Another Childhood   作:やまうぇ

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第64話 昨日までと同じ朝

目覚ましが鳴る少し前に、大喜は目を覚ました。薄暗い部屋の天井も、カーテンの隙間から差し込む冬の朝の光も、机の脇に置いたラケットバッグも、昨日までと何も変わらない。まだ起きる時間には早いと分かっていたが、もう一度目を閉じても眠れそうになかった。昨夜の体育館が浮かんだ。

 

自分が千夏へ伝えた言葉と、涙を浮かべながら返ってきた声。抱きしめた時の近さや、家までの道でつないだ手の感触まで思い出したところで、大喜は布団を鼻の辺りまで引き上げた。

 

夢ではない。

 

自分から好きだと伝えて、千夏も同じ気持ちだと言ってくれた。頭の中でもう一度そこまで確かめた頃、枕元の目覚ましが鳴り始める。大喜は手を伸ばしてすぐに止めたものの、布団から出るまでにはもう少しかかった。

 

隣の部屋では、千夏もいつもより早く目を覚ましていた。昨夜は家へ戻り、自分の部屋へ入ってからもなかなか眠れなかった。布団へ入れば大喜に告白された時のことを思い出し、目を閉じれば抱きしめられた時の感触まで戻ってくる。ようやく眠ったと思った頃には、窓の外がもう薄く明るくなっていた。

 

時計を確認して起きると、千夏は鏡の前でいつものように髪を整えた。寝癖を直し、前髪を確かめる。そこで終えるはずだったのに、一度鏡から離れてから、また戻って髪の流れを直している。特別なことをする必要はない。大喜は隣の部屋にいるし、自分だって朝の支度をすればいい。

 

それでも、いつもなら気にしないところまで触っている自分に気づき、千夏は鏡の中の顔をしばらく見たあと、ようやく櫛を置いた。部屋を出ようとして、扉へ伸ばした手が一度止まる。昨日までは、朝になれば大喜と顔を合わせることなど当たり前だった。今日は、その当たり前が少しだけ難しかった。千夏が扉を開けたのと、大喜が隣の部屋から出てきたのは、ほとんど同時だった。

 

二人とも、その場で足を止めた。何度も繰り返してきた朝だった。廊下で会えば挨拶をする。それだけのことなのに、大喜はいつもより一度長く息を吸ってから口を開いた。

 

「おはよう、ちーちゃん」

「……おはよう、大喜くん」

 

千夏の返事は一拍遅れた。二人はそのまま洗面所へ向かって歩き始めたが、普段なら意識もしない肩の近さが妙に気になった。大喜が外側へ寄れば、千夏もほとんど同じだけ反対へ寄る。数歩進んだところで、二人の間にできた不自然な隙間に千夏が気づいた。

 

「……大喜くん」

 

呼ばれて、大喜が横を見る。千夏は二人の間を一度見てから大喜へ視線を戻し、堪えきれないように笑った。大喜もようやく自分たちが何をしているのか分かり、肩から力を抜く。

 

「昨日まで普通に歩いてたのにね」

「ね」

 

それだけ交わすと、二人の間の距離も自然と元へ戻った。階下へ降りると、食卓にはすでに朝食が並んでいた。味噌汁から湯気が上がり、大喜の母は台所から焼き魚の皿を運んでいる。祖父は新聞を畳んだところで、二人がいつもの席につけば、そこは昨日までと何も変わらない猪股家の朝だった。

 

「おはよう。二人とも眠そうね」

 

大喜の母がそう言いながら席につく。

 

「おはよう」

「おはようございます」

 

二人が箸を取ったところで、母は大喜と千夏を順番に見た。

 

「昨日、帰るの遅かったでしょう。楽しかった?」

 

大喜と千夏の手が、ほんの一瞬だけ止まった。

 

「うん」

「はい」

 

ほとんど同時に返事をしたため、二人は思わず顔を見合わせる。母は眉を少し上げたものの、それ以上は深く聞かなかった。

 

「ならいいけど。千夏ちゃんは試合もあったんだから、今日は無理しないでね」

「はい。ありがとうございます」

「大喜も。休む時はちゃんと休むのよ」

「分かってる」

 

食事が始まってからも、大喜は向かい側の千夏をいつも以上に意識してしまった。千夏が箸を止めれば気づき、飲み物へ手を伸ばせばついそちらを見る。千夏も似たようなものらしく、大喜が顔を上げると何度か目が合ったが、二人とも何事もなかったように朝食へ戻った。

