夢佳と別れて校門をくぐった大喜が体育館へ着くと、午前中に使っていた部の生徒たちがちょうど片づけを終えるところだった。床の端にはまだ用具が残り、入れ替わるように午後から練習する生徒が何人か入ってくる。男子バドミントン部のコートにはまだ誰もいなかった。
大喜はラケットバッグを壁際へ置き、ポールを運んでネットを張った。ストレッチからフットワークまで一通り済ませても、身体に目立った違和感はない。脚は動くし、切り返しも普段どおりだった。家にいるより早く来て身体を動かした方がいいと思ったのだから、このまま練習へ入れば頭も切り替わるはずだった。サービスラインへ立ち、左手に持ったシャトルを構える。けれど、ラケットを引いたところで夢佳の声がまた聞こえてきた。
好きって、最強の感情なのかもね
続いて浮かんだのは、別れ際より少し前に言われた言葉だった。
大喜って、昔から好きなもの変わらないよね
何が、と尋ねた自分に、夢佳は当たり前のように二つ並べた。バドも、ナツも。大喜はシャトルから指を離した。短いサービスはネットを越えたものの、普段より高い。もう一球は高さを抑えようとしてネットぎりぎりへ落ち、三本目はまたわずかに浮いた。
失敗と呼ぶほどではない。それでも、自分が打とうとしている軌道と実際のシャトルが微妙に合わない。大喜は床へ落ちたシャトルを集め、また同じ場所へ戻った。考えるのをやめたいなら、一つのことだけ続ければいい。そう思ってサービスを繰り返したが、打つほど高さを合わせようとしてしまい、今度は腕まで窮屈になってきた。
体育館の扉が開いたのは、その頃だった。匡が入ってきた。大喜が練習開始より早く来ていること自体は珍しくないため、特に声をかけることもなく壁際へ荷物を置き、シューズを履き替える。そのままストレッチを始めたが、大喜が何度も同じ場所からサービスを出していることには気づいていたらしい。準備を終えた匡が、向かい側のコートへ入った。
「受けようか」
「いいの?」
「一人で同じところに打ってるより、その方が分かるでしょ」
「じゃあ、お願い」
大喜は構え直し、匡のフォア側へ短く出した。匡はネット前へ入り、軽く押し返す。二本目、三本目と続けていくと、ネットから離れる球と、逆に抑えすぎる球が交互に混ざった。匡は足元へ落ちたシャトルを拾い、大喜へ投げ返した。
「今日、やけに力入ってない?」
「力?」
「ラケット。いつもより握ってる」
「……そう?」
「サービスの時ずっと。高さ合わせようとして、余計に力入ってる感じ」
言われて初めて、大喜は右手を開いた。指の付け根には、いつもよりはっきりグリップの跡が残っている。
「ほんとだ」
「自分で気づいてなかったんだ」
「全然」
「じゃあ一回抜けば。サービスでそんなに握っても打ちにくいでしょ」
「うん。ありがとう」
何度か指を開閉してから、大喜はもう一度ラケットを持った。力を抜いたつもりで打つと、今度はさっきより低くネットを越える。ただ、次の一本ではまた高さが揃わなかった。
匡はそれ以上原因を聞かなかった。そのまま基礎打ちへ移り、大喜もクリアを上げる。奥から奥へ打ち合えば、身体は問題なく動いた。匡が深く打てば十分に下がれるし、ドライブの速いテンポにも遅れない。ネット前へ移っても、大きく球を浮かせることはなかった。
おかしいのは技術ではなく、ラリーが途切れた後だった。一本終わるたびに、今度こそ目の前のシャトルだけを見ようとする。それなのに次の球を取ろうとしたところで、朝の校門へ意識が戻る。夢佳が自分と千夏を恋人だと思っていたこと。付き合っていないと答えると、本気で意外そうな顔をされたこと。そして、自分が「バドも、ナツも」と並べられた時、何の迷いもなく「そこは変わらない」と返したこと。
匡がシャトルを持ったまま待っているのに気づき、大喜は慌てて構えた。
「ごめん」
「別にいいけど」
匡はすぐにはシャトルを出さなかった。
「早く来たのに、上の空じゃ意味ないよ」
「……そうだよね」
「何か考えてるなら、練習始まるまでに整理した方がいいんじゃない?」
「……そうする、ごめん」
