夏休み明け最初のホームルームは、担任が教室へ入ってくる前から落ち着かなかった。久しぶりに顔を合わせた生徒たちは、宿題の提出状況や部活動の遠征、夏休み中に伸びた髪の話をしている。大喜も前の席から回ってきた課題を机の端へそろえながら、匡と男子バドミントン部の午後練習について話していた。始業式が終われば、授業より先に文化祭の準備が始まる。黒板の隅には、登校した文化祭係がすでに「出し物決め」と大きく書いていた。
担任が出席を確認して教室を出ると、文化祭係の男子生徒が教壇へ立った。
「時間もないし、今日中に何やるか決めよう。食べ物系は希望するクラスが多いから抽選になるらしい。劇なら今のところ希望は少ないって」
黒板には、喫茶店、縁日、お化け屋敷、演劇と候補が並ぶ。最初はお化け屋敷を推す声が多かったが、暗幕や仕切りを用意する手間を指摘されると、今度は演劇へ票が集まり始めた。誰かが童話なら台本を作りやすいと言い、別の誰かが衣装も分かりやすいと続ける。候補として出された『白雪姫』が、何度かの挙手を経てそのまま決定した。
「じゃあ配役も、決められるところまで決めよう。白雪姫をやりたい人いる?」
教室が一瞬静かになり、その後で複数の視線が同じ方向へ向いた。窓際の席にいた雛が、自分へ集まる視線に気づいて顔を上げる。
「何で全員こっち見るの?」
「だって一番似合いそうだし」
「全国三位の白雪姫って強そう」
「白雪姫の競技成績は関係ないでしょ」
笑い声が広がる中、雛は頬杖をついて黒板を見た。新体操部の練習と重なる日は多いが、文化祭当日は演技に出られる。稽古の時間も事前に相談するという条件を聞くと、雛は仕方がないという顔で手を上げた。
「ちゃんと練習時間を決めてくれるならやる。急に明日までに全部覚えてとかは無理だからね」
「そこは大丈夫。全国三位に無茶はさせません」
「そういうことなら、まーまかせんしゃい」
白雪姫が決まると、王子役について再び教室がざわついた。男子生徒の何人かが互いを押しつけ合っていると、後方に座る背の高い女子生徒が手を上げた。中学時代に演劇部の手伝いをしたことがあり、男役にも抵抗はないという。本人が立ち上がって雛の隣へ並ぶと、身長差も衣装の見栄えも悪くなかった。教室から拍手が起こり、王子役もそのまま決まった。
「猪股は?小人なら運動できるし、舞台の端から端まで走れるぞ」
「小人って、走る役だっけ?」
「知らないけど、何か動いてそう」
「ごめん、俺、何日か合宿で学校に来れないから、裏方にするよ。当日できる仕事ならやる」
大喜が予定を説明すると、文化祭係は手元の用紙へ書き込んだ。
「じゃあ舞台設営と道具の出し入れを頼んでいい?帰ってきてから説明する」
「うん。合流したら、遅れてる分もやるよ」
「無理に全部取り戻さなくていいからな。重い物だけ任せるけど」
「それ、結局かなり仕事あるよね」
「猪股なら大丈夫」
「信用の使い方が違うと思う」
周囲が笑う中、大喜は自分の役割が書かれた表を確認した。舞台の上へ出るつもりは最初からなかった。合宿の間に準備を空ける以上、台詞や立ち位置を覚える役を引き受けるのは難しい。戻ってから準備へ加われる仕事の方が、クラスにも迷惑を掛けずに済む。斜め前の席では、雛が黒板に書かれた自分の名前を眺めていた。
「雛、部活との時間は大丈夫?」
「まだ台本もできてないんだから分からないよ。でも、出るって言ったからにはやる。大喜こそ、合宿で疲れたからって大道具落とさないでよ」
「落とさないよ」
「前に大きい段ボール抱えて壁にぶつかったことあるじゃん」
「あれは前が見えなかっただけだから」
「今回も前が見えなくなるまで持ちそうだから言ってるの」
大喜は反論しようとしたが、近くで聞いていた生徒たちまで雛の意見へ頷いていたため、口を閉じた。二年B組でも、同じ頃に文化祭の話し合いが進んでいた。千夏のクラスでは、食品を扱う出し物へ希望が集まり、抽選で認められた場合は喫茶店を開くことになった。調理といっても、学校側が認めた飲み物と市販品を中心に提供する。教室の装飾や衣装を工夫して、普通の休憩所とは違う雰囲気にしたいという案が出ていた。
文化祭係の女子生徒が、黒板へ必要な担当を書き出していく。接客、会計、飲み物、調理補助、装飾、買い出し、当日の呼び込み。
「鹿野さんは接客がいいと思う」
「絶対お客さん来るよ」
「ウェイトレスが鹿野なら、男子だけで売上の半分いけるんじゃない?」
主に男子生徒から声が上がり、女子の中からも衣装が似合いそうだという意見が続いた。千夏は黒板に並ぶ担当を見てから、手を上げた。
「私はクラス代表の仕事があるから、接客の担当には入れないと思う。ごめんね。準備と、当日に手が足りないところの手伝いはするよ」
