夢佳と目が合った時間は、ほんの数秒だった。千夏はすぐにコートへ意識を戻した。相手はまだ諦めておらず、点差を詰めるために守備の位置を上げ、ボールを持った選手へ早く寄ってくる。栄明も無理に一本を取り返そうとはせず、声を掛け合いながら残り時間を使った。
相手が中へ仕掛けた場面では、千夏が進路を狭めたところへ後ろから味方が入り、苦しい体勢のシュートにさせる。外れたボールを渚が確実に押さえ、そこからは急がずに運んだ。続く攻撃でも、千夏が自分で打ち切るのではなく、一度外へ預けて守備を動かし、空いた味方へつないだ。最後まで、誰か一人で守ったわけでも、誰か一人で点を取ったわけでもなかった。
試合終了の笛が鳴った。栄明のベンチから声が上がり、コートへ出ていた選手たちが近くの仲間と手を合わせる。千夏も渚と肩をぶつけるようにして笑った。初戦突破が決まった安堵と喜びが広がる中、握手を終えた千夏は観客席へ顔を上げた。
夢佳が座っていた場所には、もう誰もいなかった。そこにいたことは間違いない。自分を呼ぶ声も聞いたし、「一本」の合図も交わした。それでも、試合が終わるまで残っていたのか、もう帰ってしまったのかまでは分からない。
「千夏、戻るよ」
渚に呼ばれ、千夏は観客席から目を離した。
「うん」
来てくれた。今は、それだけを持ってコートを離れればよかった。試合を終えた千夏が体育館の外へ出たのは、それからしばらくしてからだった。着替えを済ませ、チームのコートを羽織っている。出口の近くでは試合を終えた選手や保護者が行き交い、冬の冷たい空気が扉の開閉に合わせて流れ込んでいた。
渚と並んで歩いていた千夏は、壁際に立つ人影を見つけて足を止めた。夢佳だった。バッグを肩へ掛け、両手をコートのポケットに入れている。千夏が出てくるまで待っていたらしく、こちらに気づいても帰ろうとはしなかった。
「夢佳……」
渚も千夏の視線を追う。
「夢佳じゃん」
「うん。渚、先にみんなのところ戻ってて」
「分かった。監督が移動する前には戻ってきてね」
「うん」
渚は夢佳にも軽く手を上げ、そのまま部員たちの方へ戻っていった。千夏が近づくと、夢佳は壁から身体を離した。
「初戦突破、おめでとう。いい試合だったね」
「ありがとう。……待っててくれたんだ」
「まあ、話してから帰ろうかなって」
「そっか」
そこで会話が止まった。夢佳は試合が終わってから一度、駅へ向かおうとしていた。それでも足が出口を越えなかった。あの試合を見て、自分の中に残ったものを千夏へ何も言わずに帰れば、また以前と同じになる気がした。
千夏は昔のままではなかった。うまくいかない場面もあった。仲間に助けられた場面もあった。それでも次のプレーになれば顔を上げて、今度は自分が仲間を助けていた。迷わず努力できるから続けられる人間なのだと、いつの間にか夢佳は千夏をそういう存在にしていた。今日見た千夏は、そんなに簡単な選手ではなかった。
夢佳が口を開いた。
「この前のこと、謝ろうと思って」
「この前?」
「展望台で会った時。男と遊んでるなら全国なんてもう諦めたんだ、みたいなこと言ったでしょ」
「うん」
「今日見て、あれは違ったと思った。私が今のナツを知らなかっただけだった」
夢佳は一度、体育館の入口へ目を向けた。
「昔のナツならこうするって、ずっと私の中で決めてたんだと思う。それと違って見えたから、勝手に変わったって思った。でも今日見てたら、違うところは確かにあったけど……バスケに手を抜いてるわけでも、全国を諦めてるわけでもなかった」
「夢佳」
「何も知らないのに、勝手にがっかりしてぶつけた。ごめん」
千夏はすぐには答えなかった。夢佳がここに残って、自分から謝ってくれた。そのことを受け取ってから、千夏は口を開いた。
「ありがとう」
「……怒ってないの?」
「怒ったよ。諦めてないのに、諦めたって言われたから」
「うん。ごめん」
「でも、今日はそれだけじゃなくて」
千夏はそこで夢佳を見た。数日前、駅へ向かう道で聞いた時には、夢佳からはっきり拒まれた。だから追わなかった。今も、無理に答えを求めたいわけではない。ただ、夢佳が自分からここに残ったのなら、もう一度だけ聞いてみたかった。
