次の曲が始まって間もなく、大喜は時計を確認した。次のバンドが準備を始めているが、自分のクラスの集合時刻までは、もう十分も残っていない。隣に立つ千夏も、大喜の視線を追って時計を確認した。ウェイトレス姿の上から肩に掛けたジャージが、拍手の動きに合わせてずれかけている。千夏は片手で襟元を押さえ、舞台へもう一度顔を向けた。
「そろそろ行かないとだよね」
「うん。次の曲が始まる前に出ようか」
「分かった。私も大喜くんのクラス、見に行きたい」
「出演はしないけどね」
「知ってるよ。雛ちゃんの白雪姫を見に行くの」
大喜が扉へ向かうと、千夏もその後ろに続いた。次の演奏を待つ来場者が前へ詰めてくるため、入ってきた時よりも出口まで進みにくい。大喜は人の流れが切れる場所を選び、千夏が離れない程度の速さで歩いた。扉が閉じると、会場の音は急に遠くなった。廊下にもギターとドラムの響きは残っているが、中にいた時のように床から身体へ伝わってはこない。
大喜は歩きながら、先ほど自分が口にした言葉を思い出していた。千夏のウェイトレス姿を、かわいいと思った。教室で初めて見た時から感じていたことを、そのまま伝えただけだった。それでも、普段なら口にしないまま終わっていたような気がする。演奏の音が大きく、周囲に聞かれる心配がなかったから言えたのかもしれない。
隣を歩く千夏も、すぐにその話を続けようとはしなかった。肩からずれたジャージを掛け直し、大喜と同じ速さで廊下を進んでいる。階段の手前まで来たところで、千夏が足を緩めた。
「劇が始まるまで、あとどのくらい?」
「十五分くらい。俺は十分前には裏に入ることになってる」
「じゃあ、急いだ方がいいね」
「ちーちゃんは、そのままで大丈夫なの?」
「衣装はあとで返せばいいって言ってもらった。クラスの片付けまでには戻るよ」
二人は階段を上り、大喜の教室がある廊下へ向かった。午後になっても校内の人出は減っておらず、模擬店の列が廊下の中央近くまで伸びている。大喜は時計を確かめながら、立ち止まっている来場者の間を抜けた。教室の前には、劇を待つ人がすでに並んでいた。入口付近に立っていたクラスメイトが大喜を見つけ、手招きする。
「猪股、ちょうどよかった。舞台裏の確認、もう始めるって」
「分かった。今行く」
大喜は返事をしてから、千夏へ向き直った。
「ちーちゃん、席は後ろの方になるかもしれない」
「入れれば大丈夫。大喜くんは行ってきて」
「終わっても、すぐ片付けに入ると思う」
「私も自分のクラスに戻るから、終わったら連絡するね」
二人はそこで別れた。千夏は来場者の列へ並び、大喜は教室脇の扉から舞台裏へ入った。普段は机が並んでいる教室の前方に、背景用の板と暗幕で簡単な舞台が作られている。観客席との間は厚手のカーテンで区切られ、舞台裏には交換用の背景や小道具が使う順番に並べられていた。
匡は台本と進行表を重ね、転換の順番を舞台係の生徒と確認している。雛は白雪姫の衣装のまま、教室の隅に置かれた椅子へ座り、自分の台詞が書かれたページを読み返していた。大喜が近づくと、雛は台本から顔を上げた。
「遅い、大喜」
「集合時間には間に合ってるでしょ」
「主役を待たせたら遅刻と同じなの」
「待ってたのは雛じゃなくて、舞台係でしょ」
「そういうところ、真面目に返さなくていいから」
雛は口では普段どおり返したが、台本の端を何度も親指でなぞっている。大喜が午前中に見た時より、同じページへ貼られた付箋が増えていた。匡が進行表を大喜へ渡す。
「背景の転換、二か所変わったよ。二回目は俺が左側を持つから、大喜は右」
「分かった。小道具は?」
「毒リンゴと鏡は確認した。王子の剣だけ衣装係が持ってる」