そこから先は聞かない。大喜も説明せず、自分からシャトルを出した。やがて針生や西田たちも集まり、午後の全体練習が始まった。基礎練習に入れば、積み重ねてきたものが身体を動かしてくれる。相手のフォームを見れば足が出て、奥へ振られれば下がり、浅くなれば前へ入る。考え事を抱えたままでも、一年以上毎日のように繰り返してきた動きまで突然なくなるわけではない。
ただ、一本終わった後が遅かった。得点を一度聞き返し、次のメニューへの移動でも周囲より半歩遅れる。今のラリーで何が悪かったか考えようとしても、その途中へ別のことが入り込み、整理しないまま次の球を打つことになる。ゲーム練習で針生と向かい合ってからも、それは変わらなかった。
大喜は厳しい球にも追いついた。針生が奥へ押し込めば高く返し、前へ落とされても足は届く。甘くなった球には攻め込める。それでも、一点が終わるたび、普段ならすぐに確認している針生の立ち位置や、自分がどこを空けたのかを整理できなかった。
針生のクロスへの返球を拾い切れず一点を失ったあとも、大喜は床へ落ちたシャトルを見たまま一瞬止まった。次のラリーでは、針生がほとんど同じ入り方から逆側へ球を運んできたのに、準備が遅れた。針生がシャトルを拾い上げる。
「大喜」
「はい」
「今日どうした。全然集中できてないぞ」
「すみません」
否定できなかった。大喜は息を吐き、もう一度構え直す。
「もう一回お願いします」
「いいけど、ちゃんとやれよ」
「はい」
針生がサービスを出した。大喜は低く返し、前へ入った針生の球をロブで奥へ運ぶ。針生は十分に下がってからスマッシュを打ち、大喜も身体の横で拾った。返球そのものは悪くない。けれど、その次に針生を見るより早く、昨夜の体育館が頭へ入り込んだ。
背後から回された千夏の腕。途中まで聞こえた声。大喜の返球が甘くなった。針生はすぐ前へ入り、ネット際へ落とす。大喜も一歩目は出たが、追いつけなかった。針生はラケットを下ろした。
「一回休め」
「……すみません」
「考え事するなら、先に片づけてこい。終わったら戻ってこい」
何を考えているのかまでは聞かない。針生は次の組へコートを譲るよう手で示し、大喜も頭を下げて外へ出た。壁際まで歩き、置いてあったタオルを取る。床へ座って汗を拭いている間にも、体育館ではすぐ次の練習が始まった。シャトルを打つ乾いた音と、シューズが床を擦る音が途切れず続いている。
考え事を整理できないから、競技をしている時間だけは考えないようにしようとしていた。それで集中できなくなっているのだから、何をしに早く体育館へ来たのか分からない。大喜は右手を膝へ置いた。
青いリストバンドが目に入った。
手首を返せば、内側には白い糸で縫われた「Fight」の文字がある。千夏から渡された時、外から見えるところへ文字を入れるのは恥ずかしかったと聞いた。試合で邪魔なら無理に使わなくてもいいとも言われた。それでも大喜は、その場で右手首につけた。これを見れば、ちーちゃんが見ているって思い出せるから。
当時の自分は、そう答えた。大喜は親指で文字の端をなぞった。長く使ってきたリストバンドは、もらった時より柔らかくなっている。そこに積み重なったのは、勝った試合の記憶だけではなかった。
世代別代表として出たアジア大会の決勝では、中国代表に負けた。届かなかった悔しさを抱えながら銀メダルを受け取った時も、手首にはこれがあった。その試合を千夏は観客席から最後まで見ていた。高校へ入ってからの県予選では兵藤に敗れ、インターハイへ進めなかった。あの時は、自分が負けたこと以上に、千夏へいい結果を見せられなかったことが苦しかった。手首のリストバンドを見るたび、期待へ応えなければいけないもののように感じてしまった時期さえある。
けれど、それは千夏に言われたことではない。千夏は、負けた自分へ「期待していたのに」と言ったことも、結果が出なかった時間を無駄だと言ったこともなかった。あの公園での会話も、秋の合宿で大喜がインターハイの敗戦を引きずるように自分を追い込み続けた時も、さらに頑張れとは言わなかった。止まれなくなっていた大喜の手を取って、一度止まらせた。
