秋合宿二日目の朝、大喜は基礎打ちを始める前から、前日の疲労が残っていることを感じていた。それ自体は予想していたし、この身体でどう考えるかを確かめることも、今回の合宿で試したいことの一つだった。昨日、大喜は一度だけ、苦しい状態でも答えを急がず、その後は迷わず攻められた。今日はそれを偶然で終わらせず、自分の中で使えるものにしたかった。
基礎打ちを終えると、匡との短いゲームに入った。匡も大喜のために球を返しているわけではなく、自分から仕掛け、途中で狙いを変えながら本気で一本を取りに来る。大喜も、匡が変わること自体には迷わない。相手が変えれば自分も考え直すという流れは、すでに強化合宿から積み重ねてきたものだった。問題は、疲れた時にどこで答えを出すかだった。
途中、大喜は攻められると思った場面で昨日の感覚を思い出し、そのまま勝負へ行かずにもう一本続けた。だが、今度は待ちすぎた。匡が先に動き、大喜は後から追う形になる。次のラリーでは、その失敗が残っていたのか、逆に判断を早めすぎた。一区切りつくと、匡がシャトルを拾いながら大喜へ顔を向けた。
「昨日から、何か試してるよね」
「分かる?」
「長いからね。大喜とやってるの」
「疲れた時に、早く答えを決めすぎないように意識してる」
「それでさっきは待ちすぎてたのか」
「そうなんだよね」
「じゃあ俺も変えていかないとな」
匡が次のシャトルを持ち、大喜も構え直した。昨日うまくいった一本を、そのまま再現すればいいわけではない。相手が違えば、同じところで攻める必要もない。残したいのは形ではなく、疲れた時ほど目の前に見えた答えへ飛びつかず、それでも本当に行くと決めた時には迷わないという感覚だった。
その後も、できる時とできない時があった。判断を急ぐこともあれば、考えすぎて遅れることもある。ただ、失敗するたびに同じ場面を作り直そうとはしなくなっていた。相手は次の一本ではまた変わる。なら、自分もその時にもう一度考えればいい。
午前練習を終える頃になっても、昨日の感覚を完全に掴めたとは思えなかった。それでも、一度うまくいった形を繰り返すことが目的ではないということだけは、前日よりはっきりしていた。千夏は男子部員と一緒に歩いてくる大喜を見つけた。疲れていないはずはないが、西田と午前のゲームについて話しながら、普段どおりの足取りで返却口へ向かっている。
話すなら、今かもしれない。そう思った時、女子バスケ部の監督が午後の集合時刻を確認し始めた。千夏も予定表を開き、使用する場所や練習開始までの流れを周囲の部員と確かめる。食事を終える頃には、男子バドミントン部が先に席を立っていた。返却口へ向かう大喜と目が合い、千夏が席を離れると、大喜も歩調を緩めた。
「ちーちゃん、午後もゲーム形式?」
「うん。大喜くんは、外で走るんだよね」
「そう。その後は体育館。ちーちゃん、何か話したかった?」
「分かった?」
「さっきから何度か、こっち見てたから」
「夕食の前に少し時間ある?」
「あると思う。午後が予定どおり終われば――」
食堂の入口から、男子バドミントン部の集合を知らせる声が飛んだ。大喜がそちらを振り返り、千夏も壁の時計を見る。
「ごめん、もう行かないと」
「うん。呼び止めてごめんね。午後の練習が終わってからで大丈夫」
「じゃあ、あとで。ちーちゃんも練習頑張って」
「大喜くんもね」
大喜はまたねと言い、男子部員たちの後を追った。千夏が席へ戻ると、渚が空になった皿を重ねながら顔を上げた。
「話せなかった?」
「うん。でも、あとで時間を作ってくれるって」
「それならよかった。昨日、大喜くんたちが体育館から出てきた時のこと?」
「渚、見てたの?」
「千夏が廊下で止まってたの、見えたよ」
渚はそこで話題を切り替え、午後の練習で誰と同じ組へ入るかを千夏へ確認した。千夏も予定表へ目を戻し、練習の流れを一緒に見直した。午後の女子バスケットボール部は、ゲーム形式を中心に練習を進めた。千夏はこれまで、プレーが噛み合わなくなると、自分が見えていたことを先に口にすることが多かった。間違っていると思ったことをそのままにはできないし、練習の時間を無駄にしたくない。その考え自体は今も変わっていない。