「夢佳。前に聞いたこと、もう一回聞いていい?」
「……うん」
「どうして、私のこと嫌いって言ったの?」
夢佳の表情が止まった。自動ドアが開き、外の空気が足元を抜けていく。遠くでは別の試合の開始を知らせるアナウンスが流れていた。千夏が何も言わず待っていると、夢佳はバッグの肩紐を握り直してから、低い声で話し始めた。
「私さ。最後の方、バスケの練習行くの、ずっと嫌だった」
「練習が?」
「行けばやるし、試合なら勝ちたいとは思ってた。でも、前みたいに体育館に行くのが楽しみじゃなくなってた」
千夏は黙って聞いた。
「練習しても、前より上手くなってる感じがしなくて。試合でも思ったようにできないことが増えて、それでも次の日になったらまた練習があるでしょ。そのうち、何でこんなにやってるんだろうって思うようになった」
「……うん」
「バスケが嫌いになったって言い切れるほどでもなかった。でも、前と同じくらい好きかって聞かれたら、それも違った」
夢佳はそこで息を吐いた。
「なのに、ナツはずっとやってた」
「私?」
「朝も来るし、練習が終わっても残るし。負けても、次の日にはまた体育館にいた」
千夏には、それが夢佳を追い詰めていたという感覚はなかった。夢佳も責めるようには言わなかった。
「ナツに何か言われたことはないよ。もっと練習しろとか、何でできないのとか。一回もない」
「うん」
「だから余計に、自分が嫌だった」
千夏が顔を上げる。
「ナツが普通にやってることを見て、私もやらなきゃって勝手に思う。でも、本当はもうやりたくない。ナツが悪いわけじゃないって分かってるのに、隣にいるとイライラする時もあった」
「……私に?」
「ナツにも。でも、一番は自分に」
夢佳の声がそこで詰まった。
「ナツのこと、ずっとすごいと思ってたから。前よりバスケが好きじゃなくなってる自分が、ずっと好きなままのナツに腹立ててる。それが一番嫌だった」
最後の大会の日、夢佳は自分のシュートが外れたことを責め、千夏が何を言っても聞こうとはしなかった。それでも千夏が覚えていたのは、夢佳だけではない。打てる場面で打てなかった自分。最後に夢佳へ返したパス。全国へ届かなかった結果。夢佳も、同じ一日を別の形で抱えていた。
「最後の試合が終わった時、負けたのは悔しかった。でも……終わったって思った」
「終わった?」
「もう朝練行かなくていい。次の大会のために練習しなくていい。そう思ったら、ほっとした」
夢佳は唇を結んだ。
「みんな泣いてるのに、私はそれが一番最初に出てきた」
「……そうだったんだ」
「その夜は、これでナツとも普通に遊べるのかなって思った。バスケの予定とか、次の試合とか、そういうの抜きで」
千夏は何も言わなかった。
「でも次の日、体育館の前を通ったら、ナツがいた」
夢佳の声が低くなる。
「一人でシュート打ってた。泣きながら」
千夏の指が動きを止めた。あの朝のことは、今でも覚えている。誰もいない体育館でボールを拾って、また同じ場所へ戻った。涙が出ても、止まる理由にはならなかった。夢佳が見ていたとは知らなかった。
「一本外して、また拾って。泣いてるのに、次も打ってた」
「……」
「それ見た時、分かったんだと思う。私は昨日の試合が終わって、やっと終わったって思ってる。ナツは悔しくて泣きながら、もう次のためにボール持ってる」
夢佳は千夏を見た。
「同じ試合で負けたのに、私とナツはもう全然違うところにいるんだって思った」
千夏は返す言葉を探せなかった。
「あの時、ナツが悪いなんて思ってなかった。むしろ、あんなに悔しがって、それでも練習できるナツがすごいと思ったよ。でも、だから余計に無理だった」
「夢佳……」
「もうナツの隣にはいられないって思った」
夢佳は目元を手の甲で拭った。
「ナツが嫌いだったんじゃない。ナツの隣にいる時の自分が、嫌いだった」
千夏の目にも涙がたまった。ずっと知りたかった理由なのに、聞けたからといって簡単に安心できるものではなかった。
「バスケが前ほど好きじゃないとか、ナツ見てると自分が嫌になるとか、そんなのナツ本人に言えるわけなかった」
