文化祭当日の朝、栄明の校舎は普段より早く目を覚ましていた。昇降口には校内案内を持った実行委員が立ち、廊下では開場前の最終確認が続いている。教室の扉が開くたび、絵の具と段ボール、それに模擬店の甘い匂いが混ざった空気が流れ込んだ。
一年の教室が並ぶ階では、大喜のクラスも朝から落ち着かなかった。白雪姫の劇に使う背景を立て、椅子を壁際へ寄せ、出演する生徒は衣装や台詞を確認している。大喜は舞台裏へ運ぶ木箱の中身を一覧表と見比べ、足りない小道具がないか確かめていた。
世代別の強化合宿で準備に参加できなかった分、手順を知らないところもある。分からないまま動いて二度手間にするより、最初に聞いた方がいい。前日から何度も確認したことで、背景を運ぶ順番も、劇の途中で交換する小道具の置き場所も頭に入っていた。
教室の後ろでは、白雪姫の衣装を着た雛が、袖口を引っ張りながら鏡をにらんでいた。普段の練習着とは違う長いスカートが動きにくいらしく、歩くたび裾を気にしている。
「これ、本番で踏んだらどうするの」
「踏まないように歩くしかないんじゃない」
「簡単に言うね。匡も着てみれば?」
「サイズが合わないし、俺は木の役でもないから」
「木の役なら似合いそう」
「褒めてないよね、それ」
二人のやり取りを聞きながら、大喜は箱の蓋を閉じた。足りなかった銀色の杯は、王妃役の生徒が衣装合わせのために持っていっているらしい。所在が分かったところで、一覧表の該当欄へ印をつける。
「大喜、そっち終わった?」
「だいたい。杯だけ衣装の方にあるって」
「じゃあ、戻ってきたら箱に入れておく。次、入口の案内板を一階に運べる?」
「うん。匡、片方お願いしていい?」
「いいよ。今の確認が終わったら行く」
開場時刻が近づくにつれ、廊下を歩く人が増えていった。中等部の生徒だけでなく、制服の違う他校生や保護者の姿もある。中高合同の文化祭なので、校舎を行き来するだけでも普段とは違う声が聞こえた。大喜と匡が案内板を一階へ運び終えた頃には、正門が開いていた。昇降口から入ってきた来場者が案内図を広げ、どの階へ向かうかを話し合っている。二人は人の流れを避けながら壁際を歩き、次の作業へ戻った。
午前の担当が一段落し、大喜が次の作業までの時間を確認していると、教室の入口付近が急にざわついた。廊下に立っていたのは花恋だった。淡い色のブラウスにタイトスカートを合わせ、肩から小さな鞄を下げている。撮影の時ほど作り込んだ格好ではないのに、他校の文化祭へ遊びに来た生徒の中では目立っていた。近くにいたクラスメイトが、どこかで見たことがあると小声で確かめ合っている。花恋は教室の中を見回し、大喜を見つけると片手を上げた。
「大喜くん、久しぶり」
「花恋ちゃん。今日来るって聞いてなかった」
「ちーには言ってたよ。大喜くんには、まだ伝わってなかったんだね」
「そうみたい。撮影は?」
「今日は夕方から。午前中なら来られそうだったから、健吾たちの文化祭も見ておこうと思って」
花恋は教室の中へ一歩入り、衣装姿の雛と、その近くにいた匡にも挨拶した。匡は作業の手を止めて応じたが、雛は花恋を見た後、自分の白雪姫の衣装を見下ろした。
「今、モデルの人に見られるの、急に恥ずかしくなってきました」
「似合ってるよ。舞台で動いたら、もっと見栄えすると思う」
「そう言ってもらえると、やる気出てきました」
「本番、時間が合ったら見に来るね」
雛は少しだけ姿勢を正し、鏡の前でもう一度スカートの裾を整えた。花恋は笑ってから、大喜へ向き直る。
「ところで、大喜くん。次の担当まで空いてる?」
「三十分くらいなら。どうしたの?」
「じゃあ、少し付き合って。行きたい教室があるの」
「大喜、十一時半までには戻った方がいいよ。舞台係の確認があるから」
「分かってる。花恋ちゃん、そんなに遠くは行けないよ」
「大丈夫。校内だから」
