数日後、練習を終えて体育館を出た時には、空はすでに夕方の色に変わり始めていた。千夏は部活バッグを肩へ掛け、校門を出たところでいつもの帰り道とは反対へ曲がった。朝から行くと決めていたわけではない。学校にいる間も、練習中も、なるべく目の前のことへ集中していた。ただ、練習を終えてバッグを開いた時、着替えの下へ入れておいた無地の封筒が目に入った。大喜から受け取ったウィンターカップ初戦のチケットが、その中に入っている。
このまま家へ帰って、また机の上へ置いてもいい。夢佳へ渡すと決めたわけではないし、今日でなければならない理由もなかった。それでも千夏は駅へ向かう人の流れから外れ、そのまま歩き続けた。大喜の母が夢佳を見かけたという歯科医院は、何度か買い物へ来たことのあるスーパーからそれほど離れていない。家とは駅を挟んで反対側になるため普段はほとんど通らないが、場所はすぐに分かった。
歩きながら、展望台で夢佳と向き合った時のことが浮かぶ。あの日の千夏は、「変わった」「諦めた」と言われて、違うと返すことしかできなかった。夢佳がなぜあんな言い方をしたのかを後から何度も考えたのに、本人が今何を考えているのかは聞いていない。
それなのに、自分は長い間、夢佳のことを知っているつもりだった。どこの高校へ進んだのかも、今どこで暮らしているのかも、バスケを辞めてから何をしているのかも知らないまま、いつか夢佳の方から話してくれるのだと思っていた。
信号が青へ変わり、千夏は横断歩道を渡った。そのままスーパーの前を通り過ぎると、白い外壁の歯科医院が見えてくる。一階の大きな窓には診療時間が書かれ、まだ受付にも明かりがついていた。千夏は入口の前まで行ったものの、そのまま扉を開けることはしなかった。患者でもないのに仕事中の夢佳を呼び出すのは違う気がしたため、道路を挟んだ向かいへ移り、スマートフォンで時間を確認する。
待っていればいい。そう決めてしまうと、そこから迷うことはなかった。十分ほどして、医院から親子連れが出てきた。その後も何人かの患者が出入りし、外の明るさが一段落ちた頃、入口近くに見覚えのある横顔が現れた。夢佳だった。
制服ではなく、医院のスタッフと同じような服を着ている。受付の奥で書類をまとめ、棚から取り出したものを別のスタッフへ渡し、呼ばれればそちらへ向かう。特別なことをしているわけではないのに、周囲の人と短く言葉を交わしながら、自分がすることを分かって動いていた。千夏は声をかけず、その姿を見ていた。
小学生の頃、夢佳と会う場所といえば体育館か学校か、お互いの家だった。バスケをしていた頃の夢佳なら、いくらでも思い出せる。シュートを外して悔しがる顔も、練習が終わると急に別の話を始めるところも、自分より先に帰ると言いながら結局残っていた日も覚えている。けれど、目の前にいる夢佳の日常を千夏は知らなかった。ここでどんなふうに過ごし、誰と話し、どんな顔で家へ帰るのかも知らない。
やがて夢佳が受付の奥へ消え、しばらくして普段着姿で医院から出てきた。肩からバッグを掛け、スマートフォンを確認しながら歩き始めたところで、道路の向こう側に立つ千夏へ気づいた。夢佳の足が止まる。千夏は信号が変わるのを待って道路を渡った。近づいていく間も、夢佳はその場から動かなかった。
「……ナツ?」
「うん」
「何でここにいるの?」
「大喜くんのお母さんが、前に夢佳をこの辺で見たって聞いたから」
「それで来たの?」
「うん」
「……何しに?」
最後の言葉だけが硬かった。千夏は一度、歯科医院の方を見た。まだ診療中の建物の前で話し続けるのも落ち着かない。
「ここだと邪魔になるよね。駅まで歩いていい?」
「私、帰るところなんだけど」
「じゃあ途中まで」
