目を開けた時、カーテンの隙間から入る光で部屋はもう明るくなっていた。千夏は枕元のスマートフォンへ手を伸ばす。八時を少し過ぎている。アラームが鳴るまではまだ数分あったが、試合の日にもう一度眠れるほど身体は緩んでいなかった。
上半身を起こすと、肩や脚に昨日一日分の疲れが残っているのが分かる。ウィンターカップの初戦を戦い、試合が終わってからは夢佳と何年も言えなかったことを話した。そのあと一度家へ戻ったのに、大喜を捜してもう一度学校まで歩いている。そこまで思い返したところで、千夏は両手で顔を覆った。
薄暗い体育館には、飾り付けの途中だった小さなクリスマスツリーがあり、その前に大喜が立っていた。夢佳と話せたことを伝え、大喜から自分も千夏に力をもらってきたと聞いた。自分ばかりが大喜の背中を見ていたわけではなかったことが嬉しくて、考えるより先に近づき、そのまま背後から身体へ腕を回した。大喜の背中へ額を寄せた時の感触も、近くで自分の名前を呼ばれた声も覚えている。
そして、その先まで言おうとした。扉が開かなければ、たぶん言っていた。千夏は掛け布団へ顔を埋めた。今になって思えば、よくあんなことができたと思う。それでも、抱きついたことをなかったことにしたいとは思わなかったし、途中まで出かかった言葉を取り消したいとも思わない。やがてスマートフォンが震え始めると、千夏は布団から顔を出してアラームを止めた。
今日は二回戦だった。昨日言えなかった言葉も、大喜が何を思ったのかも気になる。けれど、今から向かうのはその答えを聞きに行く場所ではない。千夏はベッドから降り、試合へ行く支度を始めた。
隣の部屋では、大喜もすでに目を覚ましていた。いつもなら起きればすぐカーテンを開け、練習へ行く日は身体の張りを確かめながら着替える。それなのに今朝は、目を覚ましてから何度も昨夜のことへ考えが戻っていた。背中へ突然触れた千夏の身体。脇の下から前へ回ってきた腕。近すぎるところから聞こえた声。
『大喜くん、私――』
その先を、大喜は知らない。夢佳とようやく話せた直後だった。ずっと抱えていたものが一度にほどけて、千夏も普段とは違う状態だったのかもしれない。そう考えれば、突然抱きついてきたことにも理由はつく。それでも、途中で止まった言葉まで同じ理由で片づけていいのかは分からなかった。
大喜はしばらく天井を見たあと、布団をめくった。今日は千夏にとって大事な二回戦の日だ。自分が気になっているからという理由で、試合へ出る前に答えを求める気にはなれない。着替えて部屋を出ると、ほぼ同じタイミングで隣の扉も開き、廊下へ出てきた千夏と目が合った。二人とも、そこで一瞬だけ足を止めた。
「おはよ、ちーちゃん」
「……おはよう、大喜くん」
普段なら何でもない朝の挨拶なのに、千夏の返事は一拍遅れた。大喜が洗面所へ向かうと、千夏も同じ方向へ歩き出した。二人は扉の前まで来たところで、ほぼ同時に足を止める。
「ちーちゃん、先使っていいよ」
「大喜くんも顔洗うんじゃないの?」
「俺は後でいいから。今日はちーちゃんの方が先に出るし」
「そんなに急いでないよ」
「じゃあ、俺が先を譲りたいってことで」
「……分かった。ありがとう」
千夏は扉を開けて中へ入り、大喜は廊下に残った。普段なら、どちらが先に使うかでここまで言葉を交わすこともない。最後までまともにこちらを見なかった千夏の様子を思い返し、大喜は昨夜のことを覚えているのが自分だけではないのだと気づいた。そう思うと、さっきまでより少しだけ気持ちが楽になったものの、その理由までは考えず、自分の部屋へ戻った。
