しばらく走っても、大喜はペースを上げなかった。午前から使い続けた脚にはまだ重さがあり、呼吸が乱れない程度の速さで住宅街を抜けていく。普段なら川沿いを回って家へ戻るところを、今日は距離を少し伸ばしただけだった。
千夏には、チケットとメモを入れた紙袋を置いてきた。帰宅した千夏があれを見てどうするのかは分からないが、走り出してからはそのことを考え続けることもなかった。角を曲がるたびに脚の感覚を確かめ、午後の練習で使った身体をゆっくりほぐしていく。
住宅街の向こうに公園の木々が見え始めたところで、バスケットボールが地面を打つ音が聞こえてきた。何度か続くドリブルの音に、子どもたちの声が重なる。休日の夕方なら珍しくもない。大喜はそのまま走りながら、公園の入口を通り過ぎるつもりでコートの方へ目を向けた。
ゴールの下には、小学生くらいの子どもが三人いた。一人がリングへ向かってボールを投げる。バックボードにも当たらず外れたボールが横へ跳ね、それを少し離れた場所にいた女の子が拾った。片手で受け止めると、そのまま投げ返す。大喜は思わず足を止めた。
夢佳だった。展望台で会った時とは服装も違い、今日は動きやすそうなパーカーにパンツ姿だった。子どもたちと同じように走り回っているわけではない。外れたボールを拾って返し、パスを求められれば受け取り、時々リングへ向かってシュートを打つ。その程度だった。夢佳が放ったボールがリングへ吸い込まれると、子どもの一人が声を上げた。
「また入った!」
「今のは近かったから」
「じゃあ、もっと遠くからやって」
「何で私がやるの」
口ではそう言いながら、夢佳は子どもから返ってきたボールを受け取った。今度は一歩後ろから打ち、リングの手前へ当たったボールがそのまま中へ落ちると、子どもたちがまた騒いだ。
展望台で千夏へ向けていた声とは違った。だからといって、大喜にはそれ以上のことは分からない。ここに来ればいつも子どもたちと遊んでいるのか、たまたま今日だけ付き合っているのかも知らない。バスケットボールをすることをどう思っているのかなど、なおさら分かるはずがなかった。
大喜は公園の外周に近い場所で立ち止まり、首に掛けていたタオルで汗を拭いた。一人の男の子が、同じ位置から三度続けてシュートを外した。ボールを拾った夢佳が返そうとしたところで、その子が悔しそうに両手を伸ばす。
「もう一回」
「さっきからそこだと届いてないじゃん」
「届くし」
「じゃあ一回、半歩前」
夢佳はボールを渡した後、自分の足元を指した。
「あと、さっきボール下から持ちすぎ。もうちょっと顔の前から打ってみたら」
「こう?」
「そんな感じ。リング見てから」
男の子が言われた通りに構え直す。放ったボールはバックボードへ当たり、そのままリングの中へ落ちた。
「入った!」
飛び跳ねる男の子を見て、夢佳が笑った。大きな笑い声ではなかった。ただ、からかわれた時に作った笑顔でも、誰かに見せようとした表情でもなく、ボールが入った瞬間にそのまま出たように見えた。次のボールが夢佳へ飛んでくる。受け取ろうとした夢佳の顔が、コートの外にいる大喜の方へ向いた瞬間、その動きが止まった。さっきまで残っていた笑顔も消える。
「夢佳姉ちゃん、パス!」
子どもの声で夢佳は我に返り、抱えていたボールを投げ返した。大喜はそのまま走り出すことも考えた。それでも、すぐには足が動かなかった。
展望台で千夏と夢佳が向き合っていた時のことが浮かぶ。子どもたちは、大喜と夢佳の間に流れた空気など気づいていない。今度は二人でパスを回し始め、その輪へ夢佳も呼ばれていた。
大喜はコートから離れたベンチの近くまで移り、持ってきたボトルから水を飲んだ。走り続けてきた呼吸を整えながら、夢佳たちの方を意識して見ないようにする。十分もしないうちに、公園の時計を見た一人が声を上げた。