千夏が理由と代わりに引き受けられる仕事を説明すると、文化祭係は無理に押し切らず、裏方の欄へ名前を書いた。衣装については、喫茶店らしくそろえたいという話になり、女子はメイド風、男子はベストとシャツを基本にする案が出る。まだ予算や着替える場所の確認が必要なため、正式決定は次の話し合いへ持ち越された。千夏は装飾班の用紙へ希望を書き、前の席へ回した。
授業を終えた放課後、千夏が部活動へ向かう準備をしていると、教室の入口から名前を呼ばれた。廊下を見ると、大喜が薄い茶色の封筒を持って立っている。学校では珍しい光景ではなかった。部活動の連絡や家の用事で大喜が二年の教室近くまで来ることはある。それでも、夏休み中の民宿で同じ机を挟んで以来、教室の外に立つ姿を見ただけで、千夏は返事をするまでに一拍遅れた。
「大喜くん、どうしたの?」
「文化祭の書類を、二年B組の佐々木先輩に渡すよう頼まれたんだけど」
「佐々木さんなら、まだ教室にいるよ。呼んでくるね」
千夏は自分のバッグを机へ置き、窓側の席へ向かった。
文化祭係の佐々木は、数人の生徒と装飾に必要な物を確認していた。千夏が一年生から書類が届いていると伝えると、佐々木はすぐに立ち上がった。
「猪股君が来てるの?」
「知ってるの?」
「うん。直接話したことはないけど」
佐々木は千夏と一緒に廊下へ出ると、大喜の顔を見て表情を明るくした。
「佐々木です。書類、持ってきてくれてありがとう」
「一年の文化祭係からです。文化祭実行委員に渡す書類、佐々木先輩にってことでしたので」
「ありがとう、受け取るね」
大喜が封筒を渡すと、佐々木は中身を確認してから胸元へ抱えた。
「猪股君、小学生の頃からバドミントンやってるよね」
「はい。やってます」
「私も小学生の時にクラブへ入ってたの。全国大会の会場で、猪股君の試合を見たことがある」
「俺のですか?」
「年下なのに、ラリーが長くなっても全然諦めない子がいるって、クラブの先生に教えてもらって。それから結果を見かけると気にしてた。高校でも全国ベスト4だったよね」
「ダブルスですけど。ありがとうございます」
大喜は突然昔の試合を話題にされ、照れたように封筒を持っていた手を下ろした。佐々木はその反応に笑い、千夏へ顔を向ける。
「鹿野さんが幼馴染ってほんとだったんだね。中学から仲がいいのかと思ってた」
「もっと前から。家同士が昔から仲いいから」
「そうなんだ。猪股君、昔から雰囲気は変わってないね」
「大喜くんの小学生の試合を知ってる人が、学校にいるとは思わなかった」
「私も直接会えると思ってなかった。合宿メンバーにも選ばれたんだよね、頑張ってね」
「はい。先輩も文化祭の準備、頑張ってください」
佐々木は会釈をして教室へ戻った。千夏は隣に立つ大喜を見る。大喜はまだ驚いているらしく、佐々木が消えた教室の入口へ目を向けていた。
「ファンだって」
「ファンっていうより、試合を覚えてくれてたんじゃない?」
「それをファンって言うんじゃないの?」
「俺に聞かれても分からないよ」
「小学生の頃の大喜くんを知ってるなんて、古参だね」
「ちーちゃんは、もっと前から知ってるでしょ」
「そうだけど」
大喜は当然のことを確認するように答えた。千夏はそれ以上続けず、壁の時計を見る。部活動の集合まで、もう時間がなかった。
「私、そろそろ行かないと」
「うん。呼んでくれてありがとう」
「大喜くんも練習でしょ」
「今日は合宿前の説明があるから、監督室に先に行く」
「書類、忘れないようにね」
「もうお母さんに出してもらったよ」
「早いね」
「帰った日に渡したから」
「そうだったね」
民宿から戻った朝、大喜の部屋でプリンターが動いていたことを思い出す。あの時は同じ家へ帰り、それぞれの部屋へ戻った。千夏は大喜へ手を上げ、体育館へ向かった。佐々木が大喜の昔の試合を知っていたことに、嫌な気持ちはしなかった。むしろ、自分の知らない場所にも、大喜が積み上げてきた時間を覚えている人がいることが不思議だった。
幼い頃から隣にいた大喜は、今では学校の中でも競技者として知られている。その距離が遠くなったとは思わない。ただ、自分だけが知っている大喜ではないことを、千夏は改めて感じていた。
その日の練習を終えて猪股家へ戻ると、玄関に見慣れない大きなスーツケースが置かれていた。海外へ転勤した鹿野家が使っていたものと同じ色だった。千夏が靴を脱いでいると、リビングの方から母が歩いてくる。長時間の移動を終えたばかりらしく、髪を後ろで簡単にまとめ、薄いカーディガンを羽織っていた。
「おかえり、千夏」
「お母さん。急にどうしたの?」
