春の朝には、まだ冬の名残がかすかに残っていた。
大喜はラケットバッグの肩紐をかけ直し、栄明中の校舎へ続く道を歩いていた。
制服の襟は硬く、靴もまだ足に馴染みきっていない。
栄明中学校。
一年前から、千夏が通っている学校だった。
バドミントンの強い学校だということは、前から知っていた。顧問からは、入学前でも朝の時間なら体育館を使っていいと言われている。
栄明の練習環境は、これまでとは違う。ここには、自分より先を走る強い先輩がいる。
それは楽しみだった。
でも、それだけではなかった。
ちーちゃんがいる学校。
その事実が、大喜の呼吸を、朝の空気よりもわずかに熱くしていた。
千夏はもう一年、ここで過ごしている。女子バスケ部で、夢佳と一緒に厳しい練習の中を走っていることも聞いていた。
まだレギュラーには届いていないけれど、毎日朝から体育館へ行っていることも、練習に没頭して帰りが遅くなる日があることも、大喜は知っている。
自分も、そこに入っていく。
同じ学校で、もう一度、同じ体育館に立つ。
そう考えるだけで、足取りは自然と速くなった。
入学式はまだこれからだった。正式な部活動の開始も放課後からだ。
けれど、大喜は顧問から許可をもらっていたことを、千夏には言わなかった。
内緒にして、朝の体育館へ行ってみたかった。
きっと、ちーちゃんはいる。
そう思っていたし、そうであってほしいとも思っていた。
校舎の中は静かだった。普段なら生徒の声で満ちるはずの廊下も、今はまだ朝の光だけが薄く差し込んでいる。
大喜は体育館へ向かう廊下を抜け、扉の前で足を止めた。
中から、音がした。
ボールが床を叩く音。
シューズが床を擦る音。
息を吸って、少し間を置いて、またボールが跳ねる音。
大喜は思わず笑った。
やっぱりいた。
扉をほんの少し開けると、朝の体育館に千夏がいた。
誰もいないバスケコートで、一人、シュートを打っている。髪は後ろでまとめられていて、その横に小さなヘアピンが留まっていた。
見覚えのあるヘアピンだった。
韓国遠征のお土産として、大喜が選んだもの。
大喜は一瞬、声をかけるのを忘れた。
千夏が、そのヘアピンを使ってくれている。
ただそれだけのことなのに、胸の内側がふわっと温かくなる。
遠征先で、いくつも並んだ店の中で、どれなら千夏に似合うだろうと迷った時間が、急に近く戻ってきた。
千夏はそんな大喜に気づかないまま、ボールを構えた。
ボールが弧を描く。
リングに当たり、外れる。
千夏はすぐにボールを追った。拾って、また同じ場所へ戻る。小学生の頃より、フォームはずっときれいになっていた。
身体も伸びて、走り方も変わっている。けれど、外してもすぐ拾いに行くところは、昔から変わらない。
大喜にとって、体育館の千夏はずっと特別だった。
家で話す千夏とも、公園で手を引いてくれた千夏とも違う。汗をかいて、悔しそうにして、それでももう一本へ向かう人。
大喜はしばらくその背中を目で追っていた。
それから、わずかにいたずらを思いつく。
静かに中へ入り、足音を立てないように近づく。千夏が次のボールを構えた、その瞬間だった。
「おはよう、ちーちゃん」
千夏の手元が、分かりやすく狂った。
放たれたボールはリングにも当たらず、横へそれて床を跳ねる。
千夏は驚いて振り返った。
「大喜くん!?」
大喜は思わず笑った。
「びっくりした?」
「するよ。なんでいるの?」
「朝練」
「今日、これから入学式だよね?」
「体育館、使っていいって言われたから」
千夏は少し呆れたように、大喜を見る。
「それ、私に言ってなかった」
「内緒にしてた」
「なんで?」
「驚かせようと思って」
千夏は少しむっとした顔をした。けれど、大喜があまりに嬉しそうなので、すぐに怒る気がなくなった。
「もう」
そう言いながら、千夏は転がったボールを拾いに行く。
大喜はその背中を見てから、もう一度千夏の髪に視線を向けた。
「それ」
「え?」
「ヘアピン」
千夏は一瞬きょとんとしてから、自分の髪に触れた。
「あ、これ?」
「使ってくれてるんだ」
「うん。練習の時、髪が落ちてこなくて使いやすいから」
「そっか」
大喜はそれだけ言って、嬉しそうに目をそらした。
千夏はその反応を見て、少し恥ずかしくなる。
本当は、使いやすいからだけではなかった。
韓国で大喜が選んでくれたものだから。
遠くの場所で、自分のことを思い出してくれたものだから。
朝練でつけると、かすかに頑張れるように感じた。
けれど、それをそのまま言うのは照れくさかった。
「大喜くんこそ、朝から張り切ってるね」
「せっかく使えるなら、打ちたいし」
「大喜くんらしい」
千夏が笑うと、大喜も照れを隠すように笑った。