「……うん」
「だから、展望台でナツ見つけた時も、勝手に腹立ったんだと思う」
千夏は夢佳を見る。
「私に?」
「ナツ、男とすごい親しそうにしてたし、ジャージまで着てたでしょ。私が知ってるナツと違って見えた。結局は大喜だったんだけど」
夢佳は自嘲するように息を吐いた。
「自分はバスケ続けられなかったくせに、ナツだけはずっと変わらないって、どっかで思ってたのかも。バスケだけ見て、ずっと同じように頑張ってるナツでいてほしかった」
「……」
「だから、それと違うナツ見たら、何も知らないのに勝手にがっかりした」
千夏はすぐには返せなかった。夢佳が自分をどう見ていたのかを初めて聞いた一方で、自分にも思い当たることがあった。
「私も、夢佳のこと分かってるつもりだった」
「ナツが?」
「うん。ずっと一緒にいたから、夢佳なら話したくなったら話してくれるって思ってた。だから待ってた」
「……うん」
「でも、それって夢佳が何考えてるのか、自分から知ろうとしてなかったってことだよね」
夢佳は何も言わなかった。
「私、夢佳が変わったことに気づいてなかった。夢佳も、私が変わったことを知らなかったんだね」
その言葉に、夢佳が千夏を見る。千夏は袖で目元を押さえてから続けた。
「私も変わったと思うよ」
「……うん」
「バスケ以外にも大事なもの、前より増えたし」
夢佳の表情がわずかに動く。
「でも、一つ大事なものが増えたら、その分バスケが大事じゃなくなるわけじゃないよ。全国で勝ちたいのも、バスケが好きなのも変わってない」
「今日見てたら、それは分かった」
千夏は小さく頷いた。
「それに、私だってずっと迷わず頑張れてるわけじゃないよ」
「でもナツ、ずっと続けてるじゃん」
「続けてるけど、うまくいかない時は何でこんなに練習してるんだろうって思うこともあるし、負けたら次の日まで引きずることもある」
夢佳は黙って聞いていた。
「一人だったら、ずっと同じように続けられてたかは分からない。渚たちに助けてもらうこともあるし、誰かが頑張ってるの見て、私もやろうって思うこともある」
千夏はそこで一度言葉を切った。
「そういう人たちから、力もらってるんだと思う」
夢佳は何も言わなかった。ただ、その言葉を聞いたまま、しばらく千夏を見ていた。
「それに……寂しかった」
「……うん」
「夢佳がいなくなったの、すごく寂しかった」
千夏の声が震えた。
「嫌われたなら仕方ないって思おうとした。でも、本当はずっと、もっと夢佳と一緒にバスケしたかった」
夢佳が千夏を見る。
「私と?」
「うん」
「最後の方、私、前みたいにできてなかったよ」
「それでも夢佳だったから」
千夏は涙を拭わずに続けた。
「上手い人とやりたかったんじゃない。夢佳と、もっと一緒にやりたかった」
夢佳の目から涙がこぼれた。しばらく、どちらも言葉を続けられなかった。
「……ごめん、ナツ」
「うん」
「本当に、ごめん」
「私も、ごめん。もっと早く、ちゃんと話しに行けばよかった」
夢佳は何度か目元を拭ってから、首を振った。
「今、話せたからいい」
「うん」
そこで、近くから聞き慣れた声がした。
「何してるの、二人して」
二人が振り向くと、渚がスポーツバッグを肩に掛けて立っていた。泣いている二人を見比べて、さすがに驚いた顔をする。
「渚」
「久しぶりに会ったと思ったら、二人ともすごい顔なんだけど」
夢佳が慌てて目元を拭う。
「久しぶり、渚」
「久しぶり。……まあ、その様子なら詳しく聞くのは後でいいか」
渚は千夏へタオルを差し出した。
「監督、もうそろそろ移動するって」
「うん。分かった」
「じゃあ先行ってる。夢佳も、またね」
「うん」
夢佳は渚の背中を見送ってから、体育館の方へ顔を向けた。
「今日、見に来てよかった」
「うん」
「今日見てたら、久しぶりにボール触りたくなった」
千夏は何も聞き返さなかった。夢佳は涙の跡を残したまま、それでも先ほどまでとは違う顔で千夏を見る。
「また、一緒にバスケしよう」
千夏の口元が震えた。
「うん」
夢佳も頷いた。それだけで、十分だった。二人が出口へ向かいかけたところで、夢佳が思い出したように口を開いた。