「お昼過ぎ。先に連絡できなくてごめんね」
「急にどうしたの?」
母はすぐには答えず、千夏の通学用バッグを受け取ろうとした。千夏が自分で持てると断ると、リビングへ来るよう促す。猪股家の母と祖父も席に着いていた。千夏は母から帰国のメッセージを見て急ぎ帰宅したため、大喜はまだ帰っていない。千夏がソファへ座ると、母は向かいの椅子へ腰を下ろした。
「二日前、おじいちゃんが急な腹痛で倒れたの」
「おじいちゃんが?」
「そう、今は薬で痛みも落ち着いてるし、命に別状はないから、心配しすぎなくて大丈夫よ」
「手術するの?」
「来週ね。大がかりな手術ではないし、先生も心配はいらないって言ってる」
千夏は膝の上で手を組んだ。母は病院から渡された書類をテーブルへ置く。
「おばあちゃんから連絡をもらってから、飛行機と仕事の調整をして、病院にも確認してたの。きちんと千夏に話す前に帰ってきちゃって、ごめんね」
「ううん。お母さんも急だったんでしょ」
「お父さんは向こうで仕事があるから、そのまま残ってる。私だけ、手術が終わって、おじいちゃんたちの生活が落ち着くまで日本にいるつもりよ」
「一か月くらい?」
「今のところは、そのくらいかな」
千夏は書類に記された病院名と予定日を確認した。急な腹痛で倒れたと聞けば心配は残る。それでも、祖父はすでに会話も食事もできており、手術も短時間で終わる予定だと母は説明した。猪股家の母が、千夏の母へ温かいお茶を差し出した。
「必要なことがあったら何でも言ってね。病院への行き来もあるでしょう」
「ありがとう。それでね、学校にも朝練にも問題なく通える場所に、マンスリーマンションを借りたの。日本にいる間は、千夏と一緒に暮らそうと思ってる」
「いつから?」
「週末には入れるわ。急に生活を変えることになって申し訳ないけど」
「ううん。久しぶりにお母さんと暮らせるし、私もその方がいい」
千夏の返事を聞き、母は安心したように頷いた。
「学校も部活も、今までどおりでいいからね。おじいちゃんのことは私とおばあちゃんに任せて」
「分かった。病院に行けそうな日は、私も顔を見に行くよ」
「それで十分よ。おじいちゃんも喜ぶと思う」
話がまとまった頃、玄関の扉が開いた。大喜が帰宅し、リビングへ入ってくる。千夏の母の姿を見つけると、一瞬驚いた後、すぐに頭を下げた。
「お久しぶりです」
「久しぶり、大喜くん。背が伸びたわね」
「春にもテレビ電話で話しましたよ」
「画面と直接見るのは違うもの。全国大会もお疲れさま」
「ありがとうございます」
大喜は空いている椅子へ座り、祖父の体調とマンスリーマンションの話を聞いた。千夏の母が説明している間、口を挟まず、手術の予定と千夏が移る期間を確認する。
「じゃあ、ちーちゃんは一か月くらい、そっちから学校に来るんですね」
「その予定。大喜くんたちには、今までずっとお世話になったから」
「一か月なら、文化祭の頃もそっちだね」
「うん、そうなるかな」
「俺は来週の水曜から日曜まで合宿だから、準備に出られないけど」
「帰ってから大変そうだね」
「その分、裏方でできることはやるよ」
大喜は文化祭の話を続け、雛が白雪姫役になったことや、自分が舞台設営を担当することを母たちへ説明した。千夏はその会話を聞きながら、週末から変わる生活を考えた。同じ家で朝を迎えなくなる。それでも学校へ行けば、大喜も体育館もある。一時的に住む場所が変わるだけだと思った。
週末、千夏は必要な荷物をまとめた。一か月分とはいっても、制服と練習着、教科書、普段着をそろえると、キャリーケース一つでは収まらない。母と猪股家の母が衣類を分け、大喜は練習用のシューズやボールを別のバッグへ入れた。大喜は千夏の部屋から荷物を運び出すたび、持ち忘れがないかを確認した。
「充電器は?」
「入れた」
「体育館で使ってるテーピング」
「練習用バッグの横」
「本当に全部ある?」
「大喜くん、お母さんみたいになってるよ」
「忘れたら、取りに戻らないといけないでしょ」
「学校で渡してもらえばいいんじゃない?」
「たしかに」
「だから、そんなに心配しなくて大丈夫」
大喜は最後の紙袋を玄関へ運び、もう一度二階を見上げた。
「机の上にノート一冊残ってたよ」
「それは置いていく。今使ってないから」
「分かった」
マンスリーマンションまでは、猪股家の母が車を出した。千夏と母だけでなく、大喜も荷物を運ぶために同行する。新しい部屋は、二人で暮らすには十分な広さだった。小さな寝室が一つと、簡易的なキッチンのある居間。家具や家電は一通りそろっており、荷物を収納すれば、その日のうちから生活できる。
