千夏がその雑誌を見つけたのは、母と一緒に立ち寄った本屋だった。
学校で使うノートを買うついでだった。母がレジ近くの文房具を見ている間、千夏はなんとなく店内を歩いた。漫画の棚、児童書の棚、料理雑誌の棚。特に何かを探していたわけではない。ただ、少しだけ時間を持て余していた。
ふと、スポーツ雑誌の棚の端に、小さなジュニア向けのバドミントン雑誌が置かれていたのを見つけた。
普段なら、たぶん通り過ぎていた。
千夏が読むのは、バスケの雑誌や、母が買う料理本の端に載っているスポーツ特集くらいだった。バドミントンの雑誌を自分から手に取ることはあまりない。
けれど、その表紙の端にある文字が目に入った。
「ジュニア注目選手」
千夏は足を止めた。
手に取って、ページをめくる。大会結果の一覧、クラブ紹介、ジュニア選手の短いインタビュー。よく知らない名前が並ぶ中で、千夏の目は自然と一つの名前を探していた。
いるかどうかも分からないのに、どうしても探してしまう。
数ページめくったところで、千夏の指が止まった。
小さな写真と、短い紹介文。
猪股大喜。
反応の速さと粘りが光る、今後注目の小学四年生。
大きな特集ではなかった。写真も小さく、紹介文も数行だけだった。ページの中心に載っているわけでもない。ほかの選手たちと並んで、短く紹介されているだけ。
それでも千夏は、その文字から目を離せなかった。
「大喜くん……」
思わず小さく呟くと、隣に来ていた母が少し笑った。
「どうしたの?」
千夏は雑誌を開いたまま、母に見せる。
「大喜くん、載ってる」
母は少し驚いた顔をして、それから嬉しそうに目を細めた。
「本当だ。すごいわね」
「うん」
千夏はもう一度、ページを見る。
そこにあるのは、いつもの大喜ではなかった。
体育館の隣のコートで、汗をかきながらシャトルを追っている大喜。失敗すると悔しそうに唇を結び、うまく打てるとこちらを探すように顔を上げる大喜。夏祭りで眠そうに手を握っていた大喜。
千夏が知っている大喜は、そういう大喜だった。
けれど、雑誌の中の大喜は違った。
知らない人にも読まれる名前。知らない大会で勝った結果。知らない人が書いた紹介文。
「買っていく?」
母に聞かれて、千夏は一瞬迷った。
大喜の名前が載っているから欲しい、とは少し言いづらかった。
「……うん。読みたい」
母はそれ以上からかわず、雑誌を一緒にレジへ持っていってくれた。
家に帰ってからも、千夏はそのページを何度も開いた。
写真の大喜は、試合中なのか少し真剣な顔をしている。普段の大喜より、少し大人っぽく見えた。ラケットを構える手はまだ小学生らしい細さがあるのに、目だけはまっすぐシャトルを見ている。
千夏は指先で、写真の端に触れた。
嬉しかった。
誇らしかった。
大喜くん、すごい。
そう思う気持ちは本物だった。
けれど、少しだけ不思議でもあった。
大喜はもう、千夏が見ている体育館の中だけで頑張っているわけではない。自分の知らない場所で、自分の知らない相手と戦い、知らない人たちにも名前を覚えられ始めている。
それは良いことのはずだった。
大喜が頑張っている証拠で、大喜が前へ進んでいる証拠だった。
なのに、ページの中の「猪股大喜」という文字は、いつもの「大喜くん」より少し遠く見えた。
その日の午後、花恋が千夏の家に遊びに来た。
最初は宿題をしたり、お菓子を食べたりしていた。花恋は相変わらずよくしゃべり、学校であったことや、最近見たテレビの話をしていた。
けれど千夏は、気づくと机の端に置いた雑誌へ手を伸ばしていた。
同じページを開く。閉じる。少しして、また開く。
花恋はそれを見逃さなかった。
「ちー、それ何回目?」
千夏は少し慌てて雑誌を閉じた。
「そんなに見てない」
「見てるよ。さっきからずっと同じページ」
「たまたま」
「たまたま同じ名前のところ?」
花恋が笑いながら覗き込む。
千夏は観念したように、もう一度ページを開いた。
「大喜くん、載ってたの」
