金色のメダルは、思っていたより軽かった。
表彰台の一番高い場所で、大喜は首にかけられたメダルを片手でそっと持ち上げる。指先に触れる金属は少し冷たくて、けれど胸の奥はずっと熱いままだった。
会場の拍手が、少し遅れて耳に届く。
全国大会優勝。
その言葉が、どこか遠くから聞こえてくる。
コーチが笑っている。母親は泣きそうな顔をしている。クラブの仲間たちは、下から大喜の名前を呼んでいる。さっきまでシャトルの音と自分の息遣いしか聞こえなかったコートが、今は人の声でいっぱいだった。
大喜は、ようやく自分が勝ったのだと実感した。
栄明中を目指すと千夏に話した日から、いくつもの季節が過ぎた。
小学六年生の夏。
猪股大喜は、全国大会で優勝した。
そこに至るまでの試合は、どれも簡単ではなかった。体格で上回る相手もいた。強いスマッシュで押してくる相手もいた。大喜よりずっと試合慣れしている選手もいた。
それでも大喜は、どの試合でも最後までシャトルを追った。
準決勝では、第2ゲームの終盤に何度も追い込まれた。相手の球は重く、前に落とされれば足が遅れ、後ろに振られれば体勢が崩れた。ラケットの面が少し遅れるだけで、シャトルは浮く。浮けば叩かれる。
苦しかった。
けれど、苦しい時ほど、大喜は一本ごとに相手を見た。
どの場面で強打したがるのか。どのコースに逃げるのか。長いラリーの後、どこで足がほんの少し止まるのか。
全部が見えたわけではない。
でも、見ようとした。
最後のラリーで、相手が浅く返したシャトルを、大喜は迷わず叩き込んだ。足はきつかった。腕も重かった。それでも、そこへ一歩出た瞬間だけは、身体が軽かった。
決勝では、先に第1ゲームを落とした。
会場の空気が相手に傾く。相手の応援が大きくなる。自分のミスに「ああ」と声が漏れるのが聞こえる。
けれど、大喜は焦らなかった。
小さい頃、千夏に「バドミントン、かっこいいね」と言われてから、何度も届かなかったシャトルを追ってきた。空振りして、悔しがって、床に落ちたシャトルを拾って、それでももう一度ラケットを握ってきた。
だから、一本落としたくらいでは終われなかった。
第2ゲームを取り返し、ファイナルゲームへ入る。
最後は、互いに足が止まりかけていた。相手の息も荒い。大喜の膝も笑いそうだった。けれど、シャトルは待ってくれない。
相手がドロップを落とす。
大喜は前へ飛び込む。
低く返す。
相手が上げる。
大喜は後ろへ下がるのではなく、踏み込んだ。
ラケットを振る。
シャトルが床に落ちた瞬間、会場が大きく沸いた。
大喜は礼をして、相手と握手をする。相手の手も熱かった。自分と同じように、最後まで走ってきた手だった。
嬉しい。
ものすごく嬉しい。
けれど、その嬉しさの中で、最初に思い浮かんだのは千夏の顔だった。
ちーちゃんに、早く伝えたい。
表彰台の上で、大喜はそう思った。
その頃、千夏は栄明中の体育館にいた。
中学一年生になった千夏は、夢佳と一緒に栄明中女子バスケ部へ入っていた。小学生の頃にいたミニバスとは、何もかもが違う。練習の速さも、声の大きさも、先輩たちの身体の強さも、一段上だった。
千夏は、まだレギュラーには届いていなかった。
練習試合でコートに立てる時間は短い。紅白戦では、先輩のディフェンスに止められる。パスを受ける前に身体を入れられ、シュートまで持っていけないこともある。
小学生の頃なら通ったプレーが、栄明では簡単に通らない。
足を出したつもりでも半歩遅い。声を出したつもりでも、先輩の声にかき消される。シュートを打つ前に、もう相手の手が視界に入ってくる。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
自分の足りないものが、毎日ちゃんと見える。
見えるなら、直せるかもしれない。
そう思えたからだった。
一方で、夢佳は一年生ながら試合メンバーに入り始めていた。
もちろん、まだ中心選手ではない。先輩たちの壁は厚く、試合に出ても短い時間で結果を求められる。けれど夢佳は、その短い時間でも物怖じしなかった。
