駅へ向かっていた道を外れると、商店街の賑わいは少しずつ遠ざかっていった。大喜がスマートフォンの地図で道を確認し、その隣を千夏が歩いている。二人の手にはスポーツショップの買い物袋があり、千夏の方にはテーピングとソックス、大喜の方にはガットと、さっき買ったばかりのジャージが入っていた。
展望台までは思っていたより近かった。住宅や小さな店が並ぶ通りから緩やかな坂道へ入り、十分ほど歩くと、木々の向こうに展望施設の建物が見えてくる。
「本当に近かったね」
「地図だともっと歩くかと思った」
「大喜くん、こういうところ来たことないの?」
「ないよ。ちーちゃんは?」
「私もない。近いと逆に来ないのかもね」
「それはあるかも」
坂を上るにつれて建物の隙間から見える空が広くなり、西側に残っていた橙色の光も次第に薄くなっていった。秋の日は短く、スポーツショップを出た頃にはまだ明るかった街にも、今は一つずつ灯りが増えている。展望台へ向かう人も予想より多く、家族連れや学生らしいグループが同じ坂を歩いていた。
千夏は、大喜がどうして急にここへ寄ろうと思ったのかまでは考えていなかった。カフェを出ても夕食まで時間があり、たまたま近くに展望台があったから寄ってみようと思ったのだろう。それでも、買い物を終えてからも一緒にいられる時間が増えたことは、素直に嬉しかった。施設へ着き、階段を上がって外の展望スペースへ出ると、千夏は思わず足を止めた。
「わあ」
眼下には駅前の建物だけでなく、その先に続く住宅街まで広がっていた。道路を走る車は小さく、遠くの空に夕焼けが残っている一方で、足元の街はもう夜へ向かい始めている。大喜も手すりの近くまで歩き、千夏の隣へ並んだ。
「思ったより見えるね」
「うん。来てよかった」
「夕方だったのもちょうどよかったかも」
「大喜くんが急に言い出したわりにはね」
「それ褒めてる?」
「褒めてるよ」
千夏は笑って街へ目を戻した。カフェではウィンターカップのことを話したばかりだった。チームの状態が良くなってきたことも、一度負ければそこで終わることへの怖さも、大喜には話している。明日になれば、また誰とどう守るか、攻撃で何を合わせるか、自分がどこで声を出すかを考えながら体育館へ立つことになる。
大会への緊張が消えたわけではない。それでも、街の灯りが増えていく様子を眺めている間くらいは、次の練習を考えなくてもいいと思えた。千夏は手すりに置いていた手を離し、隣の大喜を見る。
「大喜くん、今日ありがとう」
「買い物?」
「それも。カフェも、ここも」
「カフェはちーちゃんが連れてってくれたじゃん」
「でも付き合ってくれたでしょ」
「アップルパイおいしかったし、俺も得してるよ」
「じゃあ、ここは?」
「ここは俺も来てみたかったから」
「そうなの?」
「うん。まだ時間あったし、もうちょっと歩いてもいいかなって思って」
千夏が横から大喜を見る。大喜は街を見たままだった。
「もうちょっと歩きたかったんだ」
「買い物してカフェ行って、そのまま帰るのも早いかなって」
「そっか」
「ちーちゃんもすぐ行くって言ったし」
「誘われたからね」
「変なところじゃなくてよかった」
「それは誘う前に確認してよ」
千夏が笑い、大喜もつられて笑った。カフェで大会について話していた時より、千夏の表情は柔らかくなっている。遠くに見える駅を探したり、見覚えのある建物を指差したりする姿を見ていると、もう少し歩こうと思った自分の選択は悪くなかった。
日がさらに傾くにつれて風が強くなった。高い場所だからか街中より冷え込みが早く、千夏の髪が風に流れる。何度目かの風で千夏が腕をさするのを見て、大喜は足元に置いた買い物袋へ目を落とした。
「ちーちゃん、これ着る?」
「それ、今日買ったやつでしょ」
「うん。でも寒そうだし」
「まだ新品なのに」
「着るために買ったんだからいいよ。俺は平気だし」
「……じゃあ借りる。ありがとう」
大喜は袋からジャージを取り出し、そのまま千夏へ渡した。千夏が袖を通すと、自分のものより一回り大きく、袖口が手の甲までかかった。それでも風を直接受けなくなっただけで随分暖かい。自分が似合うと言ったジャージを大喜が選び、その日に自分が借りていることを考えると落ち着かない気もしたが、わざわざ口にすることでもなかった。
