夢佳と展望台で再会してから、数日が経った。
放課後の体育館では、ウィンターカップへ向けた練習が続いていた。実戦形式に入ると、千夏は右側からボールを受け、守備が早めに距離を詰めてきたところで一度ドリブルを止めた。無理に抜き切ろうとはせず、外側にいた味方へボールを預け、そのままゴール下へ走る。千夏についていった守備の背後へ別の選手が入り、そこへパスが通ってシュートまでつながった。一本終えたところで、渚が千夏の隣へ戻ってくる。
「今の、私がもう少し早く中へ入った方がよかった?」
「いや、あれでいいと思う。私について守備が動いたから、空いたところ使えてたし」
「じゃあ次、千夏が外に残った時は私が先に仕掛けてみる」
「うん。その方が相手も迷いそう」
短く確認すると、二人は次の攻防へ入った。自分たちで気づいたことをその場で出し、次の一本で試してみる。少し前なら千夏が先に考えて声をかけることも多かったが、最近は周りからも自然に意見が出るようになっていた。千夏自身もそれを聞きながら、自分の考えだけに寄せず、次に何を試すかを決めていく。
練習を終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。千夏は他の部員と一緒にボールを片づけ、明日の練習試合の集合時間を監督から確認して体育館を出る。部活中に夢佳のことを考えていたわけではなく、コートに立てば、目の前の相手と味方を見る。自分がどう動くか、誰の守備を引きつけるか、次にどこを使うか。考えることはいくらでもあった。
けれど、練習が終わって一人になる時間ができると、展望台で聞いた言葉を思い出すことがあった。男と遊んでるってことは、全国制覇はもう諦めたんだね。何度思い返しても、その言葉には慣れなかった。全国制覇を諦めていないことは、あの場で伝えた。それ以上、頭の中で夢佳を相手に説明し直しても仕方がないことも分かっている。それでも、自分が夢佳からそんなふうに見えたという事実だけは、簡単には消えてくれなかった。
家へ帰って風呂を済ませると、夕食の支度が整っていた。食卓では、大喜の母が翌日の予定を聞き、千夏は女子バスケ部が練習試合で他校へ行くことを話した。
「千夏ちゃんたちは何時に集合?」
「八時半です。学校に集まってからバスで行きます」
「帰りは?」
「多分、夕方になると思います。終わる時間次第ですけど」
「じゃあ夕飯は普通にいると思ってていい?」
「はい。遅くなりそうだったら連絡します」
そんな話をしている途中で、大喜の母が思い出したように箸を止めた。
「そういえば、今日歯医者で懐かしい子を見たのよ」
「懐かしい子?」
大喜が聞き返すと、母は千夏の方も見た。
「夢佳ちゃん。多分だけど」
千夏の手が止まった。
「夢佳?」
「うん。最初は似てる子かなって思ったんだけど、下の名前が夢佳だったから。昔より髪も長かったし、随分雰囲気変わってたけどね」
「患者さんで来てたんですか?」
「それが、そうでもなさそうだったの。受付の人に何か渡したり、奥から書類を持ってきたりしてたから、アルバイトか何かしてるのかなって」
大喜も母の話を聞いていた。千夏は迷ってから歯科医院の名前を尋ね、母から駅の反対側にあるスーパー近くの医院だと教えられる。家から歩いてもそれほど遠くなく、学校からなら駅を越えれば行ける場所だった。
「どこの歯医者ですか?」
「駅の反対側。スーパーの近くにあるところ、分かる?」
「ああ……多分分かります」
「家から歩いてもそんなに遠くないよ。学校からだと駅を越えることになるけど」
千夏は頭の中で場所を思い浮かべた。何度か前を通ったことがある。母はさらに、最初に夢佳だと分からなかった理由を話した。
「あと、名字が違ったのよ」
「名字?」
「名札が昔と違う名字だったから、それで別人だと思ったの。下の名前を見て、もしかしてって」