洗面台の前では、千夏が冷たい水で顔を洗っていた。顔を上げて鏡を見ると、大喜と顔を合わせただけで昨夜の続きを思い出してしまったことが、そのまま表情に出ている気がした。あと少しで言えた。その悔しさはまだ残っているが、伝えようとしたこと自体を後悔しているわけではない。次に機会が来た時まで同じところで止まりたくないと思いながら、千夏はもう一度水で顔を洗い、タオルを手に取った。今は試合へ行く準備をすればいい。
朝食の席には、大喜の母がすでに食事を並べていた。焼き魚と卵焼き、味噌汁にご飯という普段と変わらない朝食で、テレビでは年末の交通情報とクリスマスの街の様子が流れている。千夏が席につくと、大喜の母が時計を確認した。
「千夏ちゃん、今日は何時くらいに出るの?」
「九時半くらいです。試合は午後なので、その前に会場でアップします」
「帰ってくる時間はまだ分からない?」
「終わったら連絡します。昨日よりは遅くならないと思います」
「昨日も試合のあと出かけてたでしょう。疲れ残ってない?」
「脚はちょっと重いですけど、朝起きた感じなら大丈夫です。会場でちゃんと動かしてきます」
大喜は味噌汁を飲みながら千夏を見る。試合そのものは見ていないが、全国大会を一試合戦った翌日なのだから疲労が残っていても不思議ではない。
「昨日の疲れ、まだある?」
「さすがにね。でも、大喜くんも大会の次の日はそんな感じじゃない?」
「まぁ」
「じゃあ同じ」
いつもの調子で返され、大喜も笑った。競技の話なら、昨夜までと変わらず話せる。千夏も今日はアップで脚を動かす時間を少し長めに取るつもりだと続け、大喜も試合前に無理に張りを取ろうとせず、動かしながら確認した方がいいと返した。大喜の母が二人の皿を見て口を挟む。
「二人とも話すのはいいけど、食べるの止まってるわよ」
「食べてるよ」
「大喜、さっきから卵焼きしか減ってないじゃない」
「今食べようとしてたところ」
「私より遅いね」
「ちーちゃんが今日早いんだって」
大喜がようやく焼き魚へ箸を伸ばすと、千夏も笑ってご飯を口へ運んだ。食事が進むにつれて、最初にあった妙な間も薄れていった。今日の試合開始時間と大喜の午後練習、帰宅が遅くなった場合の連絡など、同じ家で暮らしていれば必要になる話をしているうちに時間は普段どおり流れていく。昨夜のことだけは、どちらも口にしなかった。
九時半が近づくと、千夏は自室から大きなスポーツバッグを持って下りてきた。玄関でシューズとユニフォームが入っていることを確かめ、冬用のコートを羽織る。大喜もリビングから出てきた。普段なら何も考えずに出るはずの言葉が、一度だけ喉元で止まる。千夏も靴を履き終えたあと、すぐには扉へ手を伸ばさなかった。
「ちーちゃん」
「うん?」
「今日も頑張って。俺は見に行けないけど」
「大喜くんも練習でしょ。お互いにね」
「もちろん」
千夏はそこで笑った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
扉が開き、冬の冷たい空気が玄関へ入り込む。千夏はスポーツバッグを肩へ掛け直して外へ出た。大喜も玄関先まで出て、その背中が曲がり角の向こうへ消えるまで見送った。昨夜の続きを聞かなかったのは、聞きたくなかったからではない。少なくとも今朝は、それより先に千夏が向き合うものがある。そう思って家へ戻ったものの、自室でラケットバッグの準備を始めても、途中で止まった声だけはなかなか頭から離れなかった。
昼食を済ませた大喜は、午後の練習開始よりかなり早く家を出た。急ぐ必要はなかったが、家でじっと考え続けるより、早めに学校へ行って身体を動かした方がよさそうだった。冬休みに入った住宅街は普段の平日より人が少なく、大喜はラケットバッグを肩へ掛けて歩きながら、朝から何度か考えていることへまた戻った。
千夏が大切なのは昔からだった。家族同士の付き合いがあり、小さい頃から互いの家へ行き来し、同じ体育館へ通っていた。競技が分かれてからも互いの試合を気にしてきたし、今は同じ学校へ通い、同じ家へ帰っている。幼馴染だから大切なのだと言えば、今までならほとんどのことを説明できた。