行き先を言わないまま、花恋は廊下へ出た。大喜は作業表をもう一度確かめ、匡に声を掛けてから後を追った。廊下はすでに来場者で混み始めていた。花恋は掲示された案内図へ一度目を向けたものの、すぐに大喜へ道を譲った。
「二年B組って、こっち?」
「階段を上がって反対側。ちーちゃんのクラス?」
「そう。案内して」
「花恋ちゃん、最初からそこに行くつもりだったの?」
「そのつもりだったよ」
「じゃあ、着けば分かるって何?」
「本当に着けば分かるから」
花恋はそれ以上説明せず、廊下に並ぶ展示へ目を向けた。大喜も無理に聞かなかった。千夏のクラスは喫茶店をやると聞いている。ただ、千夏はクラス代表の仕事があるため、接客には入らないと言っていたはずだった。階段へ向かう途中、二年B組の企画札を首から下げた針生と、その隣を歩く岸祥一郎に会った。針生は休憩を終え、自分の教室へ戻るところらしい。
「花恋、もう来てたのか」
「今着いたところ。健吾は休憩終わり?」
「ああ。そろそろ教室に戻る。大喜は?」
「ちーのクラスまで案内してもらってるところ」
「なら、俺も同じ方向だな」
岸は大喜へ軽く頭を下げた。
「猪股、久しぶり」
「岸くん。文化祭、来てたんだ」
「午後は練習だから、午前中だけ見て回ってる」
岸の視線が、花恋と大喜の進もうとしていた方向へ移る。
「鹿野さんのクラス?」
「そうだけど。岸君も行く?」
「行く。猪股に負けたからって、見に行くのをやめる理由はないし」
岸は冗談めかしていたが、迷っている様子はなかった。会える機会があるなら、自分から動くことにしたらしい。大喜には、それを断る理由がなかった。岸が千夏のクラスへ行きたいなら、同じ方向へ歩けばいい。千夏と話すかどうかも、岸が決めることだった。それでも、花恋と二人で向かっていた時より、階段の幅が狭くなったように感じた。
「じゃあ、四人で行こっか」
花恋が先に階段へ足を掛ける。針生が隣に並び、岸がその後ろに続いた。大喜も一段遅れて上り始めた。
「大喜、戻る時間あるんだろ」
「十一時半までです」
「なら、長居はできないな」
「針生先輩は戻らなくていいんですか」
「戻るところだって言っただろ。お前らを連れていけば、そのまま仕事だ」
針生は花恋が人の流れに押されないよう、階段の外側へ立った。大喜はその動きを見てから、すぐ前を歩く岸の背中へ視線を戻した。二年B組の前には、喫茶店の順番を待つ来場者が数人並んでいた。黒板を模した案内板には、飲み物と焼き菓子のメニューが書かれ、入口の脇ではクラスの生徒が人数を確認している。針生は入口にいたクラスメイトへ、休憩から戻ったことを伝えた。
「一回、客として入ってからでもいいか?」
「席が空いたらいいけど、食べたらすぐ戻ってよ。今、裏が結構忙しいから」
「分かってる。四人で」
「自分のクラスなのに、人数に入るんだ」
「花恋が来てるからな」
少し待てば四人で入れると言われ、廊下の列へ並んだ。大喜は窓から教室の中を覗こうとしたが、窓には飾りが貼られ、奥までは見えない。
「花恋ちゃん、何か知ってるよね」
「何のこと?」
「ちーちゃん、昨日は接客しないって言ってたけど」
「昨日の放課後に予定が変わったみたいだよ」
「やっぱり知ってるじゃん」
「聞かれたから答えただけ。私は何も隠してないよ」
花恋はそう言ったものの、それ以上のことは話さなかった。針生も事情を聞いているのか、大喜と花恋のやり取りには加わらない。岸は入口が開くたび、教室の中へ視線を向けていた。やがて前の組が出てきて、四人は窓際の席へ案内された。机を二つ合わせ、チェック柄の布を掛けた簡単なテーブルだったが、天井から下げた紙飾りや、黒板に描かれたメニューのおかげで、普段の教室とは別の場所に見える。針生は席へ着くなり、教室の奥へ向けて声を掛けた。
「戻ったぞ」
「針生君、先に座ってないで、食べ終わったら裏に来てね」
「分かってるって」
クラスメイトから返された言葉に、花恋が笑う。針生は気にした様子もなく、テーブルの端に置かれたメニューを花恋の方へ寄せた。席へ着いて間もなく、奥から注文票を持った生徒が近づいてきた。千夏だった。
