朝六時を過ぎた頃、大喜は練習着の上にコートを羽織り、ラケットバッグを肩に掛けて自室を出た。千夏の三回戦は午後からで、男子バドミントン部は午前練習だけだった。片づけやストレッチまでいつも通り終えてから会場へ向かっても、試合開始には十分間に合う。
階段へ向かう前に隣の部屋を見ると、まだ中から物音は聞こえなかった。大喜は手に持っていた小さな紙袋を見下ろす。昨夜買っておいたゼリー飲料と、机の前で書いた白いカードが入っている。何を書くか考えた末、残したのは二文だけだった。
『朝練、終わったら行く。楽しんで』
書き終えた時、中学生の頃に千夏から言われた言葉を思い出した。大事な試合の前、「勝ってね」と言いかけた千夏は、結局それを言わなかった。自分が勝ちたいことくらい、言われなくても分かっているから。その代わりにくれたのが、「楽しんできて」だった。今日の千夏だって、自分に言われなくても勝ちたいに決まっている。
大喜は紙袋を千夏の部屋のドアノブへ掛け、そのまま階段を下りた。玄関では母が起きていて、ラケットバッグを背負った大喜に気づいて顔を上げる。
「もう行くの?」
「うん。朝練」
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
外へ出ると、冬の朝の冷気が頬に当たった。大喜はラケットバッグの位置を直し、まだ人の少ない道を駅へ向かった。
千夏が部屋を出たのは、それから一時間ほど経ってからだった。試合用の荷物を入れたバッグを肩に掛け、扉を閉めようとしたところでドアノブの紙袋に気づく。中からゼリー飲料と白いカードを取り出し、見慣れた字を追ったところで足が止まった。
『朝練、終わったら行く。楽しんで』
「……覚えてたんだ」
ずっと前、自分が大喜へ言った言葉だった。あの時だって、勝ってほしくなかったわけではない。むしろ勝ってほしかった。それでも、本人が一番勝ちたいと思っているのに、そこへさらに「勝って」と重ねる必要はない気がした。何年も前に自分が渡した言葉が、今度は大喜から戻ってきた。
千夏はカードをもう一度読んでからバッグの内ポケットへしまい、ゼリー飲料も一緒に持っていく。スマートフォンを取り出し、大喜へメッセージを送った。
『ありがとう。朝練頑張って。待ってる』
送信すると、そのまま画面を閉じた。大喜はもう練習へ向かっている。返事を待つ必要はなかった。男子バドミントン部の朝練では、いつも通りメニューが進んでいた。基礎打ちの後に入ったゲーム形式でも、大喜は早く終えようとはせず、相手の体勢を見ながら攻める形を作っていく。向かいの匡も、大喜が前へ出れば奥を使い、返球が甘くなればすぐに攻め返してきた。
何本か続いたラリーの最後、大喜が匡の重心が前へ寄ったところへ奥深く返し、浅くなった次の球へ先に入って決める。シャトルを拾った匡が、ネット越しに大喜を見た。
「このあと千夏先輩の試合行くんだよね?」
「うん。午後だから間に合う」
それだけ確認すると、二人は次のラリーへ戻った。最後のゲームまで終えた後も、大喜は片づけとストレッチを省かなかった。着替えて体育館を出たところでようやくスマートフォンを開き、朝に届いていた千夏のメッセージへ返信する。
『終わった。今から行く』
会場へ着いた時には、三回戦の開始までまだ余裕があった。前の試合を見終えた観客と、これから始まる試合を待つ人たちが客席を行き来している。大喜が席を探しているうちに栄明の選手たちがウォームアップへ出てきて、その中にいる千夏もすぐ見つかった。ボールを受けて味方へ返し、そのまま次の位置へ動いていく。何度も見てきた姿だった。
ウォームアップが途切れ、千夏が客席へ顔を上げた。大喜を見つけると表情が緩み、大喜も片手を上げる。
「ファイト!」
千夏が小さく手を上げて返す。隣にいた渚も客席へ視線をやった。
「大喜くん、ほんとに来たんだ」
「朝練終わったら来るって言ってたから」
「そっか。じゃあ行こ」
「うん」
監督から集合の声がかかり、二人はすぐにベンチ前へ戻った。試合が始まると、相手が優勝候補に挙げられている理由はすぐに分かった。栄明が普段通りボールを動かしても、守備は簡単にずれない。千夏が前を向けば早い段階で人が寄り、そこから別の選手へ渡しても、その先まで準備されている。序盤は栄明が攻める場所を見つけられないまま、相手に先に点差を広げられた。
