秋合宿の初日、複数の体育館と宿泊棟を備えた施設には、朝から栄明高校の運動部員が次々と集まっていた。男女のバスケットボール部とバドミントン部、新体操部。普段は同じ学校で活動していても、迫っている大会も、合宿で重点を置く内容も部によって違う。宿泊棟へ荷物を運び終えると、各部の監督がそれぞれの部員を集め、練習予定と施設の使い方を確認していった。
男子バドミントン部は、午前にゲーム形式を含む技術練習を行い、午後は筋力トレーニングやランニングを中心に身体を追い込む。体力を消耗した後にも短いゲームを入れ、動きの速さだけでなく、判断の質がどこまで保てるかを確かめる予定だった。監督の説明を聞きながら、大喜は配られた予定表へ目を落とした。
強化合宿で、自分が目指す戦い方は見えてきた。相手より一球多く追いつき、その間に一つ多く見る。得た情報を信じ、攻めると決めた時には迷わない。読みを外されても、そこで止まらず、次のラリーで考え直す。これまでの自分を捨てて、新しい型へ変えるわけではない。拾い続けてきた力の上に、試合の中で考え直す力を重ねる。
ただ、その戦い方は大喜自身にも多くの体力を求めた。相手を前後へ動かしながら、自分もすべての球へ追いつく。ラリーが長引いても相手の変化を見落とさず、ようやく生まれた機会には、一球で流れを決めるだけの速さが必要になる。普段より長い練習時間が取れるこの合宿なら、その部分を何度も試すことができた。
監督の説明が終わると、部員たちは体育館へ向かうため荷物をまとめ始めた。その中で菖蒲だけは、配られた予定表と、自分のノートに書いた仕事を何度も見比べていた。普段の練習なら、シャトルや得点板を準備し、練習記録を残して、使用した用具を片づける。合宿では、そこへ飲料や氷、救急用品の確認、午前と午後で変わる練習への対応、翌日に使用する用具の準備まで加わっていた。菖蒲は予定表を折り畳み、近くを通った大喜を呼び止めた。
「大喜、氷って今日使う分だけ持っていけばいいの?」
「最初はそれで足りると思う。午後の分が少なそうなら、昼に追加するんじゃないかな」
「じゃあ、お昼に飲み物と一緒に残りを確認すればいい?」
「うん。ただ、俺も合宿の準備は詳しくないから、最後は監督に聞いた方がいいと思う」
「だよね。大喜なら知ってるかと思った」
「何で?」
「代表の合宿とか行ってるから」
「選手は用意してもらう方だから、菖蒲の方がすぐ詳しくなるよ」
「それ、喜んでいいのかな。とりあえず聞いてくる。ありがと」
大喜がラケットバッグを持って体育館へ向かうと、菖蒲はノートを開いたまま監督のところへ確認に行った。体育館へ入ると、朝の冷えた空気がまだ床の近くに残っていた。部員たちはネットを張り、基礎打ちを始める。シャトルを打つ音が増えるにつれ、広い館内にも普段の練習と変わらない熱が満ちていった。午前練習の後半、大喜は針生とのゲーム形式に入った。
強化合宿を経て、大喜のプレーからは以前のような迷いが減っていた。一度考えたことが外れても、それをそのまま次のラリーへ持ち込まない。針生の動きが変われば、何が変わったのかを見て、また考え直す。それはもう、意識しなければできないことではなくなり始めていた。
針生も、大喜がそうしてくることを知っている。一度うまくいった形を繰り返すことはせず、大喜が何かを掴みかければ、自分も別のやり方を試す。互いに何度も対戦してきたからこそ、一つ読みが当たったくらいでは流れを渡さなかった。
ラリーが続く中、大喜は針生を見ながら何度も考えを変えた。最初に想定した形にならなければ、無理に押し通さない。逆に、針生が崩れたと判断した時には迷わず攻める。何本かは大喜が取り、別の何本かは針生が取り返した。一区切りついたところで、二人はコートの端へ下がった。針生はタオルで汗を拭きながら、大喜へ顔を向ける。
「前よりさらに面倒になったな」
「褒めてます?」
「半分はな。前だったら、一回外した後も同じところ気にしてる時あっただろ」
「今は、外れたなら次を見ればいいと思えるので」
「そのせいで、こっちも同じことできねえんだよな」
「針生先輩も途中で変えてくるじゃないですか」
