Another Childhood   作:やまうぇ

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第8話 つかぬ間の大切な時間

韓国遠征から帰ってきてからも、大喜の日常はすぐに元へ戻らなかった。

 

全国優勝、世代別代表、韓国遠征。

 

短い間に、いくつもの言葉が大喜の周りに増えた。クラブに行けば「代表どうだった?」「韓国の選手って強い?」「外国でもスマッシュ速いの?」と何度も聞かれる。コーチからは、遠征で感じたことをただの思い出にせず、これからの練習にどう生かすか考えるように言われた。

 

大喜は一つ一つ答えた。

 

韓国の選手は身体が強かったこと。球が重かったこと。最初はまったく拾えなかったこと。それでも、何試合も打つうちに少しずつ見えるものがあったこと。最後には、最初に負けた相手から一ゲームを取れたこと。

 

話していると、胸が熱くなる。

悔しかったことも、楽しかったことも、本当だった。

 

ただ、帰国してから数日たつと、大喜は少しだけ身体の重さを感じ始めた。

 

練習が嫌なわけではない。

 

むしろ打ちたい。強くなりたい。韓国で感じた差を、少しでも埋めたい。浮いた返球を叩かれた場面。半歩遅れて、届かなかったドロップ。自分のスマッシュを当然のように返された時の感覚。思い出すたび、早く体育館へ行きたくなる。

けれど、気持ちだけ先に走って、身体がついてこない日があった。

 

足がいつもより重い。踏み込みが一瞬遅れる。腕に力が入って、シャトルが思ったより伸びる。

 

「大喜、今日は少し抑えとけ」

 

コーチにそう言われ、大喜は素直に頷いた。

 

「はい」

 

返事はした。

でも、内心では少し落ち着かなかった。

 

休むくらいなら、打ちたい。

強くなりたいのに、強く打たない時間を作ることが、少し怖かった。

 

そんな時、代表合宿で言われた言葉を思い出す。

疲れている時ほど、ただ何もしないのではなく、身体をゆっくり動かして整える日を作ること。

 

アクティブレスト。

 

大喜はその言葉を、まだ少し大人っぽく感じていた。強くなるために休む。休むことも練習の一部。言われれば分かる。けれど、何もしないでいると置いていかれるような気がして、じっとしているのが苦手な大喜には、少し難しい考え方だった。

 

クリスマス前のある日、千夏の部活が珍しく早く終わると聞いた。

大喜もその日はクラブの練習強度が軽い日だった。二人とも完全な休みではない。けれど、夕方に少しだけ時間が合う。

大喜は少し迷った末、千夏に連絡した。

 

「今日、時間あったら少し身体動かさない?」

 

千夏からの返事はすぐに来た。

 

「練習?」

 

大喜は画面を見ながら、少し考えて打つ。

 

「練習っていうより、疲れを抜くやつ。韓国遠征の前の合宿で教わった」

 

少し間があった。

 

大喜はスマホを持ったまま、文字の横の既読を見ていた。送った後で、少しだけ不安になる。千夏はバスケで疲れているだろうし、休みたいかもしれない。わざわざ自分のバドミントンの話を聞かされても困るかもしれない。

 

けれど、すぐに返事が来た。

 

「やってみたい」

 

その短い返事に、大喜は少し嬉しくなる。

 

夕方、二人はいつもの体育館にいた。

冬の体育館は、夏とは違う匂いがした。床は少し冷たく、空気は澄んでいる。部活の声が遠くへ引いた後の体育館は、広すぎるくらい静かだった。照明の下に浮かぶコートの線が、いつもよりはっきり見える。

 

千夏はジャージ姿で、少し不思議そうに大喜を見る。

 

「今日は走らないの?」

「うん、今日は走らないよ。でも、いろんな動きをする感じ」

「そうなんだ、楽しみ」

 

大喜は少し照れたように笑い、マットを広げた。

まずは足首。次に股関節。肩甲骨。強く伸ばすのではなく、ゆっくり動かす。呼吸を止めない。痛いところまで押し込まない。身体のどこが重いのか、自分で確認するように動かす。