千夏も守備を動かそうと中へ入ったが、一度深く入りすぎ、戻そうとしたボールを奪われた。そのまま速い攻撃で失点すると、客席から大喜の声が届く。
「ちーちゃん、一本!」
千夏は客席を見なかった。ただ、その声を聞いてすぐ守備へ戻った。点差が開いたところで栄明がタイムアウトを取る。長い話はなく、監督と選手たちは相手が千夏へ寄った時に周囲が止まらないことだけを確認した。千夏一人が守備を動かし切る必要はなく、集まった場所の外を全員で使えばいい。渚もボトルを置きながら千夏へ向く。
「千夏、あそこ一人で開けなくていいよ」
「うん。二人来たら早めに出す」
「私も動く」
「お願い」
コートへ戻る前、千夏の頭に朝のカードが浮かんだ。
『楽しんで』
ここまで何度も強い相手とは戦ってきた。簡単に通らない相手を前に、次はどうするかを考え、仲間と試していく試合も知っている。それなのに今日は、優勝候補という名前と早い時間についた点差に、いつの間にか意識を引っ張られていた。こういう試合は、もともと嫌いではなかった。千夏は相手のコートを一度見て、仲間と一緒に戻った。
そこから栄明は、一度で相手を崩そうとしなくなった。千夏に二人が寄れば早めにボールを外へ出し、渡した選手も千夏もその場に止まらない。相手がついてくれば別の場所を使い、それでも止められればまた次を試す。すぐに差が消えたわけではないが、序盤のように相手の守備へぶつかり続ける時間は減っていった。大喜も、栄明が一本返せば手を叩き、守備を止めれば声を出した。
「ナイス!」
千夏は一度だけ客席へ目をやり、すぐに守備へ戻る。前半を終えても栄明が追う展開は変わらなかった。それでも後半に入る頃には、試合の中で何を試せばいいのかを全員で共有できていた。千夏が得点するだけではなく、渚やほかの選手が空いた場所を使い、誰かが遅れれば別の選手が埋める。その積み重ねで、序盤についた差は少しずつ縮まっていった。
相手も、栄明が近づくたびに一本を返してくる。それでも千夏は、自分が先に何かを起こさなければと急がなかった。打てる時には打ち、自分へ人が集まればつなぎ、失敗した時には次の守備へ戻る。大喜の声が聞こえても、それで身体が軽くなるわけではない。ただ、一つ前の失敗へ意識を残さず、次へ向かうきっかけにはなった。
終盤、栄明はついに同点へ追いついた。残り時間が少なくなったところで、相手の中心選手が千夏の前から仕掛ける。千夏が距離を詰め、味方が横から寄ったことで進む場所が狭くなり、相手の身体からボールが離れた。千夏はこぼれたボールを拾ったが、自分で最後まで運ぼうとはしなかった。その先を、渚が走っていた。
千夏が前へ送ったボールを受け、渚がゴールへ向かう。戻ってきた相手より一歩早く放ったシュートがリングへ落ち、栄明が前に出た。残された時間を全員で守り、相手の最後のシュートが外れたところでブザーが鳴る。栄明の選手たちは一斉に声を上げ、千夏も抱きついてきた渚の肩を抱き返した。
整列を終えてベンチへ戻る途中、千夏は客席を見上げる。大喜はまだ立ったままこちらを見ていた。目が合うと、大喜が口を大きく動かした。
「ナイスゲーム!」
周囲の歓声でほとんど聞こえなかったが、何を言ったかは分かった。チームのミーティングがあるため、大喜はそれ以上残らず出口へ向かった。すべてを終えて千夏がスマートフォンを開くと、大喜からメッセージが届いている。
『おめでとう。すごい試合だった』
千夏は画面を見てから、短く打った。
『勝った』
最後まで見ていた大喜が結果を知らないはずはない。それでも、自分から伝えたかった。夜、千夏が帰宅すると、大喜はリビングから玄関へ顔を出した。千夏は靴を脱ぎ、バッグを肩から下ろすと、そのまま大喜を見る。
「勝ったよ」
「うん。見てた」
「知ってる」
「メッセージも見た」
「それも知ってる」
二人とも笑った。結果を知らせるための会話ではないことくらい、どちらにも分かっている。
「でも、直接言いたかった」
「うん。おめでとう、ちーちゃん」
「ありがとう」
千夏はバッグから朝のカードを取り出した。
「これもありがとう」
「ゼリーも?」
「そっちも。ちゃんと飲んだよ」
「ならよかった」
千夏はカードを指先で挟んだまま、大喜を見る。
「『楽しんで』って、前に私が言ったの覚えてた?」
「覚えてたよ」
「結構前なのに」
「ちーちゃんに言われたことだし」