「やば、帰らないと」
「俺も」
「じゃあ最後一回!」
最後と言いながら二本ほど余計にシュートを打った後、子どもたちはようやくボールを持ってコートを出た。
「夢佳姉ちゃん、またね」
「うん。暗くなる前に帰りな」
「次はもっと遠くから入れるから」
「まず今日入ったところから安定させな」
子どもは納得していない顔をしながらも手を振り、友達と一緒に公園の出口へ走っていった。夢佳はその背中が見えなくなるまで立っていた。誰もいなくなったコートに静けさが戻る。車の走る音や、遊具の近くに残っている親子の声が聞こえるようになった。夢佳が大喜へ向き直った。
「何でいるの?」
展望台の時ほど刺々しくはない。それでも、偶然会えて嬉しいという聞き方ではなかった。大喜はボトルの蓋を閉め、ベンチから立ち上がる。
「走ってたら、たまたま通っただけです」
「この辺走るんだ」
「今日はちょっと遠回りしてたんで」
「……ふうん」
夢佳は大喜のランニングウェアを一度見て、それ以上は疑わなかった。代わりに、さっきまで子どもたちがいたコートへ顔を向ける。
「別に、バスケしに来てたわけじゃないから」
「はい」
「子どもに付き合ってただけ」
「そうなんだ」
「……何、その返し」
「いや、そうなんだなって」
「他に何か思わないの?」
「何かって?」
「……もういい」
夢佳はそこで話を切った。大喜も、さっきのシュートについて尋ねることはしなかった。子どもへ教えていた理由も、いつからここへ来ているのかも聞かない。しばらく沈黙が続いた後、夢佳の方が先に口を開いた。
「じゃあ何でまだいるの?」
「え?」
「走ってただけなら、もう行けばいいじゃん。さっきから何か言いたそうにしてるし」
「そんな顔してました?」
「してる」
大喜は否定しなかった。言うかどうかを前から考えていたわけではない。ここで会わなければ、わざわざ夢佳を探してまで伝えようとも思っていなかった。ただ、目の前に夢佳がいる。それなら、展望台から残っていたことを一つくらい伝えてもいいのかもしれないと思った。
「この前、ちーちゃんと夢佳さんが話してた時、ちょっと思ったことがあって」
「ナツのこと?」
「二人のことです」
夢佳の表情が固くなる。
「何?」
「なんか、二人とも昔の相手に向かって話してるみただなって」
「どういう意味?」
「夢佳さん、この前ちーちゃんに、昔はそんなことしてなかったとか、変わったって言ってたじゃないですか」
「言ったけど」
「だから、昔のちーちゃんと比べてるんだろうなって」
夢佳は反論しなかったが、先を促すように大喜を見ている。
「でも、ちーちゃんも今の夢佳さんのこと、ほとんど知らないし。この前までどこにいるのかも分からなかったから」
「……だから?」
「二人とも、昔の相手を見たままなのかなって思っただけです」
風がコートを抜け、フェンスの向こうの木を揺らした。夢佳はすぐには返さなかった。
「気のせいじゃない?」
「そうかもしれないけど」
「だったら何」
「俺、二人の間に何があったか全部知ってるわけじゃないから」
あっさり認められたことが意外だったのか、夢佳は返す言葉を止めた。
「でも、この前の夢佳さん、怒って言い方きつかったじゃないですか」
「怒ってないけど」
「じゃあ、何であんな言い方したのかなって」
「大喜には関係ないでしょ」
「まあ、それはそうなんだけど」
大喜が素直に認めると、夢佳が拍子抜けしたような顔をした。何があったのか。どうしてバスケを辞めたのか。どうして千夏と離れたのか。気になることはあったが、それを聞き出すために話しているわけではない。大喜はそこで話を変えた。
「でも、二人とも昔から頑固だったから」