 

千夏は最初、少し戸惑っていた。

 

普段のバスケの練習では、走る、跳ぶ、止まる、ぶつかる。身体を強く使うことが多い。だから、こんなふうに静かに身体を動かす時間は少し不思議だった。

 

「これで練習になるの?」

 

千夏が聞くと、大喜は真面目な顔で答えた。

 

「たぶん、次の練習のためになる」

「なるほど」

「俺も最初、ほんとかなって思ったけど」

「大喜くんも?」

「うん。休むくらいなら打ちたいって思ってた」

 

千夏は少し笑う。

 

「大喜くんらしい」

「でも、韓国で強い人と打って、ずっと力入れっぱなしだと最後に動けなくなるって分かった。抜くところも作らないと、続かないんだって」

 

大喜の言葉に、千夏は少しだけ真剣になる。

自分も、栄明に入ってからずっと力を入れていた気がした。レギュラーになりたい。夢佳に追いつきたい。先輩たちの中で埋もれたくない。そう思うほど、身体にも心にも力が入り続けていたのかもしれない。

 

大喜に教わりながら、千夏はゆっくり身体を動かした。

股関節を回し、肩を開き、足裏の感覚を確かめる。最初はぎこちなかった動きも、少しずつ呼吸と合ってくる。

 

「どう?」

 

大喜が聞く。

千夏は片足を伸ばしながら、少し考えた。

 

「なんか、身体が静かになる感じ」

「静か?」

「うん。走ってる時とは違うけど、これはこれで気持ちいい」

 

大喜は安心したように笑った。

 

「よかった」

 

千夏はその笑顔を見る。

韓国から帰ってきた大喜は、少し遠く見えた。知らない国で、知らない相手と戦って、全国優勝の先へ進もうとしている。その背中を見て、自分も頑張ろうと思った。

 

けれど今、目の前にいる大喜は、いつもの大喜だった。

自分の横でマットに座り、少し不器用に説明して、うまく伝わったか不安そうにこちらを見る。言葉を選びながら、でも自分が教わったことをちゃんと伝えようとしている。

 

遠くへ行っても、こうして隣に戻ってくる。

そのことに、千夏は少し安心した。

 

「ちーちゃん、そこ痛くない?」

「うん。大丈夫」

「無理して伸ばさなくていいって言われた」

「大喜くん、ちゃんと先生みたい」

「先生じゃないよ。俺も教わっただけだし」

 

大喜は少し困ったように笑う。

その顔が、千夏には少し嬉しかった。

 

一通り身体を動かした後、大喜は体育館の端に置かれていたボールを見つけた。

 

「少しだけ、シュート見てもいい?」

「大喜くんが?」

「うん。バドミントンじゃないけど、ちーちゃんのシュート見たい」

 

千夏は少し照れる。

 

「見ても面白くないよ」

「面白いよ」

 

大喜は当然のように言った。

 

千夏はボールを手に取る。身体をゆっくり動かした後だからか、いつもより肩の力が抜けていた。リングを見る。軽く膝を曲げる。指先からボールを放つ。

シュートはきれいに入った。

大喜がぱっと顔を明るくする。

 

「今の、きれいだったね」

 

千夏は少し照れながらボールを拾う。

 

「たまたま」

「たまたまじゃないと思う」

 

大喜はそう言う。

その声があまりにまっすぐで、千夏は返す言葉を少し探してしまった。

 

「……じゃあ、もう一本」

「うん」

 

千夏はもう一度構える。

 

今度はリングに当たって外れた。ボールが床に跳ねる。千夏が取りに行くより先に、大喜が走って拾い、両手で返してくる。

 

「はい」

「ありがとう」

「今のも、形はよかったと思う」

「バドミントンの人に言われても」

「でも、見てたから」

 

大喜は何気なく言った。

 