大喜はごく普通に答えたあとで、自分の言い方に気づいたらしく黙った。千夏はその様子に笑ってから、もう一度カードへ目を落とした。
「途中でこれ思い出して、そういえば私、こういう簡単にいかない試合嫌いじゃなかったなって思った」
「今日、ずっと大変そうだったけど」
「大変だったよ。でも、途中から次どうしようってみんなで話すようになって、少しずつ通るようになって。苦しかったけど、面白かった」
「そっか」
「『頑張って』より、今日の私にはこっちの方が合ってた」
大喜が少し笑う。
「最初に言ったの、ちーちゃんだけどね」
「そうだけど」
千夏はカードをバッグの内ポケットへ戻した。
「次も持っていっていい?」
「もちろん」
「じゃあ持っていく」
翌日の準々決勝にも、カードは同じ場所に入っていた。千夏は試合前にそれを取り出さなかった。昨日の勝利をもう一度呼び戻すためのものでもなければ、持っていれば何かがうまくいくものでもない。ただ、そこに入っていることだけは知っていた。
準々決勝の相手は高さがあり、一度シュートを外させても、ゴールの近くで簡単には攻撃を終わらせてくれなかった。それでも栄明は昨日の序盤のように押し込まれず、全員でボールへ入り、取った後はそれぞれが動いて攻撃を作った。千夏も得点だけでなく、守備の位置を伝え、自分へ相手が寄れば空いた味方へつなぐ。
試合は最初から最後まで大きく離れなかった。栄明が一本取れば相手も返し、相手が前へ出ればこちらも追いつく。何か大きな修正が必要な試合ではなく、両チームが分かっていることをどこまで最後まで続けられるかの勝負だった。
後半へ入っても、差は一度の攻撃で届くところから動かなかった。疲労で足が重くなっても、栄明だけが崩れることはなく、相手も簡単なミスをしてくれない。千夏たちは誰か一人で試合を決めようとはせず、守ったらつなぎ、空いた選手が打つことを続けた。そして最後の攻撃まで、勝つ可能性が残った。
相手のシュートが外れ、栄明がボールを取る。残された時間の中で千夏が前へ運ぶと、味方が左右へ広がり、相手の守備が千夏へ集まった。そのまま自分で打てない距離ではない。ただ、右側にいた味方の前が空いている。今日、その場所から何本も決めていた選手だった。
千夏は迷わずボールを出した。受けた味方も迷わずシュートへ入る。相手の手が届く前に放たれたボールはリングの手前に当たって高く跳ね、もう一度リングの上へ戻ってきたが、そのまま外側へ弾かれた。終了のブザーが鳴った。千夏はすぐには動けなかった。相手の選手たちが抱き合う姿を見ながら、頭の中に一度だけ、自分で打っていたらという考えが浮かぶ。
けれど、相手は自分へ寄っていた。右側は空いていたし、そこにいた味方は今日も決めていた。もう一度同じ場面になっても、千夏は同じ場所へボールを出すと思った。判断を間違えたとは思わない。それでも、負けた。
最後のシュートを打った味方と目が合う。悔しそうなのはその選手だけではなく、千夏も、渚も、コートにいた全員も同じだった。四十分の中で取れなかった一本もあれば、守り切れなかった一本もあり、その全部の先に最後のシュートがあった。
「整列しよう」
千夏が声を掛けると、選手たちが動き出した。控室へ戻ってからもしばらくは、荷物をまとめる音だけが続いた。三年生にとっては、この試合が高校最後の大会になる。主将もすぐには何も言わず、着替えを済ませてからようやく全員へ向き直った。
「もっとやりたかった。今日も勝ちたかったし、その先も行きたかった」
「でも、最後までみんなで戦えてよかった。ありがとう」
主将は三年生たちを見たあと、千夏たち二年生へ視線を移す。
「来年は、自分たちのチームでここに来て」
千夏は唇を結んでから頷いた。
「はい」
今日の分まで勝ってほしいとは言われなかった。三年生が今日感じた悔しさは三年生のもので、自分たちは自分たちの代になった時に、またここを目指すことになる。
その日の夜、大喜は帰宅した千夏を普段と同じように迎えた。
「おかえり、ちーちゃん」
「ただいま、大喜くん」
千夏はバッグを置き、大喜の前で足を止める。
「負けた。すごく悔しい」
「うん」
大喜は「惜しかった」とも、「ベスト8なんだから」とも言わなかった。夕食を取りながら、千夏は試合のことをぽつぽつ話した。最初から最後まで離されなかったこと、相手の高さが最後まで苦しかったこと。そして、最後に自分がボールを持っていたこと。
