元日の翌朝、千夏が居間へ下りると、祖母はもう台所に立っていた。父は新聞を広げ、母は祖父と今日の予定を話している。窓の外には昨日までに積もった雪が残り、屋根から落ちた雫が朝の光を受けていた。毎年見てきた長野の正月で、猪股家とは違う朝にも慣れているはずだった。
それでも今年は、目を覚ました時に一度、廊下の向こうへ意識が向いた。隣の部屋から大喜が出てくることも、一緒に朝食を取ることもない。恋人になったからといって毎日一緒にいなければならないとは思わないが、いないことには以前より早く気づくようになっていた。
朝食を終えた頃、テーブルへ置いていたスマートフォンが震えた。年末年始は栄明の部活も休みで、大喜も学校へ行くことはない。家族の予定をこなしながら、身体を動かしたい時に軽く走ったりストレッチをしたりしているらしい。
『朝、ちょっと走ってきた。そっちはまだ雪残ってる?』
千夏は窓の外を一枚撮った。
『残ってるよ。今日は晴れてるけど、庭はまだ白い』
送信してからスマートフォンを伏せ、祖母の食器運びを手伝った。すぐに返事が来なくても気にならない。大喜にもこちらとは別の正月がある。それでも昼食のあとにスマートフォンが震えると、千夏はほとんど間を置かずに画面を見ていた。
『ほんとだ。こっち全然ないからちょっと羨ましい』
大喜らしい返事に、千夏は雪かきの大変さを知らないからだと返し、雪だるまくらいなら作れると続けた。そのやり取りをしている間、向かいでお茶を飲んでいた母が何度かこちらを見ていたことには気づかなかった。スマートフォンを置いたところで、母から声を掛けられる。
「千夏、午後暇?」
「うん。何かある?」
「おばあちゃんに買い物頼まれたの。歩いて行けるところだから、付き合って」
「いいよ」
祖母から頼まれたものを確認し、二人は午後から外へ出た。道路の端には除雪された雪が固く積まれ、陽の当たる場所だけ細い水の筋ができている。母は店までの道を急がず、千夏も横に並んで歩いた。最初に話したのはウィンターカップのことだった。結果は電話やメッセージで知らせていたが、母は三回戦でどんな相手に勝ったのか、準々決勝の最後はどんな状況だったのかを千夏の言葉で聞いた。
「じゃあ、本当に最後まで分からなかったのね」
「うん。だから余計に悔しかった」
「今も?」
「悔しいよ。でも、次にやりたいことも見えたから」
「そっか」
母はそれ以上、前向きになるよう促さなかった。高校時代に自分も栄明でバスケットボールをしていた母なら、負けた直後の悔しさを急いで別の意味へ変える必要がないことを知っているのだろう。千夏もそれ以上は試合を振り返らず、店へ着くまでには祖母が最近よく作る料理や、父が長野へ来てから食べすぎているという話に変わっていた。
店で調味料や日用品を買い、帰りは来た時とは違う道を選んだ。住宅の間を通る細い坂には人通りが少なく、二人分の靴音が雪の残る道に続いていく。その途中で千夏のポケットが震えた。大喜から写真が届いていた。猪股家の近くを走った帰りらしく、冬の青空と見慣れた道が写っている。千夏は歩きながら画面を見て、そのままスマートフォンをポケットへ戻した。
隣から母の声がする。
「大喜くん?」
「何で分かったの?」
「それ、こっちが聞きたいくらい」
「そんなに分かりやすかった?」
「今日はね」
母は買い物袋を反対の手へ持ち替えた。すぐ続きを言うのではなく、しばらく千夏と同じ歩幅で歩いてから口を開く。
「この何日か、スマホを見る時の顔が違ったから」
「どう違うの?」
「それは説明しづらいけど。連絡が来るの待ってる人の顔っていうか」
「……そんな顔してた?」
「してた。だから聞いてみようかなって思って」
そこで母は一度千夏を見た。
「千夏、大喜くんと付き合うことになったの?」
千夏は足を止めそうになった。長野にいる間に、自分から家族へ話すつもりではいた。大喜ともそう決めていたのに、父や祖父母まで揃っている中でいつ切り出せばいいのか考えているうち、まだ何も言えないまま正月を迎えていた。母に先を越されたことには驚いたが、誤魔化す理由はなかった。
