土曜日の朝、大喜がリビングへ下りると、千夏はすでに朝食を半分ほど食べ終えていた。女子バスケットボール部は校外で練習試合があり、八時半に学校へ集合して相手校へ向かうことになっている。一方、男子バドミントン部は午前から練習が始まり、昼を挟んで午後まで続く予定だった。大喜の方が家を出る時間は遅いため、千夏はすでに練習着の上からジャージを羽織り、足元には荷物をまとめたスポーツバッグを置いていた。
大喜は自分の席へ座り、用意されていた朝食に手を伸ばした。昨夜は夢佳について長く話したが、千夏から続きを口にする様子はなく、大喜も歯科医院へ行くことにしたのかとは聞かなかった。昨日決めなかったことを、朝になったからといって急いで決める必要はない。それより今は、それぞれに今日やることがある。食べ終えた千夏が時計を確認して席を立った。
「そろそろ行くね」
「今日、帰り夕方だっけ?」
「多分それくらい。向こうで終わる時間次第だけど」
「そっか。練習試合、頑張って」
「ありがとう。大喜くんは午後まで?」
「うん。でも今日は午後早めに終わる予定」
「じゃあ私の方が遅いかもね」
「そうかも。気をつけて行ってきて」
「大喜くんも練習頑張ってね」
千夏は家族にも声をかけ、スポーツバッグを持って玄関へ向かった。しばらくして扉の閉まる音がすると、大喜は食事へ戻る。昨夜、自分が口にした言葉は覚えている。何かできることがあればいいのにと思うのに、何をすればいいのか分からない。それが悔しい。
ただ、その答えを朝から探すつもりはなかった。大喜にも練習があり、秋合宿から持ち帰ったものをまだ自分のプレーへ馴染ませ切れていない。千夏が自分の練習試合へ向かったように、大喜もまずは今日のコートへ行く。学校へ着いた頃には、体育館では男子バスケットボール部が準備を始めていた。女子バスケットボール部が遠征で不在のため、普段より使われている人数は少ないが、反対側のコートから響くボールの音と、ネットを張り終えた男子バドミントン部の声で館内は十分に騒がしい。
基礎打ちとフットワークを終えると、午前後半は実戦形式に入った。秋合宿から、大喜は相手を見るためだけにラリーを続けることはなくなっていた。普通に戦いながら情報を拾い、自分から相手を動かし、その中で次に使えるものを増やしていく。相手が途中で変えてくれば、その変化も含めて考え直すところまでは、合宿中にも何度も試している。
今、大喜が試しているのは、その先だった。匡との実戦で、大喜は何本か違う形から攻めながら、苦しくなった時に匡が一度ラリーを立て直そうとする場面を探した。最初のうちは、その選択が出れば次に狙う場所を絞りやすかった。けれど、同じような流れを何度か作ると、匡も大喜が何を待っているのかに気づき始める。次はそれまでと違う選択をされ、大喜が先に入ろうとしていた形を外された。区切りのところで、匡がシャトルを拾いながら大喜へ聞いた。
「今、こっちが苦しくなった後を狙ってる?」
「やっぱ分かった?」
「何回か同じところで大喜が先に動いてたから。そこまで分かったら、同じことしたくないよ」
「そうなるよね」
「大喜だって、俺が何か待ってるって分かったら変えるでしょ」
「変える」
大喜は今までのラリーを思い返した。相手を動かしながら情報を取ることはできるようになってきた。ただ、得た情報を使おうとする時に同じ形を繰り返せば、今度はその狙い自体が相手にとっての情報になる。
「同じところに持っていきたいからって、同じ持っていき方してたら分かるか」
「俺は分かりやすかった」
「じゃあ、違うところから同じ状況作れないと駄目だね」
「それできたら、かなり嫌だけど」
匡はそう言ってコートへ戻った。大喜もシャトルを持って構え直す。相手がどこへ返すかを当てるだけではなく、その選択に自分から影響を与える。ただし、そのために同じ形を見せ続ければ、相手にもこちらの狙いを読まれる。違う攻防をしながら、気づいた時には相手が選びやすいものを少なくしている。今度はそこまでできるようになりたかった。
午前練習が一段落し、休憩へ入ったところで、反対側のコートから男子バスケットボール部の監督が部員たちへ声をかけた。手には一枚のチケットを持っている。
「女子のウィンターカップ初戦のチケットが一枚余ってるんだけど、誰か欲しい奴いるか?」
男子バスケ部の何人かが振り返ったが、その日は自分たちにも練習予定があるらしく、すぐに手を挙げる者はいなかった。
「女子の関係者から回ってきたんだけど、今日はあっちも遠征でいないからな。うちの部員が行けないなら、知り合いに渡すんでも構わないぞ。このまま余らせるのももったいないし」