「中に入ったら二人来て、右が空いたの。そこ、今日何本も決まってたから出した」
「うん」
「外れた」
千夏は箸を置いた。
「終わった瞬間、自分で打ってたらって思った。でも、もう一回同じ場面になっても、たぶん出すと思う」
「同じところに?」
「うん。あそこが一番よかったから」
大喜は少し考えてから頷いた。
「そっか」
千夏も、最後の一本だけを何度も振り返るつもりはなかった。
「だから余計に悔しいのかも。みんなちゃんとやってたし、途中で崩れたわけでもない。最後まで勝てるところにはいたのに、それでも届かなかった」
大喜はすぐには返さず、その言葉が終わるまで待った。
「それは悔しいね」
「うん」
しばらくして千夏は三年生の話もした。今日で同じチームとして大会へ出る時間が終わったこと、次に公式戦へ向かう頃には自分たちが一番上になること。それを口にしても、すぐに悔しさが前向きなものへ変わるわけではなかった。
「でも、次はもっとやれると思う」
「うん」
「今日、何もできなかったわけじゃないから。足りないところも前より分かったし」
「そっか」
大喜はそこで一度言葉を止めてから、千夏を見る。
「次も応援してる」
「……うん。ありがとう」
勝った昨日に聞いた応援も、負けた今日に聞いた応援も、同じ大喜からのものだった。
ウィンターカップが終わると、千夏の予定にはようやく少し隙間ができた。年末には毎年、長野の祖父母の家へ向かう。その荷物をまとめ始める前に、千夏は一人だけ先に話しておきたい相手へメッセージを送った。
『話したいことがあるんだけど、時間ある?』
花恋からは、仕事の予定の合間にいくつか候補が返ってきた。千夏も家の予定を確かめて時間を決め、二人は駅から少し歩いたところにあるファミレスで会うことになった。約束の日、千夏が先に席へ着いて待っていると、花恋が大きめのバッグを肩に掛けたまま店へ入ってきた。撮影帰りらしく、普段より髪がきれいに整えられている。千夏を見つけると手を上げ、そのまま向かいの席へ座った。
「ごめん、待った?」
「十分くらいだから、全然」
「それはちょっと待たせたね」
「仕事だったんでしょ。私が早く着いただけだし」
「ありがと」
花恋はバッグを隣へ置き、メニューを開いた。すぐ本題へ入ることはせず、冬限定のデザートを見つけて迷い始める。千夏もそれに付き合い、結局二人とも食後に同じものを頼むことにした。
注文が済むと、花恋はまずウィンターカップのことを聞いた。結果そのものは知っていたが、千夏が準々決勝をどう受け止めているのかまでは知らない。千夏も、あと一つ勝ちたかったこと、三年生との最後の大会が終わったことを短く話した。花恋は無理に前向きな言葉を足さず、ただ「お疲れさま」と返した。
そこから一度、学校や仕事の話へ逸れた。花恋が撮影先で衣装の靴を左右逆に持っていきかけた話をして、千夏が笑う。千夏も冬休みに入ってからの学校の予定を話し、運ばれてきた飲み物へ口をつけた。話が途切れたところで、花恋がグラスを置く。
「で、わざわざ『話したいことがある』って呼ばれた方は、そろそろ本題が気になるんだけど」
「うん」
「いい話?」
「たぶん」
「じゃあ聞く」
千夏はストローを指で回しかけて、やめた。花恋にはずっと大喜のことを話してきたのに、今日伝える内容だけはこれまでと違う。何度か頭の中で言ってみた言葉を、結局そのまま口にした。
「私、大喜くんと付き合うことになった」
花恋は一度目を見開いた。そのまま数秒千夏を見ていたが、やがて堪えきれないように口元が緩む。
「……ようやくかあ」
「花恋」
「だって、ずっと聞いてた側としては言いたくなるよ」
「もっと普通に驚いてくれてもいいのに」
「驚いてるし、ちゃんと嬉しいよ。おめでとう、ちー」
「……ありがとう」
そこだけは、千夏も照れずに笑った。花恋がいつからなのか尋ねると、千夏はクリスマスからだと答えた。細かな言葉のやり取りを一つずつ説明することはしなかった。クリスマスイブには、夢佳との試合を終えた夜、大喜へ自分から近づいて気持ちを伝えようとしたものの、途中で人が来て言えなかったこと。その翌日、大喜に誘われて駅前のマーケットへ行き、昔二人で通っていた体育館で好きだと告げられ、自分も同じ気持ちを返したことだけを話した。