「……うん。クリスマスから」
「本当に?」
「うん」
「そうだったの」
母は目を丸くしたあと、何度か頷いた。やがて表情が柔らかくなる。
「よかったね、千夏」
「……うん。ありがとう」
千夏も自然に笑った。母はそれを見てから、またゆっくり歩き始める。
「実はね、中学生くらいの時から、もしかしたらって思うことはあったの」
「え、そんな前から?」
「確信してたわけじゃないわよ。私たちずっと海外だったし、毎日千夏を見てたわけでもないんだから」
「じゃあ何で?」
「電話してても、大喜くんの話よくしてたでしょう。大会でどうだったとか、最近こういう練習してるとか。こっちに帰ってきた時も、大喜くんがいると自然にそっち見てたりしたし」
千夏は過去の自分を思い返そうとして、途中でやめた。本人にはまったく覚えがない。
「それだけ?」
「それだけ。だから、好きなのかなって思ったことはあった。でも幼馴染だし、千夏から何も言わないのに私が聞くことでもないでしょう?」
「……うん」
「大喜くんの方は全然分からなかったけどね」
「それは私も最近まで分からなかった」
「そこは本人も同じだったんじゃない?」
「たぶん」
母が吹き出し、千夏も笑った。何年も前から全部見抜かれていたわけではないと分かると、むしろ話しやすかった。どちらから気持ちを伝えたのか聞かれ、千夏は大喜からだったと答えた。母は少し意外そうな顔をしたが、その言葉を一つずつ尋ねようとはしなかった。千夏も、クリスマスに駅前のマーケットへ出かけ、そのあと小学生の頃に二人で通っていた体育館へ行ったこと、そこで大喜から好きだと言われ、自分も同じ気持ちを返したことだけを話した。
「体育館だったの?」
「うん」
「大喜くんらしいね」
「お母さんもそう思う?」
「二人には一番合ってる気がする」
母はそれだけ言って笑った。あのあと抱きしめてもらったことも、手をつないで帰ったことも聞かれなかった。千夏も話さない。あの夜のすべてを家族へ説明する必要はなかったし、母もそこまで踏み込むつもりはないらしい。家が近づいたところで、今度は千夏から話題を戻した。
「私、本当はこっちにいる間に自分から言おうと思ってたんだ」
「お父さんたちに?」
「うん。おじいちゃんとおばあちゃんにも」
「じゃあ、私が先に聞いちゃったね」
「タイミング考えてたら、ずっと言えなかったかもしれないけど」
「猪股家には?」
「まだ。大喜くんも自分から話すって言ってる。六日に私が戻る時、お父さんたちも猪股家に行くでしょ。その時に二人からも改めて話そうって」
「あら、そこまで考えてたの」
「うん」
母は安心したように頷いた。
「なら、お父さんたちにも千夏から話した方がいいね」
「今日?」
「そこまでは私が決めない。でも、帰る前日の夜になって慌てるのは千夏らしくないんじゃない?」
「それは嫌かも」
「じゃあ自分で決めなさい」
家へ着くと、母は祖母へ買ってきたものを渡し、千夏は自室へ戻った。スマートフォンには大喜からもう一通届いている。
『長野の雪道って走れるの?』
千夏はベッドへ腰掛けながら笑った。
『走らないよ。滑るから』
母に話したことまで続けて送ろうとして、指を止めた。父と祖父母にも自分で伝えてから、大喜には声で話したかった。夕食はいつもと変わらなかった。祖母の煮物と焼き魚を囲み、父と祖父が正月番組の話をし、母は高校時代の友人から届いた年賀メッセージを見せている。千夏は何度か切り出そうとしたが、そのたびに食卓の話題が変わった。
途中で無理に止めるより、食べ終わってからでいい。そう決めると、箸を持つ手から余計な力が抜けた。食後、祖母が湯呑みを片づけようとしたところで、千夏は席に残ったまま声を掛ける。
「お父さん、おじいちゃん、おばあちゃん。ちょっと話していい?」
三人が千夏を見る。母も事情を知っているが、代わりに口を開くことはせず、そのまま席に残った。