「さっき届いたよ。箱の一番上に入ってる」
近くにいた舞台係の生徒が答えた。大喜は箱の中身を確かめ、進行表に書かれた順番に並べ直す。暗い舞台裏でも出演者が迷わないよう、持ち手の向きまでそろえて置いた。その時、教室の扉が開き、廊下から空気が流れ込んだ。天井近くに吊られていた大きなくす玉が、ゆっくりと左右へ揺れた。
それは白雪姫の劇で使う物ではない。文化祭の終盤に行われる最優秀クラス賞の発表に備えて、実行委員が舞台上へ設置していたものだった。劇の間は触れず、発表の時までそのまま吊っておくと聞いている。大喜は小道具箱の蓋を閉じかけた手を止めた。
扉から入った風は強くない。背景の紙飾りも、わずかに動いた程度だった。それに対して、くす玉だけが大きく振れている。揺れが収まっても、右側が左側より低い位置に残った。前日に見た時には、もう少し水平だったはずだ。
「匡、あのくす玉、昨日より傾いてない?」
「どれ?」
匡も舞台の中央へ寄り、天井を見上げた。舞台係の生徒が進行表を置き、二人の近くへ来る。
「本当だ。右側が下がってる」
「劇では使わないんだよね?」
「使わない。最優秀クラス賞の発表用だから、終盤までこのままの予定」
「だったら、開演前に一度下ろして確認した方がよくない?上にあるまま外れたら危ないし」
大喜が真下から見上げると、右側の紐は金具へ二重に巻かれているものの、結び目から短い端が出ていた。揺れるたびに、その端が少しずつ動いている。舞台係の生徒も位置を変え、紐を確かめる。
「朝、実行委員が付けた時は大丈夫だったと思うけど」
「でも今は緩んでるように見えるな。劇が始まってからだと直せないか」
「実行委員を呼んでくる。脚立は後ろにあるから、先に下ろせる準備だけしておいて」
舞台係の生徒が教室を出る。匡と大喜は折り畳まれた脚立を舞台中央まで運び、別の男子生徒に声を掛けた。くす玉は中身が入っているため、見た目より重い。一人が脚立へ上がって紐を外す間、下で本体を支える必要があった。雛も台本を持ったまま近づいてきた。
「何かあったの?」
「くす玉の紐が緩んでるみたい。劇で使う物じゃないけど、上に置いたままにするのは危ないから」
「落ちてきたりする?」
「可能性はあるかも」
「じゃあ、たのんだ。途中で頭の上を気にしながら演技するのは嫌だし」
雛は舞台中央から離れ、他の出演者にもくす玉の下を通らないよう伝えた。舞台係の生徒が実行委員の一人を連れて戻ってくると、全員で状況を確認する。
「右の固定が甘かったかもしれない。一度下ろして、結び直そう」
「開演まで七分くらいです」
「劇では使わないから、無理なら下ろしたままにして、終わってから掛け直せばいい」
実行委員の判断が出ると、大喜は脚立へ上がった。匡と舞台係の生徒が両側から脚立を支え、別の二人がくす玉の下へ手を伸ばす。
「大喜、落ちないでよ。劇の前に救急車が来たら、それどころじゃないから」
「変な動きはしないよ」
「大喜が言うと信用できないんだよね。重い物を見ると、すぐ自分で持とうとするから」
「これは別だよ、さすがに」
雛に言われ、大喜は一人で支えようとせず、結び目だけに手を伸ばした。右側の紐を触ると、結び目は見た目以上に緩んでいた。強く引けば締まる形ではなく、揺れるたびに輪が広がる掛け方になっている。大喜が紐を外すと、下にいた生徒たちがくす玉を受け止め、舞台の上へ慎重に下ろした。
「これ、結び方が左右で違う」
「本当だ。左は金具を二回通してあるけど、右は一回だけだな」
「予備の紐を足して、落下防止用にもう一本付けよう」