大喜はラケットバッグをバドミントンコートの端に置き、ネットの準備を始めた。まだ誰もいない体育館で、ポールを立て、ネットを張っていく。その動きは慣れている。けれど、栄明中の体育館でそれをするのは初めてだった。
千夏はボールを持ったまま、その様子を少し目で追っていた。
一年前、自分は先に栄明へ来た。
夢佳と一緒に、強い先輩たちの中で必死に走ってきた。最初から試合に出られたわけではない。コートの外で見ている時間も多かった。それでも毎日、少しずつここで前へ進んできた。
大喜はその間、小学生の全国大会で優勝し、韓国遠征にも行った。
それぞれ違う場所で前へ進んできた。
そして今、また同じ体育館にいる。
大喜がシャトルを取り出し、軽くラケットで打ち上げる。白いシャトルが朝の光の中で小さく跳ねた。
千夏はそれを見て、懐かしいような、新しいような気持ちになる。
「大喜くん」
「何?」
「栄明へようこそ」
大喜は照れを隠すように笑った。
「よろしくお願いします、千夏先輩」
千夏は思わず笑う。
「先輩って言い方、変」
「じゃあ、ちーちゃん先輩」
「もっと変」
二人の笑い声が、まだ人の少ない体育館に小さく響いた。
その後、二人はそれぞれの練習に入った。
千夏はバスケコートでシュートを打ち、大喜はバドミントンコートでフットワークを始める。互いに相手の練習へ口を出すわけではない。バスケとバドミントンでは使う身体も、見る場所も、音も違う。
けれど、同じ空間にいるだけで、朝の体育館の空気が少し違って感じられた。
大喜はフットワークの合間、ふとバスケコートを見る。
千夏は何本もシュートを打っていた。外れても拾い、また構える。ヘアピンが朝の光をほんの少し受けている。
大喜はもう一度、目の前のコートへ向き直った。
自分も頑張ろうと思った。
千夏も、大喜の足音を聞きながらボールを構える。
大喜が隣のコートにいる。
それだけで、もう一本打とうと思えた。
しばらくすると、体育館の扉が開いた。
入ってきたのは、少し背の高い男子生徒だった。ラケットバッグを肩にかけ、眠そうな顔をしている。けれど、目だけははっきりしていた。
千夏が先に気づく。
「おはよう、針生君」
男子生徒は千夏を見ると、軽く手を上げた。
「おはよ、ちー」
大喜はその呼び方に、思わず千夏を見る。
「ちー?」
千夏はわずかに苦笑した。
「針生君、花恋の知り合いなんだよ」
「花恋ちゃんの?」
「うん。小学校の頃から何度か会ったことがあって」
男子生徒は大喜の方を見る。
「花恋から聞いてる。ちーの幼馴染で、バドミントン強いやつが来るって」
大喜は少し驚いたが、すぐに姿勢を正した。
「猪股大喜です」
男子生徒はラケットバッグを下ろす。
「針生健吾、二年だ」
その名前に、大喜は反応した。
針生健吾。
県大会でも名前を聞いたことがある。栄明中の一つ上の先輩で、すでに県内ではかなり知られた選手だった。
大喜は改めて頭を下げた。
「よろしくお願いします」
針生は口の端を少し上げる。
「小学全国優勝、U-13日本代表。話は聞いてる」
大喜は少し身構えた。
だが、針生は持ち上げるような声では続けなかった。
「でも、ここでは関係ないからな」
大喜は顔を上げる。
「え?」
「全国優勝してようが、代表行ってようが、俺からしたら新入りの一年。練習では普通にしごく」
その言い方はきつい。
けれど、見下しているわけではなかった。
千夏は少し心配そうに大喜を見る。大喜が嫌な気持ちになりはしないかと思ったからだ。
でも、大喜はむしろ嬉しそうだった。
強い先輩が、自分を特別扱いせずに見ている。
持ち上げるのでも、遠巻きにするのでもなく、同じコートで相手をしてくれようとしている。
「お願いします」
大喜はまっすぐに答えた。
針生はわずかに目を細める。
「じゃあ、まずアップ。遅れたら置いてく」
「はい」
大喜はすぐに動き出した。
針生のアップは速かった。フットワークは細かく、切り返しも鋭い。一つ一つの動作に無駄が少なく、軽く流しているように見えるのに、ついていくとすぐに足が重くなる。
大喜は必死に食らいついた。
韓国遠征で強い相手と打ってきたばかりだった。それでも、栄明の先輩の動きには、また違う速さがあった。
針生は振り返らずに言う。
「遅い」
「はい」
「返事はいいから足出せ」
「はい」
「だから返事じゃなくて足」
大喜は息を切らしながら、それでも笑っていた。
きついけど、楽しい。
千夏はバスケコートからその様子を目で追っていた。
大喜が、また新しい場所に入っていく。
少し前まで、自分の知らない韓国の話をしていた大喜が、今度は自分と同じ学校の体育館で、強い先輩に食らいついている。
その背中を見て、千夏もボールを握り直した。
自分も負けていられない。