大喜はキャリーケースを寝室へ運び、練習用バッグは千夏が使う収納の横へ置いた。紙袋や教科書の入った箱もすべて運び終えると、空になった玄関を見回した。
「これで全部?」
「うん。大喜くんが確認したから、たぶん」
「たぶんなんだ」
「忘れてたら学校で言うね」
「その時は持ってくるよ」
「ありがとう」
千夏の母がキッチンから顔を出した。
「大喜くんもありがとう。重かったでしょう」
「大丈夫です。ここまで運ばないと、手伝ったことにならないので」
「千夏が一人で持ったら、無理に全部まとめて運びそうだものね」
「お母さんまで、大喜くんと同じこと言わないでよ」
千夏が抗議すると、大喜は自分の判断が正しかったという顔をした。猪股家の母が帰る時間を伝え、大喜も玄関で靴を履く。一か月後には猪股家へ戻るため、大げさな別れではない。それでも、大喜がこの部屋から先に帰る姿を見るのは、千夏にとって初めてだった。
「じゃあ、また学校で」
「うん。今日はありがとう」
「忘れ物がないか、あとで一回確認した方がいいよ」
「もういいって」
大喜は笑い、母親と一緒に部屋を出た。扉が閉まると、千夏は荷物の置かれた居間を見渡した。さっきまで大喜の足音がしていた部屋は、急に静かになっていた。母は病院の書類をテーブルの端へまとめ、千夏は練習着を洗濯機へ入れる。二人で簡単な夕食を作り、祖母と電話をしながら手術前の予定を確認した。
母と暮らすのは久しぶりだったが、会話に困ることはなかった。海外での父の様子、千夏の部活動の話をしているうちに、夜はすぐに過ぎた。
翌朝、千夏は目覚ましが鳴る前に目を開けた。カーテンの隙間から入る光が、猪股家の自分の部屋とは違う角度で床へ落ちている。一瞬だけ時間が分からず、枕元のスマートフォンを確認した。朝練へ向かう時刻にはまだ余裕がある。
千夏は練習着へ着替え、居間へ出た。母はすでに起きており、トーストと卵を用意している。テーブルには二人分の皿が並んでいた。
「おはよう。眠れた?」
「うん。お母さんは?」
「時差で早く起きちゃったけど、大丈夫。牛乳、冷蔵庫に入ってるわよ」
「ありがとう」
千夏は冷蔵庫を開き、自分と母のコップへ牛乳を注いだ。その後でもう一つコップを取ろうとして、食器棚へ伸ばしかけた手を止める。いつもなら、同じ頃に大喜が二階から下りてくる。朝練の日は眠そうな顔をしていても、食事を始める頃には、その日の練習について話していた。千夏は食器棚を閉じ、二人分の牛乳をテーブルへ運んだ。
「朝は何時頃に出るの?」
「朝練に間に合う時間。ここからでも余裕はあるよ」
「帰りは遅くなりそう?」
「部活の後に文化祭の準備が入る日は遅くなるかも。分かったら連絡するね」
「お願い。私も病院から戻る時間を送るわ」
千夏も朝食を終え、通学用バッグを肩へ掛ける。玄関に並んでいるのは、自分と母の靴だけだった。
「行ってきます」
「いってらっしゃい。練習、頑張ってね」
マンションを出ると、駅へ向かう人の流れに加わる。猪股家から学校に向かうまでは、途中で大喜が忘れ物に気づいたり、昨日の練習について話したりした。今朝はイヤホンを着けた会社員や、同じ方向へ向かう知らない生徒が隣を歩いている。
学校へ着き、体育館の扉を開けると、すでに男子バドミントン部のシャトルの音が響いていた。大喜は針生と半面で打ち合っている。千夏が女子バスケットボール部側へ入ると、ラリーを終えた大喜がこちらへ気づき、ラケットを持った手を上げた。
千夏も同じように手を上げる。同じ家から登校しなくても、体育館へ来れば会える。千夏は自分のボールを取り、女子バスケットボール部のコートへ向かった。朝練後、二人は体育館の入口で短く話した。
「マンション、どうだった?」
「学校にも問題なく通えるし、暮らしやすそうだよ」
「忘れ物なかった?」
「なかった。大喜くんが何回も確認したから」
「ならよかった」
「昨日は荷物もありがとう」
「大したことしてないよ。運んだだけだし」
「それが助かったの」
部活動へ向かう生徒が増え、二人はそこで話を切り上げた。マンスリーマンションへ移ってから一週間あまり、千夏の生活は少しずつ落ち着いていった。朝は母と食事を取り、学校へ行けば大喜と顔を合わせる。帰宅後に同じ食卓へ座ることや、廊下を挟んだ部屋から物音を聞くことはなくなったが、学校では今までと大きく変わらなかった。
文化祭の準備も進み、大喜のクラスでは台本作りと大道具の設計が始まった。千夏のクラスでは装飾の案が絞られ、接客担当の時間割を決める話が出ている。その間に祖父の手術も無事に終わった。数日間は経過を見る必要があるものの、祖父はすでに病室から電話を掛けられるほど元気で、退院したら何を食べるかを祖母と話していた。そして水曜日、大喜は世代別強化合宿へ出発した。
