大喜は一度息を吸った。それから、隣に立つ千夏へ向き直った。千夏も周囲を見るのをやめ、大喜の方へ身体を向ける。誰もいなくなった体育館には、もうボールの弾む音も、シャトルを打つ音もない。非常口の緑色の灯りと、高い窓から差し込む外の明かりだけが床へ落ち、バスケットボールとバドミントンのラインを薄く浮かび上がらせていた。
ここまで来れば言えると思っていた。それなのに、千夏が自分の言葉を待っていると、最初の一言だけが出てこなかった。千夏は何も聞かなかった。急かすこともなく、ただ大喜を見ている。昔から、そうだった。話したい時には聞いてくれて、何も言いたくない時には、無理に聞こうとしなかった。
大喜は一度だけ足元へ目を落とした。
「俺さ」
声にしたところで、その先が詰まった。何を言うかは決めていたはずなのに、千夏を前にすると、たった一言を続けることができない。千夏は急かさなかった。大喜の方を向いたまま、静かに待っている。
「うん」
その声に背中を押されるように、大喜は一度息を整えた。
「俺、ずっと……バドミントンが好きだから、もっと強くなりたいんだと思ってた」
千夏が瞬きをした。それだけを聞けば、この場所へ来て昔を思い出したのだとも、今日の練習で考えたことを話しているのだとも聞こえる。大喜は一度息を整えて、顔を上げた。
「でも、それだけじゃなかった」
千夏の表情が変わった。
「小さい頃、ここでバド始めた時、ちーちゃんが俺のこと、かっこいいって言ってくれたでしょ」
「……うん」
「あれ、すごく嬉しかった」
クリスマスマーケットでも話したことだった。けれど、大喜が本当に伝えたかったのは、その先にあるものだった。
「それから、もっと強くなったら、またちーちゃんに見てほしいって思ってた。勝てるようになったところも、もっと上手くなったところも」
小学生の頃から、そんなふうに言葉で考えていたわけではない。ただ、千夏に見てもらえることが嬉しかった。試合に勝てば伝えたくなったし、できなかったことができるようになれば、また見てほしくなった。バドミントンそのものを好きになってからも、それは変わらなかった。
「勝った時は、一番にちーちゃんに言いたかった。負けた時は……格好悪いところ見られたくなくて、会いたくないって思った日もあったけど」
大喜はそこで息を吐いた。
「でも、そういう時も結局、ちーちゃんはそばにいてくれた」
勝った日のことだけではない。何も話せないまま並んで帰った日があった。悔しさをどうすればいいのか分からず、ただ次の練習へ向かった日もあった。自分でも止まれなくなっていた時には、千夏が手を伸ばしてくれた。その一つ一つを、今ここで言葉にする必要はなかった。千夏も同じ時間の中にいた。
「ずっと、そばにいてくれてありがとう」
千夏の目に、涙が浮かんだ。大喜はその顔を見つめた。いつか大きな目標をかなえた時、その喜びを千夏と分け合いたい。けれど、自分の話を聞いてもらうだけではなかった。千夏が嬉しい時には一緒に喜び、うまくいかずに悩んでいる時にも、一番近くにいたかった。
「俺も、ちーちゃんのそばにいたい。これからも」
声が少し震えた。それでも大喜は、千夏をまっすぐ見たまま続けた。
「俺、ちーちゃんが好きだ」
そのあとには、何も足さなかった。言い終えた声が、静かな体育館へ消えていく。千夏は動かなかった。大喜を見つめたまま、その目に溜まった涙が一筋、頬を伝った。大喜の表情が揺れる。泣かせるつもりではなかった。
思わず名前を呼ぼうとした、その時だった。
「ちーちゃん――」
「私も」
大喜の声に、千夏の声が重なった。千夏は涙を拭わなかった。声を震わせながらも、大喜から目を逸らさない。昨日は言えなかった。大喜の背中へ腕を回し、名前を呼んだところで、あと一言を残したまま扉が開いた。今は違う。
目の前にいる大喜が、自分の言葉でここまで伝えてくれた。だから千夏も、もう止まらなかった。
「私も、大喜くんが好き」
涙がもう一つ、頬を伝った。それでも千夏は目を逸らさない。
「ずっと好きだった。ずっと……言いたかった」
一度息をのみ、千夏は続けた。
「大喜くんに好きって言ってもらえて……嬉しい」
大喜は何も言わず、その言葉を受け取った。昨夜、背中へ回された腕の意味を考えなかったわけではない。途中で止まった言葉も、今朝の千夏の様子も残っていた。もしかしたら、と思ったこともある。けれど、確信はなかった。それでよかった。