「当たり前だろ。でも前よりも考えさせられるからいい練習になる」
針生は笑いながら飲料を口にした。大喜もボトルを取り、先ほどのゲームを振り返る。思い通りにならなかった場面はいくつもあったが、だからといって自分の戦い方が通じていないとは感じなかった。相手が変われば、また考える。その繰り返しの中で勝負すること自体は、少しずつ自分のものになってきている。
だからこそ、この合宿で確かめたいことは別にあった。兵藤との県予選でも、身体は最後まで動いていた。それでも終盤になるほど、何度も作った機会を「今度こそ決めたい」と思う気持ちが強くなり、最後には、見ることより先に答えを出してしまった。
相手を長く動かせば、相手だけが疲れるわけではない。大喜自身も同じ距離を走り、相手の球へ追いつき続ける。その中で、相手より先に思考を止めず、攻める機会が来た時には遅れず前へ出る必要があった。疲れてからも、今と同じように考え続けられるのか。その答えは、まだ分からなかった。監督から次のゲームを指示され、針生が先にコートへ戻る。
「午後になったら、その顔のまま考えられるか見ものだな」
「針生先輩もですよ」
「俺はおまえより体力あるからな」
「じゃあ午後もお願いします」
「勝手に相手役にすんな」
大喜は笑い、ラケットを握り直して後を追った。隣のコートでは、西田を中心に速い展開のラリーが続いていた。匡も途中から加わり、最初は押されていたものの、同じ失点を繰り返さないように返球の高さや構える位置を変えていた。
すぐに上級生と互角に戦えるわけではない。それでも、さっきまで続かなかったラリーが続けば、次は自分から仕掛けようとする。匡は練習についていくだけで終わるつもりはなかった。得点板を動かしていた菖蒲は、匡のコートを何度か見た後、休憩で戻ってきた本人へ飲料のボトルを渡した。
「笠原くん、後半は結構続いてたね」
「最初に押されてたところも、全部見られてた?」
「記録つけてるんだから見るでしょ。最初は速い球が来ると同じ返し方になってたけど、途中から高さを変えてたよね」
「そこまで分かるんだ」
「何を狙ってるかまでは分からないよ。でも、さっきまで返せなかった球が続くようになると、見てる方もちょっと嬉しい」
「守屋さん、マネージャーっぽくなってきたね」
「でしょ」
匡は笑いながらボトルを受け取り、大喜と針生のいるコートへ目を向けた。二人は次のゲームを始めるため、すでにサービス位置へ立っている。
「まだ、あの二人には追いつけてないけどね」
「やっぱり悔しい?」
「うん。大喜とは中学でもずっとやってきたし、高校でも負けてばかりではいたくないから」
「ふーん。大喜って、普段はあんな感じなのに、本当に強いんだね」
「あんな感じって?」
「普通にしてると、全国で勝つ人には見えないよ」
「それは分かる。でも、コートに入ると強いよ。だから、俺もまずは大喜と最後まで競れるようになりたい」
「じゃあ、さっきより長く続いたのは前進だね」
「負けてるから、まだ喜ばないけどね」
「そこは素直じゃないんだね」
監督から次の練習を指示され、匡は残っていた飲料を飲んでコートへ戻った。菖蒲も記録用紙へ目を落とし、次の組み合わせを書き込む。午前の全体練習が終わっても、すぐにラケットをしまう部員は少なかった。大喜は、針生が途中で配球を変えた場面をもう一度試したかった。針生も、大喜に長いラリーを押し返されたまま終えるつもりはない。匡や西田も加わり、昼食までの短い時間、それぞれの課題を確かめる。
大喜は相手を動かすために同じ場所へ球を集めず、速さと高さを変えながら返球した。その途中にも、相手が何を待っているのかを見る。ただし、攻める機会が来た時には観察を続けすぎず、決めた場所へ迷わず踏み込んだ。何本かは狙いどおりに決まった。別のラリーでは、西田が大喜の攻撃を予測して身体を残し、逆に押し返した。大喜はその一本へ固執せず、次の相手へ移った。