「そういえば、大喜にもお礼言っといて」
「大喜くんに?」
「公園でたまたま会った時に、少し話したから」
千夏は足を止めた。大喜からは何も聞いていない。
「何話したの?」
「大したことじゃないよ。二人とも離れた時の相手を見たままなんじゃないか、って言われただけ。言うだけ言って、何も聞かずに帰ったけど」
「……そうだったんだ」
夢佳はそこで、少し笑った。
「でも、あいつも成長したんだね」
「大喜くんが?」
「そう。ナツのこと庇って、私を説得しようともしなかった。昔だったらもっと分かりやすくナツの味方してきそうなのに」
「昔も、そこまでじゃないよ」
「大喜は昔からナツに甘かったよ」
夢佳の言葉には、以前のような棘はなかった。
「あれが残ってたからかもね。ナツが歯医者まで来た時、また何も話さず逃げるの、やめたの」
「大喜くんが……」
千夏はそれ以上続けなかった。二人で少し歩いてから、夢佳が口を開く。
「さっき、力もらってるって言ってたじゃん」
「うん」
「大喜も、その一人なんでしょ」
千夏は一瞬だけ夢佳を見た。
「……うん」
夢佳はそれ以上からかわなかった。
「展望台で見た時は、大喜と一緒にいるからナツが変わったみたいに思ったけど。違ったね」
「変わってはいると思うよ」
「そういう意味じゃなくて」
夢佳は少し笑った。
「大喜がいてよかったね」
千夏は返事に詰まった。けれど、今度は迷わなかった。
「……うん」
夢佳はそれ以上何も言わず、昔のように笑った。
「じゃあ、私行くね」
「今日は来てくれてありがとう」
「こっちこそ。チケットも」
「また連絡していい?」
「うん。今度はちゃんと返す」
千夏も笑った。夢佳は片手を上げ、そのまま駅へ向かう人の流れへ入っていった。千夏がチームのところへ戻ると、部員たちはすでに帰り支度を終えていた。初戦突破ということもあり、何人かで駅前に寄って軽く食べて帰る話になっているらしい。翌日も試合のため長居する予定はなく、監督からも帰宅時間だけは遅くしないよう言われていた。渚が千夏の顔を見る。
「話、終わった?」
「うん」
「そっか。じゃあ駅前、一緒に行く?」
千夏は返事をする前に、部員たちの方を見た。試合を終えたばかりの顔にはまだ勝ったあとの明るさが残っていて、自分もその中に混ざりたいと思う。けれど、夢佳と話したことを思い返すと、今は別の言葉の方が胸に残った。大喜がいてよかったね。
「……ごめん。今日は先に帰るね」
「分かった」
渚は理由を聞かなかった。
「明日遅れないでよ」
「遅れないよ」
「ならいい。夢佳にもよろしく」
「うん」
渚はそれ以上、理由を聞かなかった。千夏は会場を出た。電車に乗ってからも、夢佳と交わした言葉が頭に残っていた。夢佳の「また、一緒にバスケしよう」という言葉。そして最後に言われた「大喜がいてよかったね」という一言。
スマートフォンを一度取り出したが、大喜へメッセージは送らなかった。今すぐ伝えたい。だからこそ、短い文章にはしたくなかった。猪股家へ戻り、玄関を開ける。
「ただいま」
靴を脱ごうとして、すぐに気づいた。大喜の靴がない。まだ学校にいる。
千夏は試合用の大きなバッグを玄関脇へ置き、財布とスマートフォンだけを持ち直した。コートも脱がず、そのままもう一度靴を履く。家まで戻ってきた疲れはあったし、翌日も試合がある。それでも今は、もう一度外へ出る方を選んだ。
栄明へ着く頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。普段の放課後より校舎は静かだったが、今日はクリスマスイブだった。練習を終えた部活の生徒がまだ何人か残り、廊下には小さな飾りが下がっている。教室の一角では紙コップや菓子を囲んでいる生徒たちもいて、校舎の奥からはクリスマスソングが聞こえてきた。
千夏が音のする方へ進むと、軽音部の生徒たちに混じって西田がいた。歌い終えたところで、こちらに気づく。
「西田君」
「ん?鹿野か。初戦勝ったんだって? おめでとう」
「ありがとう」
「大喜なら体育館にいるよ。ツリーの飾り、まだやってると思う」