昨夜、自分が千夏へ「俺も、いつもちーちゃんから力をもらってる」と言ったのは、そのどれか一つだけを思い出したからではない。ずっとそうだった。勝てた日にも。負けた日にも。自分で次へ進めない日にも。
そのことを考えているうちに、今度は夢佳が口にした「好きは最強の感情」という言葉が蘇る。
最初に聞いた時、大喜はその言葉を簡単には飲み込めなかった。夢佳は、好きだったはずのバスケットボールが苦しくなった。練習へ行くことも嫌になり、試合さえ早く終わればいいと思うようになった。最後には競技から離れ、それでようやく楽になれた時期もあったという。それなら「好き」が何でも乗り越えさせてくれるわけではない。
夢佳自身も、そう言っていた。けれど一度嫌いだと決め、長い間ボールから離れたあとで、昨日千夏の試合を見た。それだけで昔の自分へ戻ったわけではない。千夏に説得されたからでも、誰かに競技を再開しろと言われたからでもない。それでも、自分からもう一度ボールへ触りたいと思った。
好きなら苦しくならない、という意味ではない。苦しくて、一度見えなくなって、それでもどこかへ残っている。そして、何かのきっかけで、もう一度自分から手を伸ばそうと思わせる。夢佳が言いたかった「好きは最強」とは、そういうことなのかもしれない。
大喜はさっきまでラケットを握っていた右手を開いた。
バドミントンなら、よく分かる。ラケットを握り始めた頃は、シャトルを狙ったところへ飛ばせるだけで楽しかった。試合に勝てるようになればもっと楽しくなった。けれど、強くなればなるほど楽しいことだけではなくなった。負ける悔しさを知り、全国や代表という目標ができれば、勝てない自分を許せなくなったこともある。勝たなければいけないと思いすぎて、むしろ身体を固くした時期さえあった。
それでも、ラケットを置こうとは思わなかった。負けても、次の日にはまた打ちたくなった。もっと上手くなりたい。次は勝ちたい。昨日できなかった球を今日は返したい。
そこは、誰かに言われなくても戻ってくる。バドミントンが好きだからだ。夢佳と自分では、競技との付き合い方も、離れた時間も違う。それでも、苦しいことがあったから好きではなくなるとは限らないことくらいなら、分かる気がした。
そこまで考えた時、今度は朝のもう一つの言葉を思い出す。
バドも、ナツも。
夢佳は、バドミントンと千夏への気持ちが同じ種類だと言ったわけではない。ただ、昔から自分の中で変わっていないものとして二つを並べた。そして千夏については、それが恋人へ向ける感情だと思ったからこそ、大喜と千夏が付き合っていると思っていた。自分は否定した。
付き合っていない。それは事実だ。けれど、「千夏を好きなのか」と聞かれたわけでもないのに、「バドも、ナツも」と言われたこと自体には何の違和感もなかった。千夏を好きなのは昔からだから。その言葉で、今までなら終われた。
大喜は手首から目を離し、少し先のコートを見た。匡が別の相手とドライブを続けている。針生も、さっきまで大喜と打っていた時と同じように、次の相手へ容赦なく球を散らしていた。千夏が大切なのは、物心がついた頃からだった。
小さい頃は、千夏がやっているから自分もバスケットボールをやりたかった。同じコートに入りたかった。結局自分にはバドミントンの方が合っていて競技は分かれたが、初めてラケットを振る自分を千夏に「かっこいい」と言ってもらえた時は嬉しかった。もっと上手くなりたいと思った。もっと見てほしいと思った。
やがて千夏がいない場所でも練習するようになり、バドミントンそのものを好きになった。全国で勝つことも、世界で戦うことも、自分で選んだ目標になった。だから、自分がここまで来たことを千夏のおかげだけにするのは違う。走ったのも、ラケットを振ったのも自分だ。負けた悔しさを抱えたまま翌日の練習へ行くと決めたのも、自分だった。
それでも、勝った時には千夏へ伝えたかった。負けた時には、うまく話せなくても隣にいてほしかった。同じ家へ帰るようになって、それまでより一緒にいる時間が増えたことを嬉しいと思った。昨夜、突然背後から抱きしめられた時には、何が起きたのか分からず身体が固まった。それなのに、千夏の腕が離れてしまった時には、ほっとするより先に物足りなさが残った。