「暖かい?」
「うん。大喜くんより先に使っちゃった」
「試着したから俺が先」
「それは使ったことになる?」
「なるでしょ」
「じゃあ二番目でいいや」
千夏は笑って少し長い袖口を整えた。大喜もそれ以上ジャージの話を続けず、二人は夜へ変わり始めた街をもう一度眺めた。夕景から夜景へ移る時間になり、展望スペースへ向かう人が増えてきた。外側の通路にも人の流れができ、前から来た家族連れと横から入った学生のグループが重なったところで、千夏が一歩遅れる。
大喜は人の間を抜けたところで振り返った。千夏はすぐ後ろにいたものの、さらに人が入れば離れそうだったため、考えるより先に空いている手を差し出した。千夏は目の前の手を見て、一度だけ足を止めた。秋合宿の夜は、自分から大喜の手へ触れた。探しに来てくれたことが嬉しくて、謝るだけでは終わりたくなくて、自分から指を重ねた。
今度は、大喜の方からだった。千夏がその手を取ると、大喜も自然に握り返した。
「大丈夫?」
「うん」
「こっち」
大喜は歩く速さを落とし、人の流れの中を進んでいく。強く引かれるわけではなく、千夏が隣へ戻れる速さに合わせているのが分かった。展望スペースの端まで来ると、人の流れは落ち着いた。ここならもう離れる心配はない。それでも千夏が手を離さなかったため、大喜も自分から離すことなく、そのまま隣へ並んだ。
目の前では夕焼けがほとんど消え、街の明かりが先ほどより鮮明になっている。
千夏にとっては、秋合宿の夜との違いがはっきりしていた。今回は大喜から差し出された手だった。始まりは人混みを抜けるためでも、今はもうその必要がない。それでも大喜が手を離さないことが嬉しかった。だから、その意味を確かめようとは思わなかった。自分の気持ちはもう分かっているが、大喜の答えまで今ここで求める必要はない。隣で同じ景色を見ながら、このままでいられるならそれでよかった。
大喜も、千夏とつないだ手を意識していた。小さい頃から千夏とは何度も手をつないできたし、人混みの中なら不自然なことではない。今だって始まりにはちゃんと理由がある。ただ、人の流れを抜けた後も自分から離そうと思わなかったことまで、それだけで説明しようとすると収まりが悪かった。少し前から感じているものと同じで、幼馴染という言葉だけでは全部を片づけられない。
大喜は答えを探す代わりに、眼下の街へ目を向けた。今すぐ決めなくてもいい。千夏も離そうとしていないのなら、無理にこちらから離す必要もなかった。
「最初より明かり増えたね」
「うん。もう夜景になってきた」
「もうちょっと暗くなったら、もっときれいかも」
「それ待ってたら帰るの遅くなるよ」
「それは困るね」
「二人そろって遅れたら、お母さんに何してたのって聞かれそう」
「展望台って答えればいいじゃん」
「そこは普通に答えるんだ」
「嘘つくことないし」
そんな話をしながら二人で笑っていた時だった。
「……ナツ?」
声が聞こえた瞬間、千夏の表情が止まった。大喜にとっても、その呼び方には覚えがある。ずっと昔、まだ三人とも小さかった頃。バスケットボールのコートで、何度も千夏を呼んでいた声だった。千夏がゆっくり振り返る。
数メートル先に、一人の女の子が立っていた。その隣には同年代くらいの男子がいる。最後に会った頃より髪は伸び、服装も体育館で練習着を着ていた頃とはまるで違っていた。それでも、声を聞き間違えるはずがなかった。
「……夢佳」
千夏の口から名前がこぼれた。夢佳も動かなかった。久しぶりに見つけた千夏の顔だけではなく、大きめのジャージ、その隣に立つ男子、そして二人のつながれた手まで目へ入ったようだった。夢佳の視線がそこへ落ちたのを見て、千夏は大喜から手を離した。
ずっと会いたかったはずだった。バスケを辞めた夢佳と話せないまま離れてから、今どこで何をしているのか、どうして何も話してくれなかったのか、またバスケをするつもりはないのか、何度も考えてきた。けれど実際に目の前へ現れると、最初に何を言えばいいのか分からなかった。