「……分かった、ありがとう」
西田はそれ以上何も聞かず、呼ばれた声に振り返って教室へ戻った。千夏はそのまま体育館へ向かった。扉を開けると、練習中より照明を落とした館内が広く見えた。コートのネットは片づけられ、いつもなら響いているシャトルやシューズの音もない。入口に近い壁際には、背の低いクリスマスツリーが置かれていた。
大喜はその前へ座り込み、箱から取り出した飾りを一つずつ枝へ掛けている。紙コップや菓子の空き袋が少し離れた机に残っており、練習後に部員たちで簡単なイブの集まりをしていたらしい。飾りに集中している大喜は、千夏が入ってきたことに気づかなかった。千夏は数歩近づいてから声をかけた。
「大喜くん」
大喜の肩が動いた。
「ちーちゃん?」
振り向いた大喜の顔に驚きが浮かぶ。
「どうしたの? もう帰ってると思ってた」
「一回帰ったよ」
「え?」
「でも、大喜くんがまだ学校にいるって分かったから」
「わざわざ戻ってきたの?」
「うん。話したいことがあって」
千夏がツリーの近くまで行くと、大喜は持っていた飾りを箱へ置いた。普段なら同じ家へ帰れば話せる。だからこそ、千夏がここまで戻ってきたことに、大喜も何かいつもとは違うものを感じているようだった。
「夢佳、試合見に来てくれた」
「……本当に?」
「うん。最後まで見てくれてた」
「そっか」
大喜の顔が緩んだ。
「よかった」
「試合のあとも待っててくれたの。二人で話した」
「夢佳さんと?」
「うん。ずっと聞けなかったことも聞けたし、私も言えなかったこと話せた」
千夏は夢佳から聞いた事情の細かな部分までは口にしなかった。ただ、長い間すれ違っていた理由をようやく聞けたこと。夢佳が本当に自分を嫌いだったわけではなかったこと。自分も、離れられたことが寂しかったと伝えられたことを話した。大喜は途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。
「それでね」
千夏の声が自然に明るくなる。
「夢佳が、また一緒にバスケしようって言ってくれた」
「……そっか」
「うん」
「よかったね、ちーちゃん」
大喜は自分のことのように笑った。その顔を見た瞬間、ここまで戻ってきてよかったと思った。
「大喜くん」
「ん?」
「ありがとう」
「俺?」
「チケット。あれ、大喜くんが持ってきてくれなかったら、夢佳に渡せなかったから」
大喜はすぐに首を横へ振った。
「俺はチケット渡しただけだよ」
「でも、それだけじゃなかった」
「?」
「夢佳から聞いた。公園で大喜くんと会ったって」
大喜の目が少し開いた。
「夢佳さん、話したんだ」
「歯医者まで会いに行った時、夢佳が帰らずに話してくれたのも、大喜くんの言葉が残ってたからかもしれないって」
「俺、そんな大したこと言ってないよ」
「それでも、夢佳には残ってたんだと思う」
大喜は手にしていた飾りへ目を落とした。
「俺は二人の間に何があったのか知らなかったから。どっちが正しいとかも分からなかったし」
「うん」
「だから、今の二人で一回話してみてもいいんじゃないかなって思っただけだよ」
千夏は頷いた。
「それでも、ありがとう」
大喜は顔を上げた。千夏が冗談で言っているわけではないことは、その表情を見れば分かった。
「ちーちゃん、今日ずっと俺にありがとうって言ってない?」
「だって、本当にそう思ってるから」
「なら、どういたしまして。でも、俺そんなにお礼言われるようなことしたと思ってないよ」
「どうして?」
大喜はすぐには答えなかった。チケットが一枚余っていると知って、千夏が渡したい相手を思い浮かべただけだった。公園で夢佳を見かけた時も、何とかして仲直りさせようと思ったわけではない。千夏と夢佳の間に何があったのか分からないまま、自分に見えたことを口にしただけだ。けれど、そう考えているうちに、大喜の中には別のことが浮かんだ。
「ちーちゃんだって、俺が何かあった時、普通にそういうことしてくれるじゃん」
「私?」
「うん。試合で負けた時とか、うまくいってない時とか」
千夏は黙って大喜を見る。