黒を基調にしたワンピースの上へ、白いエプロンを着けている。髪は接客の邪魔にならないよう後ろでまとめられ、胸元には二年B組と書かれた小さな札が留めてあった。練習着でも制服でもない姿は、大喜が知っているどの千夏とも違っていた。岸も同じタイミングで千夏に気づいたらしい。それまで入口や装飾へ動いていた視線が止まり、開いていたメニューを持つ手も動かなくなった。
千夏は四人の顔を見た瞬間、足を止めかけた。しかし、後ろには別の注文を待つ客がいる。注文票を持ち直すと、そのままテーブルの前まで歩いてきた。
「いらっしゃいませ。四名様ですね。ご注文が決まりましたら、こちらへお願いします」
普段より少し硬い声だったが、必要な案内は途切れなかった。花恋は何事もなかったようにメニューを開き、針生も隣から覗き込む。
「おすすめは?」
「アップルパイ。今日一番出てるよ。飲み物とセットにもできます」
「じゃあ、それとアイスティー。健吾は?」
「俺はコーヒー、ブラックで」
「針生君、自分のクラスなんだから、メニューは知ってるでしょ」
「今は客として聞いてる」
「甘くしないなら、砂糖とミルクを使わなければいいから」
千夏が普段の調子で返すと、針生は笑ってメニューのコーヒーを指差した。その間も、大喜はメニューへ目を落としたまま、書かれている文字をほとんど読めていなかった。千夏の視線が岸へ移る。岸はまだメニューを開いたまま、千夏の方を見ていた。花恋が隣から名前を呼ぶと、ようやく一度瞬きをする。
「岸君は?」
「……俺も、アップルパイとアイスティーでお願いします」
岸は答えたものの、声には普段の勢いがなかった。千夏は注文票へ内容を書き込み、最後に大喜へ顔を向けた。
「大喜くんは?」
「あ……俺も同じので」
「アップルパイとアイスティー?」
「うん。それで」
千夏は注文票へ書き込みながら、大喜の顔を見た。自分がどう見られているのか、確かめるような目だった。
「接客するって、言ってなかったよね」
「昨日の放課後に決まったの。欠員が出て、代表の予定と重ならない時間だけ入ることになって」
「そっか。びっくりした」
「そんなに?」
大喜はもう一度、千夏の姿を見た。黒いワンピースも白いエプロンも、普段の千夏からは想像していなかった。それでも、見慣れないことと似合っていないことは違う。
「いつもと違うから驚いたけど、よく似合ってるよ」
「……そっか。ありがとう」
千夏は注文票へ視線を落とし、四人分の内容を確認した。
「ご注文は以上でよろしいですか」
「うん」
「では、少々お待ちください」
別のテーブルから呼ばれ、千夏はそちらへ向かった。大喜はその背中を目で追いかけそうになり、途中でテーブルへ視線を戻した。正面に座っていた花恋は、何も言わずメニューを閉じている。針生は食事を終えた後の仕事が気になるのか、教室の奥を見ていた。
岸だけは、千夏が離れた後も、しばらく同じ方向を見たままだった。手元のメニューは最初に開いたページから一度も動いていない。
「岸君、メニューもう片づけても大丈夫?」
「あ、すみません」
花恋に声を掛けられ、岸はようやくメニューをテーブルの端へ置いた。それでも、教室の奥から千夏の声が聞こえるたび、そちらへ意識が向いている。注文したものは、千夏とは別の生徒が運んできた。針生はコーヒーを受け取ると、アップルパイを一口食べた花恋に味を聞いている。花恋は甘さがちょうどいいと答え、針生にも一口食べるかと尋ねたが、針生は裏へ戻ったら余った分をもらえるかもしれないと断った。
大喜もアップルパイを食べた。味は分かったが、教室へ入る前ほど空腹を感じなかった。視線を上げると、千夏は別のテーブルで注文を取り、そのまま奥へ戻っていく。先ほどより接客の動きに慣れ、笑顔も自然になっていた。岸はアップルパイを口に運んでいるものの、花恋から午後の予定を聞かれても、返事が一拍遅れていた。
「岸君、午後の練習には間に合う?」
