Another Childhood   作:やまうぇ

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第5話 君が一番

大喜の名前が、少しずつ体育館の中で知られるようになっていた。

 

最初は、千夏の後ろをついてきていた小さな男の子だった。バドミントンを始めたばかりの頃は、ラケットに振り回され、シャトルに届かず、悔しそうに床を見ていることも多かった。コーチが優しく球を出しても空振りをして、本人だけが必要以上に悔しそうな顔をしていた。

 

けれど、季節が一つ進む頃には、周りの見方が少し変わっていた。

 

同じ学年の子が追いつけない球に、大喜だけが一歩を出す。年上の子のスマッシュを、偶然ではなく反応で拾う。試合形式の練習で負けても、次のラリーでは必ず何かを変えてくる。

 

「猪股、もう一回入ってみよう」

 

コーチに名前を呼ばれる回数が増えた。

大喜は息を切らしながらも、すぐに頷く。

 

「はい」

 

その返事はいつも早かった。褒められたからといって浮かれるわけではない。怒られたからといってふてくされるわけでもない。ただ、次の一本があるなら、そこへ向かう。うまくいかなかったら、何が違ったのか考える。

 

まだ小学生なのに、大喜にはそういうところがあった。

 

もちろん、全部がきれいにできるわけではない。焦れば前へ出すぎるし、強く打ちたい時ほどラケットの面がずれる。拾えたはずのシャトルに届かないと、悔しさを隠しきれずに口を結ぶ。

 

それでも、大喜はやめなかった。

 

一本でも多く打ちたい。千夏に「かっこいい」と言われた競技で、もっとちゃんと強くなりたい。その気持ちが、小さな身体を何度も前へ動かしていた。

体育館の端では、そんな大喜を見る目が少しずつ増えていく。

 

「大喜くん、さっきの返したのすごくない?」

「この前の大会、一つ勝ったんでしょ?」

「次、ダブルス練習で組んでよ」

 

男女が一緒に練習するクラブでは、年上の子も同学年の子も、自然と大喜に声をかけるようになった。大喜はそのたびに少し照れながらも、きちんと頭を下げる。

 

「ありがとう」

「でも、まだ全然だよ」

 

そう答える大喜は、相変わらずだった。

 

千夏は、その様子をバスケコートの端から見ていた。

 

大喜が褒められるのは嬉しい。

自分がかっこいいと思った競技で、大喜がかっこよくなっていく。最初は空振りばかりだった大喜が、今はコーチに呼ばれ、年上の子と打ち合い、周りの子たちから声をかけられている。

 

それは、誇らしいことのはずだった。

 

けれど、何人かの女の子に囲まれている大喜を見ると、胸の奥に小さな引っかかりが生まれる。

大喜は何も悪くない。話しかけられれば返事をするし、チョコやお菓子をもらえばちゃんとお礼を言う。相手を傷つけるようなことはしない。それは大喜のいいところだと千夏も知っている。

 

それなのに、少しだけ落ち着かない。

夢佳が千夏の横へ来た。

 

「ナツ、顔」

「何?」

「大喜くん、女子に人気だね」

「別に」

「別にって顔じゃない」

「普通だよ」

 

千夏はそう言いながら、抱えていたボールを少しだけ強く持った。

夢佳はその手元を見て、少し笑う。

 

「へえ。普通なんだ」

「普通」

「じゃあ、あのまま大喜がずっとあっちで話してても、普通?」

 

千夏は答えようとして、大喜の方を見た。

ちょうどその時、大喜が千夏に気づいた。

何人かの女の子に囲まれていたはずなのに、千夏を見つけた瞬間、大喜の顔がぱっと明るくなる。

 

「ちーちゃん」

 

大喜はラケットを持ったまま、千夏の方へ駆け寄ってきた。

 

「さっき、見てた?」

 

千夏は少しだけ驚く。

 

「見てたよ」

「どうだった?」

 

その声には、他の誰かに褒められた時とは違う期待が混じっていた。

千夏は少し迷ってから、素直に言う。

 

「すごかった。前より速かった」

 

大喜は一気に嬉しそうになる。

 

「ほんと?」

「うん。最後の、ちゃんと前に出てた」

「コーチにも、そこはよかったって言われた」

「やっぱり」

 

千夏が少し誇らしそうに言うと、大喜はますます嬉しそうな顔をした。

 

「あとね」

 

千夏は少しだけ視線をそらしながら続ける。

 

「かっこよかった」

 

大喜の表情が、そこで一度止まった。

それから、他の誰に褒められた時よりも分かりやすく笑った。

 

「ありがとう、ちーちゃん」

 

その言い方があまりにまっすぐで、千夏の方が少し照れてしまう。

横で見ていた夢佳が、呆れたように小さく言った。

 

「分かりやす」

「何が?」

 

千夏が聞くと、夢佳は笑う。

 

「どっちも」

「どっちもって?」

 

千夏は意味が分からず首を傾げる。大喜も不思議そうにしている。夢佳だけが、二人の間にある何かを面白がっていた。

 