「どうした?」
父に聞かれ、千夏は膝の上で指を組んだ。悪いことを報告するわけではないのに、試合前とも違う緊張で喉が固くなる。それでも、一度言ってしまえば続きは難しくなかった。
「私、クリスマスから大喜くんと付き合ってる」
祖母が目を丸くし、祖父は湯呑みを持ったまま千夏を見る。父も数秒黙っていたが、最初に反応した祖母の顔はすぐにほころんだ。
「まあ、大喜くんと?」
「うん」
「そうなの。よかったじゃない」
祖父も納得したように何度か頷く。
「大喜くんか」
「うん」
父は二人ほど早く表情を緩めなかったが、聞いたのは交際の細かな経緯ではなかった。
「猪股さんには、もう話したのか?」
「まだ。大喜くんが自分から話すことになってる」
「そうか」
千夏は、東京を出る前に二人で決めたことを説明した。自分は鹿野家へ、大喜は猪股家へそれぞれ自分から話す。一月六日に千夏が戻る時には、双方の家族が知っている状態で、二人からも改めて話す。父は最後まで聞いてから、一つだけ確かめた。
「千夏。お前が猪股家にお世話になってる理由は、変わらないよな?」
「うん。学校もバスケも今まで通りちゃんとやる。大喜くんも自分のバドミントンがあるし、付き合ったからってそこを変えるつもりはないよ」
何を聞かれているのか、説明されなくても分かった。両親が海外にいても栄明で学校生活を送り、バスケットボールを続けるために猪股家が千夏を預かってくれている。その事情は、大喜と恋人になったから変わるものではない。父は千夏の返事を聞いて頷いた。
「それならいい。大喜くんのことは昔から知ってるし、二人が付き合うこと自体に反対するつもりはない。ただ、六日に一度大喜くんとも話そう」
「分かった」
「そんなに固い顔で言ったら、千夏がそのまま伝えて大喜くんを怖がらせるでしょう」
「別に怖がらせるつもりはないよ」
「お父さんに『一度話そう』って言われるだけで、高校生は十分緊張すると思うけど」
「じゃあ普通に話すよ」
母が横から口を挟むと、祖母が笑い、祖父もつられて笑った。千夏もようやく肩の力を抜く。
「大喜くんなら、おばあちゃんは嬉しいわ。ずっと知ってる子だもの」
「ありがとう」
「でも、ちーちゃんも大きくなったのねえ」
「その話になる?」
「おばあちゃんからしたらなるわよ」
今度は父まで笑った。何かの許可をもらったというより、自分が選んだことを家族へ伝え、それを受け取ってもらっただけだった。そのくらいの方が、千夏にはしっくりきた。夜、自室へ戻ると、千夏は大喜へ電話をかけた。数回の呼び出し音でつながり、聞き慣れた声が返ってくる。
「もしもし、ちーちゃん?」
「今大丈夫?」
「うん。何してた?」
「家族と話してた」
「……もしかして」
「うん。ちゃんと話したよ」
大喜の声がすぐに変わった。
「みんなに?」
「お母さんには昼に先に気づかれちゃったけど、お父さんとおじいちゃんたちには夜に私から話した」
「どうだった?」
「みんな喜んでくれた。お父さんも反対じゃないって」
「そっか」
電話の向こうから、大喜が息を吐く音が聞こえた。千夏はそこで父から言われたことも伝える。
「ただ、大喜くんとは六日に一度話そうって」
「……うん」
「今、緊張した?」
「した」
「早いよ。まだ四日あるのに」
「ちーちゃんのお父さんと話すんでしょ。そりゃ緊張するよ」
「もう付き合ってることは知ってるけどね」
「知っててもする」
大喜の答えが思った以上に率直で、千夏は笑った。
「怒ってるわけじゃないから」
「それは分かってるよ。ちゃんと話す」
「大喜くんも家で話すんだよね?」
「うん。明日みんないるから、その時に」
「そっちも緊張する?」
「かなり」
「私も今日した」
「じゃあ同じだね」
「そんなところ同じでも仕方ないけど」
「でも、ちょっと安心する」
それを聞いて、千夏も同じだと思った。
「終わったら連絡してね」
「うん」
「待ってる」