けれど、この日はプレーが止まった時、千夏はすぐには話し始めなかった。
「今のところ、みんなどう見えてた?」
近くにいた部員が顔を見合わせた。一人が先に自分の考えを話すと、別の部員は途中まで頷いた後、少し違う見方を口にした。どちらかが明らかに間違っているわけではない。同じコートに立っていても、いた場所や相手によって見えていたものが違っていた。
千夏も自分が見ていたことを伝えたが、それで話を終わらせずに会話を続ける。話がまとまると、部員たちはそれぞれの位置へ戻った。練習が再開してからも、一度ですべてが噛み合うわけではない。それでも、今度は千夏だけでなく、さっき意見を出した部員からも声が飛んだ。別の選手がそれに返し、次のプレーではまた違う声が加わる。
千夏はそのやり取りを聞きながら、自分も声を出した。任せることと、黙っていることは違う。自分だけで決めることと、まとめることも違う。一緒に練習してきた仲間でも、考え方は同じではない。すぐに言葉へできる人もいれば、一度考えてから話す人もいる。千夏ならもう一本やりたいと思うところで、今日はここまででいいと考える人もいる。
それを自分と同じにすることが、副キャプテンの役目ではないのだと思った。休憩に入ると、渚が飲料のボトルを持って千夏の隣へ座った。
「さっき、珍しかったね」
「何が?」
「千夏、最初に自分の意見言わなかったでしょ。いつもなら、もうちょっと早く話すから」
「……そうかも。先に聞いてみようと思って」
「やってみてどうだった?」
「みんな違うこと見てるんだなって。私が気づいてなかったこともあったし」
「そりゃそうだよ。同じ場所から見てるわけじゃないし」
「うん。でも、分かってるつもりだったのかも」
渚は一度頷いてから、ボトルの蓋を開けた。
「別に千夏が意見言わなくなる必要はないと思うよ。言ってくれた方が助かる時もあるし」
「うん。それは言うよ。ただ、私が先に言ったら、それで話が終わることもあるなって」
「それはあるかもね。千夏が言うと、だいたい筋通ってるから」
「それ、いいことなのかな」
「いいことでしょ。でも、毎回それで決まりにしなくてもいいってだけじゃない?」
千夏は「そっか」と答え、水を飲んだ。自分が引っ張ることをやめたいわけではない。必要な時には声を出したいし、苦しい時には自分が前へ出たい。ただ、自分と違う考えを持つ仲間も含めて、同じ試合へ向かうのがチームだった。その難しさを考えていたはずなのに、休憩の終わりが近づくと、千夏の目は壁際に置かれたボールへ向いた。渚がその視線に気づく。
「まだ時間あるよ」
「うん。だから、ちょっとだけ打ってこようかなって」
「今、チームのこと考えてた人が?」
「それとこれは別だよ」
「そうかな。千夏、自分のことになると急に話が早いよね」
千夏は立ち上がりかけたまま、渚を見る。渚は止めようとはせず、自分のボトルへ口をつけた。
「別にやるなとは言わないよ。でも、本当に今やりたいのか、止まってるのが嫌なだけなのかは、千夏が決めればいいんじゃない?」
「……難しいこと言うね」
「さっき千夏がみんなに聞いてたから、私も聞いてみただけ」
千夏は壁際のボールをもう一度見た。結局、その休憩では立ち上がらなかった。午後、男子バドミントン部は屋外でのランニングを終えた後、体育館へ戻り、反復フットワークや体力を使う練習へ入った。午前からの疲労はさらに濃くなっていたが、大喜は普段と同じように動けるかを確かめようとはしなかった。苦しい時にまでいつもの速さを無理に再現すれば、その分だけ早く余裕を失うことは前日にも感じている。
休憩の合図が出れば、大喜も水分を取り、座って呼吸を整えた。練習量を減らしているつもりはない。次のメニューが始まればまた動く。そのために用意されている休憩まで、自分で別の練習へ変える必要はなかった。
午後の後半に再びラケットを握ると、大喜は午前から続けている感覚を確かめた。疲れてくると、やはり早く答えを出したくなる。攻められそうなら攻めたいし、相手が崩れたように見えれば、そこで終わらせたくなる。