誰か一人が残ったから付き合ったのではなかった。大喜に勝ちたい者も、上級生との差を縮めたい者も、自分ができなかったことを一つでも減らしたかった。監督から昼食時間を告げられたところで、全員がラケットを置いた。共用の食堂には、別の体育館で練習していた部員たちも集まっていた。女子バスケットボール部の席が埋まり始め、千夏は渚と並んで空いている席を探す。先にトレーを置いた針生の向かいに二席空いており、その隣には松岡が座っていた。
千夏と渚が腰を下ろすと、話題は自然に松岡の留学生活へ移った。松岡が最初に苦労したのは、練習そのものより、毎日の生活を整えることだった。食堂の料理は味も量も慣れていたものと違い、練習後に疲れていても、食べられる物を自分で選ばなければならない。洗濯や翌日の準備にも時間がかかり、宿題にも英語で取り組まなければならず、最初の頃は寝る時間まで遅くなっていたという。
「向こうに行けば、勝手に身体が大きくなるわけじゃないんだね」
「むしろ最初は少し落ちたよ。食べる時間も味も合わなくて、練習が終わってもあまり入らなかったから」
「今はかなり大きくなってるけど、どうしたの?」
「食べられる物を自分で買い足したり、味に慣れてからは食堂でも量を増やしたり。結局、練習と同じで、自分に合うやり方を探すしかなかったな」
松岡は、食事で十分に回復できなかった分、睡眠や身体のケアも自分で考えるようになったと続けた。練習で疲れているからと何もせずに寝れば、翌日の動きにそのまま表れる。監督やチームメートに言われたことより、自分の身体で失敗したことの方が覚えているという。
「結局、練習以外の時間も含めて準備なんだね」
「そうだな。日本にいた時も言われてたけど、向こうだと生活そのものが変わったから、嫌でも考えるようになった」
「千夏も、最近そういうところをかなり意識してるよね」
「練習前の身体の作り方は見直してるよ。動き出しが遅い日は、足首や股関節の準備から変えるようにしてる」
「千夏が猪股君を女バスのコンディショニングコーチにして、いろいろ持ち込んでるんだよ」
渚が付け加えると、千夏はすぐに顔を向けた。
「コーチにはしてないよ。家で大喜くんがやってることを聞いて、バスケでも使えそうなものを共有してるだけ」
「うん。でも、それで練習の入り方が良くなってるのは確かだよ。前より、みんなも自分の身体の状態を見るようになったし」
「それは渚たちが続けてるからでしょ。聞いただけじゃ変わらないよ」
松岡は一度頷きかけた後、箸を持った手を止めた。
「家で?」
「あ」
千夏が短く声を漏らすと、同じテーブルにいた針生が顔を上げた。
「ちーの親が海外に行ってるから、大喜の家に居候してるんだよ」
「猪股の家に?」
「うん。別に隠してはいないけど、みんなに話してることでもないから、広めないでね」
「それは分かってるけど……居候か」
松岡は驚きを隠さなかったが、それ以上その場で聞き続けることはしなかった。針生も必要以上に説明を加えず、午後の練習メニューの話へ戻る。渚も千夏を一度見ただけで、午後の実戦練習について確認し始めた。食事を終え、千夏と針生が先に食堂を出ると、松岡は返却口へ向かいながら渚へ声を落とした。
「同じ家に住んでて、本当にまだ何も変わってないのか?」
「同居は二人の関係を進めるために始めたわけじゃないからね」
「それは分かってる。でも、俺がいない間に、そこまで近くなってるとは思わなかった」
「面白がって二人に何か言うのはなしだよ。今は二人とも、自分の競技で余裕ないんだから」
「言わないよ。俺も自分の練習で手いっぱいだし。ただ、昔と同じように話してたから驚いただけ」
「昔から近いから、本人たちにはそっちの方が普通なんでしょ」
「そういうものか」
「たぶんね。私も全部は分からないけど」
松岡は空になったトレーを重ねた。驚きは残っているようだったが、千夏を追いかけたり、男子バドミントン部の方へ向かったりはしなかった。午後、女子バスケットボール部はゲーム形式の練習へ入った。千夏はこれまで、プレーが噛み合わなくなると、自分が気づいたことを早めに口にすることが多かった。副キャプテンだからというより、分かっていることを伝えないまま同じ失敗を繰り返す方が嫌だった。けれど、この日はプレーが止まった時、千夏が口を開くより先に、別の部員から声が上がった。