大喜が先に言ったと知った時だけ、花恋は少し意外そうな顔をしたが、詳しい告白の文句を聞き出そうとはしなかった。千夏が嬉しそうに話していることだけで十分だったらしく、時々頷きながら最後まで聞いていた。料理が運ばれてくると、二人は一度そこで話を切った。花恋のパスタと千夏のドリアを少しずつ交換し、しばらくは料理や学校の話をする。食事が半分ほど進んだところで、花恋が何気なく聞いた。
「それで、付き合ってみてどう?」
「どうって?」
「前と変わった?」
千夏はすぐに答えられなかった。大喜から好きだと言われたことは、今でも思い返せば嬉しい。けれど、翌朝から生活が急に別のものになったわけではなかった。起きれば隣の部屋に大喜がいて、同じ家で朝食を取り、一緒に学校へ向かう。体育館へ着けば、それぞれ別の競技へ分かれていく。
「……あんまり変わってないかも」
「そうなの?」
「おはようも今までと同じだし、呼び方もそのまま。学校行くのも、家に帰るのも前と同じ」
「付き合った翌日に、急に大喜くんって呼ばなくなってたら、その方がびっくりするけど」
「でしょ?」
花恋が笑う。千夏も笑ったものの、手元のスプーンを置いてから続けた。
「でも、全然同じってわけでもないんだよね」
「うん」
「何かするたびに、今は恋人なんだって思う時がある。大喜くんが普通に隣にいるだけなのに、前より近く感じたり。逆に、近いからどうしたらいいのか分からなくなったり」
「長すぎるんだよ、幼馴染の期間が」
「それは私たちじゃどうしようもないよ」
「十年以上やってたことを、クリスマス一日で全部恋人仕様にする方が無理か」
花恋の言い方に千夏が吹き出す。
「恋人仕様って何」
「私も言ってからよく分かんなかった」
「適当じゃん」
「でも、ちーも似たようなこと考えてるんでしょ?」
「……まあ」
千夏は笑いながら認めた。大会中は、そのことを深く考える暇がなかった。朝に大喜と顔を合わせれば嬉しかったし、応援へ来てくれたことも嬉しかった。それでも試合会場へ着けば、目の前の相手や仲間のことを考える時間になる。三回戦を勝ち、準々決勝を終え、三年生との大会まで終わって、ようやく頭の中に別の余裕が戻ってきた。
その余裕ができてから、千夏はクリスマスの夜のことを以前よりよく思い出すようになっていた。互いに好きだと伝えたあと、千夏の方から大喜へ一歩近づいた。離れたままでいたくなくて、結局大喜に抱きしめてもらった。帰り道では手もつないだ。その時は一つ一つで精いっぱいだったのに、数日経った今は、もう一度そうしたいと思うことがある。それを口にしようとすると、さっきまで平気だった千夏の声が少し鈍った。
「花恋はさ」
「うん?」
「針生君と付き合い始めた時、どうだった?」
花恋は一瞬考え、それから問い返す。
「何が?」
「その……今までと距離変えるの」
花恋は千夏を見たまま数秒黙り、それから納得したように「ああ」と声を出した。
「ちー、そこ悩んでるんだ」
「笑わないでよ」
「まだ笑ってないよ」
「『まだ』って言った」
「だって、前は大喜くんに好きって言えるかでずっと悩んでたのに、今は付き合った後の相談してるんだなって」
「……そうだけど」
「進んだねえ」
「花恋」
今度こそ花恋が笑った。ただし、千夏が本気で嫌がっているわけではないことを分かっている笑い方だった。今までなら、大喜との関係がどうなるか分からない千夏をこんなふうにはからかわなかった。その必要がなくなったからこその軽さだと、千夏にも分かった。花恋は笑いを収め、フォークを置いた。
「私は健吾と最初から今みたいだったわけじゃないよ。学校も違うし、会える日も限られてたから、会ったら何となく一緒に歩く距離が近くなったり、そのうち手つなぐようになったりした感じ」
「花恋からも?」
「あるよ。というか、毎回健吾が何かするの待ってるわけじゃないし」
「そうなんだ」
「何、その意外そうな顔」
「針生君の方からなのかなって思ってた」
「そんなに器用じゃないよ」
花恋が苦笑する。千夏にとっては中学時代から知っている針生でも、花恋にとっては恋人だ。その呼び方を聞くだけで、同じ人物でも自分とは違う距離にいることが分かる。千夏はしばらく皿を見てから、もう少しだけ踏み込んだ。
「私も、大喜くんと……もう少し近くにいたいなって思う時があって」
「うん」
「手つなぎたいとか、また抱きしめてもらいたいとか。そういうの」
「うん」