そのたびに、本当に今なのかと一度だけ考える。まだ次を見た方がいいなら続ける。行くと決めたなら迷わない。頭では単純なことでも、疲労が増すほど、その境目は曖昧になった。うまくいかない一本はいくらでもあった。それでも大喜は、一つの失敗をその場で取り返そうとはせず、次の相手、次のラリーでまた考え直した。
全体練習が終わると、部員たちは短い自由練習へ移った。大喜も当然のようにラケットを持ったまま残る。自主練習そのものをやめるつもりはなかった。昨日の問題は、練習を続けたことではない。何ができたら終わるのかを決めないまま、「分かるまで」を終点にしてしまったことだった。大喜は近くにいた針生へ声をかけた。
「針生先輩、あと五本だけ相手してもらえますか?」
「五本?」
「はい」
「五本で終わるのか?」
「終わります」
「最後が最悪でも?」
「……終わります」
「今、一瞬迷っただろ」
「気にしないでください」
「じゃあ六本目はやらねえからな」
「お願いします」
針生もラケットを持ち直した。一本目は、大喜が判断を急いだ。二本目では逆に慎重になりすぎ、三本目は途中で考えを変えたものの、最後まで決め切れなかった。四本目になると、苦しい状態でも針生を見ながら、自分の中で答えが決まったところで迷わず動くことができた。
そして五本目。途中までは悪くなかったが、最後に一瞬だけ焦り、針生に先を取られた。シャトルが床へ落ちる。大喜は反射的に口を開いた。
「もう一――」
そこで止めた。針生はラケットを下ろしたまま、大喜を見る。
「五本」
「……はい」
「最後、かなり気になるだろ」
「気になります」
「もう一回やれば分かるかもな」
「そういう言い方しないでください」
「昨日のおまえならやってただろ」
「今日はやりません」
「何で?」
「五本って決めたからです」
大喜は落ちたシャトルを拾い、筒へ戻した。納得しているわけではない。最後が失敗だった分、もう一度やりたい気持ちはむしろ強かった。それでも今日は、その気持ちを練習を続ける理由にはしなかった。分からないことを残したまま終えることも、自分で決めた五本の中に含まれている。針生も自分の側に落ちていたシャトルを拾った。
「別に自主練やめろって言ってるわけじゃねえからな」
「分かってます」
「やるならやるで、どこまでやるか決めろって話」
「代表でも似たようなこと言われました」
「じゃあ何で昨日できなかったんだよ」
「……昨日思い出しました」
「遅えよ」
「でも今日は五本で終わりましたよ」
針生は笑い、ラケットをケースへしまった。大喜も片づけを始める。昨日から探している感覚は、まだ自分のものになっていない。できる時もあれば、できない時もあり、最後の一本も失敗した。それでも、明日になればまた別の相手と、別のラリーがある。
今日のうちにすべての答えを出す必要はない。そう思いながらラケットをケースへ戻せたことは、昨日とは違っていた。夕食後、大喜は共有スペースで決められた時間だけストレッチを行った。午後の練習後に自主練習も終えているため、ラケットは男子部屋へ置いたままだった。
頭の中には、最後の一本で動きが遅れた感覚が残っている。それでも、今から体育館へ戻るつもりはない。明日のゲームで同じ場面になった時に、考え直せるかを確かめることにした。マットを片づけて共有スペースを出ると、廊下の向こうから女子バスケットボール部の部員たちが歩いてきた。その中に千夏の姿はない。
大喜は集団の後ろへ目を向けたが、遅れて歩いてくる様子もなかった。渚がその視線に気づき、足を止める。
「千夏なら、夕食の後に外周を走りに行ったよ」
「そうなんですか。どれくらい前ですか?」
「三十分くらいかな。一周するだけって言ってたから、そろそろ戻ると思うけど」
「スマホは持ってます?」
「部屋で充電してたから、置いていったと思う。近くだし、すぐ帰るつもりだったんじゃないかな」
渚の隣にいた部員が、タオルを肩へ掛け直しながら笑った。
「どこかの幼馴染の影響で、千夏も体力お化けになったんじゃない?」
「千夏は前から走る時は走るよ。何でも猪股君の影響にしないの」
渚は軽く返した後、大喜へ外周の方向を伝えた。
「正面玄関を出て右。施設の周りを回って、反対側から戻る道」