ボールを受ければ迷わず前を見る。抜かれれば悔しがり、ベンチに戻ればすぐに次のプレーの話をする。先輩相手でも、遠慮しているようには見えない。
千夏は、そんな夢佳を近くで見ていた。
羨ましくないと言えば嘘になる。
自分も試合に出たい。もっと長くコートに立ちたい。夢佳と同じように、先輩たちの中で自分のプレーを出したい。
けれど、その感情は暗いものではなかった。
夢佳が前にいるから、自分もそこへ行きたいと思える。夢佳が強い相手にぶつかっていくから、自分も怖がらずに走ろうと思える。
栄明は厳しい。
でも、楽しい。
強い人たちの中で走ると、自分の足りないものがはっきり分かる。夢佳と一緒にその中へ飛び込むと、怖さより先に、もっとできるようになりたいという気持ちが湧いてくる。
「ナツ、今のパス、もう半歩早く出せた」
練習後、夢佳が言った。
「夢佳の要求が早すぎるんだよ」
「取れるでしょ、ナツなら」
「簡単に言う」
「簡単じゃないから、やるんじゃん」
夢佳はそう言って笑う。
千夏も、少し遅れて笑った。
夢佳はまだ、苦しそうではなかった。むしろ、栄明の厳しさを面白がっているように見えた。先輩に止められれば悔しがり、次の練習でまたぶつかりに行く。千夏はそんな夢佳に引っ張られるように、何度も走った。
その日の練習は、いつも以上にきつかった。
ディフェンスのフットワーク。速攻の切り替え。短い休憩を挟んで、また走る。床に汗が落ちる。息が上がって、声がかすれる。
休憩中、千夏はタオルで汗を押さえながら、ベンチ脇に置いたスマホを確認した。
母からメッセージが届いていた。
「大喜くん、全国優勝」
千夏は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
夢佳が隣から覗き込む。
「どうしたの?」
「大喜くん、優勝したって」
「全国?」
千夏は頷いた。
夢佳は一瞬目を丸くして、それから素直に笑った。
「すご。あの子、本当に勝ったんだ」
「うん」
千夏の声は少し震えていた。
嬉しかった。
胸の奥が熱くなった。
今すぐ大喜に会って、おめでとうと言いたかった。直接顔を見て、すごいね、と言いたかった。小さい頃から見てきた大喜が、本当に全国で一番になった。そのことが、自分のことではないのに、自分のことのように嬉しかった。
けれど同時に、少しだけ不思議な感覚があった。
体育館の隣のコートで、何度もシャトルを拾いに走っていた大喜。
うまく打てるたびに、こちらを探すように顔を上げていた大喜。
練習後に汗だくで「今日どうだった?」と聞いてきた大喜。
千夏が知っている大喜は、いつもすぐ近くにいた。
同じ体育館の中で、ボールの音とシャトルの音の間にいた。
その大喜が、今は全国の一番高い場所に立っている。
千夏の知らない会場で、知らない相手と戦い、知らない人たちに名前を呼ばれている。
それが誇らしくて、少しだけ遠かった。
千夏はすぐに大喜へメッセージを打った。
「優勝おめでとう。本当にすごいよ」
送った後も、しばらく画面を見つめていた。
返事はすぐには来ない。表彰や片付け、挨拶があるのだろう。そんなことは分かっている。それでも、送信済みの文字を見ているだけで、胸が落ち着かなかった。
夢佳が言う。
「ナツ」
「何?」
「その顔で終わるなら、今日の練習置いていかれるよ」
千夏は顔を上げる。
「分かってる」
「じゃあ、走るよ。全国優勝した幼馴染に負けてられないんでしょ」
千夏は少しだけ笑った。
「うん」
大喜が前へ進んだ。
なら、自分もここで走る。
その日の千夏は、いつもより少しだけ足が前へ出た。
夢佳のパスに遅れそうになっても、最後の一歩を伸ばした。先輩に身体を入れられても、すぐに次の場所へ走った。シュートが外れても、リバウンドへ足を止めなかった。
ボールの音とシューズの音の奥で、大喜が全国で勝ったという言葉が何度も響いていた。
嬉しい。
負けたくない。
自分も、もっと強くなりたい。
その三つの気持ちが、千夏の中で混ざり合っていた。
全国優勝の後、大喜には世代別代表の強化合宿と韓国遠征の話が届いた。
最初に聞いた時、大喜は言葉を失った。
「韓国……ですか?」
コーチは頷いた。