千夏はボールを受け取ったまま、一瞬だけ動きを止める。

大喜は自分の競技で忙しい。全国で勝って、韓国まで行って、知らない相手と戦っている。それでも、こうして自分のシュートを見てくれている。

 

そのことが、胸の奥に静かに残った。

 

何本かシュートを打った後、今度は大喜がラケットを持った。

強く打つのではなく、軽くシャトルを上げ、身体の感覚を確かめるように打つ。ステップを一つ入れて、シャトルを拾う。大きく踏み込むのではなく、静かに足を置くように動く。

 

千夏はそれを眺めた。

 

大喜の動きは、韓国遠征前より少しだけ変わっている気がした。

速くなった、というより、無駄な力が少し抜けている。シャトルを追う目は変わらない。でも、一歩の出方が前より静かだった。前は全部に全力で飛び込んでいたように見えたのに、今は少しだけ、次の動きを残しているように見える。

 

「大喜くん、なんか少し変わったね」

 

千夏が言うと、大喜は手を止めた。

 

「え?」

「うまく言えないけど。前より、落ち着いてる感じ」

 

大喜は少しだけ考える。

 

「韓国で、強い人たちがみんな力入れっぱなしじゃなかったんだよね。速いのに、ずっと力んでる感じじゃなくて」

「それ、できるようになったの?」

「全然」

 

大喜は即答した。

千夏は笑った。

 

「でも、少し分かったんだ」

「うん。少しだけ」

 

その「少しだけ」が、大喜らしかった。

大きなことを言うのではなく、できていないことを分かった上で、それでも前へ進もうとしている。

千夏は、そういう大喜を見るのが好きだった。

 

身体を動かし終えると、二人は体育館を片付けた。

使ったマットを戻し、ボールを片付け、シャトルを拾う。大喜がネットを外し、千夏が床に落ちたシャトルを拾って手渡す。

 

「ありがとう」

「これ、軽いね」

「うん。でも変なところに落ちると拾いにくい」

「バスケのボールと全然違う」

「ボールは跳ねるもんね」

「大喜くん、昔バスケのボール追いかけてたのにね」

 

千夏が何気なく言うと、大喜は少し照れたように笑った。

 

「ちーちゃんと同じことしたかったから」

 

その言葉は、さらっと落ちた。

昔の話として。

でも千夏には、少しだけ胸に触れる言葉だった。

 

「そっか」

 

それだけ返すと、大喜はもうバッグの中を整理していた。本人は、自分が何を言ったのか、そこまで気にしていないようだった。

 

外はもう暗くなっていた。

クリスマス前の街は、いつもより少しだけ明るい。駅前の小さなカフェには、季節限定のケーキの看板が出ていた。窓の向こうには、赤や緑の飾りが少しだけ揺れている。

 

千夏がそれを見ると、大喜が気づく。

 

「食べる?」

「え?」

「ケーキ。クリスマス、当日はお互い練習でしょ」

 

千夏は少し驚いた後、笑った。

 

「いいの?」

「うん。今日はアクティブレストだったし」

「それ、理由になる?」

「なると思う」

 

大喜が真面目に言うので、千夏はまた笑った。

 

二人はカフェに入った。

小さな店内には、クリスマスの飾りが控えめに置かれていた。窓際の席に座り、千夏はショートケーキを、大喜はチョコレートケーキを選ぶ。

 

「昔は、クリスマスってどっちかの家で集まってたよね」

 

千夏が言う。

 

「うん。ケーキも大きいやつ用意して」

「大喜くん、いつもサンタの砂糖菓子欲しがってた」

「それは覚えてなくていい」

「覚えてるよ。しかも、食べるの遅くて、最後までお皿に残してた」

「ちーちゃんも、いちご先に食べるか最後に食べるかで毎年迷ってた」

「それは覚えてなくていい」

 

二人は笑った。

 

ケーキを食べながら、栄明中の話になる。

千夏は、まだレギュラーになれていないこと、でも練習が楽しいこと、夢佳がもう試合に出始めていることを話した。

 