「ありがとうございます。俺も一周走ってきます」
「千夏を見に行くの?」
「少し遅いだけだとは思います。でも、スマホを持ってないと、途中で何かあっても連絡できないので」
「優しい幼馴染だ。消灯時間が近いよって伝えて」
「分かりました」
大喜は男子部屋へ戻り、ランニングシューズへ履き替えて上着を取った。ストレッチを終えても、身体を動かしたい感覚は残っていた。午後の自主練は決めた五本で終えたし、今日はもう体育館へ戻らないと決めている。それでも、夕食後に外へ出て軽く走るくらいならちょうどいいと思っていたところだった。
外周を一周すれば身体も動かせるし、その途中で千夏と会えば、それで終わるので、ちょうどいいと思っていた。ただ、渚が言っていた「三十分くらい前」という時間だけが引っかかっていた。大喜は男子バドミントン部の監督のところへ行き、千夏が外周へ出たまま戻っていないことと、自分が一周確認してくることを伝えた。
「消灯前には戻ります」
「今日の練習後も走るのか?」
「軽く一周するだけです」
「そうか。暗いところへ入らず、決められた道を走れよ」
「はい。行ってきます」
スマートフォンを持って正面玄関を出ると、施設の外周路には一定の間隔で街灯が並んでいた。道は舗装され、夕食後に身体を動かしている部員の姿も遠くに見える。夜だからといって走れない場所ではない。大喜も最初から飛ばさず、千夏が途中で歩いているだけなら、そのうち向こうから来るだろうと思いながら走った。しばらく進んだところで、施設へ来る途中に見かけた看板を思い出した。
『熊出没注意』
山が近ければ珍しいものでもなく、見た時には周囲の部員が少し話題にしただけだった。外周路は施設のすぐそばで、人家も遠くない。本気で熊が出ると思っているわけではないのに、一度思い出すと妙に頭から離れなかった。千夏はスマートフォンを持っていない。転んで休んでいるのかもしれないし、誰かに声をかけられて立ち止まっているだけかもしれない。道を間違えるとも考えにくいし、少し歩いているだけなら、もうすぐ見つかるはずだった。
どれも大したことではないと考えられるのに、外周の半分を過ぎても姿が見えないと、大喜の足は自然に速くなった。午後までの疲労は太腿に残っていた。今日の練習では、疲れた時ほど答えを急がないことを意識していたのに、今は自分でも理由の分からない焦りに背中を押されている。大喜は一度速度を落とし、まだ十分か二十分遅れているだけだと自分に言い聞かせた。千夏なら、何かあっても簡単に慌てる人ではない。普段なら、自分だってここまで気にしなかったかもしれない。
それでも、今日は妙に気になった。何かが起きていると考える根拠はない。ただ、戻っていないと聞いた時から残っている引っかかりが消えない。暗い道の先を見ても千夏の姿はなく、軽く一周して身体を動かそうと思っていたことは、いつの間にか頭から消えていた。
道の端で休んでいるだけなら、それでいい。誰かと話しているだけなら、遅いと言って一緒に戻ればいい。とにかく姿を見て、何もなかったと分かればそれでよかった。大喜は再び速度を上げた。
外周路の先に、住宅地へ続く道が見えてくる。千夏が走ると聞いていたコースからは外れているため、本来ならそのまま外周を進むところだった。その時、住宅地の奥から人の話し声が聞こえ、大喜は足を止めてそちらへ目を向けた。街灯の下へ出てきたのは、千夏だった。背中には年配の女性を背負い、足元を確かめながらゆっくりこちらへ歩いてくる。大喜は考えるより先に名前を呼んでいた。
「ちーちゃん!」
千夏が顔を上げる。大喜の姿を見つけると、驚いた後、それまで張っていたものがほどけたように息を吐いた。
「大喜くん?」
「怪我したの?」
「私はしてない。この方が足を挫いて、歩けなくなってて」
「一度、下ろせる?」
大喜は千夏の横へ入り、女性を道沿いの低い塀へ座らせた。女性は右足首を痛めており、体重をかけると強く痛むという。家は住宅地の奥にあるようだが、ここからそれほど離れてはいなかった。
「ごめんね。この子に助けてもらったのよ。最初は支えてもらってたんだけど、途中から歩けなくなって」
「そうだったんですね。家まで、あとどれくらいですか?」