水分を取っていた大喜は、その言葉を聞いてチケットへ目を向けた。千夏が出るウィンターカップ初戦。大喜自身はその日も部活があるため会場へは行けないが、「知り合いに渡してもいい」という言葉を聞いた時、昨夜の千夏との会話が頭に浮かんだ。夢佳がどこにいるかは分かった。それでも、会いに行って何を話せばいいのか分からない。もう一度拒まれるのも怖い。
もし千夏が夢佳に会うことを選んだとしても、何もないところから話を始めるのは難しいかもしれないが、このチケットがあれば少なくとも一つだけ伝えられることができる。今の自分を見てほしい。もちろん、千夏がそう思うとは限らない。夢佳へ渡さないかもしれないし、夢佳が受け取らない可能性もある。チケット一枚で二人の間にあった時間が埋まるはずもなかった。
それでも、使うかどうかを千夏が選ぶことはできる。そこまで考えると、大喜は迷わなかった。
「俺がもらってもいいですか?」
男子バスケ部の監督が意外そうに振り返った。
「猪股が?」
「はい」
「お前、その日バド部の練習じゃなかったか?」
「俺が見に行くわけじゃないです。知り合いに渡したくて」
「そういうことか。使う人がいるなら持ってけ」
大喜は礼を言い、チケットを受け取った。試合日と会場、開始時間を確認していると、近くで休憩していた西田が覗き込んでくる。
「大喜が女子バスケのチケット欲しがるって珍しいな」
「俺が使うわけじゃないですよ」
「知り合いに渡すんだっけ?」
「はい」
「へえ。ちー以外にも女子バスケ見せたい相手いるのか」
話を聞いていた針生まで加わったため、大喜は嫌な予感がして顔を上げた。
「そういうんじゃないですって」
「まだ何も決めつけてねえだろ」
「針生先輩がその入り方する時、大体ろくなこと言わないじゃないですか」
「お前、最近俺への信用なくない?」
「積み重ねだと思います」
「後輩のくせに生意気だな」
「二人とも、休憩終わるぞ」
西田が笑いながら声をかけたところで、全体練習の再開が告げられた。大喜は夢佳の名前も、昨夜千夏から相談された内容も口にせず、チケットを折らないようラケットバッグの内側へしまった。午後の練習では、針生とシングルスの実戦形式に入った。
午前に匡へ狙いを読まれたこともあり、大喜は今度は同じ形を繰り返さないようにした。一つの攻防で奥へ動かしたなら、次は同じ順番を使わない。それでも最終的には、自分が見つけた相手の苦しい場面へもう一度近づけられないかを試していく。
最初のうちは、午前よりうまくいった。同じ球を繰り返しているわけではないため、針生もすぐには大喜の狙いへ合わせてこない。何度かは違う流れから同じような状況を作り、大喜が先に攻めることもできた。
それでも、針生を相手に最後まで隠し通せるほど簡単ではなかった。ラリーの形は違っても、大喜が途中からどこへ持っていきたがっているのかは、何本か戦えば針生にも見えてくる。大喜が十分に追い込んだと思ったところで、針生はあえてその先へ進まず、自分から流れを切り替えた。大喜も追いついたが、自分が作ろうとしていた攻防はそこで崩れた。区切りのところで、針生がシャトルを拾いながら口を開く。
「午前より分かりにくくはなってるな」
「でも、分かりました?」
「途中からな。球は変えてるけど、お前が最後に何させたいかは何となく見える」
「そこまで隠さないと駄目ですか」
「隠したいならな。相手に『こっちへ持っていきたいんだな』って思わせた時点で、選ばせてるんじゃなくて相談してるようなもんだろ」
「それは嫌ですね」
「だろ」
針生が笑ってコートへ戻ると、大喜もシャトルを持ってサービス位置へ向かった。午前より一つ先へは進めている。同じ形を繰り返さなくても、自分が欲しい状況へ近づけることはできた。ただ、違う球を使っているだけでは十分ではない。どこへ持っていきたいのかまで読まれれば、相手にはまだ逃げる余地が残る。
午後の実戦では、最後までその部分を確かめた。うまく狙いを隠せた時には、大喜が欲しかった状況へ相手の方から入ってくる場面もあった。一方で、針生には途中で気づかれ、逆に流れを変えられることの方がまだ多い。それでも、ただ「相手が変わったから自分も変える」だけではなく、相手にこちらの狙いをどこまで見せずにラリーを作れるかという、新しい課題ははっきりした。
