秋合宿三日目の朝、大喜はいつもと同じ時間に目を覚ました。着替えを済ませて外へ出る前に屈伸をし、二日間の練習で残った張りを確かめる。合宿も後半に入れば身体に疲れが残るのは当然で、それを理由に練習を減らすつもりはなかった。ただ、今日は走り始めた勢いのまま距離や速度を増やさず、最初から外周をどこまで走るかだけ決めて外へ出た。
朝の空気は冷たく、大喜は宿泊棟の前からゆっくりと走り始めた。普段なら身体が温まるにつれて自然と速度も上がっていくが、この日は外周の半分を過ぎても同じペースを保ち、坂へ入る前で一度足を止めてから走り直す。そこへ後ろから針生が追いつき、並んだところで大喜の横顔を見た。
「今日は競争しないのか?」
「してたんですか、今まで」
「俺が横まで来ると大体上げるだろ」
「今日は先行っていいですよ」
「素直で気持ち悪いな」
「じゃあ追い抜かせてもらいますね」
「それはそれで腹立つな」
針生が笑って前へ出ても、大喜は追いかけるためにペースを変えなかった。しばらくすると針生も速度を落として横へ戻り、今度は午前の練習へ話を移した。
「今日、匡がおまえ狙ってるぞ」
「昨日も狙ってましたよ」
「昨日よりだ。最近、あいつも顔つき変わってきたからな」
「俺も負けるつもりないです」
「そらそうだ」
「針生先輩もでしょ?」
「当然。高校入ってから好き勝手勝たれすぎなんだよ」
「好き勝手って……」
「今日は取るからな」
「絶対取らせません」
やがて外周の分岐へ着くと、針生はもう一周する道を選び、大喜は時計を確認して宿泊棟へ戻る方へ曲がった。針生は意外そうに振り返ったが、大喜がそのまま走っていくのを見て、追いかけてこいとは言わなかった。
「本当に戻るんだな」
「戻りますよ」
「ふーん」
「何ですか、その反応」
「いや、別に。そんじゃ後でな」
「はい」
大喜は手を上げて針生と別れた。まだ走れないわけではなかったが、決めていたところまでは走った。それ以上の理由を探さずに宿泊棟へ戻り、午前練習の準備を始めた。朝食の時間になると、各部の部員たちが次々に食堂へ集まってきた。大喜が匡や西田と入った時には、女子バスケットボール部はすでに席についている。渚と話していた千夏が顔を上げ、大喜と目が合った。
「おはよう、大喜くん」
「おはよう、ちーちゃん」
いつもと変わらない挨拶だった。大喜もそのまま男子バドミントン部の席へ向かったが、椅子を引く前に何となく女子バスケットボール部の方を見た。千夏は昨夜のことなど感じさせない様子で朝食を食べている。それを確認してから席につくと、向かいにいた匡が大喜の顔を見る。
「何?」
「いや、別に」
「ならいいけど」
匡はそれ以上聞かずに味噌汁へ箸を戻した。大喜も朝食を取り始めたものの、さっき交わしただけの千夏の声が妙に耳に残っていた。
朝食を終えて返却口へ向かう途中、千夏は飲み物を取りに来た針生とすれ違った。針生は紙コップを手にしたまま千夏を呼び止める。
「ちー」
「何?」
「昨日、大喜と何か話したか?」
「どうして?」
「さっき一緒に走ったけど、俺が前出ても追ってこなかった」
「そうなんだ」
「何か言ったんだな」
「言ったっていうか、話しただけ」
「ふーん」
「何、その顔」
「別に。俺が言うより効くのかなと思って」
「そういう話じゃないよ」
千夏が否定すると、針生は笑って手を上げ、そのまま男子部員の方へ戻っていった。千夏も追って説明はしなかった。大喜が自分の言葉に従ったというより、昨日話したことも含めて、今朝の自分に必要なことを自分で決めたのだろう。練習も走ることもやめず、それでも途中で切り上げて戻ってきた。そのくらいの変化が、大喜には一番自然に思えた。
午前の男子バドミントン部では、合宿中に試してきたことをゲームの中で確かめる時間が設けられた。大喜が最初に入った相手は匡だった。高校へ入ってから二人の差が簡単に縮まったわけではない。大喜はダブルスでインターハイ全国ベスト四まで進み、代表の強化合宿にも呼ばれている。匡もその背中を一番近くで追いながら、高校の速さの中で自分がどう戦えば大喜から点を取れるのかを考え続けてきた。
第一ゲームから、匡は大喜の組み立てに付き合わなかった。大喜が相手の変化を確かめながらラリーを作ろうとすれば、その間に匡から先へ出る。反対に、大喜が早めに攻めてくれば無理に打ち合わず、一度拾って次の展開へ戻す。以前なら大喜に押され始めるほど守る時間が長くなっていたが、今は大喜の一本をしのいだ後に、自分から何をするかまで準備できるようになっていた。