その日の朝、男子バドミントン部のコートではいつも通りの練習が行われていた。それでも、いつも聞こえていた足音が一つ抜けているように感じる。千夏は自分のボールを受け取り、練習へ入った。副キャプテンになってから、練習前にはその日のメニューやテーマを監督やキャプテンと確認するようになっている。大喜がいないことを気にして、準備を遅らせる時間はなかった。
その日の昼休み、大喜から短いメッセージが届いた。
『着いたよ。午後から練習。体育館、かなり広い。』
続けて、コートの端から撮った写真が送られてくる。複数のコートに、各地の高校名が入った練習着の選手たちが集まっていた。
『強い人ばかりだと思うけど、大喜くんが試したいことをやってきてね。私もこれから文化祭の準備。』
千夏は返信してから、スマートフォンを机の中へ戻す。合宿へ行く前の大喜は、楽しみだと言っていた。そこに自分の寂しさを重ねて、連絡を増やす必要はない。
放課後、千夏は文化祭の装飾について話し合った後、体育館へ向かった。大喜がいなくても学校は動き、部活動も続く。猪股家を離れてからも学校では顔を合わせていた分、どこへ行っても会わない一日は、思っていたより長く感じられた。強化合宿には、アジア大会へ出場する代表選手だけでなく、今後の強化対象として呼ばれた選手たちも参加する。
中学生の頃に同じ合宿へ参加した者もいれば、高校へ入ってから全国大会で初めて顔を合わせた選手もいる。大喜より身体の大きい選手が多く、打ち合いが始まると、普段の部活動では感じない速さで次の球が返ってきた。初日のシングルス形式の練習で、大喜は相手の速さに追いつこうとするほど、自分から苦しい形へ入っていった。
一度押されると、次の一球で流れを変えなければならないと思った。十分な体勢を作る前から攻めようとし、相手が動くたびに狙いを変える。強く打ったつもりの球は簡単に返され、その次には大喜の方が大きく動かされていた。
早く点を取りたいと思うほど、相手を見る余裕がなくなった。大喜は県予選の後に残った迷いが戻ってきたわけではないと分かっていた。今は、打つことが怖いわけではない。振れば外すと思っているわけでもなかった。ただ、強い相手を前にすると、待っていたら先に点を取られる気がした。何かを起こそうとして、自分から答えを急いでいた。
ゲーム形式の練習が終わると、大喜はコート脇へ下がった。得点差は大きく、最後まで自分の流れを作れなかった。タオルで汗を拭いていると、隣のコートで練習していた兵藤がペットボトルを持って近づいてきた。
「猪股、前より振れるようになったな」
「ありがとうございます。でも、今日は全然合ってませんでした」
「振れるのと、急いで振るのは別だからな」
「やっぱりそう見えましたか?」
「点を取られるたびに、次で決めようとしてた。相手を見るってのは、最後まで迷い続けることじゃないぞ」
兵藤は大喜がいたコートへ目を向けた。
「見るところまではできてる。でも、何か分かった後も、打つ直前まで答えを変えようとしてる。決めたなら、そこから先は迷わない方がいい」
「途中で相手が動いたら?」
「全部正しく合わせようとしたら、どの球も中途半端になるぞ。外されたら、次で直せばいい。一本の中で全部解決しようとする方が無理なんだよ」
兵藤はそう言うと、休憩時間が終わる前に自分のコートへ戻っていった。相手を見ることと、正解を出すまで迷い続けることは違う。兵藤の言葉を聞いても、すぐに何を変えればいいのかまでは分からなかった。次の練習で、大喜は最初から決めようとするのをやめた。相手が何を嫌がるかを当てようとせず、まずは目の前の球へ追いつき、もう一度返すことだけを考えた。
何本か続いた後、相手の動きが崩れたように見えた。今ならいけると思い、大喜は迷わず打ち込んだ。しかし、相手は崩れていなかった。大喜の攻撃を受け止め、その次の球を空いた場所へ返した。大喜は追いつけず、失点した。
読みは外れていた。それでも、大喜は次の一本で無理に取り返そうとはしなかった。もう一度相手を見ようとした。二日目の午前、練習相手を替えながらゲームを繰り返した後、大喜はU-19代表に選ばれている三年生へ声を掛けた。直前のゲームでも、大喜が何をしようとしているのかを先に読まれ、最後まで主導権を取り返せなかった相手だった。
「一つ聞いてもいいですか」
「さっきのゲームのこと?」
「それもですけど、俺のプレーで、相手から見て嫌なところってありますか」
三年生はすぐには答えず、タオルで首元の汗を拭いた。
「猪股は、最初の何点かが一番嫌だな」
「最初ですか?」