千夏はそれ以上聞かなかった。どうして名字が変わったのかは分からない。家族に何かあったのかもしれないし、自分の知らない別の事情かもしれなかった。大喜の母もそこから先を推測することはせず、千夏に夢佳と会うつもりがあるのかとも聞かなかった。
食卓ではそのまま別の話題へ移り、大喜も夢佳について口を挟まない。けれど、千夏の中には歯科医院の場所だけがはっきり残った。夕食後、千夏は部屋で翌日の準備を始めた。バッグを開き、ユニフォームと着替えを入れる。タオル、テーピング、補食を確認し、冷蔵庫に入れてある飲み物だけは朝忘れないようスマートフォンへメモした。練習試合の日は慌ただしくなることが多いため、前日のうちに準備しておくのはいつものことだった。
一通り終えたところで、机に置いたスマートフォンが目に入った。千夏は地図を開き、さっき聞いた歯科医院の名前を入力する。検索結果はすぐに出た。家からも遠くなく、学校からなら帰りに駅の反対側へ出れば行ける距離だった。
これまでは夢佳がどこにいるのか分からなかった。バスケを辞めて学校を離れてから、以前のように連絡を取ることもなくなった。最初の頃は何度か連絡を送ったが、返事が来ないうちに、いつからか千夏の方からも送らなくなっていた。会いたいと思っても、どこへ行けば会えるのか分からなかったから、会えなかった。
けれど今は、地図の上に場所が表示されている。そこへ行けば必ず夢佳がいるとは限らない。それでも、少なくとも以前よりずっと近いところまで来ている。千夏は地図を閉じた。展望台で言われたことを責めたいわけではないし、全国制覇を諦めていないことなら、すでに伝えている。それだけをもう一度言いに行っても、きっと何も変わらない。
昔から聞きたかったことならある。どうしてバスケを辞めたのか。どうして何も言わずに離れていったのか。けれど、それを今さら自分が聞いていいのかも分からなかった。夢佳が話さなかったことには、夢佳なりの理由があったのかもしれない。千夏が知りたいと思っているからというだけで、そこへ踏み込んでいいものなのか。
一人で考えていても、同じところへ戻ってくる。千夏は準備を終えたバッグを机の横へ置き、しばらく座ったまま考えてから部屋を出た。
廊下の先には、大喜の部屋がある。同じ家で暮らしている以上、用事があれば部屋を訪ねること自体は珍しくない。学校のことを聞く時もあれば、翌日の予定を確認することもある。それでも今夜は、ドアの前まで来てから一度立ち止まった。聞きたいことが決まっていないというより、自分が大喜に何を求めているのかが分からなかった。千夏は考えてから、二度ノックした。
「大喜くん、今いい?」
中から返事があり、すぐにドアが開いた。大喜は部屋着姿で、床にはストレッチ用のマットが敷いてある。机の上には競技ノートが開かれ、その日の練習で気づいたことが数行書かれていた。
「大丈夫。どうしたの?」
「ちょっと話したいことがあって」
「うん。入って」
千夏が部屋へ入ると、大喜は椅子の背に掛けていたタオルを端へ寄せ、床へ座った。千夏も少し離れたところに腰を下ろす。何から話すか迷った末、千夏は夕食の話から始めた。
「さっき聞いた歯医者、調べてみた」
「夢佳さんがいるかもしれないところ?」
「うん。思ってたより近かった。学校からでも行けるくらい」
「そっか」
「それで……会いに行った方がいいのかなって思ったんだけど」
千夏はそこで言葉を切った。大喜は急かさず待っている。
「分かんなくなった」
「何が一番引っかかってる?」
「会いたくないわけじゃないんだよ。むしろ、ずっともう一回ちゃんと話したいと思ってた。でも今までは、どこにいるのか分からなかったから……会えないって思ってた」
「うん」
「場所を知ったら、今度は自分が行ってないだけみたいに思えてきて」
大喜はしばらく考えてから、言葉を選ぶように尋ねた。
「行ったら、また同じように言われるかもしれないって思ってる?」
「それもある。何を話しても夢佳には届かないかもしれないし、また拒まれたらって考えると……嫌だなって」