「久しぶり」
ようやくそれだけ口にした千夏に、夢佳は同じ言葉を返さなかった。千夏の顔からジャージへ目を移し、さっきまでつながれていた手の方まで見た後、夢佳はわずかに眉を寄せた。
「彼氏できたんだ。男と遊んでるってことは、全国制覇はもう諦めたんだね」
あまりにも唐突な言葉に、千夏は一瞬、意味を理解できなかった。今日一日、大会を忘れていたわけではない。午前中は練習へ行き、午後にスポーツショップへ来たのも大会で使うものを買うためだった。カフェでは大喜にチームの話をし、一度負ければ終わる怖さまで口にしている。
夢佳には、そのどれも見えていない。目の前にいるのは、男子のジャージを羽織り、その男子と手をつないで夕方の展望台にいる千夏だけだった。それでも、他の誰かに言われたのなら腹が立つだけで済んだかもしれない。夢佳だったから、言葉が違う形で残った。一緒にバスケを始め、何度も競い合い、自分より先を走る背中を追いかけた相手から、「諦めた」と言われた。千夏は買い物袋を握り直した。
「諦めてないよ」
夢佳は千夏の顔を見たまま、すぐには返さなかった。
「ふうん。でも大会前にこんなところで男と遊んだりしてなかったと思うけど。男の服着て、手までつないでさ。随分変わったんだね」
千夏は何も言わない。夢佳はその沈黙を待とうともせず、さらに続けた。
「エースで試合には出て、プライベートも充実して。何でもちゃんとできてるなら立派じゃん」
口調は軽いのに、言葉だけが冷たく残った。千夏は何度も反論しかけた。今だってバスケを大事にしている。今日だって大会のための買い物に来た。大喜と出かけたことと、全国を目指すことは、自分の中では何も矛盾していない。けれど、久しぶりに会った夢佳へ、その場で一つずつ説明する気にはなれなかった。
夢佳が知っているのは、昔の自分だ。夢佳と同じコートで走り、負ければ悔しがって、次の日にはまた体育館へ行っていた頃の千夏。その頃の姿と、今目の前にいる自分を比べている。だからこそ、千夏は一つだけ、もう一度はっきりと言った。
「私は全国制覇を諦めてない」
夢佳の表情は変わらなかった。
「ふーん、そう見えなかったけど」
大喜は隣で黙って聞いていた。夢佳の言っていることが正しいとは思わない。千夏が毎日どれだけ練習しているか、大会へ向けてどんな準備をしているか、大喜は近くで見てきた。夢佳が見たのは今日のほんの一部分にすぎない。それでも、久しぶりに会った相手へ向ける反応としては、夢佳の言葉はあまりにも強かった。近況を尋ねるでもなく、久しぶりに会えたことへ触れるでもなく、目の前にいる千夏を昔の千夏と比べ、すぐに「諦めた」とまで言い切った。
なぜそこまで強く言うのか、大喜には分からなかった。ただ、夢佳と千夏の間に自分の知らない時間がある以上、その理由を今ここで勝手に決めることもできない。大喜は考えるのをそこで止め、名前を呼んだ。
「夢佳さん」
夢佳が初めて、千夏の隣にいる男子へ正面から目を向けた。顔を見た瞬間、その表情が変わる。
「……大喜?」
「はい。久しぶりです」
「大喜だったんだ」
夢佳は何秒か大喜を見た後、再び千夏へ目を戻した。
「そっか。昔からナツ、大喜のことは気にしてたもんね」
その言い方は、懐かしがっているようには聞こえなかった。大喜が何か言おうとしたが、その前に千夏が口を開いた。
「夢佳」
夢佳は千夏を見たまま、何も返さなかった。納得した様子もなければ、先ほどの言葉を取り消す様子もない。その時、夢佳の隣にいた男子が声をかけた。
「夢佳、行くよ」
夢佳はすぐには動かなかった。何かを言いかけるように千夏を見た後、結局そのまま口を閉じその場を後にした。千夏は追いかけなかった。聞きたいことは以前からいくつもあったはずなのに、突然再会して、昔の自分と今の自分を比べるような言葉をぶつけられた直後では、何から聞けばいいのか分からなかった。代わりに残ったのは、自分がずっと大切にしてきたものを、夢佳から「もう諦めた」と見られたことだった。