電話を切ると、千夏はスマートフォンを枕元へ置いた。自分だけが一つ終えたわけではない。今度は大喜が、自分の家族へ自分の言葉で話す番だった。
翌日の夕食後、大喜はいつものように食器を片づけようとしてから、席に残った。年末年始で部活は休みだったため、その日は午前中に軽く身体を動かした以外、家族と過ごしていた。父も母も祖父も家にいて、これ以上先延ばしにする理由はない。母が食器をまとめ始めたところで、大喜は声を掛ける。
「母さん、ちょっと待って」
「何?」
「父さんとじいちゃんも。話したいことある」
母の手が止まり、父は湯呑みを置いた。祖父もテレビの音量を下げる。三人に一斉に見られると、昨日千夏へ言った通り居心地が悪かったが、大喜はそのまま続けた。
「俺、クリスマスからちーちゃんと付き合ってる」
母がぱちりと目を瞬いた。
「千夏ちゃんと?」
「うん」
「そうなの。よかったじゃない」
「……ありがとう」
驚きはしたものの、母の顔はすぐに緩んだ。祖父も何度か頷き、父が最初に尋ねたのは鹿野家のことだった。
「向こうのご家族には?」
「ちーちゃんが昨日、自分から話した。ご両親もおじいさんたちも反対してないって。六日にちーちゃんが帰ってくる時、二人で改めて話すことになってる」
それを聞くと、父はそれ以上詳しく尋ねなかった。代わりに母が椅子へ座り直す。
「千夏ちゃんとは、そのあとのことも話した?」
「そのあと?」
「付き合ったからって、今やってることを疎かにしないってこと」
「うん。ちーちゃんがこの家にいるのは、栄明に通ってバスケを続けるためだから。俺も自分のバドミントンがあるし、そこは今まで通りって話してる」
「ならいいよ。お母さんが気になってたのはそこ」
母は大喜の返事を聞いてから、少しだけ表情を改めた。
「千夏ちゃんは大喜の恋人でもあるけど、その前から鹿野家に頼まれてうちで一緒に暮らしてるんだから。二人が付き合ったことで、千夏ちゃんがここへ来た一番の理由まで変わっちゃったら困るからね」
「分かってる」
「うん。大喜がそう考えてて、自分から話してくれたなら、それでいい」
父も横から頷いた。
「学校や部活で無理が出るようなら、自分たちより先に周りが気づくこともある。その時は家族も口を出す。それくらいだな」
「うん」
話が一区切りしたところで、祖父がテレビのリモコンを膝へ置いたまま大喜を眺める。
「しかし、ちーちゃんとか」
「何だよ」
「いや。お前らしいなと思って」
「どういう意味?」
「昔からあれだけ一緒にいたんだから、そういうこともあるんだなってだけだ」
「それ、お前らしいって意味になってないじゃん」
「細かいことはいいんだよ」
祖父が笑い、母もつられて笑った。
「千夏ちゃんが帰ってきたら、何か好きなもの作ろうか」
「普通でいいよ」
「お祝いじゃなくて、帰ってきたから」
「それなら……まあ」
「何、その許可してあげるみたいな言い方」
母は「はいはい」と笑って食器を持ち上げ、大喜も残っていた皿を手に取った。数分前まで話すタイミングを何度も考えていたのに、家族へ伝えたあとも居間はいつもの居間のままだった。
その夜、千夏へ『話したよ』と送ると、すぐに返信が来た。
『どうだった?』
『びっくりされたけど、喜んでくれた。六日にまた一緒に話そうって』
しばらくして届いたのは、『よかった』の一言だった。大喜はその文字を見て、ようやくベッドへ背中を預けた。
一月四日、大喜は針生、西田、匡と長野のスキー場にいた。年末年始の休みを挟んで久しぶりに部活のメンバーと顔を合わせたが、今日はラケットもシャトルもない。四人ともスキーウェアに身を包み、板を抱えてリフト乗り場へ向かっている。一番慣れていない西田は、ブーツを履いて歩く段階ですでに不満そうだった。
「これで普通に歩けって方が無理だろ」
「滑るための靴ですから」
「匡、そういう正論は今いらない」
「転ばないようには見てますよ」
「お前に見られてる方が不安なんだよ」