今朝もそうだ。千夏が昨夜のことを覚えていて、自分と同じように意識しているらしいと分かった時、なぜか安心した。幼馴染だから大切。間違ってはいない。けれど、そこへ全部押し込もうとするたび、少しずつ何かがはみ出してくる。
大喜は手を組んだまま、しばらく動かなかった。その時、頭に浮かんだのは昨夜でも今朝でもなく、もっと先の未来だった。秋の合宿で、針生にこの先何を目指すのかと聞かれた。大喜はあの時、初めてオリンピックで金メダルを取りたい、と口にした。
代表合宿で世界の選手たちを意識したことで生まれた、自分自身の目標だ。あの時はまだ大きすぎる気がして、口にすることさえ少し迷っていた。けれど、その未来を最初に思い浮かべた時、大喜の頭には金メダルだけではない光景があった。一番高い場所に立つ自分、首へ掛けられた金メダル、そして、その先にいる千夏。自分は表彰台から下り、そのメダルを千夏の首へ掛けようとしていた。
あの時は、本当にただ浮かんだだけだった。なぜそんなことを想像したのかまでは考えなかった。
けれど今、改めて同じ光景を思い浮かべると、引っかかる。なぜ千夏なのか。金メダルを取ったことを褒めてもらいたいだけなら、そこにいる必要はない。結果を伝えるだけなら、離れた場所からでもできる。
自分が想像していたのは、そうではなかった。一番大きな目標をかなえた瞬間に、一番近いところに千夏がいる未来だった。自分が手にした、一番大きな喜びを分けたいと思っていた。
千夏に見ていてほしいと思ったこと。勝てたら伝えたかったこと。負けた時にも隣にいてほしかったこと。同じ家へ帰れる毎日が嬉しいこと。昨夜、あの腕が離れなければいいと思ったこと。そして、まだ手にしてすらいない金メダルを、未来の千夏へ渡そうとしていたこと。
一つずつなら、幼馴染だからで説明できる気がしていた。けれど、一つに集めると違って見える。自分はまだ、何も成し遂げていない。インターハイにも届かなかった。世界一なんて、目標として口にしたばかりだ。
何かを変えるなら、もっと強くなってからの方がいい。
そんな考えが浮かんだところで、大喜は顔を上げた。聞いたことのある言葉が、今度は自分の中から浮かび上がってくる。
おまえ、何でも相応しくなってから始めようとしてたら遅いぞ
秋の合宿で、針生に言われた言葉だった。あの時、大喜は目標の話だと思った。オリンピックで金メダルを取りたいなんて、今の自分が言うには早いのではないか。それに対して言われたのだと思っていた。だから、「目標の話ですか」と聞いた。針生は「それも」と答えた。
意味が分からず聞き返しても、全部説明させるなと流された。あの時の大喜には、それ以上考えようがなかった。今は、その言葉が別の場所へ引っかかる。もっと強くなってから。もっと勝てるようになってから。
千夏の隣に立ってもおかしくないと思える自分になってから。
いつの間にか、そんなふうに考えていたのかもしれない。競技で結果を積み上げていけば、その先で自然に何かの答えが出る。自分が納得できるところまで強くなれば、千夏に向けているものについて考えてもいい。
けれど、どこまで勝てば十分なのだろう。
全国で優勝すればいいのか。代表で勝てばいいのか。オリンピックへ出ればいいのか。金メダルを取れば、ようやく相応しいのか。そんな基準は、どこにもない。それに、千夏が見てきたのは強い自分だけではなかった。
中国代表に負けた自分も。兵藤に届かなかった自分も。練習しすぎて、自分で止まれなくなっていた自分も。全部知っている。それでも、隣にいてくれた。
大喜も同じだった。
千夏がバスケで活躍したから大切になったわけではない。試合に勝って笑っている千夏だけを見ていたいわけでもない。負けて悔しそうにしている時も、迷っている時も、夢佳のことで一人ではどうにもできずにいた時も、できるなら一番近くにいたいと思った。勝った千夏だけではなく。うまくいっている千夏だけでもなく。
今の千夏のそばにいたい。そこまで考えた時、大喜はようやく、自分がずっと避けていたところへ辿り着いた。子どもの頃から千夏を大切だと思ってきた気持ちは、ずっと同じ場所で止まっていたわけではなかった。同じ体育館で過ごした時間。別々の競技を始めてから互いの試合を見てきた時間。