「……はい。十二時半にはここを出る」
「それなら、もう一つくらい見られそうだね」
「中等部の方を見て、最後またここ来ようと思いました」
岸はそう答えた後、自分の言葉に気づいたようにアイスティーへ手を伸ばした。針生は何も言わず、残っていたコーヒーを飲む。花恋も岸をからかわず、次に見る展示の話へ戻した。大喜は岸の横顔を見てから、紙皿に残ったアップルパイを食べた。
岸が千夏を見に来たことは分かっている。教室へ入ってからの反応を見れば、どれだけ楽しみにしていたかも伝わってきた。だからといって、大喜が何かを言う立場ではない。千夏が誰と話すかを決めるのは千夏で、大喜ではなかった。そう考えているのに、岸がもう一度ここを通ると言ったことだけが、食べ終えた後も残った。
会計を済ませると、針生はそのままクラスの仕事へ戻った。入口付近で待っていた生徒からエプロンを渡され、面倒そうな顔をしながらも素直に受け取っている。花恋は午後の撮影前に校内をもう少し回ると言い、岸も中等部の展示へ向かうことになった。
「大喜くん、戻る時間は?」
「あと五分くらい。急げば間に合う」
「走らないで急いでね。文化祭で怪我したら、ちーに怒られるよ」
「花恋ちゃんも撮影に遅れないようにね」
「私は大丈夫。健吾のところも見られたし、あとはのんびり回るから」
岸は階段の方を向いたまま、大喜の言葉へ少し遅れて反応した。
「猪股、またな」
「うん。練習、頑張って」
「ああ」
岸はそう答えた後、一度だけ二年B組の入口を振り返った。中から千夏の姿が見えたわけではない。それでも数秒立ち止まり、花恋に呼ばれてから階段へ向かった。大喜も自分の教室へ戻った。
午前の作業へ入ると、次に運ぶ背景や、午後の劇で使う備品の確認が続いた。手を動かしている間は、目の前の作業へ集中できた。それでも、黒い服に白いエプロンを重ねた千夏の姿が、何度か関係のないところで浮かんだ。
文化祭で、普段と違う服を着ていたから驚いたのだ。岸も同じように固まっていたし、教室にいた客の中にも千夏を見て振り返る人はいた。そう考えれば、特別なことではない。大喜は背景の板を持ち直し、指定された位置へ運んだ。
昼を過ぎると、校内の人出はさらに増えた。大喜はクラスの仕事と部活の展示を行き来し、空いた時間には不足している備品を倉庫から運んだ。舞台係から次の集合時刻を聞き、スマートフォンへ入れようとしたところで、千夏からメッセージが届いた。
『このあと、軽音部のライブ見に行かない?』
大喜は廊下の端へ寄り、時刻を確認した。ライブの開始は、クラスの劇に向けた最終集合より前だった。全部を見ると慌ただしいが、途中までなら間に合う。
『行きたい。今の仕事が終わったら、ライブ会場の入口でいい?』
送ってから、舞台係の生徒へ予定を伝えた。集合時刻までに戻るなら問題ないと言われ、代わりに劇で使う布を倉庫から運んでおくよう頼まれる。大喜は先に布を届けることを約束し、再びスマートフォンを見た。
『うん。私も代表の引き継ぎが終わったら向かうね』
短いやり取りだったが、大喜は画面を閉じる前にもう一度読み返した。大喜は頼まれた布を倉庫から運び、集合時刻をもう一度確認してからライブ会場へ向かった。入口の近くで待っていた千夏は、ウェイトレス姿のままだった。黒いワンピースと白いエプロンの上から、学校指定のジャージの上着を肩に掛けている。袖には腕を通しておらず、前を留めてもいない。接客のためにまとめた髪もそのままで、教室にいた時より力の抜けた格好なのに、大喜にはまだ見慣れなかった。
「ごめん、待った?」
「ううん。私もさっき来たところ」
「代表の仕事は、もう終わった?」
「午後の分は引き継いできた。衣装も、あとで返せばいいって」
「そのまま来たんだ」
「着替えてたら間に合わなくなりそうだったから。大喜くんの方は大丈夫?」
「劇の集合までなら。途中で出ることになるかもしれないけど」
「私もそのつもり。時間になったら、一緒に出ようか」