けれど、昨夜抱きつかれたことを何度も思い出してしまうことや、今朝の千夏も同じように昨夜を意識していると分かった時に妙に安心したことまで、その一言の中へ入れようとすると、どこか収まりが悪い。考え続けても答えは出ず、大喜は信号が変わると学校へ向かう道へ入った。今は練習をする。そのために早く家を出てきたのだと、自分の意識をそちらへ戻す。
校門が見え始めたところで、門の外に立っている人影へ目が留まった。ジャージ姿の女子生徒が肩にスポーツバッグを掛け、片手にはバスケットボールを抱えている。髪が以前より短くなっていたため一瞬分からなかったが、その横顔には見覚えがあった。
「夢佳さん?」
呼ばれた夢佳が振り返った。
「大喜」
大喜は近くまで歩いていき、夢佳が抱えているボールへ目を向けた。
「どうしたんですか? ちーちゃんたち、今日は試合ですよね」
「知ってる。ナツに会いに来たわけじゃないから」
「じゃあ、何で栄明に?」
「ちょっと見に来ただけ」
夢佳は校門の向こうへ顔を戻した。
「ここで最後にちゃんとバスケやってたから。もう一回始める前に、一回来とこうかなって思って」
「……始める?」
大喜が聞き返すと、夢佳は持っていたボールを抱え直した。
「今の高校の女バス、入ることにした」
「本当ですか?」
「そんな驚く?」
「驚きますよ。昨日ちーちゃんから、夢佳さんが『また一緒にバスケしよう』って言ってくれたとは聞きましたけど」
夢佳は一度だけ大喜を見る。
「もう話したんだ」
「はい。ちーちゃん、嬉しそうだったんで」
「そっか」
夢佳はそれ以上そのことを掘り下げず、校舎の奥へ目を向けた。
「別にナツと同じチームに戻るわけじゃないよ。学校違うし」
「それはそうですけど、また夢佳さんがバスケやるって聞いたら、俺も嬉しいです」
「大喜が?」
「小さい頃、同じ体育館にいたじゃないですか。ちーちゃんと夢佳さんがバスケやって、俺が隣でバドやってたから」
「最初は大喜もバスケやろうとしてたけどね」
「それは言わないでください」
大喜が困ったように笑うと、夢佳も口元を緩めた。昔から何度も一緒に遊んできた相手というわけではない。それでも、小学生の頃に千夏の隣でバスケットボールを追っていた夢佳の姿は、大喜もよく覚えている。夢佳にとっても、隣のコートでラケットを振っていた大喜は、まったく知らない相手ではなかった。
「でも、途中からずっとバドやってたよね」
「好きになったんで」
「それは見てたら分かった」
「そんなに分かりました?」
「最初の頃は特に。ナツにかっこいいって言われた後、分かりやすかったし」
大喜は一瞬返事に詰まり、そのままラケットバッグの肩紐を直した。
「……よく覚えてますね」
「同じ体育館にいたからね」
「ちょっと恥ずかしいです」
「今さらでしょ」
夢佳の口調は淡々としていたが、からかうというほどでもない。小さい頃、千夏にバドミントンをする姿を「かっこいい」と言われたことは、大喜自身も覚えている。バスケをやめて別の競技を選ぶことに迷いがあった頃だったから、その言葉が嬉しかった。
「最初は、ナツに褒められたのが嬉しくてやってるのかと思ってた」
「それは、否定できないですよ」
「でも、そのうちナツがいない時も普通に練習してたから。本当に好きになったんだなって思った」
「バドは、自分に合ってたんだと思います」
夢佳は大喜のラケットバッグへ目を向ける。
「中学じゃ全国優勝して、日本代表にもなったんだっけ」
「はい」
「ずっと続けて、そこまで行ったんだ」
「楽しいことばかりではなかったですけどね」
「へえ」
夢佳の意外そうな顔に、大喜は少し考えてから答えた。