実行委員が予備の紐を取り出した。大喜たちは左右の長さをそろえ、右側の結び目を作り直す。さらに本来の紐とは別に、くす玉本体と天井の金具をつなぐ安全用の紐を追加した。再び吊り上げる際も、大喜一人では持ち上げなかった。下で四人が本体を支え、脚立の上では実行委員が金具へ紐を掛ける。大喜は反対側から高さを確認し、左右がそろったところで声を掛けた。
「その位置なら傾いてないです」
「じゃあ、一度手を離して確認する」
全員が少し離れた。くす玉は天井近くで静止している。扉を一度開閉して風を入れても、わずかに揺れるだけで、片側が下がることはなかった。実行委員は固定部分をもう一度確かめた。
「これなら大丈夫。猪股、気づいてくれて助かった」
「劇の途中で何かあったら、直せないので」
「発表前にも、俺たちでもう一度確認する。劇の係は触らなくていいよ」
「分かりました」
大喜たちは脚立を舞台裏へ戻した。開演まで残された時間は短かったが、小道具と背景はすでにそろっている。匡はすぐに進行表を持ち直し、変更された転換位置を大喜へ示した。
「くす玉はもう気にしなくていいって。こっちをもう一回確認しよう」
「うん。二回目の転換は、俺が右だよね」
「そう。城の背景を入れた後、鞄を置く場所が狭いから気をつけて」
「分かった」
開演を知らせる校内放送が流れると、観客席側のカーテン越しに人が入ってくる音が聞こえた。椅子を引く音、友人を呼ぶ声、入口で人数を数えるクラスメイトの声が重なり、舞台裏の空気が急に狭くなる。雛は台本を閉じ、衣装のスカートを両手で持ち上げて一度だけ足元を確認した。王子役の女子生徒や小人役の生徒たちも、決められた位置へ移動している。大喜は進行表へ視線を落とし、最初に使う背景板の端を持った。
「雛、裾は大丈夫?」
「朝から何回歩いたと思ってるの。もう踏まないよ」
「台詞も?」
「それは聞かないで。今から完璧になるところだから」
雛は二人へ背を向け、舞台袖の位置へ入った。普段ならもう一言返してきそうなところで口を閉じ、舞台係の合図を待つ。照明が落とされ、観客席の話し声が小さくなった。幕代わりのカーテンが開く。
最初の場面では、大喜と匡が舞台裏で背景板を支えた。表から見ると森の絵が描かれた一枚の背景にしか見えないが、裏側では板が倒れないよう二人が両端へ手を添えている。出演者が移動するたび、衣装の裾が板へ引っ掛からないかを確認し、次の転換へ備えた。
雛は舞台へ出ると、開演前の軽口が嘘のように声を通した。序盤で一度だけ台詞の間が長くなったが、小人役の生徒が次の言葉をつなぎ、雛もすぐに話を戻した。新体操の演技とは違い、自分一人の動きだけで流れを作ることはできない。それでも、相手の台詞を聞き、間を合わせながら場面を立て直す姿には、普段の練習で培った集中が残っていた。
大喜は次に回収する小道具へ手を伸ばしながら、舞台全体を確認した。白雪姫の上方には、最優秀クラス賞発表用のくす玉が吊られている。先ほど追加した安全用の紐にも、固定した金具にも変化はない。出演者が舞台を歩いても、本体はほとんど揺れていなかった。王子役の生徒が雛のそばへ膝をつく。
観客席が静かになる。王子役は打ち合わせどおり、客席から口元が見えない角度へ身体を入れ、雛の顔へ近づいた。実際には触れない距離で動きを止める。雛もその合図に合わせて目を開き、ゆっくりと身体を起こした。
そのまま場面は途切れず、最後の台詞へ進んだ。出演者全員が舞台へ並び、客席へ向かって頭を下げる。観客席から拍手が起こった。何も起きないまま終わった。それが一番よかった。カーテンの隙間から、客席の後方が見えた。千夏はウェイトレス姿の上へジャージを掛けたまま、周囲の観客と一緒に拍手をしていた。舞台上の雛を見て笑い、近くの生徒と言葉を交わしている。