「午前中は簡単なところ行くぞ。西田が一人で下まで転がっていっても困るし」
「針生まで俺が転ぶ前提なのやめろ」
「じゃあ転ぶな」
「それができたら苦労しねえんだよ」
大喜も笑いながら板を持ち直した。バドミントンとは身体の使い方がまるで違う。斜面へ出れば普段なら意識しない場所へ力が入り、止まろうとするだけで太腿が張る。それでも試合でも練習でもない時間に、四人で雪の上を滑るのは純粋に楽しかった。
三本目、西田が曲がり切れずに斜面の途中で派手に転んだ。大喜が速度を落とした横で、匡は先にスマートフォンを取り出す。
「匡! 撮ってないで助けろ!」
「一枚だけです」
「一枚でも撮るな!」
「もう撮ったので、今助けます」
「一番腹立つやつだな、それ!」
匡が手を差し出し、雪まみれの西田を引き起こす。針生がその様子を見ながら笑った。
「お前ら仲いいな」
「どこを見てそう思ったんだよ!」
午前中を滑り終える頃には、西田も最初より安定して止まれるようになっていた。四人で休憩所へ入り、大喜が手袋を外してスマートフォンを確認すると、千夏から写真が届いている。静かな湖と、その向こうの雪山が写っていた。
『今日は家族とここに来てる』
見覚えのある景色だった。
『小波湖?』
『うん。久しぶりに来た』
大喜は何気なく地図を開いた。自分たちのいるスキー場から、まったく行けない距離ではない。横に座っていた匡がその画面に気づき、針生と西田が少し離れた席で午後のコースを相談しているのを確かめてから声を落とした。
「行かなくていいの?」
「ちーちゃんのところ?」
「うん。近いんでしょ?」
「まあ、行こうと思えば」
大喜は地図を見たまま一度考えた。会いたくないわけではない。元日に「帰ってくるのを待ってる」と伝え、千夏からも早く会いたいと返ってきた。近くにいると分かれば、顔を見たいとは思う。ただ、今日は針生たちと四人で遊びに来ていて、千夏も家族と出かけている。
「でも、今日は四人で来てるから。ちーちゃんも家族といるし、わざわざ予定変えることでもないよ」
「そっか。ならいいけど」
匡はそれ以上何も言わず、大喜も地図を閉じた。会わないことに理由をつける必要もなかった。明後日になれば、千夏は猪股家へ帰ってくる。そのあと四人で撮った写真を千夏へ送った。
『こっちはこんな感じ』
しばらくして返信が来る。
『楽しそう。西田君、滑れてる?』
大喜は画面を見ながら笑った。
「西田先輩、ちーちゃんが滑れてるかって聞いてます」
「何で俺だけ名指しなんだよ!」
「普段の西田先輩を知ってるからじゃないですか」
「どういう普段だよ!」
「さっき転んだ写真送っとけば?」
「針生まで敵なのかよ!」
休憩所に笑い声が広がった。大喜は西田が写っていないゲレンデの写真をもう一枚添え、『だいぶ滑れるようになった。そっちも楽しんでね』と返す。
『うん。大喜くんも』
それでスマートフォンをしまい、午後はまた三人とゲレンデへ戻った。スキー旅行から帰った翌日の夜、大喜は自室から千夏へ電話をかけた。明日には千夏が猪股家へ戻ってくる。通話がつながると、向こうから祖父母たちの話し声が遠くに聞こえた。
「今大丈夫?」
「うん。部屋にいるよ」
「明日のこと、ちょっと話しとこうと思って」
「私もそう思ってた」
鹿野家も猪股家も、すでに二人が付き合っていること自体は知っている。明日もう一度同じ報告を繰り返すのではなく、同じ家でこれからも暮らす二人が何を大事にするのかだけ、食い違わないようにしておけばよかった。
「付き合い始めたことは俺から改めて話すとして、ちーちゃんがここにいる理由を二人ともちゃんと分かってることは言いたい」
「学校とバスケのことだよね?」
「うん。俺も自分のバドミントンあるし」
「そこは私からも言う」
千夏の返事は迷わなかった。
「あと、大喜くんだけがお父さんに説明する感じにはしないでね」
「俺だけ?」
「うん。私がお世話になってる家だからって、大喜くんが全部気をつけますって言うのは違うと思う」