千夏の答えを先に知ってから、自分の気持ちを決めたかったわけではない。今日、自分でようやく分かったことを、自分から伝えたかった。そして今、その先に千夏の「好き」があった。大喜の目の奥が熱くなる。
「……ありがとう」
やっと出たのは、それだけだった。千夏は泣きながら、静かに笑った。その返事まで、大喜らしいと思った。ずっと近くにいたから知っている。競技のことなら次から次へと言葉が出てくるのに、自分のことになると急に不器用になる。今日だって、バドミントンの話から始めて、何度も言葉を探しながら、それでも最後には自分の目を見て好きだと言ってくれた。
そんなところも全部、千夏がずっと見てきた大喜だった。千夏はようやく頬の涙を指で拭った。
「昨日もね」
大喜が顔を上げる。
「昨日も、それを言おうとしてたんだよ」
大喜の中へ、昨夜の体育館が戻ってきた。小さなクリスマスツリー。背中へ回された千夏の腕。すぐ近くから聞こえた声。
『大喜くん、私――』
「……あの時の続き?」
「うん。好きって言おうとした」
千夏は今度は途切れずに言った。
「夢佳とちゃんと話せたのが嬉しくて、大喜くんにもありがとうって言いたくて。最初はそれだけだったんだけど……大喜くんの背中見てたら、もう言わないまま帰りたくないって思って」
「うん」
「あと少しだったのに人が来ちゃって。今朝も、大喜くんの顔見たら昨日のこと思い出しちゃって、ちゃんと見られなかった」
昨夜から今朝までの千夏の様子が、大喜の中で静かにつながった。
「俺も、昨日からずっと気になってた」
「もしかしたらって思った?」
「思った」
大喜は隠さなかった。
「でも、分からなかった。夢佳さんと話せたあとだったし、ちーちゃんもいろいろあったから」
そこで一度言葉を切る。
「それに、ちーちゃんが何を言おうとしてたのか聞いてから、自分の気持ちを決めるのは違うって思った。ちゃんと自分で分かってから、言いたかった」
千夏は大喜を見つめた。その目に、また涙が浮かぶ。
「うん」
千夏は頷いた。
「大喜くんから言ってくれて嬉しい」
大喜も千夏を見る。
「俺も……ちーちゃんが同じ気持ちでいてくれて、嬉しい」
それから二人は、しばらく何も話さなかった。言えないことが残っているからではない。少し前まで一番知りたかったことを、もう互いに知っている。ずっと一番近くにいた相手が、自分を同じように好きだった。それを、二人ともまだすぐには受け止めきれずにいた。
千夏は大喜を見る。小さい頃から何度も見てきた顔だった。勝って嬉しそうな顔も、負けて何も話したくなさそうな顔も、眠そうな朝も、練習へ向かう時の真剣な横顔も知っている。その大喜が、今、自分を好きだと言ってくれた。千夏は静かに名前を呼んだ。
「大喜くん」
「うん」
一度だけ呼吸を整える。
「……私たち、付き合うってことでいいんだよね?」
責めるような響きはなかった。ただ、大喜がくれた言葉の先を、自分も同じように選びたかった。大喜は一瞬だけ目を見開いた。告白することばかり考えていて、その先まで言葉を用意していなかった。けれど、答えに迷いはなかった。
「うん」
大喜は千夏から目を逸らさなかった。
「ちーちゃんと付き合いたい」
千夏の目から、また涙が溢れた。今度は拭わなかった。
「うん。私も、大喜くんの彼女になりたい」
二人の間に、また静かな時間が流れた。何か大きな音がしたわけでもない。景色が変わったわけでもない。足元には同じコートラインがあり、非常口の灯りも変わらず点いている。それでも、もう少し前までとは違っていた。子どもの頃から積み重ねてきたものを置いていくのではなく、その全部を持ったまま、二人は初めて同じ気持ちでその先を選んだ。
千夏は一歩、大喜へ近づいた。そのままもう一歩踏み出そうとして、止まる。昨夜は、考えるより先に背中へ抱きつけた。今は大喜が正面にいる。自分を好きだと知っている。そのことが、昨日よりも千夏を緊張させた。
千夏は大喜の袖をそっとつかんだ。何も言わず、指だけを残す。大喜はその手を見てから、千夏の顔へ視線を戻した。昨夜は抱きしめられても、何も返せなかった。今は、自分から千夏へ近づきたいと思っている。
「抱きしめてもいい?」
千夏は大喜を見上げた。目元には、まだ涙の跡が残っている。
「うん」
大喜は腕を伸ばした。千夏も一歩進む。二人の間にあった距離がなくなった。大喜の腕が千夏の背中へ回り、千夏はその胸元へ額を寄せる。最初、大喜の腕にはほとんど力が入っていなかった。けれど、千夏の指が制服をつかんだまま離れないことを確かめると、ゆっくりと抱く腕へ力を込めた。