「何それ」
「一回こうだって思ったら、なかなか変えなかったじゃないですか」
「ナツと一緒にしないで」
「夢佳さんも結構そうだったよ」
「大喜に言われたくないんだけど」
「俺も?」
「そうでしょ。小さい頃、できないって言われたらできるまでやってたじゃん」
「それは今もあんまり変わってないかも」
「ほら」
久しぶりに、会話から棘が抜けた。大喜は、昔三人でいた頃の空気を一瞬だけ思い出した。千夏の隣に夢佳がいて、自分が何か言えば二人からそれぞれ返される。ずっと昔のことだが、こうして話していると残っているものもあった。だからといって、今の夢佳まで昔と同じだと思うつもりはない。
「俺、昔の二人を知ってるから、余計そう見えただけかもしれない」
「何が?」
「昔の二人を見たままじゃなくて、一回くらい、今の二人で話してもいいんじゃないかなって。それだけです」
夢佳の顔から、先ほどまでの軽い呆れが消えた。大喜はその反応を見ても、続きを付け足さなかった。千夏がどれだけ練習しているか、ウィンターカップへ向けて何を考えているか、夢佳ともう一度話したいと思っていることも、大喜が代わりに伝えることではない。しばらくして、夢佳が口を開いた。
「大喜って、昔から余計なこと言うよね」
「そこは変わってなかったみたいですね」
「褒めてないから」
「分かってます」
夢佳はまだ何か言いたそうにしていたが、大喜は答えを待たなかった。ボトルを持ち直し、公園の出口へ身体を向ける。
「じゃあ、俺もう行きます」
「……本当にそれだけ?」
「それだけです。走ってる途中だったんで」
「そう」
大喜は数歩進んでから振り返った。
「じゃあ、また」
「またって、会う予定ないでしょ」
「昔も別に予定立てて会ってなかったじゃないですか」
「それ小学生の時の話だから」
「確かに」
夢佳の呆れた顔を最後に見て、大喜は今度こそ走り出した。公園の外へ出る頃には、さっきまでより空が暗くなっていた。住宅街には街灯が点き始め、家々の窓から夕食の明かりが漏れている。大喜は来た時より少し速くなっていたペースを落とし、午前から使い続けた脚の感覚を確かめながら家へ向かった。
夢佳へ言ったことが正しかったのかは分からないし、余計なことだと言われたのもその通りかもしれない。それでも、聞かれてもいない事情を探ることはせず、自分があの時感じたことだけは伝えた。
それ以上考えるのをやめ、大喜は呼吸へ意識を戻した。大喜の背中が見えなくなった後も、夢佳はすぐには公園を出なかった。誰もいなくなったバスケットコートを前に、事情を何も知らないくせに、と最初に思う。千夏が何をしてきたのかも、自分がどうしてバスケを辞めたのかも、大喜は知らない。それなのに昔の相手を見たままだと言われる筋合いはない。
けれど、大喜は千夏が正しいとは言わなかった。夢佳が間違っているとも言わず、さっき子どもたちとボールを触っていたことについても何も聞かなかった。残ったのは、昔の相手に向かって話しているみたいだった、という言葉だけだった。
夢佳はコートの端へ目をやった。さっきまで子どもたちが使っていた場所には、もうボールも残っていない。展望台で見た、大きなジャージを着て大喜と手をつないでいた千夏の姿が浮かんだが、その光景を見た瞬間に自分が何を思ったのかまでは考えなかった。考え始めれば、別のことまで思い出しそうだった。ポケットからスマートフォンを取り出して時間を確認し、夢佳は公園を後にした。
大喜が家へ着いた頃には、辺りはほとんど暗くなっていた。玄関を開けると、出る時にはなかった千夏の靴が並んでいる。キッチンから夕食の支度をする音が聞こえ、母が大喜に気づいて声をかけた。
「おかえり。思ったより走ってたね」