「U-13日本代表として、海外の選手と打ってくる。全国で勝ったから終わりじゃないぞ。ここから、もっと広いところを見るんだ」
代表。
海外。
韓国。
大喜には、その全部がまだ遠い言葉に聞こえた。
けれど、知らない相手と打てる。日本の外の選手と試合ができる。そう思うと、緊張より先に胸が高鳴った。
家に帰ってからも、大喜は何度も同じ書類を見た。
遠征日程。持ち物。集合場所。日本代表の文字。
全国で勝ったのに、もう次がある。
そのことが少し不思議で、でも嬉しかった。
千夏に伝えると、千夏は目を丸くした。
「韓国に行くの?」
「うん。遠征で」
「すごいね」
千夏は心からそう言った。
大喜は照れたように笑う。
「まだ行くだけだよ。強い人、たくさんいると思うし」
「でも、すごいよ」
千夏はもう一度言った。
その声には、大げさな持ち上げではなく、本当にそう思っている温度があった。
大喜は少しだけ背筋を伸ばす。
「ちゃんと打ってくる」
「うん」
「強い人と、いっぱい」
千夏は笑う。
「行ってらっしゃい、大喜くん」
その笑顔を見て、大喜は少し安心した。
遠くへ行くことは、少し怖い。
けれど、千夏がそうやって送り出してくれるなら、ちゃんと行ける気がした。
韓国遠征の日、大喜は代表のジャージを着て空港に立っていた。
周りには、全国大会で名前を見たことのある選手がいる。自分より背の高い選手も、自分よりがっしりした選手もいる。空港の床をキャリーケースの音が転がっていく。いつものクラブとはまったく違う空気に、大喜は少し緊張していた。
ジャージの胸元にある日の丸を、指で軽く押さえる。
自分がこれを着ていることが、まだ少し信じられなかった。
韓国に着くと、練習場の匂いも、床の感触も、どこか違って感じられた。
表示されている文字は読めないものも多い。聞こえてくる言葉も、全部は分からない。水のボトルのラベルすら、いつもと違って見えた。
けれど、シャトルを打つ音だけは同じだった。
パァン。
乾いた音が響く。
その音が聞こえた瞬間、大喜の背筋が少し伸びた。
ここも、コートだ。
言葉が分からなくても、シャトルは飛んでくる。
練習試合で向かい合った韓国の選手は、同じ年代とは思えないほど身体が強かった。
踏み込みが速い。球が重い。強打だけではなく、返球の後の準備が早い。日本なら拾えていた球に、半歩遅れる。攻めたつもりの球を、さらに速く返される。
最初の試合で、大喜は負けた。
スコア以上に、差を感じた。
最後の礼をして、握手をした時、相手の手にはまだ余裕が残っているように思えた。
悔しかった。
胸の奥が熱くなった。
けれど、不思議と暗い気持ちにはならなかった。
こんなに強い人がいる。
まだ知らないバドミントンがある。
そう思うと、もっと打ちたくなった。もっと拾いたくなった。次はどうすれば届くのか、考えたくなった。
負けた試合の後も、大喜は相手の動きをじっと見ていた。
どこで足を置くのか。打った後、どこを見ているのか。強く打つ前に、肩がどう動くのか。自分に足りないものが、全部目の前に並んでいる気がした。
夜、宿舎でスマホを開き、千夏に短く送る。
「韓国の選手、強い」
送ってから、大喜は少しだけ画面を見る。
本当はもっと書けることはあった。
スマッシュが重いこと。ラリーのテンポが速いこと。自分が思ったより通用しなかったこと。悔しいこと。面白いこと。
けれど、最初に打てたのはそれだけだった。
韓国の選手、強い。
その一文に、今日の気持ちが全て乗っかっていた。
千夏は練習後、そのメッセージを読んだ。
「大丈夫?」
そう打ちかけて、指が止まる。
大喜はきっと、心配してほしくて送ってきたわけではない。
強い相手と出会ったことを、悔しがりながらもどこか楽しんでいる。そんな気がした。
千夏は少し考えてから、返事を打つ。
「大喜くんも強いよ。でも、もっと強くなって帰ってきそう」
少しして、大喜から返事が来た。
「なる」
たった二文字だった。
千夏は画面を見て、自然に笑った。
大喜らしい、と思った。
迷っているようで、そういうところは真っ直ぐだ。
栄明中での千夏も、少しずつ前へ進んでいた。