「この先を曲がって少し歩いたところなの」
「ご家族は家にいますか?」
「主人がいるわ。近所だからって、携帯も持たずに出てきちゃって」
「分かりました。家まで俺が背負います」
大喜は女性の前へしゃがんだ。千夏が隣から心配そうに顔をのぞき込む。
「でも、大喜くんも一日練習してたでしょ。私がこのまま――」
「うん。でも、ちーちゃんも同じだし、さっきまで背負ってたんでしょ。家まで近いなら、俺に代わって」
「本当に大丈夫?」
「大丈夫。無理なら途中で言うから、おばあさんの荷物をお願いしてもいい?」
「分かった。じゃあ、無理に早く歩かないでね」
女性は何度も謝りながら、大喜の背中へ腕を回した。立ち上がると、練習を終えた足へ女性の重さが加わった。千夏は女性のバッグを持ち、大喜の横を歩きながら道を示す。
「次の角を右だって」
「分かった。段差はある?」
「この先に一つあるよ。そこだけ気をつけて」
「ちーちゃんも足元見て。暗いから」
「私は大丈夫だよ」
「スマホを持たずに予定の道を外れてる人の大丈夫は、今日は信用しにくいかな」
「それは……言い返せない」
「おばあさんを置いていけなかったのは分かるけど、せめて誰かに連絡できたらよかったね」
女性が大喜の背中で笑った。
「彼氏さんが迎えに来てくれて、本当によかったわね。心配して探しに来てくれたんでしょう?」
「幼馴染なんです」
「あら、そうなの?」
「小さい頃から家が近くて、今も同じ学校で」
「それでも、すぐ探しに来てくれるなら心強いわね」
「……そうですね。昔から、困った時は助けてもらってます」
千夏が答えたため、大喜は横へ顔を向けかけた。背中の女性が動かないよう、すぐに前へ向き直って歩く。女性の家へ着くと、玄関から夫が出てきた。事情を聞いた夫は女性を椅子へ座らせ、すぐに足を冷やす物を用意した。大喜が宿泊施設へ電話を入れると、夫は自分から二人を送っていくと申し出た。後部座席へ並んで座ると、車内の暖房で冷えた身体が温まっていく。
「二人とも、本当にありがとう。近所だからって携帯を持たずに出ることがあるんだ」
「私も今日は持っていなかったので、人のことは言えないです」
「それでも、助けてもらわなかったらもっと大変だったよ」
会話が途切れると、千夏は窓の外を見た。大喜は隣に座る千夏の腕や足をもう一度確かめる。転んだ様子はなく、呼吸も落ち着いていた。
「本当に怪我してない?」
「うん。どこも痛くないよ。背負って歩いたから疲れただけ」
「そっか。ならよかった」
「大喜くんこそ、足は大丈夫?」
「俺も大丈夫。家まで近かったし」
「さっき、自分で無理なら言うって言ってたもんね」
「言ったからには、ちゃんと守るよ」
大喜が背もたれへ身体を預けると、張っていた肩からようやく力が抜けた。宿泊施設の玄関には、女子バスケットボール部の監督が待っていた。車を降りた二人に怪我がないことを確認すると、監督は夫へ礼を伝えた。車が出ていった後、千夏へ向き直る。
「困っている人を助けたことは悪くない。途中で放って戻れとも言わない。ただ、外へ出る時は連絡できる物を持っていけ」
「はい。近くを一周するだけだと思って、部屋へ置いてきました。すみません」
「予定が変わることはあるからな。次から気をつけろ」
「はい。必ず持っていきます」
「二人とも怪我がないなら、今日はもう部屋へ戻りなさい」
「はい。ありがとうございました」
監督が部屋の方へ戻ると、玄関近くの廊下には大喜と千夏だけが残った。外から入った冷たい空気が、閉まりかけた扉の隙間から足元を抜けていく。千夏はしばらく大喜の横に立っていたが、やがて向き直った。
「大喜くん」
「何?」
「今日は、本当にごめんね。心配かけて」
「ほんとだよ。スマホ持ってないし、予定より戻ってこないし。外周走っても全然見つからないし」
「……うん。ごめん」
千夏は言い訳をしなかった。困っている人を放っておけなかったこと自体は後悔していない。それでも、連絡する手段を持たないまま予定より遅くなり、大喜を探しに来させたことは別だった。大喜も、もう少し言いたいことはあった。次からは必ずスマホを持っていってほしいし、遅くなるなら何かしら連絡できるようにしてほしい。それでも、目の前にいる千夏を見ていると、その言葉より先に別のものが出てきた。