大喜も何度か匡を崩したが、その先で一球余計に返ってくる。もう一度組み直そうとしたところへ今度は匡が先に入り、大喜が考えている時間をそのまま自分の攻撃へ使った。点差が開かないまま終盤へ入り、第一ゲームを取ったのは匡だった。
「おい、匡取ったぞ」
「マジか」
西田の声に、近くで別のゲームをしていた部員たちまで得点板を見る。高校へ入ってからの二人を知っているだけに、一ゲームとはいえ匡が大喜から先に取ったことへの反応は大きかった。匡自身も嬉しくないわけではなかったが、大喜を見る顔にはまだ次のゲームが残っていた。
第二ゲーム、大喜は一つの形を再現しようとはしなかった。第一ゲームで匡が早く入ってきたからといって、今度は最初から先手だけを取りにいけば、匡もそれを利用する。大喜は目の前の匡が何を選ぶかを見ながら、自分からも展開を作り直した。
それでも匡は離れなかった。大喜の攻撃を拾って次へ戻り、自分が先へ出られる場面では迷わず仕掛ける。長い攻防が増えるにつれて、大喜も匡がどこまで成長しているのかを実感させられた。第二ゲームは大喜が取り返したが、ファイナルに入っても点差は広がらず、周囲でも二人のコートを気にする部員が増えていく。
最後まで互いに大きく崩れないまま終盤へ入り、そこで大喜が数点だけ先へ出た。何本も返ってくる匡に対して早く終わらせようとはせず、匡が追いついた後にどこまで戻れるかを見て、その次でもう一度動かす。戻りが遅れたところでは迷わず前へ入り、できた隙をそのまま点へ変えた。最終的には大喜が勝った。それでも、匡が一ゲームを奪い、ファイナルの終盤まで競ったことに変わりはない。ゲームを終えた二人のところへ、西田が歩いてくる。
「匡、惜しかったな。一ゲーム目取った時、結構みんな見てたぞ」
「最後まで勝ちたかったですけど、前よりは戦えたと思います」
「戦えたどころじゃないよ。俺、普通に危なかったし」
「大喜が一回つなごうとするところ、前より分かるようになってきたから」
「そこ狙ってたの?」
「大喜が見てから決めるなら、その前にこっちが行けばいいでしょ」
「……なるほどね」
大喜はタオルで汗を拭きながら、自分の中に残った引っかかりを確かめた。相手を見ることも、変化に応じて選び直すことも、これまで積み上げてきた自分の強みだった。それ自体を変える必要はない。ただ、匡には「大喜が見る時間」が見えていた。その時間を使われれば、いくら正しく判断できても、先に主導権を取られる。
近くでは菖蒲が結果を記録していた。点数だけでなく、匡が大喜相手に以前より長く競り合い、自分から仕掛ける場面が増えていたことまで簡単に書き残している。匡が水筒を取りに来ると、菖蒲が顔を上げた。
「笠原くん、一ゲーム目取った時すごかったね」
「最後まで取れなかったけどね」
「でも、前より大喜を動かしてたでしょ。大喜が攻めて終わり、みたいなラリーも減ってたし」
「そこは狙ってた」
「じゃあ次は勝ちだね」
「そうだね、そろそろ勝たないと」
匡は悔しそうにしながらも口元を緩め、次の練習へ戻っていった。続いて大喜がコートへ入った相手は針生だった。二人が向かい合うと、近くにいた部員たちの視線が自然に集まった。高校へ入ってからのシングルスでは大喜が勝つことの方が多く、針生自身、それを誰より気にしている。この合宿でも大喜が何を試しているのかを間近で見てきた分、自分だけが同じままでいるつもりもなかった。
匡は大喜が考える時間へ先に入った。針生は、それだけではなかった。大喜が相手を見ているなら、針生も大喜を見る。大喜が自分の返球や戻り方から次を考える一方で、針生も大喜がどの場面でラリーを続け、どこで攻めへ移ろうとしているのかを拾っていった。
序盤は大喜が先へ出た。それでも針生は離れず、大喜が一度作った優位をそのまま終わりにはさせない。大喜が相手を動かしているつもりの攻防でも、何本か続くうちに今度は針生から逆へ振られ、大喜が次の球へ追わされる場面が増えていった。
大喜が針生を見ているのと同じだけ、針生も大喜を見ている。その状態になってから、試合の流れは変わった。大喜が先に仕掛けても、針生は次に何を狙っているのかまで考えて一球を返す。拾われた大喜がもう一度相手を見る間には、針生も大喜の戻りを見ている。どちらが相手から情報を取る側なのか、途中から簡単には分けられなくなった。
終盤、大喜は一度針生を崩しかけた。いつもならそこからもう一球で押し切れる形だったが、針生は追いつき、大喜が次へ入ろうとした側とは逆へ返した。大喜も拾ったものの主導権までは取り戻せず、そのまま針生が最後まで押し切った。
「針生取った!」