「……勝手にすれば」
夢佳は先に歩き出し、千夏もその隣へ並んだ。駅へ続く道には仕事帰りの人や、買い物袋を持った人が行き交っている。二人で横に並んで歩くのが何年ぶりなのか、千夏にはすぐ思い出せなかった。以前なら練習や学校の話をして、沈黙が長く続くことなどほとんどなかったはずなのに、今は互いの足音ばかりが耳へ入った。最初に口を開いたのは千夏だった。
「夢佳、ここで働いてるんだね」
「見れば分かるでしょ」
「うん。でも知らなかったから」
「言ってないし」
「そうだね」
夢佳が横目で千夏を見る。何か言い返されると思っていたような顔だった。千夏は前を向いたまま続けた。
「この前、何で何も話してくれなかったんだろうって思ってた」
「……何のこと?」
「バスケ辞めたことも、高校のことも。私、何も知らなかったから」
「今さらでしょ」
「うん。今さらだと思う。でも、今日ここに来て分かった。私も夢佳のこと、全然知らなかった」
夢佳は何も返さなかった。交差点の手前で信号が赤になり、二人は並んで足を止める。向かい側では同じくらいの年頃の女子生徒が二人、楽しそうに話していた。
「ずっと一緒にいたから、分かってるつもりだったのかも。夢佳ならこう思うとか、何かあったら話してくれるとか。でも、今どこで何してるかも知らなかった」
「……だから?」
「今の夢佳と話したくて来た」
「今の私って何」
「そのまま。私が知らない夢佳」
「知ってどうするの?」
「まだ分からない。でも、知らないまま終わるのは嫌だった」
信号が青へ変わり、二人は再び歩き出した。夢佳はしばらく黙っていたが、やがて前を向いたまま言った。
「別に、知ったって面白いことないよ。学校行って、ここ手伝って、帰るだけだし」
「そういうことだけ聞きたいわけじゃないよ」
「じゃあ何」
「夢佳が、何で私から離れたのか」
夢佳の足が止まった。千夏も数歩先で立ち止まり、振り返る。夢佳は眉を寄せていた。
「結局それ聞きに来たんじゃん」
「それも聞きたい」
「さっき今の私と話したいって言ったくせに」
「昔のことを聞いたら、今の夢佳じゃなくなるわけじゃないでしょ」
夢佳は返さなかった。自転車が一台近づいてきたため、千夏が道の端へ寄ると、夢佳も遅れて同じ方へ動いた。通り過ぎるのを待ってから、千夏は夢佳を見る。
「言いたくないことまで全部話してほしいとは思ってない。でも、一つだけ聞いていい?」
「何」
「バスケ辞めたのも、別の高校に行ったのも、ご両親のことが関係してた?」
夢佳の表情が変わった。
「関係ない。家のことと、それは別だから」
「そうなんだ」
「名字が変わったからって、何でもそこにつなげないで」
「ごめん」
「別に謝ってほしいわけじゃないけど」
夢佳はまた歩き始め、千夏も追いついた。気になっていたことの一つには答えが出た。けれど、夢佳が自分から離れた理由はまだ何も分かっていない。今度は夢佳の方から続けた。
「バスケ辞めたから。それだけ」
「それだけ?」
「私がバスケ辞めて、ナツは続けた。学校も別になったし、一緒にいる理由もなくなったでしょ」
「私はそう思ってなかったよ」
「ナツがどう思ってたかは知らない」
「うん。話してなかったからね」
夢佳の口が止まった。千夏は一度呼吸を置いてから、ずっと引っかかっていたことを口にした。
「でも、本当にそれだけなら、夢佳は私のこと嫌いって言わなくてもよかったと思う」
夢佳の表情から力が抜けた。歩道を行き交う人の声が続いている。千夏は今でも、夢佳に嫌いだと言われた時のことを覚えていた。何を返せばいいのか分からず、帰ってから何度もメッセージ画面を開いて、それでも何も送れなかった。今になって、その言葉を責めたいわけではない。ただ、理由だけがずっと分からなかった。