「へえ」
花恋はページを覗き込む。
「すごいじゃん」
「うん。すごい」
千夏はすぐに頷いた。その声には、隠しきれない誇らしさがあった。
花恋は、そんな千夏の顔を少しだけ見た。
「でも、ちょっと寂しそう」
千夏は驚く。
「寂しくないよ」
「そう?」
「大喜くんがすごいのは、嬉しい」
それは本当だった。
でも、全部ではなかった。
千夏は雑誌の中の大喜を見下ろす。
大喜が知らない場所へ進んでいくことが嬉しい。もっと強くなってほしい。もっとかっこよくなってほしい。バドミントンを始めたばかりの大喜を知っているからこそ、こうして名前が載ることがどれだけすごいのか、千夏にはよく分かる。
でも、自分が知らない場所へ進んでいく大喜を見ていると、少しだけ胸の奥がきゅっとなる。
嬉しいのに、少しだけ胸が苦しい。その理由を、千夏はまだうまく説明できなかった。
「大喜くん、遠くなった感じ?」
花恋が聞く。
千夏は少し考える。
「遠くなったわけじゃないよ。会えば普通に大喜くんだし」
「うん」
「でも、私が知らない大喜くんもいるんだなって思った」
花恋は、少しだけ笑うのをやめた。
「そっか」
千夏は雑誌を閉じる。
「嬉しいんだよ。本当に」
「うん。分かる」
「でも、私も頑張らなきゃって思う」
「バスケ?」
千夏は頷く。
「うん」
花恋はその顔を見て、からかわなかった。
千夏が大喜のことになると分かりやすいのは、前からだった。大喜が褒められると嬉しそうにするし、大喜が他の子に囲まれると少しむっとする。バレンタインの時も、花恋から見ればかなり分かりやすかった。
でも今の千夏は、ただ大喜のことを気にしているだけではなかった。
自分も前へ進みたい。
そう思っている顔だった。
「ちーも、最近すごいじゃん」
花恋が言う。
「夢佳ちゃんと試合出てるんでしょ?」
「まだ全然だよ」
「でも、前よりずっとバスケの話するようになった」
「そうかな」
「うん。大喜くんの話と同じくらい」
「それは……」
千夏は少し困ったように笑った。
花恋はその顔を見て、やっぱり面白いと思う。
大喜が前へ進むと、千夏も前へ行こうとする。
二人は同じ競技をしているわけではない。けれど、どこかで相手の背中を見ている。
そういう関係なのだろうと、花恋はまだ幼いながらに感じていた。
実際に、小学五年生になった千夏は、ミニバスのチームで中心選手として試合に出る時間が増えていた。
夢佳と一緒にコートに立つ時間も長くなった。
夢佳は相変わらず強気だった。ボールを持てば、まず前を見る。相手が大きくても、速くても、迷わず一歩目を出す。止められれば悔しがる。抜ければ、さらに次の相手へ向かう。
千夏はその横で、走った。
夢佳がボールを運べば、千夏は逆サイドへ走る。夢佳が相手を引きつければ、空いた場所へ入る。夢佳のパスは速い。少し前なら取り損ねていたボールにも、今は少しずつ手が届くようになっていた。
試合の日。
相手チームのディフェンスが夢佳へ寄った。
「ナツ!」
夢佳の声が飛ぶ。
千夏は迷わず走った。パスが来る。少し速い。けれど、取れる。
ボールをキャッチした瞬間、千夏はリングを見た。
目の前には、少し遅れて戻ってきたディフェンス。
止まれば間に合われる。
千夏は一歩踏み込み、シュートを打った。
ボールはリングに当たり、少し跳ねてからネットを通った。
ベンチが沸く。
千夏は一瞬だけ目を見開き、それからすぐに戻った。喜ぶのは後でいい。夢佳がいつもそうしているように、点を取ったら次の守りへ走る。
夢佳が横へ来て、千夏の肩を軽く叩いた。
「今のよかった」
「夢佳のパスがよかったから」
「それもあるけど、ナツが走ったからでしょ」
千夏は少し照れて笑う。
夢佳にそう言われると、もっと走りたくなる。
試合に勝った日の帰り、千夏は体育館の隅で靴ひもをほどきながら、大喜の雑誌のことを思い出していた。
大喜はバドミントンで名前を載せた。