 

祖父はそんな様子を特に気にすることもなく、テレビから流れる天気予報を見ながら味噌汁を飲んでいる。その横で千夏が焼き魚に使う醤油へ手を伸ばすと、ちょうど大喜も同じものを取ろうとしていた。触れそうになった指を、二人とも反射的に引く。

 

「どうぞ」

「大喜くん先でいいよ」

「いや、ちーちゃんが使おうとしてたから」

「でも、大喜くんも取ろうとしてたでしょ」

 

二人とも譲ったまま動かなくなると、祖父が呆れたように顔を上げた。

 

「どっちでもいいから、早く使いなさい」

 

大喜が醤油を取り、千夏の前へ置く。

 

「……ありがとう」

「うん」

 

祖父はもう天気予報へ目を戻していた。母も特に何も言わず、ご飯を口へ運んでいる。朝食が半分ほど進む頃には、最初にあったぎこちなさも少しずつ薄れていた。きっかけは、千夏が口にしたいつもの競技の話だった。

 

「大喜くん、今日の練習は昨日と同じくらい?」

「時間は同じ。昨日ちょっと上手くいってなかったところあるから、そこ確認してからゲーム練習かな」

「昨日、途中で集中切れてたって言ってたもんね」

「そこまで言ったっけ」

「針生君に休まされたって言ってた」

「ああ……」

 

昨夜マーケットで話したことを思い出し、大喜は一瞬だけ言葉を止めた。千夏も同じところへ考えが向かったらしい。それでも今度は、互いに目を逸らすほどではなかった。

 

「今日は、考え事しながら打たないようにね」

「今日は大丈夫」

「そっか」

 

母には、ごく普通の競技の会話にしか聞こえない。実際、それで間違っていなかった。大喜は昨日上手くできなかった部分を今日の練習で確かめる。千夏にも、次の試合へ向けてやるべきことがある。

 

「ちーちゃんの方は?」

「次の相手、優勝候補だから。今日はそこに向けた確認が多いと思う」

「やっぱり強い?」

「うん。大きい選手も多いし、簡単にはいかないと思う。でも、昨日までやってきたことを急に変えるわけじゃないから」

 

千夏の返事は落ち着いていた。

 

全国大会の三回戦で当たる相手が優勝候補だと聞けば、大喜にもその重さは分かる。それでも千夏は、相手の名前だけで試合を決めつけてはいなかった。

 

「疲れは?」

「残ってはいるけど、今日は試合じゃないし。そこも見ながら練習すると思う」

「そっか」

 

競技の話になると、朝食の最初にあったぎこちなさは自然に薄れていった。そのことが、どちらにとっても少し心地よかった。朝食を終えると、二人はそれぞれ自分の食器を持って台所へ向かった。大喜が空になった皿を重ね、千夏がコップを流しへ置く。並んで片づけているうち、大喜は隣にいる千夏を一度だけ見た。気づいた千夏も振り向く。

 

「なに?」

「いや……本当に普通だなと思って」

「朝ご飯?」

「うん。昨日の夜があっても変わらないなって」

 

千夏の指がコップの縁で止まる。数秒置いてから、その表情が柔らかくなった。

 

「普通じゃなくなったら困るよ」

「それはそうだけど」

「明日も朝ご飯はあるし」

「まあ、そうだよな」

 

母から、二階へ戻るなら支度を急ぐよう声が飛んできた。二人は揃って返事をして、それぞれの部屋へ戻った。練習着と荷物を整え、時間になって大喜が玄関へ下りると、千夏もちょうどバッグを持って階段から降りてきた。大喜は靴を履きながら、ふと手を止める。昨夜は手をつないでこの家まで帰ってきた。

 

けれど今は家族がすぐ近くにいる。だからといって、これまでずっと一緒に登校してきた二人が、恋人になった翌日だけ別々に家を出るのもおかしい気がした。

 

「ちーちゃん」

「なに?」

「俺、先に出た方がいい?」

「なんで?」

「いや……昨日までと違うし」

「でも、昨日までずっと一緒に行ってたのに、今日だけ別々に出た方が変じゃない?」

「……それもそうか」

「うん」

 

千夏はそれ以上迷うことなく靴を履き終えた。大喜も立ち上がり、二人は今までと同じように家へ声をかける。

 

「行ってきます」

「行ってきます」

 