勝った日も、負けた日も。会えなかった日も、同じ家へ帰るようになった今も。その中で、形を変えていた。今の自分は、千夏に見ていてほしいだけではない。自分も、千夏の一番近くで見ていたい。いつか自分が一番大きな目標へ届いた時、その喜びを一番に分けたい。
それはもう、幼馴染だから大切という言葉だけでは足りなかった。
大喜は息を吸った。
体育館の音が耳へ戻ってくる。シャトルを打つ音。シューズの音。誰かが得点を呼ぶ声。その全部がさっきまでと何も変わっていないのに、自分の中だけで、長い間置き場所の分からなかったものがようやく収まろうとしていた。夢佳の言葉を、もう一度思い出す。
好きは最強の感情、本当に最強なのかは大喜にはまだ分からない。好きだから勝てるわけではない。好きだから苦しくならないわけでもない。夢佳は好きだったバスケから離れたし、大喜だって好きなバドミントンで何度も負け、苦しくなった。
千夏を大切に思っているからといって、自分のラケットが勝手に強くなることもない。それでも、好きだから、もう一度やろうと思える。好きだから、もっと先へ行きたいと思える。好きだから、そこで終わりたくないと思える。バドミントンに対してそうだったように、自分はずっと、千夏に対しても、次を望んでいた。
もっと見てほしい。
もっと一緒にいたい。
この先も、隣にいてほしい。
そこまで辿って、大喜はようやく認めた。
俺は、ちーちゃんのことが好きなんだ。
恋愛として、好きなんだ。昨日までの自分が間違っていたわけではない。小さい頃から大切だったことも、幼馴染として過ごしてきた時間も全部本物だ。ただ、その気持ちが何年も同じ形のままだったわけではなかった。
練習へ来たのも、負けたあとにもう一度ラケットを握ったのも、世界一を目指すと決めたのも自分だ。その一方で、千夏に見ていてほしいという思いが、自分に「もっと」と思わせた日も確かにあった。
千夏がいたから強くなれた、ではない。千夏を好きな自分が、もっと強い自分を見てもらいたいと選んできた。それなら、バドミントンと千夏を、自分の中でどちらか一方へ分ける必要もなかった。
どちらも大切だからこそ、それぞれに向き合えばいい。
大喜は右手首へ目を向けた。青いリストバンドには、何も変わらず「Fight」と書かれている。以前は、千夏の期待に応えなければいけないという重さまで自分で抱えてしまったことがあった。
今なら分かる。
これは、自分を縛るものではない。勝っても負けても、またラケットを握ろうとする自分のそばに、千夏から受け取ったものがある。それれがとても心強く、心地よかった。
大喜は壁へ手をつき、立ち上がった。コートへ戻ると、針生がちょうどゲームを終えたところだった。針生は大喜が近づくのを見ると、ラケットでコートを軽く指した。
「もう平気か?」
「はい」
「本当に?」
「さっきよりは」
「なら入れ。まだ変ならまた出すぞ」
「分かりました」
大喜は床に置かれていたシャトルを拾い、コートへ入った。向かい側には針生がいる。休む前と何も変わらない。針生の球が急に遅くなるわけでも、大喜の身体能力が上がるわけでもない。壁際で考え事をしただけで、今まで打てなかった球が打てるようになるはずもなかった。
大喜はサービス位置へ立ち、一度だけ右手の指を開いてからラケットを握った。ゲームを再開すると、針生はすぐに大喜のバック奥へ高い球を送ってきた。大喜は無理に速い返球を選ばず、十分に下がって深いクリアを返す。針生は早い位置で入り直し、今度はネット前へ落とした。
大喜は前へ出た。追いついた位置から無理に決めようとはせず、ネット際へ返して次の球に備える。針生は持ち上げた球を大喜のフォア奥へ伸ばし、再び後ろへ走らせた。前後へ振られれば苦しい。それでも、今は針生の姿勢を見ていられる。
大喜は一度高く返して時間を作った。針生が中央へ戻りながらフォア側をわずかに空ける。そこで無理に強打せず、空いた奥へ速いクリアを伸ばした。針生の返球が浅くなる。大喜は前へ入り、空いたクロスへ運んだ。シャトルが床へ落ちた。
「一本」