千夏がシュートを打つ。
ボールはリングに当たり、ネットを通った。
しばらくして、針生は休憩を入れた。タオルで軽く汗を押さえながら、バスケコートの方をちらりと見る。
「ちーとは長いのか?」
大喜は肩で息をしながら答えた。
「はい。幼馴染です」
「ちーちゃんって呼んでたな」
大喜は一瞬固まる。
「……昔からです」
「別に悪いとは言ってねえよ」
針生は軽く笑った。
「ただ、学校で呼ぶと目立つぞ」
大喜は少し考えた。
「そうですか?」
「そりゃそうだろ」
針生の言葉に、大喜は初めて少し困った顔をした。
千夏は遠くからそのやり取りを見て、なんとなく内容を察した。
自分を「ちーちゃん」と呼ぶ大喜。
その呼び方は昔から当たり前だった。家でも、公園でも、体育館でも。大喜がそう呼べば、千夏はいつも振り返ってきた。
学校の中では少し特別に聞こえるのかもしれない。
千夏は照れくさかった。
けれど、嫌ではなかった。
朝練の時間が終わる頃、体育館には少しずつ他の部員たちの声も増え始めた。
女子バスケ部の部員が数人入ってきて、その後に夢佳もやって来る。夢佳は千夏を見つけると、すぐに目を細めた。
「ナツ、それ、最近よくつけてるやつだよね」
千夏はかすかに髪に触れる。
「うん。練習の時、髪が落ちてこなくて使いやすいから」
「へえ」
夢佳はバドミントンコートの方をちらりと見る。
ちょうど大喜が針生に何か言われて、慌ててフットワークをやり直しているところだった。
「それ、もらったやつだったんだ」
千夏は一瞬、言葉に詰まる。
「……聞いてたの?」
「聞こえた。大喜、嬉しそうにしてたし」
「韓国のお土産だって」
「お土産で、朝練に毎回つけるくらい気に入ってるんだ」
「夢佳」
夢佳は楽しそうに笑った。
花恋がいたら、もっとからかわれていたかもしれない。そう思って、千夏はほんの少し苦笑した。
でも、夢佳の声には嫌な感じはなかった。
夢佳は昔から、千夏が大喜を見る目に気づいているところがあった。面白がることはあっても、それを雑に扱う子ではない。だから千夏も、少し照れるだけで済んだ。
その頃、大喜は針生とのアップを終え、肩で息をしていた。
針生はタオルを首にかけながら言う。
「まあ、初日にしては悪くない」
「ありがとうございます」
「褒めてねえぞ」
「今のは褒めてると思いました」
「調子乗るな」
針生はそう言いながらも、ふっと笑っていた。
大喜はラケットを握る手に力を込める。
栄明中の朝練は、想像していたよりきつかった。
けれど、想像していた以上に楽しかった。
強い先輩がいる。
ちーちゃんが隣のコートにいる。
これから毎朝、この体育館で練習できる。
その事実だけで、大喜は胸が高鳴った。
朝練の終わりが近づくと、千夏はヘアピンを外した。髪を整え、ポーチの中へそっとしまう。これから始まる部活の練習ではつけない。失くしたくないし、動きの中で危ないかもしれないからだ。
大喜はその様子を遠くから見ていたわけではなかった。
けれど、朝の光を受けてヘアピンをつけていた千夏の姿だけは、はっきり残っていた。
体育館の入り口で、二人はわずかに並んだ。
「大喜くん、大丈夫?」
「うん。針生先輩、強い」
「大変そうだったね」
「でも楽しいよ」
大喜は迷わず言った。
千夏はその顔を見て、少し安心する。
「そっか」
「ちーちゃんも、朝からすごい打ってたね」
「まだ全然だよ」
「でも、たくさん入ってたじゃん」
「見てたの?」
「ちょっとだけ」
大喜はそこで少し視線を泳がせた。
それから、思い出したように言う。
「あと、朝つけてくれてたヘアピン」
「え?」
「似合ってたよ」
千夏は一瞬、言葉をなくした。
もう髪にはつけていないのに。
大喜が朝の姿を覚えていてくれたことが分かったからだった。
「……ありがとう」
千夏はかすかに髪の横に触れ、それから照れたように笑った。
「でも、部活の時は外すよ。失くしたくないし、危ないから」
大喜は頷く。
「大事にしてくれてるんだなって思った」
その一言に、千夏はまた視線を少し落とした。
「……お土産だからね」
それ以上、二人は言葉を重ねなかった。
大喜は照れを隠しきれず、千夏もポーチの中にしまったヘアピンの存在を、指先の近くで意識していた。
やがて、体育館には本格的な練習の声が増えていく。
バスケットボールが床を叩く音。
シャトルをラケットが捉える音。
先輩たちの声。
シューズが止まる音。
中学生になって、二人の毎日はまた形を変えていく。
同じ学校。
同じ体育館。
けれど、立つコートは別々だった。
その朝、大喜は栄明中で初めて、強い先輩に出会った。
千夏は、隣のコートへ戻ってきた大喜を目で追った。
そして二人は、それぞれの場所から、また次の一本へ向かった。