母と祖父の声が家の奥から返ってきた。扉を閉めて並んで歩き始め、家から少し離れたところまで来ると、二人はほとんど同時に長く息を吐いた。大喜が隣を見ると、千夏もこちらを見ている。

 

「疲れた」

「まだ家出ただけだよ」

「朝ご飯食べるだけで、あんな緊張すると思わなかった」

「私も。醤油取るだけなのに」

「じいちゃんに怒られたし」

「怒られてはいないよ」

 

二人は朝食でのやり取りを思い出して笑った。昨夜の体育館とは違う。あの場所では、一つの言葉を口にするだけで精いっぱいだった。それからまだ半日も経っていないのに、今は醤油一つでぎこちなくなった自分たちを並んで笑っている。少し歩いてから、千夏が大喜を見る。

 

「大喜くん、昨日ちゃんと寝られた?」

「あんまり。ちーちゃんは?」

「私も。部屋戻ってから、ずっと昨日のこと考えてた」

「俺も」

 

短いやり取りのあとに沈黙が落ちたが、気まずくはなかった。通勤へ向かう車が横を通り、前方では小学生が二人並んで歩いている。大喜はしばらく前を向いて歩いたあと、昨夜から自分の中に残っていた感覚を確かめるように口を開いた。

 

「ちーちゃん」

「うん」

「……昨日のこと、朝になっても変わってないよな」

 

千夏が横を見る。大喜は言い方を間違えたことに気づき、すぐに続けた。

 

「気持ちが変わったとかじゃなくて。俺がまだ、ちゃんと実感できてないだけなんだけど」

「付き合ってるかってこと?」

「うん」

 

千夏の口元が柔らかくなる。

 

「付き合ってるよ。昨日の夜だけじゃないよ」

「……うん。よかった」

「そこ心配してたの?」

「心配っていうか、昨日までと何も変わってないから」

「じゃあ、何か変えた方がいい?」

「いや、それはそれで困る」

 

大喜がすぐに返すと、千夏は笑った。住宅街を抜けて大通りへ出る頃には、学校へ向かう生徒の姿も増えていた。大喜は周囲を一度見てから、さっきまでより声を落とす。

 

「これ、みんなにすぐ言う?」

 

千夏は歩きながら考えた。

 

「隠したいわけじゃないよ。でも、今すぐみんなに言わなくてもいいかなって思ってる。まだ試合中だし、大喜くんも練習あるでしょ」

「俺もそう思う」

「嘘つくのは嫌だけど、聞かれてないのに自分たちから言って回る必要もないし」

「うん。ちゃんと話したい人には、落ち着いてから言えばいいかな」

 

誰に最初に伝えるのか、いつなら正しいのかまで、その場で全部決める必要はなかった。ただ、二人とも関係を隠したいわけではないということだけ分かれば十分だった。一方で、いつか必ず話さなければならない相手もいる。大喜は少し考えてから、今度は声の調子を変えた。

 

「家には、ちゃんと言わないとな」

「うん。私もそう思ってる」

「今日いきなり朝ご飯の時に言うのは、さすがに無理だったけど」

「それは私も無理」

 

千夏はそこで一度考えた。

 

「試合が落ち着いてから、ちゃんと考えよう。お父さんとお母さんにも、自分から言いたいし」

「うん。俺も」

 

同じ家で暮らしている以上、自分たちだけが分かっていればいいことではない。それでも、まだ大会は続いている。今朝の通学路で報告の方法まで決め切る必要はなかった。話が一段落すると、大喜は自然に千夏の試合へ話を戻した。

 

「次、優勝候補なんだよね」

「うん」

「緊張する?」

「するよ」

 

千夏はすぐに答えた。

 

「でも、ここまで来たら相手がどこでも強いしね。それに、優勝候補だからって最初から負けるつもりでやるわけじゃないし」

「うん」

「今日、みんなでもう一回ちゃんと合わせてくる」

 

細かな戦い方まで大喜に説明する必要はなかった。千夏が怖がっていないわけではないことも、それでも勝つために準備するつもりなのも、その言葉だけで十分伝わった。

 

「ちーちゃんなら、ちゃんとやれると思う」

 

千夏が大喜を見る。これまでにも何度か受け取ってきた言葉だった。大喜は千夏の競技について、分からないことまで知ったふりはしない。その代わり、千夏が本気で向き合っていることについては簡単には疑わなかった。今朝も、それは変わっていない。