西田の声が上がり、周囲が一斉に二人のコートへ向く。最近の部内戦では大喜が勝つことの方が多かった。その大喜から針生が取ったことに、練習を止めて振り返る部員までいる。針生はラケットを下ろし、大きく息を吐いてから拳を握った。
「よし」
「……負けた」
「最近ずっと取られてたからな。ようやくだ」
「途中から、やりたいこと全部見られてる感じしました」
「おまえだけ相手見て終われるほど甘くねえよ」
「それは分かってたつもりなんですけど」
「つもりだったんだろ」
「そうみたいです」
「じゃあ次考えろ。俺も次はまた変える」
大喜は悔しかったが、すぐに再戦を求めなかった。匡には、自分が相手を見るために使っている時間へ入られた。針生には、その時間そのものを見られ、逆に自分の情報まで取られた。見ることが悪いわけではない。むしろ、大喜がこれからも伸ばしたい一番大きな武器だった。だからこそ、見るために相手へ時間を渡す形のままでは足りなかった。
女子バスケットボール部でも、午前は実戦形式の練習が続いていた。千夏が意識していたのは、周囲から意見を出してもらうこと自体ではなく、その意見を次のプレーへどう持っていくかだった。昨日は自分から問いを出すことで、立っている場所によって見えているものが違うことを知った。今日は、そこで止まらないようにする。
守備の受け渡しが崩れた場面では、渚と別の部員から違う意見が出た。千夏から見えていたものも、その二人とは少し違う。三つを全部合わせようとすれば話は長くなるため、千夏は共通していた部分を先に拾った。
「最初の声が遅かったのは同じ?」
「私はそこだと思う」
「私も。戻る位置はその後かな」
「じゃあ次、最初の声だけ早くしてみよう。そこで合わなかったら、戻り方も変えない?」
次の一本では迷いが減った。その代わり別の場所にずれが出ると、今度は渚が先に修正の声を上げ、千夏も自分に見えたものを加えて、もう一度全員が試せる形にしてコートへ戻った。誰かの意見を聞くことが目的ではなく、違う考えを持ったままでも、次のプレーでは同じ方向へ動けるようにすることが大切だった。
その一方で、千夏自身もまとめ役だけに回らなかった。攻撃で自分が行くべき場面にはボールを要求し、守備が寄れば味方へ預ける。チーム全体を見ることと、自分が点を取りに行くことを分けず、どちらも一人の選手として必要な仕事として続けた。休憩に入ると、渚が千夏の隣へ腰を下ろした。
「今日は聞くだけじゃなくなったね」
「昨日、聞いて終わってたところもあったから」
「別に全部千夏が決めなくていいけど、話してるうちに練習終わったら意味ないしね」
「うん。だから、まず一個試すことだけ決めようかなって」
「私はその方がやりやすい」
「じゃあ、午後もやってみる」
「私も違うと思ったら普通に言うけどね」
「その方が助かる」
千夏は笑い、水分を取ってからコートへ戻った。午後は各部とも体力練習を挟んだ後、もう一度ゲーム形式へ入った。大喜の中には、午前の二試合が残っていた。匡には、自分が見ている時間へ先に入られた。針生には、自分が相手を見ていることそのものを利用された。それでも大喜が変えたいのは、見ることではなかった。
昼休み、大喜は午前の二試合を思い返していた。匡には、一度つないで様子を見ようとしたところから攻め込まれた。針生には、その後に狙う場所まで読まれた。相手を確かめようとしている間に、自分の方が先に読まれていた。
強化合宿で兵藤と打ち合った時も、読みが全部当たったわけではなかった。それでも、狙いが決まれば打っていたし、違う球が返ってきたら、そこからまた追いかけて考えていた。午前は、もう少し分かってからと思ううちに、打てる球まで見送っていたのかもしれない。あの見えた道筋をたどるために、次はそこを変えてみたかった。
午後の前半は、予定どおり体力トレーニングに取り組んだ。メニューを終えた頃には、足に重さが残っていた。大喜は水分を取り、休憩を済ませてから、実戦練習の再開より少し早く体育館へ戻った。コート脇に腰を下ろし、午前の匡との打ち合いを頭の中でたどる。一度つないだ球を、今度は打ち込むところから思い描いた。それを相手が拾ってきたら、自分はどう動くか。決まるところだけで終わらせず、その先まで考えていると、入口から部員たちの声が近づいてきた。
大喜は立ち上がり、ラケットを手に取った。
午後最初のゲームに入ると、大喜は特別に相手を観察する時間を作らなかった。普通に返し、拾い、自分から仕掛ける。その全部の中で相手を見る。こちらが奥へ返した時にどう戻るのか、攻めた球を拾った後に次はどこを守ろうとするのか、自分を崩したと思った時に相手の足がどちらへ向くのか。見るためにラリーを続けるのではなく、ラリーをしている間そのものから材料を集めていった。