「ただいま。途中でちょっと止まってたから」
「千夏ちゃんも帰ってきてるよ。練習試合で疲れたみたいで、帰ってきてから部屋で休んでる」
「そっか」
大喜は靴を脱いで二階へ上がった。千夏の部屋の前を通ると、ドアノブに掛けていた紙袋はもうない。それだけ確認して洗面所へ向かい、手を洗って顔の汗も流していると、二階から扉の開く音がした。タオルで顔を拭きながら廊下へ出ると、千夏が階段を下りてくるところだった。遠征帰りのジャージから部屋着へ着替えているものの、長い一日だったことは歩き方からも分かる。大喜に気づくと、千夏が声をかけた。
「大喜くん、おかえり」
「ただいま。ちーちゃんもおかえり。練習試合どうだった?」
「疲れた。今日は結構長かったから」
「そっか。お疲れさま」
「うん。あと、紙袋ありがとう。ゼリー、もう飲んじゃった」
「いいよ。腹減ってるかなと思って」
「ちょうどよかった。帰りのバスでも補食食べたんだけど、それでもお腹空いてたから」
「それならよかった」
千夏はそこで一度言葉を止めた。
「チケットも見た」
「うん」
「ありがとう」
「うん」
大喜の頭には、公園にいた夢佳の姿が浮かんだ。子どもたちへボールを返していたことも、自分が話したことも、今ならそのまま千夏へ伝えられる。けれど、大喜は口にしなかった。千夏も、チケットをどうするつもりなのかは言わない。代わりに大喜は、朝から遠征していた千夏の方へ話を戻した。
「ちーちゃん、夕飯食べたら早めに休んだ方がいいんじゃない? 朝からだったし」
「そうする。明日は普通に練習あるから」
「俺も」
「大喜くんも今日一日練習だったでしょ。走りにも行ってるし」
「今日は軽くしか走ってないよ」
「それでも走ってるからね」
「ちーちゃんに言われたくない気もする」
「私は今日はもう走らないよ」
「それもそうか」
千夏が笑ったところで、階下から夕食ができたと母の声が届いた。食卓では練習試合のことを母から尋ねられ、千夏は帰りが予定より遅くなったことや、相手校との練習が長引いたことを話した。大喜も自分の練習について話したが、夢佳については話さなかった。
夕食を終えると、千夏は自室へ戻った。机の上には、大喜がドアノブへ掛けていた紙袋が置いてある。ゼリー飲料は帰ってすぐに飲み、空になった容器はもう片づけていた。残っているのは無地の封筒だった。
千夏は椅子へ座り、封筒からチケットを取り出す。ウィンターカップ初戦の日付と会場が印刷されている。大会そのものについて迷うことはなかった。そこへ向けて練習してきたし、明日も体育館へ行く。勝って先へ進みたいという気持ちも変わっていない。
問題は、この一枚をどうするかだった。大喜が誰を思い浮かべて受け取ったのかは、考えなくても分かった。それでもメモには夢佳の名前がなく、見に来てもらいたい人がいれば、と書かれているだけだった。千夏はチケットの日付を見ながら、展望台で夢佳と向き合った時のことを思い返した。自分は全国制覇を諦めていないと伝え、夢佳からは変わったと言われた。あの日はそれ以上何を話せばいいのか分からなかった。
今このチケットを持って夢佳のところへ行き、試合を見に来てほしいとだけ伝えても、同じことになる気がした。見てもらいたいものがあるなら、その前に話さなければならないことがある。けれど、何をどこまで聞くのかはまだ決まらない。夢佳が今何を考えているのか、何をして過ごしているのか、自分がそこへ踏み込んでいいのかも分からなかった。
千夏は答えを出さないまま、チケットを封筒へ戻して机の端へ置いた。そのまま明日の練習で使うバッグを確認する。遠征で使ったウェアは洗濯へ出してあり、次の日に必要なものは足りている。明日になれば、また体育館へ行く。机の上には、無地の封筒が残っていた。