「何を打っても追いついてくるし、こっちの動きもよく見てる。ラリーが続いても動きが落ちないから、こっちは一本多く打たされる。でも途中から、早く点を取りたくなって、自分でそれをやめてる」
「自分からですか」
「そう。俺なら、お前にずっと拾われる方が嫌だ。何本返してもまだ見られてると、こっちも焦るからな」
三年生は、攻撃の速さや一球の重さなら、自分より上の選手はいくらでもいると続けた。
「だから俺は、俺のやり方で先に押す。猪股も、自分の得意な形で相手を嫌がらせた方がいいんじゃないか」
大喜は礼を言い、次の練習が始まるまで、他の選手のゲームをコート脇から眺めた。自分の反応の速さは、相手より早く攻めるためだけのものではないのかもしれない。相手の球へもう一度追いつけるなら、その一球で相手のことをもう少し見られる。体力も、苦しい時間を耐えるためだけではなかった。相手に何本も打たせ、それでも自分が戻ってくることで、先に焦るのは相手の方になるかもしれない。
ただし、ずっと見続ければいいわけではない。相手の動きから一つでも確かめられたら、そこで自分の考えを試す。外れたなら、また見直す。最初から最後まで正解し続ける必要はなかった。午後のゲームで、大喜は相手の苦手な場所をすぐに探そうとはしなかった。最初の数点は、相手がどんな時に急ぎ、どんな時に落ち着いて返してくるのかを見ることにした。
何本か打ち合う中で、相手は追いつくのが遅れた時、続けて速い球を選ぶことが多かった。次に同じ形になった時、大喜はその動きを信じて先に備えた。だが、相手は違う球を選んだ。大喜のいない場所へシャトルが落ちる。考えは外れ、また一点を失った。
以前なら、自分の読みが間違っていたことを取り返そうとしていた。次の一点だけは絶対に取ろうと、もっと早く答えを出そうとした。大喜はラケットを握り直し、相手の構えを見た。一度外れたなら、もう一度見ればいい。
次の数本で、大喜は同じ相手が、苦しくなった時ではなく、余裕がある時に速い球を選んでいることに気づいた。最初に見たものを、逆に捉えていたのだ。今度は相手の動きだけでなく、その前の余裕まで見る。再び似た形になった時、大喜は迷わず前へ出た。相手は大喜の予想どおりの球を返した。
大喜は最後までラケットを振り切った。その一点だけで、ゲームの流れが変わるわけではなかった。相手も自分の狙いが読まれたと知ると、すぐに返し方を変えてきた。大喜は同じ攻め方に固執しなかった。相手が変わったなら、自分ももう一度見るところから始めた。
ゲームには敗れた。それでも、終わった後に残ったのは、もっと早く打てばよかったという後悔ではなかった。自分の考えを試して外れ、見直した後でもう一度挑戦できた。その流れを、最後まで自分で選べた。三日目には、相手を見る時間と、自分を信じて攻める時間の切り替えが前日よりはっきりしていた。
何となく打ち合いを続けるのではない。今は何を見るのかを決める。相手の動きから一つの考えを持てたら、次はそれを試す。
攻めると決めた後は、打つ直前になって別の答えを探さなかった。読みが当たることもあれば、簡単に外されることもあった。それでも、失点するたびに自分の考えまで否定することはなくなった。相手の方が上なら、自分の考えを読んだ上で変えてくる。その変化も、次に見るものになる。
大喜は一つの正解を探すのではなく、試合の中で何度でも考え直すことを覚え始めていた。土曜日の午後、兵藤とゲーム形式で再び対戦することになった。試合が始まると、大喜はすぐに点を取りにいかなかった。兵藤がどんな時に速度を上げ、どんな時に大喜の反応を待っているのかを見るため、まずは目の前の球へ追いついた。最初の数点を取っても、大喜が焦ってこないことに、兵藤はすぐ気づいた。
「随分おとなしくなったな」
「まだ見てるところなので」
「それ、相手に言うのかよ」
「言っても、兵藤さんなら変えてくると思ってます」
「分かってるなら、見てみろ」
兵藤はそこから打つ速さを上げた。大喜が考える時間を与えないように、次々と違う場所へ球を送ってくる。大喜が一つの動きを覚えれば、すぐ別の返し方に変える。大喜は二点を続けて失った。
それでも、一点を取られるたびに攻撃を急ぐことはなかった。追いつける球には追いつき、兵藤が何を変えたのかを見た。何本か打ち合う中で、兵藤が体勢を崩した時、二度続けて同じ方向へ返した。三度目に似た形になった時、大喜は先に動いた。それまで相手を見ていた慎重さが消え、迷いなくラケットを振り抜く。兵藤は反応したものの、返球が甘くなった。
大喜は次の球にも迷わず入り、そのまま一点を取った。床に落ちたシャトルを見て、兵藤が一度だけ眉を上げた。