午後三時を過ぎた頃には全体練習が終わった。大喜の中に残ったのは、相手を動かせるようになったという手応えより、その動かし方をどう隠すかだった。同じ狙いでも違う攻防からそこへ近づき、相手自身が選んだと思っているうちに、使える選択肢を減らしていく。そこまでできれば、今目指しているプレーにもう一歩近づける気がした。片づけを終え、大喜がラケットをバッグへ収めていると、隣で帰り支度をしていた匡が口を開いた。
「さっきのチケット、千夏先輩がらみ?」
「……分かる?」
「女子バスケのチケットを大喜が自分で見に行かないのにもらってたら、それくらいは」
「まあ、そうだよ。ちーちゃんに渡そうと思ってる」
「なるほど」
匡はそこまで聞くと、深く追及しなかった。大喜が千夏へ渡すと分かれば、誰に使うつもりなのかまで聞く必要はないと思ったらしい。
「今日はどうする?」
「帰る。夕方ちょっと走るつもりだけど、一回家寄る」
「午前も午後もやったのに?」
「追い込むつもりじゃないよ。軽く走るだけ」
「どこにそんな体力あるんだか。明日動けなくなっても知らないよ」
「そこまではやらないって」
二人は体育館を出た。帰宅すると玄関に千夏の靴はなく、練習試合の遠征はまだ終わっていないらしい。大喜が母に尋ねると、帰りは夜になると連絡が入っているという。午後練習が早めに終わった分、大喜の方がかなり先に家へ戻ったようだった。
自室へ上がった大喜は、ラケットバッグからチケットを取り出した。改めて見ると、ウィンターカップ初戦の日付と会場、開始時間がはっきりと印刷されている。机の引き出しから無地の封筒を取り出しながら、帰ってきた千夏へ直接渡すことも考えた。
けれど、昨夜あれだけ迷っていた千夏に自分からチケットを差し出し、その場で説明を始めれば、どうしても答えを求める形になりそうだった。大喜にそのつもりがなくても、なぜこのチケットを受け取ったのかまで話せば、夢佳のことを考えて用意したのだと千夏には分かる。夢佳へ渡すかどうかまで自分が決める必要はなく、千夏が使いたいように使えばいい。そのことだけ伝われば十分だった。
大喜はメモ用紙を一枚取り出し、ペンを持った。夢佳の名前を書けば、渡す相手をこちらから指定することになる。反対に何も説明せずチケットだけ入れておけば、なぜ自分がわざわざ受け取ったのか分からない。考えた末、必要なことだけを書く。
『ウィンターカップ初戦のチケット、一枚もらえたから、ちーちゃんがもし見に来てもらいたい人がいれば渡していいよ』
一度読み返したが、書き足すことはしなかった。会いに行った方がいいとも、夢佳へ渡してほしいとも書いていない。千夏が使わないと決めてもいいし、別の誰かへ渡してもいい。封筒と買っておいたゼリー飲料を小さな紙袋へ入れ、大喜は二階へ戻った。千夏の部屋へ入ることはせず、紙袋の持ち手をドアノブへ掛ける。
それを確認すると、大喜は自室へ戻り、練習着からランニング用の服へ着替えた。午前と午後ですでに十分身体を動かしているため、追い込むつもりはない。いつもの自主トレより速さを落とし、身体をほぐしながら少し長めに走る程度にするつもりだった。玄関で靴紐を結んでいると、母がキッチンから声をかけてきた。
「また出るの?」
「うん。軽く走ってくる」
「今日は朝から練習だったんでしょ?」
「だからゆっくり。そんな長くはやらないよ」
「千夏ちゃんより先に帰ってきたと思ったら、また出ていくんだから」
「ちーちゃんはまだ結構かかるでしょ?」
「夕飯までには帰るって連絡来てるよ」
「じゃあ俺もそれまでには戻る」
「分かった。気をつけてね」
「行ってきます」
外へ出ると、午後の日差しはすでに傾き始めていた。走り始めは午前から使った脚に重さがあったものの、速さを上げず一定のペースを保っているうちに、次第に身体が馴染んでいく。走りながら、大喜は今日の実戦を思い返した。相手を見ながら動かすところまでは、秋合宿から続けてきた。今日見えたのは、その先だった。同じ狙いをそのまま繰り返せば、今度はこちらが何をしたいのかを相手に教えることになる。
違う攻防から、同じ状況へ近づける。相手が自分で選んだつもりの返球や動きが、いつの間にか大喜の欲しかったものへ重なっていく。匡には途中で気づかれ、針生にはさらにその先まで読まれたが、自分が次に伸ばしたいものははっきりした。
大喜は交差点を曲がった。今日は少し距離を伸ばすつもりだったため、普段よく使う川沿いではなく住宅街を抜ける道を選んでいる。このまま進めば、昔から知っている公園の近くを通り、別の道から家へ戻ることができる。千夏の部屋には、もう紙袋を置いてきた。大喜は呼吸の速さを確かめながら、そのまま住宅街の向こうにある公園へ向かって走っていった。