「……確かに」
「猪股家で暮らしたいって決めたのも、大喜くんと付き合ったのも私だから。学校生活もバスケも、私がちゃんとすることだし。だから私も自分で話す」
「分かった。二人のことだし、一緒に話そう」
「うん」
そこまで確認すると、電話の空気が軽くなった。
「明日、何時くらいに着く?」
「夕方前には着くと思う」
「そっか。俺、家にいるよ」
「じゃあ帰るね」
「うん。待ってる」
数日前にも似た言葉をメッセージで交わしたはずなのに、声で聞くとまた少し違った。千夏が笑った気配がして、それから二人は明日の天気や帰り道の混雑の話をして電話を切った。
一月六日の午後、猪股家の前に鹿野家の車が止まった。大喜は母と玄関へ出た。後部座席から千夏が降り、数日ぶりに直接目が合う。千夏が笑い、大喜も同じように笑ったが、すぐ後ろから両親も降りてきたため、そのまま新年の挨拶へ移った。
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
「こちらこそ。今年もよろしくね」
千夏の母はそう答えると、すぐ大喜の母へ顔を向ける。
「あけましておめでとう。久しぶり」
「ほんと。こっち帰ってきてから全然ゆっくり会えてないじゃない」
「年末は千夏の大会もあったしね」
「ベスト8でしょ。ちゃんと本人から聞いた?」
「聞いた聞いた。本人が思ってるよりこっちも悔しくなるんだから困るよね」
「それは昔からじゃない」
二人が笑う。形式的な挨拶はほんの数秒で終わった。栄明高校女子バスケ部で同じコートに立ち、勝った日も負けた日も一緒に帰っていた二人にとって、しばらく会っていなかったからといって他人行儀な会話を続ける方が難しい。祖父も玄関へ出て千夏の父と挨拶を交わし、大きな荷物はいったん置いたまま全員で居間へ移った。
最初は長野の話だった。雪が思ったより多かったこと、祖父母が元気だったこと、小波湖へ家族で出かけたこと。そこから自然にウィンターカップへ話が移り、千夏の母と大喜の母はいつの間にか自分たちの高校時代の大会まで思い出していた。
「私たちの頃より、今の方が絶対速いよね」
「それは思う。千夏ちゃんの試合見てても、よくあんなに走れるなって」
「自分たちも走ってたでしょ」
「昔のことは美化されるから」
「お母さんたち、自分の話になってるよ」
「いいじゃない。久しぶりなんだから」
「今日はそれだけで来たんじゃないでしょ」
千夏が笑いながら言うと、一度だけ会話が途切れた。大喜も千夏を見る。二人とも、何のために今日この時間を作ってもらったのかは分かっている。大喜が姿勢を直すと、千夏も隣で座り直した。
「改めて、俺たちからも話していいですか」
家族の視線が二人へ集まったが、誰も驚いてはいなかった。すでに一度ずつ聞いている話なのだから、大喜も大げさな発表にするつもりはなかった。
「ちーちゃんと付き合っています。俺たちからちゃんと話しておきたいと思って」
「私が猪股家でお世話になってるのは、栄明でバスケを続けるためです。それは、付き合い始めたからって変わりません」
「俺にもバドミントンで目指してるものがあります。ちーちゃんにもバスケがあるし、付き合ったからって、どっちかが自分のことを後回しにするような関係にするつもりはないです」
それ以上、二人は準備してきたような言葉を並べなかった。千夏の父は二人を見て、一度頷く。
「うん。千夏からも同じことを聞いた。大喜くんからも聞けたなら、それで十分だよ」
「はい」
「二人が付き合うことに反対してないのも、もう伝えてある。ただ、千夏がお世話になってる一番の理由だけは忘れないでほしい。それは大喜くんにだけじゃなく、千夏にも言ってる」
「うん」
「はい」
父の話もそこで終わった。大喜が想像していたような質問が続くことはなかった。大喜の母は昔からの友人へ顔を向ける。
「大喜にも同じこと話したよ。千夏ちゃんの学校とバスケが一番。そこが崩れそうなら、二人が嫌がっても私たちは言うから」