「会わなくなるだけなら、嫌いって言う必要はなかったよね」
「……今さら、それ知って何になるの?」
「何かをやり直せるとは思ってないよ」
「じゃあ別にいいじゃん」
「よくない。私はずっと、夢佳に嫌われたんだと思ってたから。それが本当なら、それでもいい。でも何も知らないまま、ずっとそう思ってるのは嫌なの」
夢佳が振り向いた。千夏はそこで言葉を止めず、自分の方にもあったものを口にする。
「それに、私は夢佳のこと分かってるつもりだった。夢佳ならそのうち話してくれるって、勝手に思って待ってた。だから、私も夢佳のことをちゃんと知ろうとしてなかったと思う」
「別に、ナツなら言わなくても分かると思ってたわけじゃない」
「うん」
「分かってほしかったわけでもないし」
「うん」
「むしろ……」
夢佳の声が途中で止まった。千夏は続きを促さなかった。夢佳は何かを言いかけたまま口を閉じ、やがて首を横に振った。
「ナツと話すことはない」
はっきりと切られた言葉だった。千夏は追いかけるように質問を重ねなかった。ここまで来た以上、夢佳が嫌いと言わなければならなかった理由も、さっき飲み込んだ言葉の続きも知りたい。それでも、夢佳が自分へ話さないと決めたことまで押し崩して聞くのは違う。
「分かった」
夢佳は答えなかった。駅前が近づき、人通りが増えていく。このまま別れれば、聞きたかったことの多くは分からないままだ。それでも千夏には、もう一つだけ自分から伝えるために持ってきたものがあった。千夏は足を止め、部活バッグを開いて無地の封筒を取り出した。二歩ほど先へ進んだ夢佳も気づいて振り返る。
「あと、これ」
「何?」
「ウィンターカップの初戦のチケット」
「……何で私に?」
「夢佳に渡したくて持ってきた」
「だから、何で」
「試合、見に来てほしいから」
夢佳は封筒を見たまま、手を出さなかった。
「今さら私がナツの試合を見に行く理由ないでしょ」
「夢佳にはないかもしれない」
「じゃあ――」
「でも、私は来てほしいと思ってる」
夢佳が言葉を止める。千夏は封筒を下ろさなかった。
「昔一緒にバスケしてたからじゃないよ。夢佳に、もう一回バスケしてほしいからでもない」
「じゃあ何」
「今の私を見てほしいから」
夢佳の目が千夏へ戻った。
「この前夢佳が言ったみたいに、昔と変わったところはあると思う。高校に入ってからもいろんなことがあったし、ずっと同じではないから。でも、全国制覇を目指してるのも、バスケが大事なのも変わってない。それを私がここで説明するより、今の私を見てもらった方がいいと思った」
「私が見て、何になるの?」
「それは分からない。でも、夢佳が見たからって何かを変える必要はないよ。バスケをまたやらなくてもいいし、私と昔みたいに戻らなくてもいい」
千夏はそこで一度言葉を切った。
「でも、私は夢佳に来てほしい」
夢佳はまだ手を出さない。千夏も封筒を押しつけず、その場で待った。やがて、夢佳が手を伸ばした。指先が封筒の端をつかみ、千夏が手を離すと、それは夢佳の手へ移った。
「行くとは言ってないから」
「うん」
「予定あるかもしれないし」
「うん」
「……何でそんなあっさりしてるの」
「来るかどうかは夢佳が決めることだから。私は来てほしいって伝えたかっただけ」
夢佳は封筒を持ったまま何も言わなかった。千夏は部活バッグのファスナーを閉じる。聞きたかったことの答えは得られなかったし、夢佳が途中で飲み込んだ言葉の続きも分からない。それでも、自分が今日伝えたかったことはもう残っていなかった。
「じゃあ、帰るね」