そこへ違う意見が返る。千夏から見えていたものとも、少し違っていた。どちらかが間違っているわけではない。同じコートに立っていても、守っていた相手も、見えていた場所も違う。千夏が言おうとしていたことだけが、その場の答えではなかった。
千夏はすぐに自分の意見を重ねず、二人のやり取りを聞いてから、自分が見えていたことを付け加えた。練習が再開すると、先ほど話していた部員同士が互いに声を掛けながら次のプレーへ入った。千夏も必要な場面では声を出し、自分の役割へ戻る。
副キャプテンになったからといって、自分が誰より多く答えを持つ必要はない。ただ、違う考えが出た時に何を選ぶのか。口数の多い選手だけではなく、言葉にするのが遅い選手の考えまで、どう拾っていくのか。そこまでは、まだ分からなかった。
練習が途切れると、千夏はすぐにボールを拾った。次の組が始まるまでの短い時間にもシュートを打ち、身体を止めずにいる。チームの中で自分がどう動くべきかは迷っているのに、自分自身の練習については、まだ動けるなら続ければいいと考えていた。
男子バドミントン部の午後練習は、筋力トレーニングから始まった。その後もランニングや反復フットワークなど、身体へ負荷をかけるメニューが続く。練習が進むにつれ足は重くなり、呼吸が整うまでの時間も長くなったが、大喜はまだ十分に動けていた。体力を使った後、再びラケットを握る時間になる。
最初のうち、大喜は午前と同じように相手の動きを見ながら選択を変えられていた。ただ、本数を重ねるうちに違和感が出てきた。相手が見えなくなったわけではない。どこにいるのかも、何をしようとしているのかも分かる。それなのに、いつもより早い段階で「ここで行く」と答えを決めていた。
一本を取られ、大喜はシャトルを拾いながら眉を寄せた。疲れているから、判断ができないわけではない。むしろ苦しい分だけ、早くラリーを終わらせたいという気持ちが、考える時間を勝手に短くしている。次のラリーでも、攻められると思った場面が来た。大喜は踏み込みかけたが、その瞬間だけ動きを急がなかった。まだ相手がどう返すのか、最後まで見ていない気がしたからだった。
もう一本続ける。そこで、それまでとは違う反応が返ってきた。大喜は今度こそ迷わず前へ出た。長くは続かず、そのラリーは大喜の得点で終わった。得点そのものより、直前の感覚が残った。
疲れていた。早く終わらせたい気持ちもあった。それでも、一度だけ答えを急がずにいられた。結果として、次に何をすればいいのかは、その前より分かりやすかった。近くにいた西田がシャトルを拾い、大喜へ投げ返す。
「今の、途中で行くのやめた?」
「はい。最初は攻めようと思ったんですけど、まだ早い気がして」
大喜はラケットの面を見ながら考えた。
「疲れてる時って、もっと早く判断しないといけないと思ってました」
「実際、遅すぎたら取られるけどな」
「はい。でも、早く決めればいいわけでもないんですね」
「俺に聞くなよ。今やったの大喜だろ」
練習が再開され、大喜もコートへ戻った。ところが、次は同じようにはいかなかった。慎重になりすぎて相手に先へ出られ、その次には先ほどの失敗を取り返そうとして、また早く攻めてしまった。分かったわけではない。ただ、一度だけ、これまでとは違う感覚があった。
疲れた時にも考え続けるとは、苦しい中で無理に多くのことを考えることではないのかもしれない。目の前に答えらしきものが見えても、そこですぐ決めつけない。その上で、本当に行くと決めた時には迷わない。言葉にすれば、強化合宿で覚えたことと大きくは変わらない。それでも疲れた状態でできた一本は、大喜の中に強く残った。
全体練習が終わってからも、大喜はラケットを置かなかった。針生や匡、西田も、それぞれ自分の課題を確認するため短い自主練習へ入る。大喜が確かめたいのは、午後に一度だけあった感覚だった。もう一度できるか。できなければ、何が違うのか。
匡とのラリーで何本か試しても、成功と失敗が交互に来た。判断を急がなかったつもりが、今度は待ちすぎる。うまく相手を見られても、最後の攻めで迷う。決めていた練習を終えると、西田が先に切り上げ、匡も翌日に疲労を残しすぎないところでラケットを置いた。針生も自分の分を終える。