まだレギュラーではない。先輩との差は大きい。夢佳が試合メンバーとしてコートに呼ばれるたびに、自分もそこへ行きたいと思う。悔しくないわけではない。
けれど、千夏はその悔しさを嫌いではなかった。
夢佳がコートに出れば、ベンチから声を出す。夢佳が戻ってくれば、気づいたことを伝える。自分が短い時間だけ出る時は、全力で走る。練習後には、夢佳と一緒にシュートを打つ。
「今日はあと何本?」
千夏が聞くと、夢佳は迷わず答える。
「入るまで」
「それ、終わらないやつ」
「終わらせればいいじゃん」
夢佳は笑う。
千夏も笑い、ボールを構えた。
指先からボールを放す。
リングに当たって外れる。
夢佳がすぐに拾って返す。
「もう一本」
「うん」
栄明は厳しい。
けれど、夢佳とならその厳しさも前へ進む理由になる。
大喜が世界で強い相手と打っているなら、自分もこの体育館で止まっていたくなかった。
遠征から帰ってきた大喜は、少しだけ日焼けしていた。
休みの日に久しぶりに顔を合わせると、千夏はすぐに声をかけた。
「おかえり、大喜くん」
大喜は嬉しそうに笑う。
「ただいま、ちーちゃん」
そのやり取りは、昔から変わらなかった。
けれど千夏には、大喜が少しだけ違って見えた。
背が急に伸びたわけでも、顔つきが別人になったわけでもない。声だって、話し方だって、いつもの大喜だ。
ただ、自分の知らない国で、自分の知らない相手と戦ってきた大喜は、ほんの少し遠くの空気をまとっているように感じた。
大喜は韓国の話をたくさんした。
練習場の床が少し違って感じたこと。相手のスマッシュが重かったこと。ラリーが長くて苦しかったこと。言葉が通じなくても、試合になると相手の考えていることが少し分かる気がしたこと。最初に負けた相手から、最終日には勝ったこと。
千夏はそれを嬉しそうに聞いた。
「楽しかった?」
大喜は少し考えてから頷く。
「うん。悔しかったけど、楽しかったよ」
その言葉を聞いて、千夏はさらに嬉しくなる。
大喜は、自分の知らない場所で悔しがって、楽しんで、強くなって帰ってきた。
それは誇らしかった。
そして、少しだけ寂しかった。
でも、その寂しさは、千夏を下へ引っ張るものではなかった。
「私も、栄明で頑張る」
千夏が言うと、大喜はすぐに笑った。
「ちーちゃんはもう頑張ってるよ」
「もっと」
千夏は少しだけ強く言う。
「もっと試合に出たい。夢佳と一緒に、もっと勝ちたい」
大喜はその言葉を聞いて、嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、どっちももっと強くなろう」
「うん」
二人は笑った。
競技は違う。
立っているコートも違う。
大喜は全国優勝をして、韓国へ行って、知らない相手と戦ってきた。千夏は栄明中で、まだレギュラーを目指している途中だった。
同じ速さでは進んでいない。
けれど、同じ場所に戻ってきて顔を合わせると、不思議と置いていかれたとは思わなかった。
大喜の背中は少し遠く見える。
それでも、その背中は千夏を置いていくものではなく、前へ進む理由になっていた。
その夜、千夏は練習ノートを開いた。
今日できなかったこと。先輩に言われたこと。夢佳のパスに遅れた場面。自分が短い時間出た時に、戻りが遅れた場面。
書いているうちに、今日の大喜の顔が浮かんだ。
悔しかったけど、楽しかったよ。
その言葉が、ページの端に残る。
千夏は小さく書いた。
「もっと強くなる」
同じ頃、大喜も自分の部屋で韓国遠征のノートを開いていた。
勝てなかった相手の名前。拾えなかったコース。スマッシュの重さ。次に試したい一歩目。打つ前に相手の肩を見ること。強い球を受けるだけではなく、先に動かすこと。
書きながら、千夏に言われた言葉を思い出す。
大喜くんも強いよ。でも、もっと強くなって帰ってきそう。
大喜はシャーペンを止め、小さく呟いた。
「もっと強くなる」
同じ夜、別々の机で、二人はそれぞれのノートに同じような言葉を書いていた。
千夏はボールのことを考えながら。
大喜はシャトルのことを考えながら。
互いの背中が、前へ進む理由になり始めていた。