千夏はそのまま夢佳へ背を向けた。夢佳から返事はなく、数歩進んでも千夏は振り返らなかった。チケットを受け取ったからといって、夢佳が試合へ来るとは限らない。今日話したことで二人の間にあったものが消えたわけでもなければ、「話すことはない」と言われた事実も変わらなかった。
それでも、展望台で会った時とは違う。あの日は夢佳から投げられた言葉へ返すだけだったが、今日は自分から会いに来て、聞きたかったことを聞き、言いたかったことを伝えた。ここから先は、自分だけで決められることではない。千夏は歩く速さを変えず、そのまま家へ向かった。
夢佳は千夏の背中が人の流れに隠れて見えなくなっても、その場から動かなかった。手元の封筒をしばらく見てからバッグの内ポケットへ入れ、ファスナーを閉じる。
その日の夢佳は、チケットを取り出さなかった。
ウィンターカップ初戦当日。試合会場へ向かう選手や観客の流れから少し離れたところに、夢佳は立っていた。自分でも、会場まで来たことが不思議だった。行くとは言っていない。そのつもりは今も変わらないのに、朝になって支度をし、電車へ乗り、千夏から渡されたチケットを持ってここまで来ていた。
来る前、彼氏にも言われた。苦しかったことや嫌だったことを全部別にしたら、今でもバスケは好きなんじゃないか。迷っているなら見てくればいい、その後デートしよう。公園で大喜から言われたことも、まだ頭の片隅に残っている。それでも、二人に言われたから来たわけではなかった。
夢佳はバッグからチケットを出すと、そのまま受付へ向かった。係員に半券を切られ、返されたチケットを受け取って館内へ入る。体育館へ近づくにつれて、ボールが床を叩く音やシューズの擦れる音、ベンチや観客席から飛ぶ声が重なって聞こえてきた。
久しぶりに大会会場の中で聞く音だった。強いドリブルが聞こえれば誰かが仕掛けたのだと思い、ホイッスルが鳴ればどこでプレーが止まったのかを確かめたくなる。考えてそうしているというより、昔何度も繰り返したことを身体が覚えていた。
観客席へ続く階段を上がると、コートでは両チームがアップをしていた。夢佳は人の少ない端の席へ座り、栄明の選手たちへ目を向けると、千夏はすぐに見つかった。チームメートとパスを回し、シュートを打った後はそのままリバウンドへ入っている。隣の選手から何か言われれば答え、自分から別の選手へ立ち位置を伝えることもあった。観客席は一度も見ない。夢佳が来ていることなど知らないまま、試合の準備をしている。
数日前に言われた言葉が浮かぶ。今の私を見てほしい。試合開始を告げる笛が鳴った。
序盤、栄明の攻撃は思うようにつながらなかった。千夏が右側から仕掛けても、相手は早い段階で二人目が寄って中への道を塞ぐ。無理に打ち切らず外へ戻したが、受け手とのタイミングがずれ、一度攻撃が止まった。別の選手が中へ入った場面でも相手の守備が集まり、栄明が狙っていた形を簡単には作らせてもらえない。
夢佳には、こういう時の昔の千夏が思い浮かんだ。誰かが止められれば、自分が行く。自分が失敗すれば、次でもう一度ボールを受ける。苦しくなるほど、自分が何とかしようとする選手だった。それで助けられたことも何度もある。プレーが止まった短い時間に、千夏が渚や近くの選手へ声をかけた。
「中、寄るの早いね」
「最初から二人目来てる。外使おう」
「じゃあ私、一回引っ張る。空いたらそのまま打って」
「うん。逆も見る」
再開すると、千夏は先ほどと同じ位置でボールを受けた。相手がまた中へ寄ったところで奥まで入らず、守備を引きつけて外へ出す。空いた選手が迷わずシュートを打ち、ネットを揺らした。相手もすぐに対応を変えたが、今度は栄明も一つの形に固執しなかった。千夏が守備を引きつければ別の選手が空いた場所へ入り、渚が中へ仕掛ければ千夏が外から次のパスを待つ。最初は止められていた攻撃が、少しずつつながっていった。