それでも、大喜は焦りを感じる。もう一本やれば、さっきとの違いが分かるかもしれない。今やらなければ、さっきの感覚が消えてなくなるかもしれない。しかし、これ以上周りを練習に付き合わせることはできない。大喜は個人練習に切り替え、もう一度スタート位置へ戻った。
新体操部の練習を終えた雛が男子バドミントン部の体育館へ寄った時、他の部員の多くは宿泊棟へ戻る準備を始めていた。匡が用具を片づけているのを見つけ、雛は近づいていく。
「匡、まだ終わってないの?」
「全体練習は終わったよ。追加でやってた分も、俺はもう終わり」
「大喜は?」
「まだコートにいる。さっき決めた回数は終わったはずなんだけどね」
雛が体育館の奥を見ると、大喜は一人でフットワークを続けていた。コートの端まで動き、打つ形を作ってから中央へ戻る。監督から指示された練習ではなく、先ほどのゲームでうまくいかなかった動きを、自分なりに確かめているようだった。
「中学の時も、負けた後にああなってたよね」
「うん。でも今は、ただ負けたのが悔しくて動いてるわけじゃないよ」
「じゃあ、何してるの?」
「疲れた時に判断を急いだ場面があったらしくて、次はどう動くか確認してる」
「一人で分かるの?」
「全部は分からないと思う。だから、さっきから終わらないんじゃないかな」
「相手がいないのに?」
「うん。次に試したいことが増えていくんだと思う」
大喜は一度足を止めたが、すぐに別の位置へ構え直した。本人の中では、今の動きを確認すれば終わるつもりなのかもしれない。けれど一つ終えるたび、別の場面が浮かんでいるようだった。
「でも、あれを毎日やるなら、どこかで終わりを決めないと駄目だと思う」
「匡が言っても聞かないの?」
「言えば聞くとは思うよ。でも、あと一つ確認したいって言われたら、止めにくいんだよね」
「それ、ずっと終わらないやつじゃん」
「そうなんだよね」
「大喜って、昔から変なところで真面目だよね」
「変なところって本人に言ったら怒るよ」
「じゃあ、匡が言ったことにする」
「それは嫌だな」
雛は大喜のところへ行って普段のように軽口を言うことも考えたが、新体操部の夕食時間が迫っていた。それに、一度振り向かせたところで、大喜が練習を終える理由にはならない。雛は匡へ先に戻ると告げ、体育館を出た。夕食後、入浴や身体のケアへ向かう部員が多い中、大喜はラケットバッグを持って宿泊棟を出た。
午後に一度だけ掴んだ感覚が、まだ頭に残っていた。疲れているのに、答えを急がなかった一本。その後は迷わず攻められた。あれが偶然だったのか、それとも自分で何度でも作れるものなのかを確かめたかった。体育館へ戻る途中、後ろから針生が追いついた。
「また行くのか?」
「短い時間だけです」
「なら俺も行く。俺も今日、おまえに何本も続けられて終わったままだからな」
二人は体育館へ入り、最低限の照明をつけた。夜の練習では、多くのことを試さなかった。大喜は疲れが残った中で、答えを急がずにいられるかだけを意識した。針生も大喜に合わせるつもりはなく、自分から勝負を仕掛け、途中で考えを変える。
一度はうまくいった。大喜は早く攻めたい気持ちを抑え、もう一本だけ針生を見た。その次は迷わず入ることができた。けれど、次は慎重になりすぎて針生へ先に動かれた。その次には、前の失敗を意識して判断を早めた。同じことを考えているはずなのに、毎回同じようにはならない。
予定していた時間になると、針生がラケットを下ろした。
「俺はここまで」
「ありがとうございました」
「お前ももう終われ」
大喜は返せなかった。針生はタオルを首へ掛け、息を整える。
「練習するなって言ってるわけじゃないぞ」
「分かってます」
「俺だって明日またやる。でも、何ができたら今日の練習は終わりなのか、自分で決めてねえだろ」
「……そうですね」
大喜はコートへ目を向けた。針生の言うとおりだった。午後に一つ掴んだと思えば、今度は再現したくなった。再現できれば、もっと苦しい状態でもできるか試したくなる。失敗すれば、成功するまで続けたくなる。