千夏は目を閉じた。大喜の呼吸が近くで聞こえる。子どもの頃、この体育館ではいつも少し離れたところに大喜がいた。自分はバスケットボールを追い、大喜はシャトルを追っていた。同じ場所にいるのに、立っているコートは違った。それでも練習が終われば一緒に帰り、勝った話を聞き、負けた日は何も言わず隣を歩いた。
中学生になり、高校生になった。競技が忙しくなり、互いに目指す場所も遠くなった。それでもまた同じ家で暮らすようになり、朝になれば顔を合わせ、夜には同じ家へ帰るようになった。ずっと近くにいた。だからこそ、好きだと言うのが怖くなった。
言葉にしたら、今あるものまで変わってしまうかもしれなかった。それでも昨日は伝えようとした。そして今日は、大喜が先に言ってくれた。千夏は大喜の胸元へ額を押し当てた。涙がまた頬を伝った。ずっと好きだった人の腕の中にいる。
大喜も千夏を抱く腕へ、もう一度力を込めた。
勝った日も、負けた日も、何かをつかんだ時には千夏へ伝えたかった。その千夏が、今は同じ腕の中にいる。
「ちーちゃん」
「うん」
一度伝えた。もう返事も知っている。それでも、もう一度だけ言いたかった。
「好きだよ」
千夏の指が、大喜の制服を強くつかんだ。
「私も、大喜くんが好き」
しばらくして、千夏が胸元で続ける。
「ずっと好きだった」
大喜は何も言わず、千夏を抱いたまま目を閉じた。もう、何かを足す必要はなかった。やがて受付の方から声が響いた。
「そろそろ閉めますよ」
二人はゆっくり身体を離した。離れたあとも、すぐには目を逸らさなかった。大喜が荷物の方を見る。
「行こうか」
「うん」
二人は受付へ戻り、管理人へ揃って頭を下げた。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
体育館の外へ出ると、冷たい空気が頬に触れた。背後で扉が閉まり、鍵のかかる音がする。少しして、中に残っていた明かりも消えた。冬の夜の中に、昔から知っている体育館が静かに建っている。千夏はその場で立ち止まり、しばらく建物を見上げていた。子どもの頃より小さく見えるその場所に、今夜また一つ、二人だけの記憶が増えた。
「ここでよかった」
千夏が言った。大喜が隣を見る。
「大喜くんが、ここで言ってくれてよかった」
大喜も体育館を見た。夢佳と昔のことを話さなければ、今日ここを思い出さなかったかもしれない。けれど思い出した瞬間、千夏へ伝えるならここがいいと思った。初めてバドミントンに出会った場所。初めて、千夏にその姿を見てもらった場所。
「俺も。ここで言いたかった」
千夏は頷いた。二人は並んで歩き始めた。来た時と同じ住宅街だった。公園も、曲がり角も、街灯も変わっていない。それでも帰り道は、行きより静かだった。
話したくないわけではない。言いたいことは、まだいくらでもある気がした。けれど今は、無理に言葉を探さなくてもよかった。しばらくして、千夏が口を開いた。
「明日の朝」
「うん」
「ちゃんと、大喜くんの顔見られるかな」
大喜は少し考えた。
「俺も、普通にできるか分からない」
千夏は小さく笑った。
「そっか」
明日になれば、千夏には次の試合があり、大喜には練習がある。そのことは、今夜二人の関係が変わっても変わらない。歩いているうちに、大喜の手が千夏の手へ触れた。一度離れる。数歩進むと、また指先が触れた。今度は、二人ともすぐには離さなかった。
大喜は隣を歩く千夏を見る。展望台で手をつないだことはある。けれど今は、あの時とは違う。暗いからでも、相手を支えるためでもなかった。ただ、つなぎたいと思った。
「ちーちゃん」
「うん」
「手、つないでもいい?」
千夏は大喜を見る。それから、自分から手を差し出した。
「うん」
千夏の指が先に大喜の手へ触れた。大喜がその手を包む。歩き出すうちに指先が重なり、やがて自然に絡んだ。大喜はその手を握った。千夏も握り返した。今までだって、ずっと隣を歩いてきた。
小学生の頃から、何度も一緒に帰った。勝った日も、負けた日も、何でもなかった日も。それでも今夜の帰り道は、今までのどの日とも違った。好きだと伝えた相手の手を、大喜が握っている。好きだと答えた相手の手を、千夏が握り返している。
二人はそのまま歩いた。大喜が一度、つないだ手へ力を込める。千夏も同じ強さで握り返した。家までの道は、昔から知っている道のままだった。歩く速さも、隣にいる相手も変わらない。
その夜、家に着くまで、二人はつないだ手を一度も離さなかった。