「別に毎回すごいこと言ってくれるわけじゃないけど、話聞いてくれたり、いつも通りいてくれたりするし。秋の合宿の時も、俺が自分で止まれなくなってたの、ちーちゃんが止めてくれたし」
大喜はそこまで話してから、少し考えるように言葉を止めた。
「だから俺には、今日俺がしたことも、それとそんなに違う感じしないのかも」
千夏は返事をせず、大喜の言葉を待った。大喜も手の中の飾りへ目を落としながら、これまでのことをもう一度辿るように続ける。
「バド始めた時に、ちーちゃんがかっこいいって言ってくれたのも、ずっと覚えてるし」
「……うん」
「そういうのも含めたら、俺はちーちゃんからずっともらってると思う」
千夏の指先が動いた。
「力とか、そういうの?」
大喜は少し迷ってから頷いた。
「うん。うまくいかなかった時でも、ちーちゃんがいると、またちゃんとやろうって思えることあるから」
その言葉を聞いた瞬間、夢佳との会話が千夏の中に戻ってきた。
『大喜も、その一人なんでしょ』
あの時、自分は頷いた。そして夢佳は笑って、『大喜がいてよかったね』と言った。千夏はこれまで、大喜から力をもらっていることばかり考えていた。けれど、それは自分だけではなかった。大喜もまた、千夏がいることで次へ進もうと思うことがあった。
「……私だけじゃなかったんだね」
大喜は千夏を見る。
「うん」
それだけ答えると、大喜は照れたようにツリーへ向き直り、残っていた飾りを手に取った。千夏はその背中を見つめた。
小さい頃、バスケットボールを抱えて体育館へ向かう自分の少し後ろを、大喜がついてきた。いつからか、それぞれ別のコートへ立つようになった。それでも勝った日は報告して、負けた日は同じ道を歩いた。同じ家へ帰るようになった今も、競技は別々のままだ。それなのに、互いの競技へ向かう理由の中に、相手から受け取ったものが残っている。夢佳の言葉がよみがえった。
『大喜がいてよかったね』
千夏は一歩、大喜へ近づき、それだけでは足りず、もう一歩進んだ。そのまま背後から大喜の身体へ両腕を回すと、大喜の身体が大きくこわばった。
「……ちーちゃん?」
驚いた声が近い。千夏は腕をほどかず、大喜の背中へ額を寄せた。練習を終えたジャージ越しに、体温が伝わってくる。
「ありがとう」
「……うん」
「今日のことだけじゃなくて」
大喜は何も言わなかった。千夏の腕に手を添えることも、無理にほどこうとすることもしない。
千夏は目を閉じた。今まで何度も、言いたいと思った。もっと競技で結果を出してから、大喜の邪魔にならない時に、ちゃんと伝えられる自分になってから。そう考えるたび、言葉は先へ延びていった。
けれど今日、夢佳と話して分かった。言わなければ、相手には届かない。大切だからこそ言えなかった言葉が、大切な相手を遠ざけることもある。千夏は腕へ込めていた力を少しだけ緩めたが、それでも離れなかった。
「大喜くん」
「うん」
「私――」
体育館の扉が開いた。千夏の腕が反射的に離れる。紙コップと菓子の箱を抱えた男子生徒が二人、話しながら入ってきた。
「あ、大喜。まだ終わってなかった?」
「はい。もう終わります」
大喜は立ち上がりながら答えた。声が普段より硬い。千夏も二歩ほど離れ、ツリーへ顔を向けた。さっきまで回していた腕を身体の横へ下ろす。
あと一言だった。口まで出かかっていた言葉は、まだ自分の中にある。消えたわけではない。生徒たちが余った紙コップをまとめている間に、大喜は最後の飾りを枝へ掛けた。千夏も床へ落ちていた細い紐を拾い、箱へ戻した。二人とも、途中で止まった言葉には触れなかった。
片づけが終わると、大喜がツリーのコードをコンセントへ差し込んだ。小さな灯りが順番にともり、赤や白の光が枝の間に広がって薄暗い体育館の入口を照らす。
「できた」
大喜が言った。
「うん。きれいだね」
千夏は隣に立ったまま答えた。さっきより離れているのに、大喜の背中へ回した腕の感触がまだ残っていた。言えなかったことが悔しい。でも、言おうとした。次に二人だけで向き合えた時は、その続きを最後まで伝えたい。千夏は灯りのともったツリーを、大喜の隣で見つめていた。