相手からすれば、大喜はいつも通り球を返し、必要なところで攻めているだけに見える。それでも大喜の中では、一球ごとに相手について知っていることが増えていた。午後の匡とのゲームでは、その違いが早く出た。午前の匡は、大喜が一度つなごうとした瞬間を使って先へ仕掛けることができた。午後も同じ場所を狙っていたが、大喜はそこで止まらない。様子を見るための返球でもその球で匡を動かし、返ってきたものを見ながら次へ入っていった。
匡も簡単には離れず、大喜の球を何度も拾った。ただ、続けば続くほど苦しくなったのは匡の方だった。大喜も走っていて、移動している距離だけなら大きく違わない場面もある。それでも、大喜は自分がどこへ相手を動かしたいかをある程度分かった上で次へ入れるのに対し、匡は大喜の返球のたびに止まり、方向を変え、次を判断し直さなければならない。しかも、匡がその一本を返すたびに、大喜にはまた一つ材料が増えていった。
終盤、大喜はそれまで長く続けていた流れを急に切った。匡が苦しくなった時に戻ろうとする場所は、もう何度か見ている。そこへ生まれた隙へ一気に入り、その一本で点を取った。ゲームを終えると、匡は膝へ手を置いて呼吸を整えながら大喜を見る。
「何か、午前と違う」
「どこが?」
「午前は、大喜が見てる時がまだ分かったんだよね。今は普通に打ってるだけに見える」
「普通に打ってるよ」
「それなのに、こっちが後から苦しくなる。距離だけなら大喜も同じくらい動いてるはずなのに」
「匡、途中から切り返す回数増えてたから」
「それも見てたんでしょ?」
「まあ」
「やっぱり嫌だな、それ」
匡は一度息を整えてから、もう一度大喜を見る。
「こっちは大喜を崩そうとしてるのに、その間に情報取られてる」
「俺も匡に取られてるよ」
「午前はね。今は何を見られてるのか分かりにくい」
「……それなら、今やってることに近いかも」
大喜は自分の言葉を確かめるように答えた。見ることをやめたわけではなく、見る時間を短くしたわけでもない。むしろ、試合をしている時間のほとんどを、見る時間に変え始めていた。次に入った針生とのゲームでは、それだけでは簡単に勝たせてもらえなかった。針生は午前のゲームで、大喜がどこを見ているかまで利用して勝っている。午後になって大喜が変わったことにも早い段階で気づき、同じ反応を何度も返さないよう自分から展開を変えてきた。
それでも、大喜は一度止まって針生を観察し直すことはしなかった。針生が変えたなら、その変化も戦っている途中で拾えばいい。こちらから動かし、返ってきた球を見る。針生から攻められれば、それを拾いながら次を見る。自分が攻めている時も守っている時も、大喜の中では同じように相手についての材料が増えていった。
針生も黙って動かされてはいない。大喜に長く続けさせれば、逆に大喜の選択を読み、こちらから仕掛け直す。そのたびに主導権は入れ替わったが、午前と違って大喜が「見る側」と「攻める側」を行き来する時間はほとんどなくなっていた。普通に戦いながら見て、見ながら相手を動かす。そして、十分に分かったところだけは長く続けない。
終盤、大喜は針生へ何本か同じような負荷をかけた。針生は最後まで崩れなかったが、苦しい時に守ろうとする場所が一度だけ重なる。次のラリー、大喜はそこへ針生を動かし、返球を見た瞬間、それまでのテンポを一気に変えた。針生が反応するより早く大喜が前へ入り、その一本で点を取った。午後は大喜が勝った。針生はしばらく得点板を見た後、タオルを取って顔を拭く。
「今の、午前とかなり違うな」
「どこがですか?」
「午前は、おまえがこっち見てる時間が分かった。今は普通に打ってる間に見てるだろ」
「その方がいいかなって」
「こっちが仕掛けてるつもりでも、何本か後には俺の方が動かされてる。しかも、その間におまえはこっちの癖まで拾ってる」
「まだ毎回できるわけじゃないですけど」
「最後だけ急に来るのも腹立つな」
「そこは決めないと意味ないので」
「そういうところだけ素直だな」
針生は笑ったが、すぐに表情を戻した。
「ただ、今は俺と匡だから間に合ってるだけだぞ」
「分かってます」
「もっと速く組み立てるやつなら、おまえが分かる前に点取られる。隠すのが上手いやつなら、見てるもの自体が間違ってるかもしれない」
「はい」
「あと、分かっても決め切れなかったら同じだからな」
「それも分かってます」
「なら、やること多いな」
「その方がいいです」
大喜は笑ってラケットを握り直した。針生の言う通り、今日の午後にできたことをそのまま世界で使えるわけではない。もっと早く相手を知る必要があり、何が本当の弱点なのかを少ない材料から見抜かなければならない。そして見つけた隙は、相手が修正する前に点へ変える必要がある。