千夏もまた、少しずつバスケで前へ進んでいた。

小学四年生になり、チームのジャージをもらった。初めて袖を通した日、千夏は鏡の前で少し背筋を伸ばした。まだ主力ではない。夢佳のように最初から目立つ選手でもない。それでも、自分もこのチームの一員なのだと感じた。

 

小学生大会にも少しずつ出るようになった。

 

最初は短い時間だけだった。ベンチから名前を呼ばれた時、千夏の胸は大きく跳ねた。コートに入ると、体育館の音がいつもより遠く聞こえる。ボールが自分に来た時、少しだけ手が震えた。

けれど、夢佳が大きな声で言う。

 

「ナツ、走って!」

 

その声で、千夏の足が動いた。

千夏は走る。パスを受ける。まだきれいなプレーではない。シュートも外れる。それでも、ベンチに戻った時、息が苦しいのに、胸の奥は熱かった。

 

試合後、大喜はバドミントンの練習を終えて、千夏のところへ来た。

 

「ちーちゃん、試合出たんだよね」

「ちょっとだけね」

 

千夏は照れたように言う。

 

「すごい」

 

大喜は本当に嬉しそうに言った。

 

「ちーちゃん、試合に出たんだ」

 

その言い方があまりにまっすぐで、千夏は少し笑ってしまう。

 

「大喜くんだって大会で勝ってるじゃん」

「でも、ちーちゃんもすごい」

 

大喜はそう言い切った。

千夏はその言葉が嬉しかった。

 

大喜はバドミントンでどんどん結果を出し始めている。少し前までは、自分が手を引いていた男の子だったのに、今はクラブの子たちに囲まれて、試合にも勝って、コーチにも褒められている。

 

それでも、大喜は千夏が試合に出たことを、自分のことのように喜んでくれる。

そのことが、千夏には少し誇らしく、少し照れくさかった。

 

季節は冬へ向かい、バレンタインが近づいていた。

 

千夏は毎年、大喜にチョコを渡していた。

最初は母親と一緒に作った小さなチョコだった。形も不揃いで、飾りも少し曲がっていて、それでも大喜は「おいしい」と笑ってくれた。その顔を見るのが嬉しくて、いつの間にか二月十四日は、千夏にとって大喜へチョコを渡す日になっていた。

 

今年も、千夏は母と一緒にチョコを作った。

湯せんしたチョコを型に流す。小さな飾りをのせる。固まるまで待つ間、千夏は何度も冷蔵庫を見に行った。

 

「気になる?」

 

母に聞かれて、千夏は少しだけ恥ずかしくなる。

 

「ちゃんと固まってるかなって」

「大喜くん、毎年喜んでくれるもんね」

「うん」

 

千夏は頷く。

大喜が喜んでくれるなら、少しくらい形が不揃いでもいい。そう思いながらも、箱に詰める時は自然と真剣になった。

 

バレンタイン当日。

 

千夏は体育館へ行く前に、チョコの入った小さな袋を何度も確認した。別に特別なことではない。毎年渡している。大喜もきっと、いつものように喜んでくれる。

 

そう思っていた。

 

けれど体育館に着くと、大喜の周りには何人かの子が集まっていた。

 

「大喜くん、これ」

「いつも練習すごいから」

「この前の大会、勝ったんでしょ?」

 

同じバドミントンクラブの女の子たちが、少し照れながら大喜にチョコを渡している。

大喜は驚きながらも、一人ひとりにちゃんと頭を下げて受け取っていた。

 

「ありがとう」

「大事に食べるね」

 

大喜はいつものように礼儀正しい。相手を困らせるようなことは言わない。嬉しそうではあるけれど、どこか少し困ったようにも見える。

 

千夏はそれを見て、足を止めた。

大喜がチョコをもらっている。

それ自体は、おかしなことではない。

 

大喜はバドミントンが上手くて、真面目で、みんなに優しい。褒められるのも、好かれるのも、当然なのかもしれない。

なのに、胸の奥が少しだけもやっとした。

 

自分のチョコも、あの中の一つになるのだろうか。

 

そう思った瞬間、千夏は自分でもよく分からない気持ちになる。

袋を持つ手に、少し力が入った。

夢佳が横から覗き込む。

 

「ナツ、渡さないの?」

 

千夏は慌てて袋を後ろに隠した。

 

「渡すよ」

「あいつ、人気者だね」

 

夢佳はわざとらしく言う。

千夏は少しむっとした。

 

「いいことだよ」

「ふーん」

 

夢佳は笑う。

 

「いいことなんだ」

 

千夏は答えられなかった。

 

いいことだ。

大喜が認められている。大喜の頑張りを、他の人もちゃんと見ている。それはいいことのはずだ。

なのに、どうして自分は少しだけ面白くないのだろう。

 

千夏が迷っているうちに、大喜がこちらに気づいた。

さっきまでチョコをくれた子たちに囲まれていたのに、千夏を見つけるとすぐに表情を明るくする。

 

「ちーちゃん」

 

その声を聞いただけで、千夏の胸のもやもやが少しだけ薄くなった。

大喜が駆け寄ってくる。

 