「でも、今までずっと普通に隣にいたし、同じ家にも住んでるし。だから急にそういうこと増やしたら、大喜くんも困るかなって」
花恋はすぐには返さなかった。千夏の言葉を一度受け取ってから、飲み物へ口をつける。
「大喜くん、嫌なら嫌って言えると思う?」
「たぶん」
「ちーも?」
「言えると思う」
「じゃあ、そんなに先回りしなくてもいいんじゃない?」
「先回り?」
「まだ何もしてないのに、大喜くんが困るかどうかまでちーが決めなくてもいいってこと」
千夏はその言葉を考えながら、ゆっくり頷いた。花恋も、それ以上を一般論にしなかった。
「手つなぎたいなら、手つなぎたい時に言えばいいし。隣に座りたいなら座ればいいじゃん。付き合ったから毎日何か変えなきゃいけないわけじゃないし、逆に今までと全部同じにしなきゃいけないわけでもないでしょ」
「……そうだね」
「大喜くん、たぶん聞いてくれる方だし」
「うん。クリスマスも聞いてくれた」
「じゃあ今度は、ちーから聞いてあげれば?」
「私から?」
花恋の口元がまた上がる。
「そんな驚く?」
「別に驚いてない」
「今、結構いい顔したよ」
「どんな顔」
「大喜くんの手、自分から取るところ想像した顔」
「してない」
「したでしょ」
「花恋」
千夏は否定したが、まったく考えなかったわけではなかった。大喜と歩いている時、自分から手を伸ばす。想像してみると恥ずかしい。それでも、嫌ではなかった。その反応を見た花恋は、しばらく楽しそうにしていたものの、それ以上は追い詰めなかった。代わりに自分の飲み物を持ち上げながら、何でもない調子で付け足す。
「まあ、ちーが急に積極的になったら大喜くんは一回固まりそうだけど」
「やっぱり困るんじゃん」
「困るのと嬉しいのは別じゃない?」
「花恋、それ絶対ちょっと面白がってる」
「ちょっとだけ。だってもう付き合ってるんだもん。今までみたいに真剣な顔して『告白しなよ』って言わなくていいし」
「言われてないけど」
「言わないようにしてたの。ちーが自分で決めることだから」
「……知ってる」
「だから今くらいは、ちょっといじらせてよ」
千夏は呆れたように花恋を見たあと、結局笑った。
「ほどほどにしてね」
「善処します」
「それ、信用できない」
料理を食べ終える頃には、千夏が最初に抱えていた引っかかりも、来た時とは少し形が変わっていた。恋人になったからといって、幼馴染だった時間をなかったことにする必要はない。今まで通りの朝も、呼び方も、一緒に学校へ向かう道もそのままでいい。その中で、自分が近づきたいと思った時だけ、一歩分を自分から足してみてもいいのかもしれない。
食後に頼んでいたデザートが届くと、花恋はすぐにスマートフォンを取り出した。千夏が「また撮るの」と言う間に一枚撮り、満足したように画面を伏せる。二人で食べ始めたところで、今度は花恋の方から別の話題を持ち出した。
「そういえば、家にはもう言った?」
「まだ」
「猪股家も?」
「うん。家族にはちゃんと話そうって大喜くんとは話してるけど、いつにするかまでは決めてなくて」
「ちーのご両親、年末帰ってきてるんだよね?」
「長野で会うよ」
花恋はスプーンを動かしながら考える。
「じゃあ、ちーはその時が一番話しやすそうだね。でも猪股家にもちゃんと言わないとだし、大喜くんとタイミング合わせた方がよさそう」
「私もそう思う」
付き合う前なら、家族へいつ話すかまで考える必要はなかった。けれど今は、千夏が暮らしている猪股家にも、大喜の家族としてではなく、自分たちの関係について伝える必要がある。鹿野家だけが知っていて猪股家が知らない状態を長く続けるのも違うし、その逆も避けたかった。
「今日、大喜くんと話してみる」
「うん。それがいいと思う」
「花恋に言ってよかった」
「それ、相談が役に立ったって意味?」
「それもあるけど」
千夏は少し考えてから続けた。
「前までは大喜くんのこと話す時、ずっと『どうしよう』って話だったじゃん」
「まあ、だいたいそうだったね」
「今日は普通に、大喜くんと付き合ってる話できたから」
「……そっか」
花恋はそこで、からかうのをやめた。代わりに柔らかく笑う。
「じゃあ次からは、彼氏の話として聞くね」
「何それ」
「健吾の愚痴と交換でもいいよ」
「針生君の愚痴あるの?」
「あるよ、普通に」
「聞きたい」
「今日はちーの日だから、今度ね」