次の守備では、味方が一度抜かれたところへ千夏が横から入り、相手をそのままシュートへ行かせなかった。逆に千夏が出したパスへ相手の手が触れた場面では、渚が床へ飛び込んでこぼれ球をつなぐ。プレーが切れたところで、千夏が渚へ声をかけた。
「ごめん、助かった」
「次返して」
「任せて」
その直後の守備では、千夏が一歩早く相手の進路へ入り、外へ逃げたパスを渚が読んで奪った。二人はそのまま同時に前へ走っていく。夢佳はいつの間にか、千夏だけではなくコート全体を追っていた。昔の千夏が仲間を信頼していなかったわけではない。ただ、苦しい時ほど自分で背負おうとしていたのは覚えている。
今も、味方が抜かれれば自分が埋めに行き、攻撃が止まればボールを受けに行くところは変わっていない。その一方で、自分が止められれば空いた味方を使い、自分の失敗を仲間に助けられることも受け入れている。チームの中で戦う千夏を、夢佳は知らなかった。
試合が進むにつれて、見るつもりのなかったものまで目に入るようになった。相手が守備を変えれば次にどこが空くのかを考え、栄明のシュートが外れれば誰がリバウンドへ入ったのかを探す。ただ千夏を見に来たはずだったのに、いつの間にか試合そのものを追っていた。
その頃、大喜は栄明の体育館で男子バドミントン部の練習を続けていた。千夏から夢佳へチケットを渡したことだけは聞いているが、実際に見に来たかどうかは知らない。今日が初戦なのは当然覚えていて、休憩の合間に一度だけ時計を見て、今頃試合中だろうかと思った。それでも次の練習が始まれば、大喜はラケットを握り直した。今、自分がやることは目の前のコートにある。
再び試合会場では、終盤に入って相手が栄明の流れを押し返し始めていた。守備の当たりが強くなり、ボールを奪えば一気に前へ走る。栄明が戻り切れないまま一本を許すと、続けて外からも決められ、観客席の空気が変わった。栄明は焦って打ち返そうとはしなかった。プレーが止まったところで近くの選手同士が集まり、短く確認を交わす。
「一回落ち着こう」
「次、中入ったら逆空くよ」
「リバウンド先に押さえよう」
「うん。まず一本」
コートへ戻る千夏の顔を見て、夢佳は昔の試合を思い出した。負けたくない時の顔だった。そこは変わっていない。
相手の攻撃を止め、栄明がボールを運ぶ。渚が中央で受け、千夏は右へ動いた。相手も千夏を警戒してついていき、ボールが一度別の選手へ渡る。その選手が中へ仕掛けたことで守備が寄り、千夏へボールが戻った。
夢佳は、今度こそそのまま行くと思った。けれど千夏は一度外へ預け、自分も止まらず動く。パスを受けた味方が逆側へボールを運び、守備がそちらへ引かれた瞬間、千夏が空いた位置へ入り直した。そこへボールが戻り、千夏が構える。夢佳の身体が、考えるより先に椅子から離れた。
「いけっ、ナツっ!」
声を出した後で、自分が立ち上がっていることに気づいた。千夏の手から離れたボールが弧を描き、そのままネットを抜ける。栄明のベンチから大きな声が上がった。守備へ戻ろうとしていた千夏が観客席を見た。聞こえた声の主を探し、やがてその目が夢佳のいる場所で止まる。距離があっても、互いに見間違えなかった。
千夏の顔に驚きが浮かび、夢佳も立ったまま動けなかった。次の瞬間、千夏が片手を上げ、人差し指を一本立てる。昔、二人で何度も交わした合図だった。終わった一本を引きずらず、次へ行くための合図。夢佳の手も自然に上がった。同じように指を一本立てる。
「一本!」
千夏は一度だけ頷いた。それ以上、二人は何も交わさなかった。千夏はすぐに観客席から目を離し、チームメートと一緒に自陣へ戻っていく。夢佳も椅子へ座り直した。コートでは、もう次のプレーが始まっていた。