代表の強化合宿で打った相手なら、今ほど長く考える時間はくれないだろう。それでも、向かいたい方向は見えていた。相手には普通に試合をしているようにしか見えない。その時間に、自分だけが相手のことを知っていく。同じように走っているように見えても、相手には何度も判断と方向転換をさせ、自分はその反応まで次へ使う。そして隙が出た瞬間だけは迷わない。
午後の残りのゲームでも、大喜はその形を試し続け、最後まで負けなかった。まだ完成には遠く、相手を動かすことへ意識が寄りすぎて自分の戻りが遅れる場面もあれば、相手の反応を一度読み違えて逆に先へ入られることもあった。それでも、失敗するたびに同じ形をやり直そうとはしない。
普通に戦う中で見る。見えたものを使って動かし、決める場所ができれば一気に取る。それらが、少しずつ一つの流れになり始めていた。女子バスケットボール部でも、午前に試したやり方が午後には少しずつ速くなっていた。
プレーが止まると、千夏が口を開く前に渚から意見が出る。別の選手が違う見方を返し、そのどちらにも使える部分があれば千夏が拾う。全員の考えを一致させるまで話すのではなく、今の練習で何を試すかを決めたところでコートへ戻った。
千夏自身も、話をまとめた後に一歩引くことはしなかった。攻撃で自分に来た機会は迷わず使い、守備では周囲へ声を出す。自分が決めるべき場面、自分より他の選手に任せた方がいい場面、その判断も含めてチームの中で役割を取るようになっていた。
午前に意見が分かれた守備の形も、午後には一度の声かけで修正できる場面が増えた。完璧に揃ったわけではないが、ずれた時に誰かの指示を待つ時間は減っている。ゲームが終わると、渚が千夏の横へ来た。
「午前より早くなったね」
「何が?」
「話してから戻るまで。前は全部聞いてから決めようとしてたでしょ」
「聞いた方がいい時と、今決めた方がいい時があるなって」
「それでいいと思う。あと今日、普通に自分でも結構打ってたし」
「そこは減らすつもりないよ」
「安心した。まとめ役になって急にパスしかしなくなったら困るから」
「それは私も嫌だな」
「じゃあ問題なし」
千夏は笑った。全部を自分で背負う必要はないが、自分の責任まで誰かへ渡す必要もない。違う意見を持つ仲間の声を拾い、必要なところで方向を決め、自分もその中で勝負する。その三つが、ようやく同時にでき始めていた。最後のゲームを終えると、監督が部員たちを集めた。
「この合宿で、コートの中の話し方はかなり変わった。意見が違った時に止まらず、次に何を合わせるかまで決められるようになってきてる」
「はい」
「誰か一人の正解で動くチームじゃない。その分、自分が見えたことはちゃんと出せ。ウィンターカップまで、学校へ戻っても続けるぞ」
「はい!」
部員たちの返事が重なった。千夏も声を出しながら、同じコートに立つ仲間たちを見る。副キャプテンとして何をすればいいのか、答えが一つ決まったわけではない。それでも、今までより迷わず次のプレーへ進めるようになっていた。
合宿三日目の練習が終わった夜、参加している部の生徒たちは宿泊施設前の広場へ集まった。中央には大きなキャンプファイヤーが組まれ、昼間まで練習していた時とは違う歓声があちこちから上がっている。競技中は部ごとに分かれていた生徒たちも、この時間だけは自由に行き来していた。千夏が渚たちと話しているところへ、男子バドミントン部の方から菖蒲が歩いてきた。
「ちーちゃん」
「菖蒲ちゃん。片づけ終わった?」
「終わった。三日目にしてやっと余裕出てきたかも」
「最初、ずっと予定表見てたもんね」
「見ないと何か忘れそうだったから。でも今日は一回も監督に聞きに戻ってない」
「成長したね」
「ちーちゃんに言われると、本当に褒められてる感じする」
菖蒲が笑い、そのまま渚たちの輪へ加わった。近くでは、キャンプファイヤーにまつわるジンクスが話題になっている。火が消えるまでに告白した二人は結ばれるらしい。誰が言い始めたのかも分からない話だったが、何人かの女子部員は楽しそうに周囲を見回していた。菖蒲もその話を聞きながら笑っていたが、やがて思い出したように千夏へ顔を向けた。
「ちーちゃん、前に名前は聞かないって言ったでしょ?」
「うん。言ってたね」
「だから名前は聞かないけど、一個だけ聞いていい?」
「内容によるかな」
「その人って、今日ここにいる?」
千夏は答えるより先に、火の向こうへ目を向けそうになった。男子バドミントン部の輪がある方向だった。途中で気づいて、手元の紙コップへ視線を戻す。
