呼んでもらえたのは、かなりうれしい」
「うん」
「また強い選手と練習できるから、自分に何が足りないのか見てくる」
「楽しみなんだね」
「楽しみ。きついとは思うけど」
大喜は素直に頷いた。
「中学の時は選ばれたことだけで緊張してたけど、今度は色々試したいことがあるんだ。全国で通じなかった球も、シングルスで最後まで振り切れなかったところも、強い相手の中でやってみたい」
大喜の表情には、全国大会から帰った直後にはなかった明るさがあった。負けた結果が消えたわけではない。代表へ届かなかった悔しさも残っている。それでも、次に呼ばれた場所を喜ぶことを、大喜はためらっていなかった。
「なんで海で言ってくれればよかったのに」
「今日はちーちゃんの誕生日だったから。自分の話をするより、ちーちゃんの話を聞きたかったし」
「今はいいの?」
「うん。お祝いしてから言おうかなって思ってたから」
大喜は何でもないことのように答えた。千夏は机に並んだ札へ目を落とす。代表に選ばれなかった悔しさも、もう一度呼ばれたうれしさも、大喜はどちらも隠さず話してくれた。それが、千夏にはうれしかった。
食堂で向かい合った時から、何度か言葉は喉まで来ていた。幼馴染としてではなく、大喜が好きだと。けれど、合宿の話をする大喜はもう、その先を見ている。今ここで伝えれば、大喜はきっと立ち止まる。そう思うと、今日でなくてもいい気がした。
――それだけではないことも、分かっていた。
言ってしまえば、今までと同じではいられない。その答えを聞くのが怖い。千夏は口を開かず、机の札を一枚だけ自分の方へ引き寄せた。
「合宿で、一番試したいのは何?」
「一番?」
「うん、強い人たちに何したいのかなって」
大喜は考えてから答えた。
「高校に入って、球が速い相手とやると、動きを見るよりも先に何かしないとって焦ることが増えたんだ。強い球を打たないと押されるって思って、準備が間に合ってないのに振っちゃうから」
「合宿では、そこを変えたいんだね」
「すぐ変えられるかは分からないけど、強い相手の中でどこまで我慢できるか試したい」
千夏は頷いた。告白の代わりに出した質問だったが、大喜は真剣に答えてくれた。競技のことを話している時の大喜は、幼い頃から知っている顔と、高校へ入ってから増えた表情の両方を持っている。勝ちたいと素直に言うところは変わらない。それでも、自分の弱さを話す時には、以前より言葉を選ばなくなっていた。
「ちーちゃんは、副キャプテンとして何を最初にするか決めた?」
「明日、先輩たちと渚たちに聞く。今まで吉谷先輩がやってたことも、残る先輩たちが副キャプテンにしてほしいことも」
「さっき渚先輩とも話してたね」
「うん。私が遅れたら、先に練習を始めてくれるって」
「もう支えてもらってる」
「そうかもしれない」
千夏は手札を確認した。さっきまで止めていたハートの八を、机の中央へ置く。大喜がすぐに九を続けた。
「やっぱり持ってた」
「大喜くんも持ってたんだから、お互いさまでしょ」
「俺は出せるまで待ってただけ」
「私も同じ」
「絶対違うよ」
「証拠は?」
「ないけど」
大喜は笑い、次の札を探した。千夏も残った札へ目を戻す。伝えられなかった言葉は消えていない。今は言わないと決めたわけでも、もう言えないと諦めたわけでもなかった。ただ、今夜は飲み込んだ。時計が十時半を過ぎたところで、千夏は残った札をまとめた。
「そろそろ戻るね」
「勝負、終わってないけど」
「大喜くんが止めすぎるからだよ」
「ちーちゃんもでしょ」
「じゃあ、今日は引き分け」
「俺の方が手札少ないけど」
「時間切れだから引き分けです」
「都合よくない?」
「女将さんにも、夜更かししないようにって言われたから」
千夏はトランプを箱へ戻して立ち上がった。大喜も机の上を片づけ、扉まで送る。最初から少し開けていた扉を大きく開くと、廊下には暖色の照明がついていた。向かい側に、千夏の部屋がある。
「おやすみ、ちーちゃん」
「おやすみ、大喜くん」
千夏は自分の部屋へ向かいかけて、一度だけ振り返った。