「でも、無事でよかった」
「……うん」
大喜の声から、それまで残っていた強さが抜けた。
「ちーちゃん見つけた時、本当に安心した。怪我してるのかと思ったから」
「私は大丈夫だったよ」
「分かってる。分かったから、よかった」
同じことを繰り返しているような返事になって、大喜自身も少し困った。小さい頃から、千夏に心配させられたことがなかったわけではない。そんな時は、無事だと分かれば「心配させないでよ」と言って、それで終わっていた気がする。今もそのはずなのに、今日は千夏が目の前にいること自体に、まだ安心していた。
千夏はそんな大喜の顔を見ていた。申し訳なさは消えていない。それでも、自分が戻らないことを心配して、大喜が外周まで探しに来てくれた。そのことを考えると、どうしても嬉しさまで隠すことはできなかった。
「大喜くんが来てくれた時、私もすごく安心した」
「おばあさんを一人で運んでたから?」
「それもあるよ。でも……大喜くんが来てくれたから」
千夏はそこまで言うと、一度、大喜の手元へ目を落とした。それから右手へ触れ、指を重ねる。大喜が驚いて千夏を見る。それでも千夏は手を離さず、大喜も握られた手を引かなかった。
「ちーちゃん?」
「探しに来てくれて、ありがとう」
「うん。見つかってよかった」
大喜はそう返してから、もう一度千夏を見る。怪我をしていないことは車の中でも確認したし、ここまで自分の足で歩いて戻ってきている。それでも、目の前にいる千夏を見ていると、ようやく安心できた気がした。千夏も、大喜の顔を見てから話を続けた。
「昨日のこと、今日話したかったんだ」
「昨日?」
「夜、体育館から出てきたところ見てた。針生君と菖蒲ちゃんも一緒だったでしょ」
「廊下にいたんだ。声掛けてくれたらよかったのに」
「掛けようとはしたよ。でも、大喜くん、体育館の方を気にしてたから。まだ何かやりたいんだろうなって思って」
大喜は昨日の夜を思い出した。午後の練習で一度だけ掴めた感覚が偶然だったのか、それとももう一度できるものなのかを確かめたくて、全体練習が終わった後も体育館へ戻った。何度か試しても毎回同じようにはいかず、針生に終わりを聞かれた時も「できるまで」としか答えられなかった。
「まだ確かめたいことがあったんだよ。午後に一回だけ、疲れてても焦らずにできた時があって、それがもう一回できるか試したくて」
「うん」
「針生先輩にも、練習するなって言われたわけじゃないんだ。『できるまで』ってやってたら終わらないって言われて」
「それは……大喜くん、終わらなそう」
「ちーちゃんまで言う?」
「だって、できたら次もできるか気になるでしょ?」
「昨日それとほぼ同じこと言われた」
千夏が思わず笑う。からかいたいわけではなかったが、あまりに大喜らしくて、少しだけ表情が緩んだ。
「それで今日は?」
「自主練はしたよ。でも、始める前に五本って決めた」
「五本で終われた?」
「終わった」
「最後は?」
「失敗した」
「……それでも?」
「かなりもう一本やりたかったけど、五本って言ったからやめた」
大喜が少し悔しそうに答えると、千夏は握った手に視線を落とした。
「そっか」
「何?」
「ちゃんと考えたんだなって」
「昨日あれだけ言われたからね」
「私が言ったからじゃないんだ」
「まだ言われてなかったでしょ」
「そうだった」
千夏が小さく笑い、大喜もつられて笑った。
「でも、私も大喜くんのことばっかり言えないんだよね」
「今日走りに行ったこと?」
「それもある。休憩の時も、まだボール触ろうとして渚に止められたし」
「やっぱりやろうとしてたんだ」
「少しだけね」
千夏はそこで一度言葉を止めた。今日の練習では、自分が先に答えを出すのではなく、他の選手がどう見えていたのかを聞くことを意識した。同じプレーでも立っている場所が違えば意見が変わり、その中から次に合わせることを決める方が、自分一人で考えるよりもチームには必要なのだと感じ始めていた。ただ、それと自分が身体を動かしたい気持ちは別だった。