大喜が見ていたのは数秒だけだった。すぐに舞台係から次の指示が入り、背景板を片付けるため匡と反対側へ回った。カーテンが閉じると、舞台裏の張り詰めていた空気が崩れた。出演者たちが一斉に息を吐き、雛は王子役の生徒と手を合わせている。
「終わったー。大会と全然違うのに、同じくらい緊張した」
「おつかれさま」
「途中セリフ一個飛んじゃった」
「小人役がつないでくれたから、客席には分からなかったと思うけど」
「分かってる。あとでお礼言わないと」
雛はすぐに小人役の生徒を探し、舞台の向こう側へ歩いていった。失敗を笑って流すのではなく、自分が助けられた相手へきちんと声を掛けるつもりらしい。舞台係の生徒が、大喜と匡のところへ来た。
「二人とも、転換ありがとう。大きなミスもなかったし、予定どおり終わった」
「無事に終わってよかった」
「大喜、一回引っかけかけたじゃん、倒れそうになったよ」
「匡が止めてくれたから直せたんだよ」
「まぁどっちでもいいよ、終わったし。次の企画が廊下を使うみたいだから、早く空けないと」
「分かった。これ、どこまで持っていけばいい?」
「一回、後ろの壁に寄せて。それから倉庫へ戻す物と、最後まで残す物を分ける」
大喜は背景板の片側を持ち、匡と一緒に教室の後方へ運んだ。くす玉には触れなかった。最優秀クラス賞の発表まで実行委員が管理することになっており、劇の係が動かす必要はない。先ほどの安全用の紐も、天井の金具へ固定されたままだった。
観客が退出すると、千夏の姿も見えなくなっていた。大喜は手を離せる状況ではなかったため、すぐにはスマートフォンを確認しなかった。劇が終わっても、文化祭の仕事は残っていた。衣装係は借りた服の数を確認し、舞台係は椅子と背景を片付ける。床には、移動中に外れた装飾や、切ったテープの端が残っていた。
大喜は大きな背景板を運び終えると、教室の隅に積まれた段ボールを畳んだ。誰も手を付けていなかった床のテープを剥がし、粘着が残った場所を濡らした布で拭く。劇に出ていた生徒も着替えを終えた者から作業へ加わり、教室は少しずつ元の形へ戻り始めた。しばらくして、クラスメイトの一人が、重ねた椅子を抱えながら声を掛けてきた。
「猪股、こっち運び終わったら休んでいいよ。朝からずっと力仕事やってるだろ」
「でも、まだ舞台の板が残ってるよ」
「それは俺たちでやるよ。猪股は倉庫の場所も分かってるし」
「じゃあ、この椅子だけ運ぶ」
「話聞いてた?」
「聞いてたから、椅子だけにしたんだけど」
「まあいいけど」
相手は呆れたように笑い、椅子の半分を大喜へ渡した。大喜も同じ数だけ持ち、廊下へ運び出す。準備期間に参加できなかった時間を、今日一日だけで埋められるとは思っていなかった。それでも、分からないことを聞き、任されたことを終えれば、クラスの中で自分にもできる仕事はある。
教室へ戻ると、匡が床に落ちた紙片をほうきで集めていた。雛も制服へ着替え、衣装係と一緒に借りた服を畳んでいる。
「大喜、千夏先輩から連絡来てないの?」
「まだ見てない」
「劇、見に来てくれてたよ。私、終わった後に手振ってもらった」
「雛を見に行くって言ってたよ」
雛は嬉しそうに戻っていった。今は自分の劇を終えた満足感の方が大きいらしい。大喜は作業の区切りがついたところで、バッグからスマートフォンを取り出した。千夏から短いメッセージが届いている。
『衣装を返して、クラスの片付けに戻るね。』
送信時刻は三十分ほど前だった。大喜は、自分もまだ片付け中だと返信した。すぐには既読にならなかったため、千夏も二年B組で作業を続けているのだろう。
文化祭終了を知らせる放送が校内へ流れた後も、教室の片付けは一時間近く続いた。窓に貼られた装飾が剥がされ、机と椅子が元の位置へ戻される。午前中まで舞台だった教室は、少しずつ普段の教室へ戻っていった。黒板の端には白雪姫の絵が残っていたが、それも最後には消された。