大喜はラケットを握ったまま黙った。練習が必要だと思っていることは変わらない。今日見つけた感覚も、このままにしたくない。ただ、自分がどこで終わるのかを決めていなかったことだけは、否定できなかった。体育館の扉が開き、菖蒲が顔を出した。
「やっぱり、まだいた」
大喜と針生が同時に振り返る。
「明日のシャトルと飲み物の確認、針生先輩にも聞くことがあるのに戻ってこないから、探しに来ました」
「すまん。俺はもう終わる」
「大喜も?」
「あと――」
言いかけて、大喜は止まった。菖蒲が眉を上げる。
「ちょっと?」
「……決まってない」
「じゃあ帰る。二人とも」
「大喜、今日は終わりだ」
「分かりました」
大喜はラケットを下ろした。十分だと思ったからではない。分かったからでもない。もう一本やりたい気持ちは残っていた。それでも、自分では終わりを決められないまま、誰かに止められてラケットを置いた。そのことだけは、体育館を出た後にも残った。
女子バスケットボール部のミーティングを終えた千夏は、宿泊棟へ戻るため渡り廊下を歩いていた。前方で体育館の扉が開き、菖蒲が出てくる。その後ろを針生が通り、大喜もラケットバッグを肩に掛けて続いた。千夏は足を緩めた。大喜たちはまだこちらに気づいていない。扉が閉まる音の後、大喜が針生へ顔を向けた。
「針生先輩、明日のゲームって、朝の基礎打ちが終わったらすぐですか?」
「予定ではな。詳しい組み合わせは、朝に監督が決めるだろ」
「今日の最後、相手を動かすところまではできたんです。明日は、その後に急がないようにします」
「俺も今日と同じ返し方はしねえぞ」
「分かってます。変えた後まで見ます」
「その前に、ちゃんと寝ろ。頭が動かなきゃ意味ねえだろ」
「はい」
大喜は頷き、二人の後を追った。何歩か進んだところで一度だけ足を止め、閉まった体育館の扉へ振り返る。針生に名前を呼ばれると、すぐに向き直って再び歩き始めた。千夏は呼びかける機会を逃したまま、その背中を見送った。
遅くまで練習していたことは、ラケットバッグと交わされた言葉だけで察しがついた。だからこそ、無理をしていないかと尋ねても、大喜は続ける理由をきちんと答えるだろう。理由が正しいからといって、どこまでも続けてよいわけではない。それでも本人にとっては、まだ動けることが、続けてもよい理由になっている。廊下の角へ消える直前まで、大喜の歩く速さは変わらなかった。
男子部屋では、消灯前になっても匡がタブレットを机の上へ置き、世界大会の映像を流していた。大喜は隣へ座り、選手が長いラリーから攻撃へ移る場面を何度も見返す。匡は映像を一度止めた。
「ここ、相手の返球が甘くなってから前に出たんじゃなくて、その前から準備してるね」
「うん。ずっと奥へ動かして、相手の戻りが遅くなったところを見てる」
「でも、途中で速い球も混ぜてる。待ってるだけには見えないね」
「相手に考える時間だと思わせてないんだと思う。返しながら見て、決めた時にはもう入ってる」
匡は再生を再開した。大喜は同じ場面が流れるたび、シャトルだけでなく、攻める前の選手の足と、相手が戻る速度まで確かめていた。女子部屋では、消灯後もしばらく小さな話し声が残っていた。それらが途切れてからも、千夏は目を閉じたまま眠れずにいた。明日の集合時間や練習内容を頭の中で確認しても、考えが途切れるたび、体育館の扉を振り返った大喜の姿が戻ってくる。
枕元のスマートフォンを取り、大喜の名前を表示した。遅くまで練習していた理由を尋ねれば、大喜はきっと答えられる。夏の大会を終えてから、自分にも、決めた練習だけでは足りないと感じる日があった。予定より長く走り、もう少しだけボールに触れてから帰る。次にチームが苦しくなった時、自分が動けるようにしておきたいと思うほど、練習を終える理由が見つからなくなる。
大喜を心配しながら、自分も似たことをしている。だからといって、大喜も同じだと決めることはできなかった。文章で理由を聞き、納得できる説明が返ってくれば、それで済ませてしまいそうだった。千夏は何も入力しないまま画面を閉じ、スマートフォンを伏せた。明日、直接話そう。
何を聞くのかまでは決められなかった。それでも、廊下で見送ったままにはしたくなかった。