千夏が笑うと、花恋も残ったデザートを口へ運んだ。店を出る頃には、会ってから思っていた以上に時間が経っていた。駅へ向かう途中でも話は途切れず、花恋の年始の撮影予定や千夏の長野行きの話をしているうちに改札へ着く。別れる前、花恋は千夏へ向き直った。
「改めて、おめでとう、ちー」
「ありがとう」
「大喜くんにもよろしく」
「うん」
「あと、自分から手つないだら報告して」
「しない」
「そこはしてよ」
「絶対しない」
花恋は声を上げて笑い、手を振って改札の向こうへ消えていった。千夏も手を振り返し、人混みに紛れていく後ろ姿をしばらく見送った。付き合う前までなら、花恋との会話を終えた後には、大喜へどう気持ちを伝えるか、また一人で考えていた。今日は違う。大喜はもう、自分の恋人だった。
その事実を思うと、帰って顔を見るのが少し楽しみになった。猪股家へ戻った千夏は、夕食後に大喜へ花恋と会ったことを話した。家族がそれぞれ自分の用事へ移ったあと、二人はダイニングに残り、年末年始の予定を確認していた。
「花恋に言ったよ」
「付き合ったこと?」
「うん」
「どうだった?」
「『ようやく』って言われた」
「……そんなに分かりやすかったのかな、俺たち」
大喜が本気で考え始めたので、千夏は笑った。
「たぶん長かったって意味」
「それもそれで複雑だけど」
「でも、すごく喜んでくれたよ」
「そっか」
大喜はほっとしたように笑ってから、少し間を置いた。
「何話したの?」
「いろいろ」
「いろいろ?」
「花恋との話だから内緒」
「それ言われると余計気になるんだけど」
「気にしなくていいよ」
花恋に言われたことを思い出しながら千夏が笑うと、大喜はますます不思議そうな顔をした。その反応まで少し面白く感じたが、今日はまだ自分から何かを試してみようとは思わなかった。代わりに、花恋と話して決めたもう一つのことを切り出す。
「それでね。家族に話すタイミング、決めた方がいいよね」
「うん。大会も終わったし」
「私は長野でお父さんたちに話そうと思う。おじいちゃんとおばあちゃんもいるし」
「じゃあ俺も、ちーちゃんが戻ってくるまでには家に話す」
「スキー行く前?」
「そのつもり」
二人はスマートフォンのカレンダーを見ながら予定を確認した。年明けには大喜が針生たちと長野へスキーに行き、一月六日には千夏の両親が年始の挨拶も兼ねて千夏を猪股家まで送り届けることになっている。
「六日に、二人からもう一回ちゃんと話そうか」
「うん。それがいいと思う」
千夏はテーブルの端に置いたスマートフォンを指で寄せた。
「お父さんたち、付き合うことより、私がこの家に住んでることを気にするかもしれない」
「俺の家もそこは同じだと思う。付き合ったからって、家のことを二人で勝手に変えるわけにいかないし」
「大喜くんだけに説明してもらうつもりないからね」
「うん。二人のことだから、一緒に話そう」
話がまとまると、大喜はカレンダーを閉じた。告白した夜のような特別な空気はなく、誰にいつ話すのかを決め、家族の予定を確認しただけだった。それでも、二人のことを二人で決める会話が一つ増えたことを、千夏は以前とは違う変化として受け止めていた。
長野へ出発する朝、猪股家の玄関には千夏の荷物が並んでいた。大喜の母が忘れ物はないか確認し、千夏もバッグの中を一度見直す。毎年の帰省なので、家族のやり取りそのものはいつもと変わらなかった。出発直前、大喜も玄関まで見送りに来た。
「行ってきます、大喜くん」
「行ってらっしゃい、ちーちゃん」
大喜は一度口を開きかけた。
「着いたら――」
「連絡する」
「……今までと同じだね」
「うん。でも今年は、大喜くんからも連絡してね」
「分かった」
すぐ近くには家族がいる。手をつなぐことも、抱きしめることもせず、千夏はバッグを持ち直した。ファミレスで花恋と話したことが一瞬頭をよぎったが、今ここで何かを変える必要もないと思えた。玄関を出る前にもう一度大喜を見ると、大喜もこちらを見ていた。それだけ確かめて、千夏は家族と一緒に外へ出た。
長野に着いてからも、二人は四六時中メッセージを送り合うようにはならなかった。千夏は祖父母や帰国した両親と過ごし、大喜も練習や年末の予定をこなしている。ただ、今までなら送らなかったような小さなものが、二人の間を行き来するようになった。