 

「うん。大喜くんもね」

「俺も?」

「昨日上手くいかなかったところ、今日確認するんでしょ」

「そのつもり」

「じゃあ、私もそう思ってる」

 

大喜は一度千夏を見たあと、前へ向き直った。学校が近づくにつれて、朝練へ向かう生徒たちの姿が増えていった。二人は手をつながなかったが、周囲を気にしてわざと離れることもしない。互いの速さへ自然に歩幅を合わせて正門を通った。体育館へ続く道へ入ったところで、千夏がふいに大喜の名前を呼ぶ。

 

「大喜くん」

「なに?」

 

振り返った大喜を前に、千夏は呼び止めてから少し迷った。

 

「……呼んでみただけ」

 

大喜は一瞬何のことか分からなかったが、昨日まで何度も聞いてきた自分の名前が、今朝は妙に耳へ残ることに気づいた。少し歩いてから、今度は大喜が千夏を呼ぶ。

 

「ちーちゃん」

「なに?」

「俺も、呼んでみただけ」

 

千夏が目を丸くしたあと、二人は小さく笑った。呼び方を変える必要はなかった。大喜にとって千夏はこれからも「ちーちゃん」で、千夏にとって大喜も「大喜くん」のままだった。体育館の入口が近づく。女子バスケットボール部と男子バドミントン部では、準備する場所も練習するコートも違う。ここからは、それぞれが自分の部へ向かう時間だった。

 

入口の手前で、千夏が足を止める。

 

「じゃあ、今日も頑張ろうね」

「うん。ちーちゃんも」

 

何度も交わしてきた言葉だった。集合場所が分かれるところで、千夏は女子バスケットボール部の方へ、大喜は男子バドミントン部の方へ歩き出した。数歩進んで千夏が一度振り返ると、ほとんど同じタイミングで大喜も振り返っていた。目が合い、二人は小さく笑って、それぞれ前を向いた。

 

男子バドミントン部では、すでに何人かの部員がネットを張り始めていた。大喜も荷物を置いて準備へ加わり、身体を温めて基礎打ちを済ませると、昨日上手くいかなかった部分を確かめながら練習へ入った。最初から全てが思い通りになるわけではなかった。それでも一球失敗するたびに考え事へ引きずられることはなく、次の一本へ意識を戻せている。昨日の前半にあった妙な力みは、もう残っていなかった。隣でシャトルを拾った匡が、大喜の方を見る。

 

「今日はちゃんとしてるね」

「昨日も最後はちゃんとしてただろ」

「最後はね。最初、変だったけど」

「ごめんて」

 

匡は次のシャトルを大喜へ渡すと、それ以上何があったのか聞かず、自分の位置へ戻った。大喜も受け取ったシャトルを持ち直し、再び練習へ入る。

 

女子バスケットボール部では、全国優勝候補との三回戦を前に、千夏たちが守備の確認をしていた。相手には高さも強さもある。それでも、特別な何かを一日で身につけられるわけではない。味方同士で声を掛け、相手に簡単にボールを取らせないこと。これまでやってきたことを、いつも以上に丁寧に合わせていく。

 

大喜は休憩に入り、タオルを取ったところで遠くから響くボールの音に気づいた。顔を上げると、千夏は味方へ声をかけながら、次の練習へ位置を移している。昨夜、自分の腕の中にいた千夏が、今は全国優勝候補との試合へ向けてコートに立っている。大喜はその姿をしばらく見たあと、自分のコートへ視線を戻した。千夏には千夏の試合があり、自分にはまだ終わっていない練習がある。

 

千夏も給水のためコート脇へ下がった時、男子バドミントン部の方へ目を向けた。大喜はラリーで足を止めることなく打ち返している。何か特別な選手になったわけではない、いつもの大喜だった。千夏はボトルの蓋を閉めて立ち上がった。

 

練習へ戻ろうとした時、離れたコートにいる大喜が顔を上げる。ほんの一瞬だけ目が合い、大喜がラケットを持ったまま小さく頷くと、千夏も同じように頷き返した。それ以上、何かを伝える必要はなかった。大喜は再びシャトルへ目を向け、千夏もボールを受ける位置へ戻っていく。体育館には昨日までと同じように、シャトルを打つ音とボールの弾む音が重なっていた。恋人になって初めての朝も、二人はそれぞれのコートで、目の前の一球へ向かっていた。

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