自分は、まだ雑誌に載るような選手ではない。けれど、夢佳と一緒に試合を動かせるようになってきた。前よりも走れる。前よりもシュートを打てる。前よりも、バスケが楽しい。
夢佳が隣に座る。
「ナツ」
「何?」
「もっと上でやりたくない?」
千夏は顔を上げた。
「上?」
「うん」
夢佳はシューズの紐をほどきながら、でも目だけはまっすぐ前を見ていた。
「もっと強いチームとやりたい。もっと速い相手とやりたい。今のままでも楽しいけど、もっと上に行けると思うんだよね」
夢佳の言葉は、いつも急だった。
けれど、その急な言葉には熱があった。
千夏は夢佳を見る。
「夢佳は、本当にそういうこと急に言うよね」
「急じゃないよ。前から思ってた」
「そうなの?」
「うん。ナツだって思ってるでしょ」
千夏は答えに迷った。
思っていないわけではなかった。
強い相手と試合をした時、悔しいだけではなく、もっとやりたいと思うことがある。夢佳のパスに追いつけた時、次はもっと早く走りたいと思う。試合に勝った後、嬉しいだけでは終われず、次はもっとちゃんとチームの役に立ちたいと思う。
上手くなりたい。
もっと上へ行きたい。
その気持ちは、確かに千夏の中にあった。
夢佳は続ける。
「栄明中って知ってる?」
千夏は頷いた。
「お母さんが高校の時、栄明だった」
「中学も強いんだって。バスケもちゃんとしてるし、高校までつながってる。そこでやれたら、もっと上を目指せると思う」
栄明。
その名前は、千夏にとって少し特別だった。
母が昔いた学校。写真の中の母が、仲間と笑っていた場所。母と大喜の母が出会った場所。千夏がバスケを始めるきっかけにもつながっている場所。
いつか自分もその名前の中に入る。
そんなことを、はっきり考えたことはなかった。
「夢佳は、行くの?」
千夏が聞くと、夢佳は迷わず答えた。
「行く」
その声には少しのためらいもなかった。
「私は、もっと強いところでやりたい」
千夏はその言い方が夢佳らしくて、少し笑った。
「夢佳っぽい」
「ナツもくる?」
千夏は夢佳を見る。
夢佳となら、もっと走れる気がした。負けても悔しがって、また立てる気がした。自分一人なら迷うことでも、夢佳となら前へ進める気がした。
そして、大喜のことも思い出す。
雑誌に載った名前。
大会で勝ち始めた大喜。
自分の知らない世界へ進んでいく背中。
置いていかれたくない、というほど強い言葉ではなかった。
ただ、自分も前へ進みたいと思った。
大喜くんがバドミントンで強くなっていくなら、自分もバスケでもっと上を目指したい。
千夏は静かに頷く。
「私も、もっと強くなりたい」
夢佳はにっと笑った。
「中高一貫だから、一緒にインターハイも行けるよ」
「いいね、私が部長やるね」
「いや、私でしょ」
まだ小学生の約束だった。正式な受験の話も、練習環境の細かいことも、何も決まっていない。ただ、二人で同じ方向を見ただけ。
けれど千夏の中では、その瞬間から、栄明中が少し先の未来として形を持ち始めた。
その日の帰り、千夏は大喜にその話をした。
体育館の外で、大喜はラケットケースを背負っていた。バドミントンの練習終わりで、髪が汗で少し額に張りついている。千夏が「大喜くん」と呼ぶと、すぐに振り返った。
「どうしたの?」
「私、栄明中に行こうと思う」
大喜は少し目を丸くした。
「栄明?」
「うん。夢佳と一緒に。バスケ、もっと強いところでやってみたいから」
声に出してみると、胸の奥が少し熱くなった。
もうただ憧れているだけではない。自分もそこへ行こうとしている。
大喜はしばらく千夏を見ていた。
そして、嬉しそうに笑った。
「いいね。ちーちゃん、栄明行くんだ」
「うん」
「俺も行きたい」
今度は千夏が驚いた。
「大喜くんも?」
「うん。栄明って、バドミントンも強いんだよね」
大喜は少し早口になる。
「クラブのコーチが言ってた、中学も高校も強いって。佐知川ってとこも強いんだけど、家から近い方が練習できるし、強い人と練習できるなら、俺も行きたいなって」