「ありがとう。親代わりみたいにさせちゃってごめんね」
「これまでと変わらないわ」
二人の母親は顔を見合わせて笑った。千夏を預ける側と預かる側という関係はある。それでも、その信頼は子供たちが恋人になるよりずっと前から積み重なってきたものだった。大喜の父も続ける。
「こっちから言うなら、何か困ったら二人だけで抱え込まないこと。それくらいかな」
「うん」
「はい」
祖父がそこで湯呑みを持ち上げた。
「じゃあ、話は終わりか?」
「おじいちゃん、早くない?」
「もう両方の家で一回話してるんだろ。今日また同じ話を一時間してどうする」
「それはそうだけど」
「二人ともちゃんと話したんだから、それでいいじゃないか。あとは学校へ行って、部活やって、飯食って寝なさい」
「じいちゃん、それこの前も言ってたよ」
「大事なことだから何回でも言う」
大喜が笑うと、千夏の母も声を上げて笑った。
「昔から変わらないね、おじいちゃん」
「そっちも昔からよく笑うな」
「高校の時からです」
「それは私が一番知ってる」
大喜の母まで加わり、さっきまでの真剣な話はそこで終わった。そのあとは高校時代の話になり、長野の祖父母の話になり、いつの間にか次に皆で食事をするなら何がいいかという話まで始まっていた。大喜と千夏は何度か顔を見合わせたが、どちらも何も言わなかった。家族へ伝える前は、もっと何かが変わるような気がしていた。
実際には、二人が正直に話し、家族がそれを受け取っただけだった。そして話し終われば、昔から知る二つの家族の時間がそのまま続いていく。鹿野家の両親が帰る時間になると、千夏は大喜たちと一緒に玄関まで見送りに出た。母は靴を履きながら、いつもの調子で千夏へ言う。
「困ったことあったら連絡してね」
「うん」
「バスケも学校も、それ以外も」
「分かってる」
父もコートを着てから大喜へ向き直った。
「大喜くん」
「はい」
「千夏のこと、これからもよろしく」
大喜が返事をするより先に、千夏が横から口を挟む。
「お父さん。私もいるんだけど」
「分かってるよ。大喜くんだけに頼んでるわけじゃない」
「ならいいけど」
「二人とも、自分のことをちゃんとやりなさい」
「うん」
「はい」
大喜も笑って答えた。千夏の母は最後まで大喜の母と話している。
「今度は二人抜きでゆっくり会おうね」
「それ毎回言ってる」
「今度こそ」
「高校の時から変わらないなあ、その約束」
「次はほんとに予定決めるから」
「その台詞も前に聞いた」
二人は笑いながら手を振った。車が角を曲がるまで見送ってから、千夏たちは玄関へ戻った。長野から持ち帰ったバッグと紙袋がまだ置かれていて、大喜は何も言われる前に大きなバッグの持ち手へ手を掛ける。
「これ、上持ってくよ」
「重いよ?」
「知ってる。毎年持ってるから」
「じゃあお願い」
二人は並んで階段を上った。数日ぶりに戻った猪股家は、驚くほど何も変わっていない。階段の壁も廊下の明かりも、自分と大喜の部屋が向かい合っていることもそのままだった。大喜が千夏の部屋の前までバッグを運び、床へ下ろす。
「やっぱり重い」
「だから言ったのに」
「一人で持つよりいいでしょ」
「ありがとう」
千夏が扉へ手を掛けると、大喜が長く息を吐いた。
「終わったね」
「うん」
「思ってたより普通だった」
「お父さんと何話すか、あんなに緊張してたのに」
「それ言わないでよ。ちーちゃんだって緊張したって言ってたじゃん」
「私は自分の家だったもん」
「ずるい」
「でも、大喜くんちゃんと話せてたよ」
「ちーちゃんもね」
千夏は笑った。今日も何か特別なことを始めたわけではなかった。ただ、この家の中で、自分たちの関係を隠す必要はもうない。
「大喜くん」
「何?」
「ただいま」
「おかえり、ちーちゃん」
玄関でも使った言葉なのに、今度は二人だけのものとして交わされた。千夏は笑って自分の部屋へ入り、大喜も向かいの扉へ手を掛ける。
翌朝になれば、また二人で同じ階段を下りる。