次のラリーで、兵藤は同じ形から違う場所へ返した。大喜の読みは外れた。先に動いた分だけ戻るのが遅れ、追いつくのが精いっぱいになる。それでも、大喜は無理に攻め返さなかった。高く返して時間を作り、また兵藤を見るところから始めた。
兵藤は、今度は簡単に同じ動きを見せなかった。大喜が何を待っているのかを探りながら、打つ速さと間を変えてくる。大喜も、ただ長く続ければいいとは考えなかった。兵藤が自分の観察を利用しようとしているなら、それも含めて見る。相手が変わったと感じた時には、前の読みを捨てることをためらわなかった。
見る時間を作り、決めたら攻める。外れたら、また見る。その繰り返しの中で、大喜の動きから余計な焦りが消えていった。最後は兵藤が、大喜の考えを一歩先に読み、空いた場所へシャトルを落とした。大喜は追いかけたが届かず、ゲームには兵藤が勝った。息を整えながらネットへ近づくと、兵藤はラケットを肩へ乗せたまま笑っていた。
「お前、二日前と全然違うじゃねえか」
「兵藤さんに言われたことを考えただけです」
「俺が言ったのは、最後まで迷うなってことだけだ。こんな面倒な戦い方にしろとは言ってない」
「でも、俺は相手を見た方が、攻める時に迷わないので」
「読みが外れたら、一回戻るようにもなったな。前なら、そのまま意地になってただろ」
「外れたまま続けても、また取られるので」
兵藤はネット越しに大喜を見た。
「県予選の最後、お前、無意識に今と同じことやってたぞ」
「県予選で?」
「こっちをずっと見ながら、何本でも返してきた。ここだって時だけ振ってきてた」
「……あの時は、そんなこと考えてませんでした」
「だろうな。今はそれを自覚してやってるからたちが悪い」
大喜は、県予選の最後にどんな球を打ったのかではなく、兵藤から目を離さずにいた時間を思い返した。
「二日でそこまで変えてくるとは思わなかった」
「まだ兵藤さんに負けてますけど」
「今はな。次に当たる時まで、そのまま止まってろよ」
「それは無理です」
「だろうな。だから面白い」
兵藤は負けたくない相手が一人増えた時のような顔で笑い、ネットの下から拾ったシャトルを大喜へ投げ渡した。大喜が見つけたのは、どこへ打てば必ず点を取れるという答えではなかった。自分は、最初から相手を圧倒できる選手ではない。だからこそ、相手より一球多く追いつき、一つ多く見る。その中で得たものを信じ、攻めると決めた時には迷わない。
読みが外れたことも、挑戦したことまで間違いにはしない。外れたなら、次の一本で考え直せばよかった。振り切れなかった時期を忘れたわけではない。けれど、あの頃の感覚へ戻るのではないかと、打つたびに確かめる必要はなくなっていた。今は、自分の考えを試すために振ることができる。
土曜日の夜、夕食を終えた選手たちは宿舎の談話スペースへ集まっていた。
翌朝にも最後の練習があるため、長く騒ぐ者はいない。上級生たちはストレッチをしながら、大学の練習環境や進学先について話している。全国上位の選手でも、全員が同じ進路を選ぶわけではなかった。大学でも競技を続けたい者、実業団まで考えている者、学業との両立を重視して進学先を探している者がいる。兵藤は壁へ背中を預け、脚を伸ばしていた。
「大学でも続けるんですか」
一年生の一人に聞かれ、兵藤は迷わず頷いた。
「続ける。今より強い相手とやれるところへ行きたい」
「大学の後もですか?」
「そこは、大学でどこまで行けるか見てからだな。でも、高校で終わるつもりはない」
別の三年生は、競技だけで大学を選ぶつもりはないと答えた。故障した時にも学びたいことを続けられる場所にしたいという。話が一巡したところで、兵藤が大喜へ顔を向けた。
「猪股は?」
「俺ですか?」
「高校一年なら、まだ決めてねえか」
「はい。大学でどうするかは、まだ考えてませんでした」
大喜は正直に答えた。近くにいた一年生たちは、大学でも続けたい、強豪校へ行きたいとそれぞれ話す。大喜も、バドミントンを高校でやめる姿は想像できなかった。けれど、どの大学へ行きたいかより先に、自分はこの競技で最後にどうなりたいのかという問いが残った。
小学生の頃は、目の前の全国大会で勝つことだけを考えていた。中学では、国内で優勝し、世代別代表へ選ばれた。アジア大会では、決勝で中国の選手に敗れた。あの時、シャトルが床へ落ちた瞬間の悔しさは、今も覚えている。日本の中で強くなるだけでは、あの相手には届かなかった。
もう一度世界の選手と戦いたい。次は最後まで勝ち残りたい。世界の頂点に立ちたい。口に出すには、まだ大きすぎる言葉だった。大学の進路さえ考えていなかった自分が、急に周囲へ話せるものではない。それでも、大喜の中にはその景色が浮かんだ。