「負けたら普通に悔しいですし、勝たなきゃって考えすぎて、逆にうまく打てなくなったこともありますよ」
「辞めようと思ったことは?」
「バドをですか?」
「うん」
「それはないですね。自分のプレーが嫌になることはありましたけど、バドミントンそのものをやめたいとは思わなかったです」
夢佳は短く頷いた。校門から、午前練習を終えた生徒たちが何人か出てくる。二人は通路を空けるように門柱の近くへ寄り、生徒たちが通り過ぎるのを待った。その間、夢佳は腕の中のボールを見ていた。
「昔、好きは最強の感情だって言われたことがあって」
「最強、ですか?」
「うん。好きなら頑張れるとか、そんな感じだったと思う」
夢佳はボールを抱え直した。
「でも、バスケ辞めた頃は何それって思ってた。私だって最初は好きだったのに、練習行くのも嫌になったし、試合も早く終わればいいって思うようになったから」
「そうなんですね」
「辞めた時は、終わったって思ってほっとしたし。好きなのにそこまで苦しくなるなら、何が最強なんだって」
大喜はすぐには口を挟まなかった。夢佳はバスケそのものから一度離れている。自分はそこまで競技を嫌いになったことも、長い間ラケットを置いたこともない。同じ経験をしたように話すことはできなかった。それでも、好きなものが苦しくなることなら分かる。
「好きだから、ずっと楽しいってわけではないと思います」
「大喜も?」
「はい。俺の場合は、やめたいとは思わなかったですけど、好きでやってても苦しい時はありました」
「そっか」
夢佳はそれだけ返し、少し間を置いてから続けた。
「でも昨日、ちょっとだけ意味が分かった気がした」
「昨日の試合で?」
「うん。誰にも戻れって言われてないのに、ナツの試合見てたら、自分からまたバスケをやりたいって思ったんだよね。久しぶりに」
夢佳の指が、ボールの溝をなぞる。
「それで、今日の朝、やってみようかなって先生に連絡した。前から、来たくなったら一度来てもいいって言われてたから」
「そうだったんですね」
「考えすぎたら、また行かなくなる気がしたし」
夢佳はそこで一度、校舎の奥へ目を向けた。
「別に、辞めた時の自分が間違ってたとは思ってないよ。あの時は本当に嫌だったし、離れたから普通に過ごせた時間もあったから」
「そうなんですね」
「でも、一回嫌いって決めたからって、そのあとまでずっと嫌いでいなきゃいけないわけでもないんだなって」
昨日まで競技から離れていた夢佳が、今日は自分でボールを持ち、これから練習へ向かおうとしている。大喜には、そのこと自体が夢佳の言葉よりも分かりやすく見えた。
「だから、好きって最強の感情なのかもね」
「……今はそう思います?」
「何でも乗り越えられるって意味なら、今も違うと思う」
夢佳は手の中のボールを見たまま、少し考えてから続けた。
「でも、嫌いって決めた後でも、またやりたいって思わせるくらいには」
大喜はその言葉を聞きながら、自分がラケットを握ってきた時間を思い返した。好きだったから苦しくなかったわけではない。負けるたびに悔しかったし、勝たなければならないと思いすぎて、ラケットを振ること自体を重くしていた時期もあった。それでも翌日になれば体育館へ行き、またシャトルを打った。
夢佳の経験と自分の経験が同じだとは思わない。ただ、苦しい時にも完全には消えなかったものがあるという点だけは、分かる気がした。夢佳がふと大喜のラケットバッグを見る。
「大喜って、昔から好きなもの変わらないよね」
「そうですか?」
「変わってないじゃん」
「例えば?」
「バドも、ナツも」
あまりにも普通の調子で並べられたため、大喜は一度だけ瞬きをした。バドミントンが好きなのは昔からだ。千夏が大切な幼馴染であることも変わっていない。だから、答えは自然に出た。
「そうですね。そこは変わらないです」