大喜たちが倉庫から戻る頃には、廊下を歩く来場者もほとんどいなくなっていた。模擬店の匂いだけが残り、朝から聞こえていた呼び込みの声もない。最後の確認を終えると、クラス代表の生徒が全員へ解散を伝えた。大喜は匡と雛に声を掛け、鞄を持って教室を出た。階段を下りながらスマートフォンを見ると、今度は千夏から新しいメッセージが届いていた。
『片付け終わったよ。昇降口にいる。』
大喜は歩きながら返信せず、そのまま昇降口へ向かった。千夏は下駄箱の近くで、壁に貼られた校内案内を眺めていた。ウェイトレスの衣装は返却し、制服へ着替えている。接客中にまとめていた髪もほどかれ、普段どおり肩へ落ちていた。大喜に気づくと、千夏はスマートフォンを鞄へしまった。
「片付け、お疲れさま」
「ちーちゃんも。待った?」
「今来たところ。大喜くんの方が遅くなると思ってたから」
「背景を倉庫に戻すのに時間かかった。そっちは?」
「残った材料を分けたり、会計を確認したりしてた。衣装も全部返せたよ」
「そっか」
二人は靴を履き替え、並んで校舎を出た。正門の近くでは、実行委員が最後の案内板を片付けている。朝には列ができていた通路も、今は片付けを終えた生徒がまばらに歩いているだけだった。大喜と千夏は、人の少なくなった道を駅へ向かった。
西へ傾いた日差しが、校舎の影を道路まで伸ばしている。大喜は肩に掛けた鞄の位置を直し、文化祭の一日を思い返した。朝からほとんど動き続けていた。自分が舞台へ出たわけではなく、模擬店を回れた時間も長くない。それでも、疲れだけが残った一日ではなかった。
「今日、楽しかった」
大喜が口にすると、千夏は隣で顔を上げた。
「うん。私も」
「ライブ、途中までしか見られなかったけど」
「でも、一緒に見られたから。誘ってよかった」
「俺も誘ってもらえてよかった。ちーちゃんのクラスにも行けたし」
「花恋に連れてこられてたけどね」
「それでも、行かなかったら見られなかったから」
大喜が答えると、千夏は前を向いたまま笑った。しばらく、二人は劇の話をした。雛が台詞を飛ばしかけたことは、客席からは分からなかったらしい。王子役の女子生徒が予想以上に役へ合っていたことや、最後まで大きな失敗がなかったことを千夏が話す。大喜は、開演前にくす玉の固定が緩んでいたことを伝えた。
「舞台の上にあった大きいやつ?」
「うん。最優秀クラス賞の発表で使うらしいんだけど、片方の紐が緩んでた」
「劇では使わないのに、ずっと上に吊ってあったんだ」
「発表の準備だったみたい。でも、風が入った時に揺れ方がおかしくて。一回下ろして結び直した」
「落ちてこなくてよかったね」
「演劇の途中だったら、どうしようもなかったと思う」
千夏は少し考えてから、大喜を見た。
「大喜くんが裏方だったから気づけたのかもね」
「舞台に出てたら、上を見る余裕はなかったかも」
「劇に出られなかったって言ってたけど、裏に大喜くんがいて助かった人も多かったんじゃない?」
「俺だけじゃないよ。匡も舞台係も一緒に直したし、劇もみんなでやったから」
「うん。それでも、大喜くんが気づいたのは本当でしょ」
「まあ、それはそうだけど」
千夏はそれ以上褒め続けず、劇の終盤に雛が立ち上がった時の動きがきれいだったことを話した。大喜も、雛が舞台へ出てからは開演前ほど緊張して見えなかったと答えた。横断歩道の信号が赤になり、二人は歩道の端で足を止めた。
向かい側には、文化祭帰りの生徒が数人立っている。ウェイトレスの衣装を着た千夏を見た生徒もいるのかもしれないが、制服へ戻った今は誰も振り返らなかった。千夏は信号を見たまま、鞄の持ち手を両手でそろえた。