「うん」
二人は来場者の列に加わった。会場の中からは、すでに楽器の音合わせが聞こえている。扉が開くたび、低いベースの音と観客の声が廊下まで漏れてきた。入場すると、前方の席はほとんど埋まっていた。立ち見の生徒も多く、通路を移動するだけでも人の流れに押される。大喜は千夏が後ろにいることを確かめ、空いている壁際へ向かって先に進んだ。
「ちーちゃん、こっちなら見えそう」
「うん。ありがとう」
手を取るほどではない。大喜が人の隙間へ身体を入れると、その後ろを千夏がついてくる。壁際に二人分の場所を見つけ、大喜は千夏が立てる幅を空けてから隣へ並んだ。その時、千夏は肩からジャージが落ちそうになる。大喜は手を貸そうとしたものの、千夏が自分で整えたため、そのまま舞台へ顔を向けた。
照明が落ち、舞台上だけが青く照らされた。歓声の中でギターの音が鳴り、ドラムが続く。教室や体育館では聞かない大きさの音が床から伝わり、観客の手拍子が重なった。最初の曲が始まると、会話をする余裕はなくなった。千夏は舞台を見ながら、知っている曲だったのか、途中からリズムに合わせて手を動かしている。肩に掛けたジャージの裾がそのたびに揺れ、下から白いエプロンが見え隠れした。
大喜は演奏を聞きながらも、隣にいる千夏の様子が視界へ入るたび、二年B組の教室を思い出した。曲と曲の間に、舞台の照明が白へ変わった。部員が次の曲を紹介している間、千夏が大喜の方へ顔を寄せる。
「思ってたより本格的だね」
「うん。音、廊下まで聞こえてたけど、中だと全然違う」
「大喜くん、こういうライブ見るの初めて?」
「学校のなら初めてかも。ちーちゃんは?」
「私も。花恋の撮影で音楽が流れてるのを見たことはあるけど、演奏を近くで見るのは初めて」
千夏は舞台へ顔を戻した。青と紫の照明が切り替わり、その色が頬や髪へ短く落ちては消える。大喜は隣に立つ千夏を見た。ウェイトレス姿にジャージを肩から掛けた格好は、教室で接客していた時とはまた違っている。その姿で一緒にライブを見ていることも、普段の学校生活にはないことだった。次の曲が始まる前、大喜は口を開いた。
「今日のちーちゃん、なんか新鮮だね」
「それ、褒めてる?」
「褒めてるよ」
「どの辺が?」
「その格好で一緒に歩いてるのが、いつもと違うから」
千夏は答えを待つように、大喜の方へ身体を少しだけ残している。教室では似合っていると伝えた。それは見たままのことだった。けれど、あれから何度も思い出してしまう理由まで、同じ言葉では表せない気がした。大喜は一度息を吸い、考えていたことをそのまま口にした。
「ウェイトレス姿、かわいいなって思った」
言い終えるのと、次の曲の最初の音が重なった。千夏は一度だけ目を見開き、それから舞台の方へ向き直った。大きな音の中では、すぐに返事をしなくても不自然ではない。それでも曲が始まって数秒してから、聞き取れるぎりぎりの声で答えた。
「ありがとう」
大喜も舞台へ顔を戻した。
文化祭だから、普段と違う格好をしていたから、目に残った。それで間違ってはいないはずだった。岸も言葉を失っていたし、教室で千夏を見ていたのは自分だけではない。けれど、同じものを見たはずなのに、自分だけがもう一度言葉にしたくなった理由は分からなかった。
隣で千夏が手拍子を始める。大喜も一拍遅れて手を合わせた。曲の途中で赤い光が客席を横切り、千夏の横顔を照らして、すぐに次の色へ変わった。千夏は舞台を見ていた。肩に掛けていたジャージが少しずれても、今度はすぐに直そうとしなかった。手拍子を続ける口元には、消し切れていない笑みが残っている。
大喜はそれを見た後、今度こそ舞台へ意識を戻した。曲が終わると、会場いっぱいに拍手が広がった。千夏も両手を叩き、大喜は少し遅れて続いた。自分のクラスの劇が始まるまで、もうあまり時間はない。次の曲を途中まで聞いたら、二人で教室へ戻らなければならなかった。
それでも照明が落ちた後も、隣に立つ千夏の横顔だけが目に残っていた。