「夢佳、すごいんだよ。先輩相手でも全然引かない」

「ちーちゃんも、そういうところあるよ」

「私?」

「うん。負けても、次の日ちゃんと体育館にいるところ」

 

千夏は少し黙った。

 

大喜は当たり前のように言っただけだった。けれど千夏には、その言葉が少し嬉しかった。

自分がまだ試合に出られなくても、先輩に止められても、夢佳に先を行かれているように感じても、次の日には体育館にいる。

 

それを、大喜は見てくれている。

 

「大喜くん、そういうところ見てるんだね」

「うん。ちーちゃん、いつもいたから」

「いつもってほどじゃないよ」

「でも、いるよ」

 

大喜は短く言う。

その短さが、千夏には妙に照れくさかった。

 

大喜も、韓国での話をした。

食べ物が辛かったこと。言葉が通じなくて最初困ったこと。けれどシャトルを打つと、相手が何を狙っているのか分かる気がしたこと。負けた時に言葉は分からなくても、相手が強いことだけははっきり分かったこと。

 

「バドミントンって、言葉なくても分かるんだね」

 

千夏が言うと、大喜は頷いた。

 

「うん。全部じゃないけど、コートの中だと相手のことが分かることある」

「かっこいい」

 

千夏が自然にそう言うと、大喜は一瞬だけ止まった。

小さい頃、千夏が初めてバドミントンをかっこいいと言ってくれた時のことを、大喜は思い出した。

 

バスケをやめるのが少し怖かった時。

千夏と同じ競技ではなくなるのが寂しかった時。

 

それでも千夏が「かっこいいね」と言ってくれたから、大喜は自分の見つけたものを信じられた。

あの言葉がなかったら、今の自分はどうなっていただろう。

 

大喜は少し照れたように笑った。

 

「ありがとう」

 

ケーキを食べ終わる頃、大喜は少し落ち着かない様子でバッグを開けた。

 

「ちーちゃん」

「何?」

「これ」

 

大喜が取り出したのは、小さくラッピングされた包みだった。

千夏は驚く。

 

「え?」

「韓国で買ったんだ。クリスマスプレゼント、ってほど大げさじゃないけど」

 

千夏は包みを受け取る。指先が少し緊張した。

 

「開けてもいい?」

「うん」

 

中に入っていたのは、ヘアピンだった。

小さな飾りがついていて、派手すぎず、落ち着いた色をしている。練習の時にも使えそうで、でも何でもないものとして扱うには少しだけ特別に見えた。

 

千夏はしばらくそれを見つめる。

 

「かわいい」

 

大喜は少し安心したように言う。

 

「よかった。最近、髪伸びてるし、まとめられるのがあったらいいかなって思って」

「よく分かったね」

「うん。あと、母さんに聞いたら、ヘアピンとかいいんじゃないって言われて」

 

大喜は少し照れたように付け足す。

 

「せっかく韓国行ったから、何か思い出になるもの買いたくて」

 

千夏の胸が温かくなる。

 

韓国で、大喜は強い相手と戦っていた。悔しがって、楽しんで、もっと強くなろうとしていた。

その遠い場所で、自分のことも少し考えてくれていた。

 

髪が伸びていること。

シュート練のときなどに、何かまとめれらるのが欲しかったこと。

 

そんな小さな気持ちを、汲み取ってくれた。

それが、何よりも嬉しかった。

 

「ありがとう、大喜くん」

 

千夏はヘアピンを大事そうに手のひらに乗せる。

 

「すごく嬉しい」

 

大喜は照れたように視線をそらした。

 

「よかった」

 

千夏は少し慌てて言う。

 

「でも、私、お返し用意してないよ」

「いいよ。お土産だし」

「じゃあ、今日のケーキは私がおごる」

「え、いいよ」

「だめ。これは私から」

 

大喜は少し迷ってから笑う。

 

「じゃあ、ありがとう」

 

千夏は少し得意げに頷いた。

 