千夏がそこまで言うと、大喜はすぐに返事をしなかった。展望台での夢佳の表情を思い出しながら、千夏に何を言えるのかを考えていた。あの時の言葉が千夏を傷つけたことは間違いないし、全国制覇を諦めていないと伝えても、夢佳は簡単には受け入れなかった。それを見ていた以上、「会いに行けば大丈夫」と軽く背中を押すことはできなかった。
「俺、ちーちゃんに絶対会いに行った方がいいとは言えないかな」
「やっぱり?」
「うん。夢佳さんが今どう思ってるかは、本人にしか分からないし、会ったらまたちーちゃんが傷つくかもしれない。あの時のこと見てたのに、それでも行けばいいって簡単に言うのは違うと思う」
「……うん」
「でも、会わないままずっと気になるのも、ちーちゃんは嫌なんじゃないかなって思う」
「それも、そうなんだよね」
「だから俺がどっちか決めるんじゃなくて、ちーちゃんが後になって、どっちを選ばなかったことの方が残りそうかは考えてもいいのかなって」
千夏はすぐには答えなかった。そこで今度は、大喜自身ならどうするのかを尋ねる。
「大喜くんだったら?」
「俺だったら?」
「うん。会いたい人がいて、会える場所も分かってる。でも、行ったらまた拒まれるかもしれないって思ってたら」
大喜は腕を組み、しばらく考えた。夢佳と千夏のことではなく、自分の問題として想像してみる。会って傷つくかもしれないなら、行かない理由はいくらでも作れる。それでも、ずっと気になっていた相手なら、何もしなかったことも後になって残る気がした。
「俺だったら、多分一回は会いたいって思うかも。でも、それをそのままちーちゃんに当てはめるのは違うと思う」
「どうして?」
「俺と夢佳さんの関係じゃないから。二人の間に何があったのか俺は全部知ってるわけじゃないし、ちーちゃんがあの日どれだけ傷ついたかも、同じようには分からない。だから自分ならそうするってだけで、ちーちゃんにも行った方がいいとは言えないかな」
千夏は大喜の言葉を聞きながら、膝の上で重ねていた手を一度組み直した。大喜は、そこで話を終わらせなかった。千夏から聞かれたから考えているだけではない。展望台から帰って以降、自分の中にも残っていたものがあった。
「ただ、あの日の夢佳さんのこと、俺もずっと引っかかってて」
「夢佳のこと?」
「うん。言い方はきつかったし、ちーちゃんの今を知らないまま決めつけたのは間違ってると思う。でも、本当にちーちゃんのこと何とも思ってなかったら、あんなに強く言うのかなって」
千夏が大喜を見る。
「どういう意味?」
「うまく言えないけど、夢佳さんの中にいるちーちゃんと、あの日に見たちーちゃんが違って見えたから、あんな反応になったのかなって。もちろん、だから傷つけていいって話じゃないよ」
「うん」
「それが何なのかは分からない。でも、もう何も思ってない相手への言い方には、俺には聞こえなかった」
千夏はしばらく黙っていた。あの時の夢佳を思い返すと、怒っていたようにも、呆れていたようにも見える。なぜそこまで言われなければならないのかは分からなかったし、久しぶりに会えたのに、ずっと聞きたかったことを一つも聞けなかった。
「あんなに言われたから、夢佳はもう私と話したくないんだと思ってた」
「普通はそう思うよね。でも、本当にそうなのかなって、なんか思っちゃったんだよね」
「夢佳がまだ私のこと気にしてるってこと?」
「気にしてる、とは違うのかもしれないけど、ごめん分からないや。夢佳さんがどう思ってるかは、やっぱり夢佳さんにしか分からないし」
大喜はそこで言葉を切り、少し考えてから続けた。
「ただ、もしちーちゃんが会いたいと思ってるなら、夢佳さんが何を思ってるか分からないことだけを理由に、最初から諦めなくてもいいのかもしれないとは思う」
「……そっか」
「ごめん。結局、行った方がいいとも行かない方がいいとも言えてないけど」
「ううん」