広い会場の中央で、金色のメダルを受け取る。小学生と中学生の全国大会で手にした二つとは違う、世界で勝った証だった。その次に浮かんだのは、客席ではなく、自分のすぐ隣に立つ千夏だった。大喜はそのメダルを外し、千夏の首へ掛ける。驚いた千夏がメダルを持ち上げ、それから笑う。
そんな景色も、いいと思った。なぜ千夏に掛けたいのかを考える前に、兵藤から名前を呼ばれた。
「猪股、聞いてるか?」
「はい」
「まだ考えてないなら、今すぐ決めなくていい。ただ、行きたい場所があるなら、大学はそこへ近づけるところを選べよ」
「分かりました」
大喜は返事をして、曲げていた膝を伸ばした。頭に浮かんだ景色は、将来の目標というより、まだ輪郭の薄い想像だった。それでも、世界でもう一度戦いたいという思いだけは、合宿へ来る前よりはっきりしていた。日曜日の午後、最後の練習を終えた大喜は帰路についた。
その日の夕方、マンスリーマンションでは、千夏と母が食卓を囲んでいた。祖父の内視鏡手術は予定どおり終わり、退院の日も決まっている。母は祖父母の家へ移す荷物や食事について祖母と相談しながら、しばらく日本へ残る予定を整えていた。千夏は母が用意したスープを温め直し、二人分をテーブルへ運んだ。
「おじいちゃん、今日はどうだった?」
「退院したら自分で買い物に行くって言って、おばあちゃんに止められてたわ」
「まだ無理しない方がいいよね」
「そう言っても、聞かないのよ。元気になったのはいいんだけど」
母は書類を端へ寄せ、スープへ手を伸ばした。
「学校はどう?」
「文化祭の準備が進んでる。うちのクラスは喫茶店」
「千夏は接客するの?」
「今は接客には入らない予定。クラス代表の仕事があるから」
「そう。大喜くんのクラスは?」
「白雪姫だって。雛ちゃんが白雪姫で、背の高い女の子が王子役。大喜くんは合宿で準備に出られなかったから、舞台の裏方をやるって」
「よく知ってるのね」
「大喜くんに聞いたから」
千夏はスープを一口飲んだ。大喜からは合宿初日に連絡が届いて以降、一日に一度ほど短いメッセージが来ていた。練習が厳しいことや、兵藤と打ち合ったことは書かれていたが、細かな内容までは送られていない。帰ってから話すつもりなのだろう。
「今日、帰ってくるんでしょう?」
「うん。もう合宿所は出たって」
「楽しそうだった?」
「行く前から楽しみにしてたよ。代表には選ばれなかったけど、強い人たちと練習できるから、自分に足りないものを見てくるって言ってた」
「千夏は、大喜くんの話をする時だけ詳しいわね」
「ずっとバドミントンを見てきたから」
母はスプーンを置き、千夏の顔を見た。
「まだ二人とも、幼馴染をやってるのね」
「どういう意味?」
「そのままの意味よ。昔から近すぎて、肝心なところで遠回りするのも変わらないなと思って」
「遠回りなんてしてないよ」
「そうかもしれないわね」
母はそれ以上説明せず、スープへ視線を戻した。千夏も食事を続けようとしたが、母の言葉が引っかかったまま残る。民宿で飲み込んだ言葉を、母が知っているはずはない。しばらくして、母が書類を一枚取り上げた。
「明日はおじいちゃんの退院後の予定を確認してくるから、帰りは少し遅くなるわ」
「分かった。夕食、何か作っておくね」
「ありがとう」
母は書類の日付を確認してから、何でもない話の続きをするように付け加えた。
「大事にしたいなら、逃げちゃだめよ」
「何から?」
「それは自分で考えなさい」
母は返事を求めず、退院後に必要な物の話へ戻った。千夏もすぐには聞き返さなかった。逃げているつもりはなかった。それでも、何を指しているのか分からないとも言えなかった。食べ終えた食器をキッチンへ運び、洗い物を終えて居間へ戻ると、テーブルの端に置いていたスマートフォンが震えた。大喜からのメッセージだった。
『帰ってきた。最後まで振れるようになった。あと、自分の試合の進め方も少し分かった気がする。』
千夏は画面を見たまま、母の言葉を思い出した。告白する勇気が急に出たわけではない。何を言えばいいのかも、まだ分からない。それでも、家で会えるまで待っていればよかった頃とは違う。今は、自分から時間を選ばなければ、話さないまま一日が終わる。千夏は返信を打った。
『聞きたい。明日、文化祭の準備に行く前に少し話そう。』
すぐに返事が届く。
『うん。学校で。』
短い文章を読み終え、千夏は翌日の部活動と文化祭準備の時間を確認した。同じ家から出なくても、同じ玄関へ帰らなくても、会うための時間は自分で作ることができる。母は退院後の予定を書き込みながら、何も言わなかった。千夏もスマートフォンを伏せ、明日の準備を始めた。