「今日、みんなの意見を聞いてから次を決めるようにしてみたの。思ってたより違う見え方が出てきて、私が先に答えを決めなくてもいいんだって思えた」
「うん」
「でも、休憩になるとまだボール触りたくなるし、夕食の後も、もう少しくらい動けるって思った。だから走りに行った」
「ちーちゃんも結局、動きたいんじゃん」
「そうみたい」
大喜はすぐには返さなかった。自分にも似たところがある。練習で分からないことが残れば、もう少しやれば分かる気がする。千夏も、チームの中で自分の役割を考え始めたからといって、練習したい気持ちまでなくなるわけではない。
「相手のことだと分かるんだけどね」
「何が?」
「もう今日はやめた方がいいとか、疲れてるとか。自分のことになると、まだできる理由の方が先に出てくる」
「……それは分かる」
「大喜くんも?」
「昨日の俺がそうだったし」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
「じゃあ、気づいた方が言う?」
「お互いに?」
「うん。でも、言われたから絶対やめるとかじゃなくて。一回考える」
「それならいいかも」
「大喜くん、すぐ『大丈夫』って言いそうだから」
「ちーちゃんもでしょ」
「だから、お互いに」
「分かった。ちゃんと考える」
「私も」
千夏は頷いた。相手に練習量を決めてもらうためではない。自分だけでは見落としているかもしれないことを、もう一度考えるきっかけにする。それくらいなら、大喜にも千夏にもできそうだった。廊下の奥から、消灯時間が近いことを知らせる声が聞こえた。千夏の指が動き、それまで重なっていた手が自然に離れる。
「明日の朝も走るの?」
「たぶん。でも、先に身体は見るよ」
「うん。それなら」
「ちーちゃんは、次から外に出る時スマホ持ってってね」
「持っていく。今日は本当にごめんね」
「もういいよ。怪我してなかったし」
「大喜くんが来てくれた時、ほんとに安心した」
「俺も。ちーちゃん見つけた時、すごい安心した」
言ってから、大喜は自分の言葉に少し引っかかった。心配していたのだから、見つかれば安心する。それ自体は何もおかしくない。けれど、街灯の下で千夏の姿を見つけた瞬間、身体から一気に力が抜けた時の感覚は、今思い返しても大きすぎる気がした。千夏はそんな大喜を見ながら、今度は素直に笑った。
「ありがとう」
「うん。でも、ほんとに次は心配させないでよ」
「気をつけます」
申し訳なさそうに返しながらも、千夏の表情には嬉しさが残っていた。二人はそれぞれの部屋へ戻るため、廊下の途中で別れた。
「おやすみ、大喜くん」
「おやすみ、ちーちゃん。ちゃんと休んでね」
「大喜くんもね」
千夏が女子部屋へ続く廊下へ向かい、その姿が角の向こうへ消えるまで、大喜はその場に残っていた。部屋へ戻ると、匡が明日の予定表を確認していた。大喜を見ると、手元のタブレットから顔を上げる。
「千夏先輩、見つかった?」
「うん。近所のおばあさんを助けてた」
「怪我はなかった?」
「ちーちゃんは大丈夫。おばあさんは足を挫いてたけど、家まで送った」
「そっか。ならよかった」
匡はそれ以上聞かず、予定表へ視線を戻した。大喜もベッドへ腰を下ろし、靴を脱ぐ。外周を走っている間は気にならなかった疲れが、止まった途端に足へ戻ってきた。明日は今日までに試したことを、またゲームの中で確かめる。疲れた時に答えを急がず、相手が変わればその変化を見て考え直す。それだけでは相手に先へ出られることもあるから、自分から働きかけながら判断を続けることも試してみたい。
それでも今、最初に浮かんだのはシャトルではなかった。街灯の下で、自分の声に顔を上げた千夏の姿だった。小さい頃から、千夏が怪我をすれば心配した。無事だと分かれば、心配させないでよと言って、それで気持ちは戻っていたはずだった。今日も同じはずなのに、少し違った。
注意したい気持ちよりも、無事でいてくれたことへの安堵の方がずっと大きく残っている。大喜はベッドへ身体を倒し、目を閉じた。けれど、千夏を見つけた瞬間にようやく身体の力が抜けたことと、重なっていた手の温度は、眠りにつくまで消えなかった。