今度は千夏の方がしばらく考えた。
「変なこと聞いたね」
「そんなことないよ。俺も考えてたから」
「夢佳のこと?」
「ちーちゃんのこと」
大喜はそう言ってから、言葉を続けるまで少し間を置いた。
「夢佳さんとどうなってほしいとか、俺が決めることじゃないと思う。でも、ちーちゃんがずっと気にしてた相手なのは知ってるし、小さい頃に二人でバスケしてたのも覚えてるから。何かできることがあればいいのになって、ずっと考えてた」
千夏は大喜を見る。
「でも、考えても俺が代わりに話すのは違うし、会いに行けって決めるのも違うし。結局、何をしたらいいのか見つからなくて。それが、ちょっと悔しい」
その言葉を聞いて、千夏はようやく大喜が何度も慎重に言葉を選んでいた理由が分かった。答えが分からないから距離を取っていたのではない。自分が口を出すことで、千夏の選択まで変えてしまうかもしれない。夢佳との間にあるものを知らないまま、良かれと思って動けば、かえって二人の問題へ割り込むことになる。それでも、何もしないままでいるのも嫌だから考えていたのだ。
「ありがとう」
「俺、結局何も答えられてないけど」
「答えを決めてほしくて来たわけじゃなかったのかも」
「そうなの?」
「今分かった。自分でも何が聞きたかったのか分かってなかったし。でも、大喜くんがちゃんと考えてくれたから、話してよかった」
「それならよかった」
「うん。ありがとう」
大喜もようやく表情を緩めた。重くなっていた空気が落ち着いたところで机の時計を見ると、翌日のことを考えれば長く話している時間でもなかった。
「ちーちゃん、明日練習試合だよね」
「うん」
「何時集合だっけ?」
「八時半」
「じゃあ、そろそろ寝た方がいいね。俺もあとノート少し書いたら寝る」
「大喜くんも明日練習だもんね」
「うん」
「じゃあ私も戻る。準備は終わってるし」
「歯医者のことは?」
「今日は決めない。明日の試合終わってから、まだ気になってたらまた考える」
「うん。それがいいと思う」
千夏は立ち上がった。夢佳のことを考えるのをやめろとは言われなかったし、今すぐ答えを出せとも言われなかった。明日の練習試合も、夢佳とのことも、どちらか片方だけを大事なものとして扱わないところが大喜らしいと思った。
「おやすみ、大喜くん」
「おやすみ、ちーちゃん。明日、気をつけて行ってきて」
「大喜くんも練習頑張って」
「うん」
千夏は部屋へ戻ると、机に置いたスマートフォンを手に取り、先ほど閉じた地図をもう一度開いた。歯科医院の印は同じ場所にあり、距離もさっきと何も変わっていない。大喜と話したからといって、会いに行く勇気が突然出たわけではなく、夢佳にまた拒まれるかもしれない怖さも、会えたとして何を話すのか決まっていないこともそのままだった。
ただ、夢佳がなぜあんなに強く言ったのか、その答えまで自分一人で決める必要はないのかもしれないとは思えた。今ここで考え続けても分からないことなら、分からないままにしておくこともできる。千夏は地図を閉じ、翌朝のアラームを確認した。明日は練習試合がある。まずはそこへ行き、終わってもまだ夢佳のことが気になっているなら、その時また考えればいい。スマートフォンを充電器につなぎ、部屋の明かりを落とした。
隣の部屋では、大喜が机へ戻っていた。開いたままの競技ノートには、今日の練習で気づいたことが残っている。思い出せる範囲を書き終えると、大喜はペンを置いた。
千夏との話は、ノートには書かない。それでも、「何かできることがあればいい」という気持ちは残っていた。千夏に夢佳へ会うよう言うことも、自分が先に夢佳へ会いに行くことも、今は違うと思う。二人の間のことは、最後には二人が決めるしかない。それでも、千夏の代わりに答えを決めるのではなく、千夏自身が選べるような何かなら、自分にもできることがあるかもしれない。
まだ、それが何なのかは分からない。大喜は競技ノートを閉じた。明日もまた、自分の練習がある。