千夏は大喜の顔を見る。
大喜が栄明へ行きたい理由は、バドミントンが強い環境だから。それは分かる。けれど、その声の明るさの奥に、自分とまた同じ場所にいられることへの嬉しさも混じっている気がした。
大喜は少し考えてから言う。
「ちーちゃんが先に行って、俺が次に行くんだよね」
「うん。そうなるね」
「じゃあ、また同じ体育館だ」
その言葉に、千夏の胸が少し温かくなる。
小さい頃から同じ体育館にいた。競技は違っても、近くにいた。小学校は別だったけれど、栄明に行けば、また同じ場所で練習できるかもしれない。
一年ずれていても、同じ敷地にいて、同じ体育館の音を聞けるかもしれない。
千夏は笑った。
「うん。また同じ体育館だね」
大喜は嬉しそうに頷く。
「俺、もっと強くなる」
「私も」
「ちーちゃんも?」
「うん。私も、もっと強くなる」
二人は少しだけ黙って、それから同時に笑った。
少し離れたところで、夢佳がその様子を見ていた。隣には見に来ていた花恋もいた。
夢佳は腕を組み、花恋に小さく言う。
「ナツ、あの子と話す時、ちょっと顔違うよね」
花恋は笑った。
「でしょ」
「前から?」
「前から」
夢佳は少し考える。
「でも、ナツが栄明行く理由はバスケだから」
「分かってるよ」
花恋はそう言いながらも、千夏と大喜を見る。
千夏は夢佳と上を目指す。
大喜はバドミントンで強くなるために栄明を目指す。
理由はそれぞれ違う。けれど、二人がまた同じ場所へ向かうことを、どちらも嬉しく思っているのは分かった。
「大喜も来るなら、ナツもっと頑張るかな」
夢佳が何気なく言う。
花恋は少しだけ目を細めた。
「それもあるかもしれないけど」
「けど?」
「ちーは、夢佳と行くって決めたから頑張るんだと思うよ」
夢佳は少しだけ花恋を見る。
花恋は軽く笑う。
「大喜くんはきっかけの一つ。夢佳は、行き先を決めた人」
夢佳は何か言いかけて、やめた。
「花恋って、たまに大人みたいなこと言うね」
「たまにじゃなくて、いつも」
「それはどうかな」
二人は小さく笑った。
その夜、千夏は家で栄明中の資料を見ていた。
母に話すと、母は少し懐かしそうに笑った。
「栄明か」
「お母さんの高校だったんだよね」
「うん。大変だったけど、いい場所だった」
母の声には、昔を思い出す柔らかさと、少しだけ競技者の熱が混じっていた。
「本気で行きたいなら、ちゃんと準備しないとね」
千夏は頷く。
「うん」
机の上には、栄明中の資料と、あのバドミントン雑誌が置かれていた。
大喜の名前が載ったページ。
夢佳と話した栄明中。
母がいた栄明高校。
いくつものものが、千夏の中で少しずつつながっていく。
大喜もまた、家で栄明のバドミントン部の話を聞いていた。
強い先輩がいること。練習が厳しいこと。中学から本気で競技に打ち込む選手が集まること。
大喜は少し緊張する。
けれど、それ以上に胸が高鳴った。
強い人たちと打ちたい。
もっと上手くなりたい。
そして、ちーちゃんと同じ学校へ行ける。
その全部が、大喜の中で一つの目標になった。
数日後、体育館で顔を合わせた二人は、それぞれのコートへ向かう前に少しだけ立ち止まった。
「栄明、行けるといいね」
千夏が言う。
「行くよ」
大喜は迷わず答えた。
「ちーちゃんも」
「うん。行く」
その言葉は、まだ正式な約束ではなかった。
けれど、二人にとっては十分だった。
千夏はバスケのコートへ走る。夢佳が待っている。
「ナツ、遅い」
「ごめん」
「栄明行く人が遅れてどうするの」
「今から走る」
千夏は笑って、ボールを受けた。
大喜はバドミントンのコートへ向かう。シャトルが高く上がる。大喜はそれを見上げ、一歩目を出した。
同じ体育館で、別々のコートに立つ二人。
けれど、見ている先は少しずつ同じ方向へ向き始めていた。
大喜は外の世界へ進み始めている。
千夏も夢佳と一緒に、もっと上を目指し始めている。
栄明という名前が、二人の未来に初めてはっきりと浮かんだ。