「それも答えない」
「そこもだめ?」
「名前聞かないって言ったでしょ」
「名前は聞いてないよ」
「菖蒲ちゃん、そういうところ花恋に似てきたね」
「え、どこが?」
「聞き方」
「お姉ちゃんより全然優しいと思うけどな」
菖蒲は不満そうに言ったものの、それ以上は追わなかった。以前も千夏が答えたくないところでは引いている。相手が誰なのかを当てようと周囲を見回すこともなく、近くで話を聞いていた渚へ顔を向けた。
「渚先輩は、こういうジンクス信じます?」
「んー、成功した人の話しか残ってないだけだと思う」
「夢ないですね」
「試合ならデータは多い方が信用できるから」
「恋愛にその考え方持ってきます?」
「菖蒲が聞いたんでしょ」
二人のやり取りに千夏も笑った。話題はそのままキャンプファイヤーそのものへ移り、誰かが持ってきた飲み物や、翌朝の集合時間の話まで混ざっていく。千夏は紙コップを両手で持ちながら、今度は自然に火の向こうを見た。大喜は匡や西田たちと話していた。
昨夜、自分から触れた手の感触は覚えている。菖蒲に聞かれた瞬間、真っ先にあちらを見そうになったことも、自分では分かっていた。それでも、火が消えるまでという誰かが作った時間に背中を押してもらおうとは思わなかった。昨夜、自分から一歩進んだことは後悔していない。だからこそ、次に進む時も、自分で選びたかった。
その頃、大喜のところには雛が来ていた。
「大喜、ジンクス聞いた?」
「何?」
「このキャンプファイヤー。火が消えるまでに告白したら、その二人は付き合えるんだって」
「へえ」
「薄い反応」
「だって、俺に言われても」
「別に大喜が告白するとは言ってないけど」
「分かってるよ」
そう答えながら、大喜の視線は火の向こうへ動いた。千夏が菖蒲や渚と話している姿が見え、昨夜の廊下で重なった手まで一緒に思い出す。雛は大喜の顔を見たが、それ以上は何も言わなかった。少し離れたところへ戻ると、今度は匡が隣に並ぶ。
「何話してたの?」
「キャンプファイヤーのジンクス」
「大喜に?」
「うん」
「反応は?」
「普通」
「だろうな」
匡は笑って火の方へ顔を戻した。二人とも大喜の代わりに答えを決めるつもりはなく、その話もそこで終わった。しばらくして女子バスケットボール部の輪がばらけると、大喜は千夏の方へ歩いていった。先に気づいた千夏が顔を上げる。
「大喜くん」
「ちーちゃん。今日どうだった?」
「よかったよ。みんなで話した後、次に何するか決めるのが早くなってきた」
「昨日言ってたこと?」
「その続きかな。聞くだけじゃなくて、じゃあ次どうするってところまでできるようになってきた」
「そっか。俺は今日、匡に一ゲーム取られた」
「え?」
「その反応する?」
「ちょっと驚いちゃった」
「最後は勝ったよ。でもファイナルまでいった」
「匡くん、すごいね」
「うん。かなり強くなってる」
千夏は素直に驚いた後、今度は針生との結果を聞いた。
「針生君は?」
「午前は負けた。午後は勝った」
「じゃあ一勝一敗だ」
「明日の朝、もう一回できたらやる」
「勝って終わりたいね」
「針生先輩も多分同じこと考えてるよ」
二人は顔を見合わせて笑った。火の近くではまだジンクスの話で盛り上がる声が聞こえていたが、その話をどちらからも持ち出さなかった。昨夜のように手が触れているわけでもない。それでも互いの仲間のところへ戻るまで、二人は火の前で今日の練習や明日の予定をもう少し話していた。
翌朝、大喜は全体練習より早く体育館へ入り、何本かサービスを打っていた。そこへ予想していた通り針生が入ってくる。
「やっぱりいたな」
「針生先輩も」
「一勝一敗だろ」
「同じこと考えてました」
「一ゲームな」
「はい」
二人はすぐにコートへ入った。前日の午前は針生、午後は大喜が取っている。大喜が何を試しているのかは針生も知っており、針生がどう対応してきたかも大喜は見ている。そのため序盤から、一つ優位を作ればその次にはもう相手が変える展開になった。
大喜はただ針生の動きを待たず、自分から働きかけて相手を動かし、その中で次に使えるものを探した。一方の針生も、大喜が拾い続けながら自分の選択を見ていることを前提に、大喜の踏み込みや戻りまで観察して攻め方を変える。昨日までの対戦そのものが互いの材料になり、どちらも簡単には点差を広げられなかった。
終盤、大喜が何本も針生を動かした末に一度深く攻めた。十分に崩した感触はあったが、針生はそこへ追いつくだけではなく、大喜が次に入りたい場所まで見て逆へ押し返した。大喜も追いついたものの返球に余裕はなく、最後は針生がそのまま決め切る。