「大喜くん」
「何?」
「今日の服、本当に変じゃなかった?」
大喜はすぐには答えられなかった。二年B組の教室で注文票を持っていた千夏。黒いワンピースと白いエプロンの上へ、ジャージを肩から掛けてライブ会場に立っていた千夏。青や赤の照明の中で、自分の言葉を聞いた後、舞台へ顔を戻した横顔。一日の中で何度も見た姿が、順番に浮かんだ。千夏が大喜の顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「何でもない。ライブで言った時のこと、思い出してただけ」
「……そっか」
「変じゃなかったよ。さっきも言ったけど、かわいかった」
信号が青へ変わった。大喜は先に一歩踏み出したが、千夏がすぐに続かないことに気づき、歩道の途中で速度を落とした。千夏は遅れて隣へ並び、信号が点滅する前に道路を渡る。
「ありがとう」
「うん」
大喜はそれ以上、何を付け加えればいいのか分からなかった。ライブ会場で口にした時より、今の方が周囲の音は静かだった。その分、自分が何を言ったのかがはっきり聞こえ、落ち着かない。駅へ続く道へ入ったところで、大喜は明日の予定を思い出した。
「明日から、また練習だね。女子バスケは朝から?」
「うん。文化祭の片付けが終わってるから、いつもどおり。大喜くんたちも?」
「朝練は普通にある。今日ほとんどラケット触ってないから、身体が変な感じするかも」
「一日くらいで変わらないよ」
「ちーちゃんだって、ボール触ってないでしょ」
「私はクラスの荷物を運んだから、腕は使ったよ」
「それ、バスケの練習には入らないと思う」
「大喜くんの背景運びも、バドミントンの練習じゃないよ」
いつものように返され、大喜は笑った。話題を変えたことを、千夏は分かっているのかもしれない。それでも、先ほどの言葉をもう一度尋ねることはなかった。代わりに、明日の朝練で確認したいことや、文化祭の後で体育館の床に装飾が残っていないかを確かめる必要があることを話した。駅前の分かれ道へ着く頃には、空の色が薄く変わり始めていた。
猪股家へ向かう道と、千夏が母と暮らしているマンスリーマンションへ向かう道は、ここで分かれている。以前なら、そのまま同じ方向へ歩いていた場所だった。千夏は足を止め、大喜の方へ身体を向けた。接客に入った理由を話そうと思えば、今なら二人しかいない。
大喜が普段とは違う自分をどう見るのか知りたかったこと。だから前日には何も知らせなかったこと。ライブも、大喜と二人で見たかったから誘ったこと。一つ口にすれば、その先まで伝わってしまいそうだった。大喜は何も急かさず、千夏が話すのを待っている。千夏は鞄の持ち手を握り直した。
「また、こういうの行こうね」
「文化祭?」
「文化祭じゃなくても。ライブとか、何かのイベントとか。二人で」
「うん。今度は途中で抜けなくていい日にしよう」
「そうだね」
大喜は自然に答えた。千夏の言葉を深く確かめることも、特別な約束として構えることもしなかった。それでも、断られなかった。
「じゃあ、また明日」
「うん。朝練で」
「寝坊しないでね」
「今日は疲れたから、たぶんすぐ寝るよ」
「それなら大丈夫かな」
二人はそれぞれの道へ向かった。数歩進んだところで、千夏は一度だけ振り返った。大喜はすでに前を向き、猪股家へ続く道を歩いている。
文化祭は終わった。校舎から聞こえていた音も、舞台に向けられた拍手も、ここまでは届かない。千夏は大喜の背中から目を離し、母の待つ部屋へ歩き出した。言えなかったことは残っている。それでも今日、自分から選んだ時間まで、なかったことにはしたくなかった。