「なら、彼氏としてちゃんと支えてあげなよ。ナツ、まだ大会中なんでしょ」
「え?」
夢佳が大喜を見る。
「何、その顔」
「いや、俺、ちーちゃんの彼氏じゃないです」
「……違うの?」
夢佳は少し意外そうに大喜を見る。
「ふーん、そうなんだ」
「はい」
「展望台でも手つないでたし、付き合ってると思ってた」
「あれは人が多かったので……」
「そっか」
夢佳はそれ以上聞こうとはしなかった。だからこそ、大喜の中には、少し前に自分が自然に返した言葉が残った。バドも、ナツも。二つを並べられた時、自分は片方だけ意味が違うとは思わなかった。ただ「そこは変わらない」と答えた。そのはずだった。
夢佳はスマートフォンを取り出し、時間を確認した。
「そろそろ行かないと」
「練習ですか?」
「うん。その前に、一個だけ」
夢佳は大喜を見る。
「この前はありがと」
「公園の時ですか?」
「うん」
「俺、余計なこと言っただけだと思いますけど」
「まあ余計だったけどね」
大喜が苦笑する。夢佳も少しだけ笑ったあと、続けた。
「でも、今の二人で話してもいいんじゃないかって言われたのは、間違ってなかったと思う」
「それならよかったです」
それ以上、夢佳は何を話したのか説明しなかった。大喜も聞かなかった。昨夜、千夏から夢佳と本心を話せたことは聞いている。何を言い、何を言われたのかまで知る必要はない。二人が自分たちで話せたのなら、それでよかった。
夢佳は校門の奥へもう一度目を向けた。中学の頃、自分が毎日のように通った体育館はここからほとんど見えない。それでも、今度は長く立ち止まらなかった。
「じゃあ、大喜も練習でしょ」
「はい、夢佳さんも、久しぶりのバスケ楽しんできてください」
夢佳は一度だけ頷き、そのまま駅の方へ歩き出した。短くなった髪が冬の風に揺れ、片腕にはバスケットボールがある。昔の自分を取り戻しに行くというより、今の夢佳が、今やりたいと思ったことを自分で選んでいるように見えた。大喜はその背中が人通りの向こうへ消えるまで見送った。
好きは最強の感情なのかもね。
バドも、ナツも。
夢佳が残した二つの言葉が、歩き出そうとした大喜の中で繰り返される。
千夏を好きなのは昔からだった。それ自体を疑ったことはない。小さい頃から大切な幼馴染で、バスケットボールを追う姿を何度も見てきた。自分がバドミントンを始めた時には「かっこいい」と言ってもらえたことが嬉しかったし、競技が分かれてからも、勝った時には結果を伝えたくなった。だから夢佳に二つを並べられても、否定する理由はなかった。
けれど、夢佳はその「好き」を聞いて、当然のように自分を千夏の彼氏だと思った。そのことが妙に残り、大喜は校門の前に立ったまま昨夜のことを思い出す。背後から回された千夏の腕と、途中で止まった声。夢佳と話せた直後だったからと考えれば、抱きついた理由は説明できるのかもしれない。それでも、あの時に自分が身体を固くしたことや、千夏の腕が離れたあとまでその感触が残っていたことは、それだけでは片づけられなかった。
今朝もそうだった。顔を合わせた千夏の返事が一拍遅れ、彼女も昨夜を意識しているらしいと分かった時、大喜は困るより先に少し安心していた。なぜ安心したのかは分からない。答えが出たわけでもない。ただ、今までなら「ちーちゃんは幼馴染だから」で終わっていたものを、同じ言葉だけでそのまま通り過ぎることができなくなっていた。
校舎の向こうから、午前中に体育館を使っていた部員たちの声が聞こえてきた。大喜はそこで考えるのを止め、ラケットバッグを肩へ掛け直して校門をくぐる。まだ練習開始までは時間がある。早めに来たのだから、まず身体を動かせばいい。そう思って体育館へ向かい始めても、夢佳の言葉と、自分が何の迷いもなく返した「そこは変わらないです」という言葉だけは、頭から離れなかった。