「よし!」
針生の声が静かな体育館へ響き、大喜はシャトルを見ながら息を吐いた。
「二日連続……」
「昨日の午後はおまえだろ」
「でも最後負けるの嫌なんですけど」
「知るか。俺だってずっと負け越してんだよ」
「次は勝ちます」
「次もそのつもりで来い」
大喜は悔しそうにシャトルを拾ったが、もう一ゲームとは言わなかった。針生もそれを見て何かを言うことはなく、二人で次の練習に向けてコートを整えていく。その途中、針生がシャトルの筒を閉めながら口を開いた。
「大喜」
「はい?」
「おまえ、この先どこまで行くつもりなんだ?」
「この先?」
「全中優勝して、インターハイ出て、代表の強化合宿にも呼ばれただろ。このまま行った先」
「……前は、全国で優勝したいと思ってました」
「今は?」
「それもあります。でも、代表の合宿に行ってから、もう少し先も考えるようになりました」
大喜は手を止めた。世界で戦う選手の映像を見て、自分より強い同年代と実際に打った時、一度だけ頭に浮かんだ未来がある。大きすぎる気がして誰にも言っていなかったが、針生を前にすると、口に出してみてもいい気がした。
「オリンピックで金メダル、取りたいです」
「いいじゃん」
「笑わないんですね」
「何で笑うんだよ」
「今の俺が言うには、まだ早いかなって」
「何が早いんだ?」
「もっと強くなって、その目標を言ってもおかしくないくらいになってからの方がいいのかなって」
「おまえ、何でも相応しくなってから始めようとしてたら遅いぞ」
「そうですかね」
体育館の外から部員たちの声が近づいてきた。針生は先に立ち上がり、大喜もラケットをケースへ戻す。オリンピックで金メダルを取る。頭の中にしかなかった目標を口にすると、まだ遠いはずの未来に一つだけ形がついた。その言葉と一緒に、強化合宿で一度思い浮かべた表彰台の景色も蘇る。
一番高い場所に立つ自分。その先にいた千夏。そこまでは、針生にも言わなかった。合宿最後の全体練習を終えると、部員たちは施設の片づけへ入り、大喜もネットやシャトルをまとめて荷物をバスへ運んだ。最後だからもう少し打っておきたい気持ちはあったが、予定されていた練習を終えると、そのまま着替えへ戻る。
帰りのバスでは、大喜は匡たち男子バドミントン部員と、千夏は渚たち女子バスケットボール部員とそれぞれ過ごした。大喜は移動中に競技ノートを開き、この三日間で残った課題だけを短くまとめていく。相手を見るために待つのではなく、自分から動かした中で見ること。相手が一球多く返せば、そこからまた次の情報を取ること。攻めると決めても、その一球で思考を終えないこと。そして、相手の戻りが乱れた時には迷わず取り切ること。
今日できたから完成したわけではない。匡も針生も次にはまた変わる。それでも、合宿へ来る前より、自分が何を伸ばしたいのかは具体的になっていた。ノートを閉じると、隣にいた匡が声を掛ける。
「結構まとまった?」
「まだ。やったらまた変わると思う」
「昨日も今日も変わってたもんね」
「匡も変えるでしょ?」
「もちろん。今回の合宿で見えた課題もあるし」
休憩場所へ着いて全員がバスを降りると、大喜は匡や西田と売店へ向かった。その途中、女子バスケットボール部の集団が視界に入り、渚の隣に千夏がいるのを見つける。姿を確認すると大喜はそのまま西田との会話へ戻った。
千夏も飲み物を買ってバスへ戻る途中、男子部員の中に大喜を見つけた。匡と話していることを確認してから、足を止めることなく渚と一緒に歩いていく。同じバスで帰るのだから、そこにいるのは分かっている。それでも昨夜からは、相手がいることを一度自分の目で確かめてから、それぞれの仲間との時間へ戻るようになっていた。
学校へ着く頃には日が傾き始めていた。各部で荷物を運び、監督へ挨拶をして解散すると、大喜は匡や西田と別れて校門の近くで待った。やがて渚へ手を振った千夏がこちらへ歩いてくる。
「お待たせ」
「全然。帰ろ」
「うん」
二人は自然に並んで歩き出した。合宿中はずっと同じ施設にいたのに、周囲に誰もいなくなると、二人だけで歩くのが久しぶりのように感じられる。最初は明日からの学校や荷物の話をしていたが、少し経つと千夏が朝の結果を聞いた。
「朝の針生君との試合、どうだった?」
「負けた」
「また?」
「またって言わないでよ」
「だって昨日の午前も負けたんでしょ?」
「午後は勝ったから」
「じゃあ、針生君もかなり変えてきたんだね」
「うん。俺が何しようとしてるか、かなり分かってた」
「ずっと一緒にやってるもんね」
「それでも次は勝つけど」
「言うと思った」