「今日は、本当にありがとう」
「うん」
大喜は少し笑った。
「改めて、誕生日おめでとう。ちーちゃん」
「ありがとう」
千夏は今度こそ自分の部屋へ入り、静かに扉を閉めた。窓の外では、まだ雨が降り続いている。家族がいない夜に、大喜と同じ宿へ泊まった。それでも二人の間には、廊下と二枚の扉があり、言えなかった言葉も残っている。
千夏は雨音を聞きながら横になる。大喜の重荷になりたくないという気持ちは、本当だった。答えを聞くのが怖かったことも、本当だった。言えなかったのに、大喜から離れたいとは思わなかった。むしろ、合宿で数日いなくなると聞いただけで、隣にいたい気持ちは前よりはっきりしていた。
翌朝、目を覚ました時には雨が止んでいた。雲は残っていたものの、窓の外は明るい。千夏が運行情報を確認すると、始発から本数を減らして運転を再開する予定だと表示されていた。女将から返された制服は、すっかり乾いている。千夏は浴衣から着替え、荷物をまとめた。
部屋を出ると、ほとんど同じタイミングで向かいの扉が開いた。制服姿の大喜が、通学用バッグを肩へ掛けて出てくる。
「おはよう、ちーちゃん」
「おはよう。電車、動くみたいだね」
「うん。お母さんにも連絡した」
二人は一階へ下りた。朝食を終えると、宿泊代は大喜の母が後日振り込むことで女将と話がついていたため、二人は宿泊明細を受け取った。
「制服も乾いてよかったですね」
「ありがとうございました」
「本当に助かりました」
「無事に帰れそうで何よりです。次はお天気のいい日に、ゆっくりいらしてくださいね」
女将の言葉に、大喜と千夏は揃って頭を下げた。民宿を出ると、夜の雨で洗われた道路が朝の光を反射していた。側溝にはまだ水が勢いよく流れているものの、傘を開く必要はない。駅では、運転再開を待っていた人たちが列を作っていた。
二人が乗った電車は混んでいたが、途中の駅で座席が空いた。昨日と同じように隣へ座る。千夏は渚へ、電車が動き出したこととをメッセージで伝えた。
『了解。気をつけてね。』
返ってきた文章を見て、千夏は画面を伏せた。二人は時々運行情報や乗り換えを確認しながら帰路を進んだ。猪股家へ到着したのは、午前九時を過ぎた頃だった。
玄関を開けると、大喜の母がすぐに廊下へ出てくる。二人の顔と制服を順番に確認し、怪我がないことを確かめた。大喜は靴を脱ぐ前に頭を下げた。
「ただいま。心配掛けてごめん」
「おかえり。今回は仕方なかったけど、心配させた分はきちんと反省しなさい」
「はい」
注意は、その一言で終わった。大喜の母は千夏へ向き直り、濡れた制服を洗い直すから、着替えたら洗濯かごへ入れるよう告げた。食事が必要なら作るとも言われたが、民宿で朝食を取ってきたため、二人とも断った。
「宿の女将さんにも、後で改めてお礼の電話をするわ。千夏ちゃんのお母さんにも、帰ってきたって連絡しておくから」
「ありがとうございます。私からも連絡します」
「そうしてあげて。海外にいて何もできない分、余計に心配していたと思うから」
千夏は頷き、大喜と一緒に階段を上がった。途中で大喜が足を止める。
「そうだ。合宿の書類、お母さんに渡さないと」
「部屋にあるの?」
「監督からデータで送られてきたから、印刷する。保護者の同意が必要なんだ」
「帰ってすぐ?」
「忘れたら困るから」
「大喜くんらしいね」
「ちーちゃんも、渚先輩に連絡するんでしょ」
「うん。練習のことも確認しないと」
「間に合いそう?」
「今から準備すれば、午後の練習には間に合うと思う」
「俺もそうする」
大喜は自分の部屋へ向かった。千夏も隣にある自分の部屋の扉へ手を掛ける。昨夜は、廊下を挟んだ別々の部屋だった。
今は同じ家の、いつもの場所へ戻っている。階下からは洗濯機の蓋を開ける音が聞こえ、大喜の母が父へ電話を掛ける声もした。大喜の部屋からは、プリンターの動く音がする。合宿へ向かうための書類を印刷しているのだろう。千夏は扉を開ける前に、その音をしばらく聞いていた。
昨夜、言えなかった言葉は、まだ自分の中にある。雨が上がっても、それだけは流れていかなかった。