店を出ると、冬の空気が頬に冷たかった。

千夏はヘアピンの包みをコートのポケットに入れ、何度もその感触を確かめる。ポケットの中にある小さな包みが、帰り道の間ずっと、そこにあることを知らせてくる。

 

特別な告白があったわけではない。

手をつないだわけでもない。

 

ただ、一緒に身体をゆっくり動かして、ケーキを食べて、韓国のお土産をもらっただけ。

けれど千夏には、その時間がとても大切に思えた。

 

大喜が遠くへ行っても、こうして自分の隣に戻ってくること。

自分が知らない世界で戦った大喜が、自分にその話をしてくれること。

そして、その遠い場所で、自分の髪のことを思い出してくれていたこと。

 

帰り道、二人は栄明中の話を続けた。

 

「来年、大喜くんも栄明だよね」

「うん」

「朝練、する?」

「もちろん」

「やっぱり」

「ちーちゃんは?」

「するよ。もっと上手くならなくちゃ」

「じゃあ、また同じ体育館だね」

 

大喜は嬉しそうに頷く。

 

「うん。また同じ体育館」

 

その言葉に、千夏は胸の奥が静かに温かくなった。

 

大喜は全国優勝をして、韓国へ行って、知らない世界を見てきた。

自分はまだレギュラーにも届いていない。

 

それでも、また同じ体育館で、それぞれの練習をする未来がある。

それだけで、千夏は少し前を向けた。

 

家に帰った後、千夏は自分の部屋でヘアピンを机の上に置いた。

明日の練習で使うには、少しもったいない気がした。けれど、しまい込むのも違う気がした。

 

千夏は鏡の前に立ち、そっと髪に当ててみる。

派手ではない。

けれど、ちゃんと自分に似合っているような気がした。

 

大喜くんが選んでくれた。

そう思うと、胸が少しだけ高鳴る。

 

鏡の中の自分は、いつもと同じ顔をしているはずなのに、少しだけ違って見えた。

 

千夏はヘアピンを外し、机の上に戻す。

 

「個人練習の時に使おう」

 

小さく呟く。

普段ずっとつけるには、少し照れくさい。部活中につけるのも、なくしたら嫌だし、危ないかもしれない。

でも、朝練や一人で身体を動かす時なら。

大喜が遠い場所で選んでくれたものを、少しだけ自分の練習に持っていける気がした。

 

同じ頃、大喜も自分の部屋でストレッチをしていた。

 

今日、千夏にアクティブレストを教えたことを思い出す。千夏がゆっくり身体を動かしていた姿。シュートを打った時のきれいな軌道。ヘアピンを見て嬉しそうに笑った顔。

 

韓国で見た強い相手のことも、今日の千夏の笑顔も、どちらも大喜の中に残っていた。

 

もっと強くなりたい。

 

そう思う理由が、また一つ増えた気がした。

 

机の上には、韓国遠征のノートが開いたままだった。拾えなかったコース。相手に先に入られた場面。次に試したい一歩目。

大喜はそこに、短く書き足した。

 

力を抜くところを作る。

千夏に見せられるように。

 

書いてから少しだけ恥ずかしくなり、後半の文字をじっと見る。

別に、変な意味ではない。

大喜は自分にそう言い聞かせる。

 

ただ、千夏に「かっこいい」と言われたバドミントンを、もっとちゃんとやりたいだけだ。

そう思いながら、ノートを閉じた。

 

冬の夜は静かだった。

別々の家の別々の部屋で、千夏はヘアピンを机に置き、大喜は練習ノートを閉じる。

 

二人はまだ、これから先のことを何も知らない。

 

栄明中で始まる朝練のこと。

同じ体育館に、また毎朝立つこと。

そのヘアピンが、千夏にとって遠い場所でも大喜を思い出す小さな証になること。

 

まだ何も知らないまま、それでも二人は少しずつ次の季節へ向かっていた。

 

つかの間の、けれど確かに大切な時間だった。

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