千夏は雪の積もった庭や祖母が作った夕食を送り、大喜は練習帰りに見つけた妙な形の雪だるまや、その日の練習であったことを短く送る。どれも長電話をするほどの話ではない。それでも写真を撮った時に送りたい相手が浮かび、届いたものを見れば、自分のいない場所で相手がどう過ごしているのかが分かった。恋人になったからといって、離れている時間をすべて埋める必要はなかった。
元日、大喜は針生、花恋、西田、匡、菖蒲、雛と初詣へ出かけた。参道は人で埋まり、西田が混雑に文句を言っている横で、菖蒲と雛は屋台を見つけるたびに足を止めていた。針生と花恋は自然に隣を歩いているが、大喜はその距離を見ても以前のように考え込むことはなかった。一行が屋台の前で少しばらけた時、花恋が大喜の隣へ来る。
「大喜くん」
「はい?」
「よくやったね」
声を落として言われ、大喜は一瞬何のことか分からなかった。花恋の顔を見て、すぐに察する。
「ちーちゃんから聞いたんですね」
「うん。ちゃんと報告してもらいました」
「何か余計なこと聞いてません?」
「どうだろうね」
「その言い方が一番怖いんですけど」
「大丈夫。ちーが言いたくないことまでは聞いてないよ」
大喜は少し安心したような、それでもまだ気になるような顔をした。花恋はその表情を楽しそうに見てから、声を落としたまま続ける。
「でも、よかったね」
「はい。ありがとうございます」
「何で私にお礼?」
「ちーちゃんの話、ずっと聞いてくれてたんですよね」
「私は聞いてただけ。最後に決めたのは二人でしょ」
「それでもです」
花恋は一度大喜を見てから、素直に頷いた。
「どういたしまして」
その時、少し先を歩いていた針生が振り返る。
「花恋、置いてくぞ」
「今行く、健吾」
花恋は大喜へ軽く手を振り、針生たちの方へ戻っていった。参拝を終え、一行が境内の端へ移動している途中、今度は匡が大喜へ視線を送った。ほかのメンバーと少し距離ができたところで歩く速さを緩める。
「大喜、ちょっといい?」
「何?」
「クリスマス、千夏先輩と会ってただろ」
「……何で知ってるの?」
「帰る時の大喜見てたから。そのあとも、なんとなく」
大喜は匡を見る。匡は面白がって詳しく聞き出そうとする様子ではなく、自分の推測が合っているかを確認するように続けた。
「そのあと付き合ったのかなって思ったんだけど、合ってる?」
「……うん。付き合うことになった」
「そっか。おめでとう」
「ありがとう」
大喜は前を歩く仲間たちとの距離を確認してから、声を落とした。
「でも、まだみんなには言わないで。家にもちゃんと話せてないし、ちーちゃんも自分から話したい人いるから」
「分かった。俺から言うことじゃないし」
「助かる」
「ただ、顔には気をつけた方がいいかもね」
「そんなに出てる?」
「今も割と」
大喜が眉を寄せたところで、ポケットの中のスマートフォンが震えた。画面には千夏から届いた写真が表示されている。雪の積もった庭と、その向こうに見える白い山。その下にメッセージが続いていた。
『あけましておめでとう。今年もよろしくね』
大喜は画面を見たまま笑った。隣の匡が、スマートフォンではなく大喜の顔を見る。
「そういう顔」
「……うるさい」
否定できないまま、大喜は境内を一枚撮った。鳥居の向こうに参拝客が流れ、その端には西田たちの姿も入っている。
『あけましておめでとう。今年もよろしく、ちーちゃん』
そこまで入力して、一度指を止めた。今までなら、それだけ送っていたかもしれない。大喜はもう一文加えた。
『帰ってくるの待ってる』
長野にいる千夏は、家族と過ごしていた居間でそのメッセージを開いた。境内の写真には、遠くに見慣れた友人たちが写っている。その下にある最後の一文を読んでから、千夏はもう一度最初から画面を見た。猪股家へ戻れば、また隣の部屋に大喜がいる。朝になれば同じ家で顔を合わせ、それぞれの練習へ向かう。去年までだって、同じ場所へ帰っていた。
でも今年は、その帰りを大喜が待っている。花恋と話した時には、恋人になったあと何を変えればいいのか分からないと思っていた。今も全部が分かったわけではない。それでも、こうして会いたいと思った時には、そのまま伝えてもいい。千夏は返信欄を開いた。
『うん。私も早く会いたい』
送信してからスマートフォンをテーブルへ置くと、母に呼ばれて顔を上げた。祖父母と両親がいる居間へ戻り、そのまま家族の話の続きを聞く。大喜に会えるのは、もう少し先だった。