千夏が笑い、大喜も笑ってから女子バスケットボール部の練習を聞き返した。
「ちーちゃんは最後どうだった?」
「よかったよ。全員が同じ考えになったわけじゃないけど、その方が普通なんだと思えるようになった」
「まとまらなくても?」
「まとまらないままじゃ駄目。でも、最初から同じにする必要はないかなって。次に何を試すかだけ一緒に決められれば」
「ちーちゃんが全部決めなくても?」
「必要なら決めるよ。でも、私より他の人の方が見えてることもあるし」
「それ、ちーちゃんらしいと思う」
「どういうところが?」
「任せるって言って何もしなくなるわけじゃないところ」
「それ褒めてる?」
「褒めてるよ」
「ならいいけど」
二人はまたしばらく歩いた。千夏が今度は大喜へ合宿で何か見つかったかと聞くと、大喜もまだ試したいことが残っていると答える。
「じゃあ、お互い持ち帰るものはあったね」
「そうだね」
そこで会話が途切れても、気まずくはなかった。ただ、昨夜の廊下で重ねた手をどちらも忘れているわけではなく、かといって今ここで意味を確かめようとすることもなかった。二人はいつもの帰り道を、そのまま並んで家まで歩いた。
猪股家へ戻ると、大喜の母と祖父が二人を迎えた。夕食では当然のように合宿の話になり、千夏がおばあさんを助けたことを話すと、大喜の母は驚きながらも、まず二人に怪我がなかったことを確認した。
「千夏ちゃんがおばあさん背負ってたの?」
「途中からです。最初は支えて歩いてたんですけど」
「それで大喜が探しに行ったのね」
「うん。戻ってないって聞いたから」
「夜なんだから、本当に気をつけなさいよ」
「すみません。次から外に出る時はスマホ持っていきます」
「そうしてね。助けたことは悪くないけど、千夏ちゃんまで何かあったら困るんだから」
その後は練習やキャンプファイヤーの話へ移った。大喜が匡に一ゲームを取られたことを話すと、祖父は同級生も強くなっているのだと感心し、針生にゲームを取られたことには母が「先輩も黙ってないのね」と笑った。千夏も、チーム内で以前より意見が出るようになったことを話し、食卓には合宿中の出来事が次々に並んでいった。おばあさんを助けたことも、大喜が探しに出たことも、家族へは普通に話せた。
その後、二人が廊下で手を重ねたことだけは、どちらの口からも出なかった。隠そうと相談したわけではない。ただ、家族に話す三日間の出来事の中で、そこだけは二人の間に残った。夜、大喜は荷物を片づけてから自室へ戻ろうとした。廊下へ出ると、ちょうど千夏も自分の部屋の前にいる。
「片づけ終わった?」
「だいたい。ちーちゃんは?」
「私も。洗濯物多かった」
「三日分だからね」
「明日から普通に学校なの、変な感じする」
「朝起きたら合宿所にいそう」
「それは寝ぼけすぎじゃない?」
「でも朝練あるし、やることはそんな変わらないよ」
「確かに」
二人は笑い、それぞれの部屋へ戻ろうとした。
「じゃあ、おやすみ、大喜くん」
「おやすみ、ちーちゃん」
千夏がドアノブへ手を掛け、大喜も自室へ向かう。扉を開ける直前、何となく大喜が振り返ると、千夏もまだ同じ場所にいた。目が合った。
「何?」
「いや、ちーちゃんもまだいるから」
「大喜くんもでしょ」
「そうなんだけど」
千夏が笑い、大喜も笑った。もう話すことが残っていたわけではない。合宿のことも練習のことも帰り道で話したのに、二人ともすぐには扉を閉めなかった。
「……おやすみ、大喜くん」
「うん。おやすみ、ちーちゃん」
今度こそ千夏の扉が閉じ、大喜も自分の部屋へ入った。机の上には、帰りのバスで書いた競技ノートが置かれている。朝、針生へ初めて口にした「オリンピックで金メダルを取りたい」という目標も、まだ現実よりずっと遠くにある。それでも、自分が何を目指しているのかを口にしたことで、今までぼんやりしていた先に一つ輪郭ができた。
大喜はノートへ手を伸ばしかけ、ふと廊下の向こうにいる千夏のことを思い出した。戻らないと聞いて外周へ出たこと。見つからないほど速度が上がっていったこと。街灯の下で姿を見つけた瞬間に安心したこと。手を握られたこと。そして今日も、食堂や休憩場所で気づけば千夏を探していたこと。
小さい頃から、千夏は大切な幼馴染だった。怪我をすれば心配したし、試合の結果も気になった。今までのそれが間違っていたわけではない。けれど、昨日からの自分を全部そこへ戻そうとすると、どうしても収まりきらないものが残った。
何なのかまでは、まだ分からない。ただ、千夏が自分にとって、他の誰とも同じではないことだけは分かる。大喜はノートを開かないまま机の端へ寄せた。答えを急いで決める必要はなかった。