大喜もすぐには声をかけなかった。夢佳の言葉を全部否定して、「気にしなくていい」と言うのは簡単だった。けれど千夏にとって夢佳が、そんな一言で片づけられる相手ではないことくらいは分かっている。小さい頃、二人が同じ体育館を走っていた姿を大喜も覚えていた。夢佳の速いパスを千夏が追い、夢佳が「ナツ」と呼べば千夏がすぐに反応する。競い合っていたのに、一緒にいることが当たり前に見える二人だった。
そんな相手から今の自分を否定されれば、簡単に気にするなとは言えない。だから大喜は、夢佳が去った理由を考えるより先に千夏へ向き直った。
「夢佳さん、言い方は相変わらずだったね」
できるだけ普段と変わらない調子で言うと、千夏が少し遅れて大喜を見る。
「……そうだね」
「昔も結構、思ったことそのまま言ってたし」
「うん。でも、今日のはちょっときつかった」
「それは俺も思う」
千夏は展望スペースの外へ目を向けた。夢佳に言われたことを、そのまま大喜に否定してほしいわけではない。ただ、昔の夢佳から見た自分が、それほど違うものに見えたことが引っかかっていた。大喜も無理に続きを聞かず、自分が言える範囲だけを選んだ。
「俺は今日、ちーちゃんと出かけたこと後悔してないよ」
「うん」
「買い物したのも、アップルパイ食べたのも、ここ来たのも。俺もそうしたかったから来たし」
「……私も後悔してない」
「なら、一緒だね」
それ以上、大喜は夢佳について話さなかった。夢佳が本当は何を思っているのか、大喜には分からない。ただ驚いて言い方が強くなっただけなのかもしれないし、千夏との間にもっと別のものが残っているのかもしれない。どちらにしても、自分の知らないところを想像だけで埋めるのは違う。千夏も今日という一日を否定するつもりはなかった。
夢佳の言葉は痛かった。それでも、大喜と買い物へ行ったことまで間違いだったとは思わない。自分が全国制覇を目指していることと、今日大喜と過ごしたことは、どちらも今の自分にとって本当のことだった。風がまた吹き、大喜から借りたジャージの裾が揺れる。千夏はそれを押さえ、大喜を見る。
「これ、帰るまで借りてていい?」
「もちろん。まだ寒いし」
「家着いたら返すね」
「急がなくていいよ」
「じゃあ帰ってからね」
その程度のやり取りで話を切り上げ、二人は展望台を後にした。辺りはもうほとんど暗くなっていた。行きに上ってきた坂を今度は二人で下り、大喜は地図を見ることなく、千夏の歩幅に合わせて隣を歩く。もう手はつないでいなかったが、だからといって大喜が先へ行くことも、気まずそうに距離を空けることもなかった。千夏も一人になろうとはせず、大喜から借りたジャージを羽織ったまま同じ速さで坂を下っていく。
しばらく会話は途切れた。大喜の中には、夢佳が千夏の近況を確かめる前に、目の前の姿だけを見て「変わった」「諦めた」と言い切ったことが残っていた。なぜあそこまで強く反応したのかは分からない。ただ、今ここで考えても答えが出ないことだけは分かっていた。
隣を歩く千夏も夢佳について自分から話さず、大喜も何があったのか、どうして夢佳がバスケを辞めたのかを尋ねなかった。今日、偶然再会したばかりなのだから、今すぐ何かを決める必要はない。駅前の明かりが近づいた頃、千夏が買い物袋を持ち直した。
「大喜くん」
「ん?」
「今日、来てよかったよ」
「展望台?」
「全部。夢佳に会ったことは……まだ、よかったって言えるか分からないけど」
「うん」
それだけ確認すると、二人はまた前を向いた。夢佳の言葉は消えていない。全国制覇を諦めていないとはっきり伝えたのに、信じてもらえなかったことも悔しかった。それでも、今日一日までなかったことにはしたくない。
大喜と買い物をし、お気に入りのアップルパイを食べ、展望台から街を見た。人混みでは大喜から手を差し出され、自分はその手を取った。そして今も、大喜から借りたジャージを羽織ったまま、その隣を歩いている。夢佳が知っている頃から変わったものは、きっといくつもある。けれど、バスケットボールが好きで、負けたくなくて、全国制覇を目指している自分まで変わったつもりはなかった。それを夢佳へどう伝えればいいのかは、まだ分からなかった。