大喜は自分で得点を確認し、すぐ元の位置へ戻った。針生がシャトルを拾いながら、大喜を見る。
「急に変わったな」
「すみません」
「謝るところじゃねえよ。さっきよりはだいぶマシだ」
「はい」
「じゃあ次」
大喜は渡されたシャトルを受け取った。構える。打つ。ラケットへ伝わる感触は、さっきまでと何も変わらないはずだった。それなのに、シャトルが手元から素直に離れた。大喜は一瞬、その軌道を目で追った。
シャトルが、軽い。球そのものが変わったわけではない。自分が握り込んでいたものを、ようやく離せただけだった。次のラリーでは針生に先に攻め込まれた。ネット前へ振られたあと一気に奥へ運ばれ、大喜は体勢を崩しながら高く返す。そこから針生に逆を取られ、結局シャトルには届かなかった。
それでも、床へ落ちた球を見たまま止まることはなかった。今のは最初に前へ入りすぎた。次は半歩残す。それだけ整理して、また構える。
勝てる球だけが来るわけではない。読みも外れるし、針生の方が一枚上手の組み立てをすることもある。それでも一点が終われば、次の一点へ戻れた。隣のコートで練習していた匡が、一度だけ大喜の方を見た。目が合う。けれど、匡は何も聞かなかった。
大喜も何も言わず、次のシャトルを持つ。その後は、練習が終わるまで意識をコートから外さなかった。ネットやシャトルを片づける頃には、体育館の窓の外はもう暗くなっていた。大喜は更衣室へ入り、汗を拭いて制服へ着替える。練習中は触らなかったスマートフォンをバッグから取り出すと、千夏からメッセージが届いていた。
『二回戦、勝ったよ』
送られてきた時刻は少し前だった。今朝、千夏を見送ってから結果が気にならなかったわけではない。それでも、自分の練習中に確認したところで何もできないと思い、スマートフォンには触らなかった。画面の文字を読み、大喜は息を吐いた。勝った。
それだけで、まず嬉しかった。大喜はすぐに返信を打つ。
『おめでとう。お疲れさま』
ほどなくして既読がついた。
『ありがとう。大喜くんも練習お疲れさま』
いつもなら、そこでスマートフォンをしまっていたかもしれない。大会の日には結果を聞き、勝てば祝う。自分の大会なら千夏も同じように返してくれる。同じ家へ帰るのだから、あとで顔を合わせれば詳しい話もできる。大喜は千夏の名前が表示された画面を見た。
さっき自分の中で分かったことは、自分のことだけだった。千夏が自分をどう思っているのかは、まだ知らない。昨夜のことを思い返せば、期待したくなる。抱きついてきたことも、途中で止まった言葉もある。けれど、それを自分に都合のいい答えへ変えるわけにはいかない。
一つだけ、もう誤魔化せないことがある。自分は、ちーちゃんが好きだ。そこまで分かったのに、また「幼馴染だから」と同じ場所へ全部戻して、何もなかったように家へ帰ることはできなかった。だからといって、試合を終えたばかりの千夏へ長い文章を送り、今すぐ何かを答えてほしいわけでもない。まず、会いたいと思った。
家に帰れば会える、ではなく。今日、自分から時間を作って会いたかった。大喜は入力欄を開いた。
『今日、話したいことがある』
そこまで打って、消した。いきなりこれでは、試合を終えた千夏を身構えさせる気がした。
『今日、時間ある?』
今度も指が止まる。同じ家へ帰る二人なのだから、これだけでは何を聞いているのか分からない。大喜はスマートフォンを持ったまま考えた。今日はクリスマスだ。千夏は大事な大会で一つ勝ち、自分も練習を終えた。今すぐ答えを求めるためではなく、そのあと少しだけでも二人で過ごしたい。
自覚したから突然生まれた気持ちではない。前から、千夏と一緒にいる時間をもう少し延ばしたいと思うことはあった。ただ、今日はそれを「たまたま帰りが同じだから」ではなく、自分から選びたかった。大喜はもう一度文字を打つ。今度は消さなかった。
『今日、このあと少しだけ出かけない?』
送信する。メッセージが画面へ表示された。まだ何も伝えていない。それでも、自分の気持ちを認める前とは違う一歩だった。大喜はスマートフォンを持ったまま、右手首の青いリストバンドへ目を向ける。返事は、まだ届いていなかった。