「今日、来てたんだ」

「うん。練習あるし」

 

千夏はいつものように言おうとするが、袋を持つ手が少し落ち着かない。

大喜はその袋に気づいて、少し目を輝かせた。

 

「それ、もしかして」

 

千夏は顔が熱くなる。

 

「うん。バレンタイン」

 

小さな袋を差し出す。

 

「はい」

 

大喜は、他のどのチョコを受け取った時よりも嬉しそうに笑った。

 

「ありがとう、ちーちゃん」

 

その顔を見た瞬間、千夏は少しだけ胸が軽くなる。

 

「毎年のことだよ」

 

そう言うと、大喜は袋を大事そうに持った。

 

「でも、嬉しい」

 

その言い方があまりに素直で、千夏は視線をそらす。

 

「ちゃんと食べてね」

「うん。帰ったら食べる」

「全部一気に食べたらだめだよ」

「分かってるよ」

 

本当に分かっているのかは怪しかった。けれど、大喜があまりに嬉しそうなので、千夏はそれ以上言わなかった。

少し離れたところで、夢佳がにやにやしていた。

 

「ナツ、さっきより顔戻った」

「戻ってない」

「ナツのチョコが一番嬉しそうだったね」

 

その言葉に、千夏は思わず夢佳を見る。

 

「そう見えた?」

 

夢佳は笑う。

 

「見えた」

 

千夏は急に黙った。

さっきまでのもやもやが、少しずつ別の感情に変わっていく。

大喜が他の子からチョコをもらったことは、まだ少しだけ面白くない。けれど、自分のチョコを一番嬉しそうに受け取ってくれたように見えた。

 

それが、どうしようもなく嬉しかった。

 

「よかったじゃん」

 

夢佳が言う。

 

「何が?」

「一番で」

 

千夏は言い返そうとして、言葉が出なかった。

 

一番。

 

その言葉が、胸の奥にすとんと落ちる。

 

後日、千夏が大喜の家に母と一緒に行った時、大喜の母が笑いながら言った。

 

「千夏ちゃん、チョコありがとうね。大喜、すごく喜んでたよ」

 

千夏は少し照れる。

 

「本当ですか?」

「うん。他にもいくつかもらってたみたいだけど、千夏ちゃんのはすぐ食べてた」

 

千夏の胸が一気に跳ねた。

 

「すぐ?」

「うん。これは先に食べるって」

 

大喜の母は何気なく言っただけだった。けれど千夏には、その言葉がとても大きかった。

他の子のチョコももらっていた。

でも、自分のチョコを先に食べた。

 

そのことが、なぜこんなに嬉しいのか、千夏にはまだ分からない。けれど、頬が緩むのは止められなかった。

たまたま一緒にいた花恋が、その顔を見逃すはずがない。

 

「ちー」

「何?」

「今、すごく勝った顔してる」

 

千夏は慌てる。

 

「勝った顔って何」

「大喜くんの一番だったって顔」

「そんな顔してない」

「してる」

 

花恋は楽しそうに笑った。

千夏は否定しようとする。けれど、言葉がうまく出ない。

 

一番。

 

その言葉が、また胸の中に残る。

 

大喜にとって、自分が一番だったら嬉しい。

そう思ってしまった自分に、千夏は少し戸惑った。

 

大喜は幼馴染で、自分より小さくて、昔から手を引いてきた男の子だ。バドミントンを頑張っている姿はかっこいいと思う。褒められると嬉しい。誰かに見つけられるのは誇らしい。

 

でも、他の女の子が大喜にチョコを渡しているのを見ると、少し面白くない。

 

自分のチョコを一番喜んでいたと聞くと、こんなに嬉しい。

嬉しいだけではない何かが、自分の中にあることだけは分かった。

 

花恋はそんな千夏を見て、少しだけ優しく笑う。

 

「ちーって、大喜くんのことになると分かりやすいね」

「だから、違うって」

「何が違うかは言ってないよ」

 

千夏は言い返せず、頬を膨らませる。

花恋はそれ以上からかわなかった。ただ、面白いものを見つけたように、千夏と大喜の方を交互に見る。

 

大喜はその頃、自分の部屋で千夏のチョコの箱を大事そうに見ていた。

中身はもうほとんど食べ終わっている。それでも箱は捨てずに、机の端に置いていた。いつもは袋だったけれど、今回は箱だった。

 

ちーちゃんがくれた。

 

それだけで、他のチョコとは少し違った。

大喜にも、それが他のチョコとどう違うのか、うまく説明はできなかった。

ただ、千夏にかっこいいと言われたバドミントンをもっと頑張りたいと思ったように、千夏がくれたチョコは、他のどれより嬉しかった。

 

冬の体育館では、今日もボールの音とシャトルの音が響く。

千夏はバスケのコートで夢佳と走り、大喜は隣のコートでシャトルを追う。

 

それぞれの競技で少しずつ前に進みながら、二人の中にはまだ名前のない感情が、ほんの少しだけ芽を出し始めていた。

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