Another Childhood   作:やまうぇ

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中学生編の開始です


第9話 朝練の始まり

春の朝には、まだ冬の名残がかすかに残っていた。

 

大喜はラケットバッグの肩紐をかけ直し、栄明中の校舎へ続く道を歩いていた。

制服の襟は硬く、靴もまだ足に馴染みきっていない。

 

栄明中学校。

一年前から、千夏が通っている学校だった。

 

バドミントンの強い学校だということは、前から知っていた。顧問からは、入学前でも朝の時間なら体育館を使っていいと言われている。

栄明の練習環境は、これまでとは違う。ここには、自分より先を走る強い先輩がいる。

 

それは楽しみだった。

でも、それだけではなかった。

 

ちーちゃんがいる学校。

その事実が、大喜の呼吸を、朝の空気よりもわずかに熱くしていた。

千夏はもう一年、ここで過ごしている。女子バスケ部で、夢佳と一緒に厳しい練習の中を走っていることも聞いていた。

まだレギュラーには届いていないけれど、毎日朝から体育館へ行っていることも、練習に没頭して帰りが遅くなる日があることも、大喜は知っている。

 

自分も、そこに入っていく。

同じ学校で、もう一度、同じ体育館に立つ。

そう考えるだけで、足取りは自然と速くなった。

 

入学式はまだこれからだった。正式な部活動の開始も放課後からだ。

けれど、大喜は顧問から許可をもらっていたことを、千夏には言わなかった。

内緒にして、朝の体育館へ行ってみたかった。

 

きっと、ちーちゃんはいる。

そう思っていたし、そうであってほしいとも思っていた。

 

校舎の中は静かだった。普段なら生徒の声で満ちるはずの廊下も、今はまだ朝の光だけが薄く差し込んでいる。

大喜は体育館へ向かう廊下を抜け、扉の前で足を止めた。

 

中から、音がした。

 

ボールが床を叩く音。

シューズが床を擦る音。

息を吸って、少し間を置いて、またボールが跳ねる音。

 

大喜は思わず笑った。

やっぱりいた。

 

扉をほんの少し開けると、朝の体育館に千夏がいた。

誰もいないバスケコートで、一人、シュートを打っている。髪は後ろでまとめられていて、その横に小さなヘアピンが留まっていた。

見覚えのあるヘアピンだった。

 

韓国遠征のお土産として、大喜が選んだもの。

 

大喜は一瞬、声をかけるのを忘れた。

千夏が、そのヘアピンを使ってくれている。

 

ただそれだけのことなのに、胸の内側がふわっと温かくなる。

遠征先で、いくつも並んだ店の中で、どれなら千夏に似合うだろうと迷った時間が、急に近く戻ってきた。

 

千夏はそんな大喜に気づかないまま、ボールを構えた。

ボールが弧を描く。

リングに当たり、外れる。

 

千夏はすぐにボールを追った。拾って、また同じ場所へ戻る。小学生の頃より、フォームはずっときれいになっていた。

身体も伸びて、走り方も変わっている。けれど、外してもすぐ拾いに行くところは、昔から変わらない。

 

大喜にとって、体育館の千夏はずっと特別だった。

家で話す千夏とも、公園で手を引いてくれた千夏とも違う。汗をかいて、悔しそうにして、それでももう一本へ向かう人。

 

大喜はしばらくその背中を目で追っていた。

それから、わずかにいたずらを思いつく。

静かに中へ入り、足音を立てないように近づく。千夏が次のボールを構えた、その瞬間だった。

 

「おはよう、ちーちゃん」

 

千夏の手元が、分かりやすく狂った。

放たれたボールはリングにも当たらず、横へそれて床を跳ねる。

千夏は驚いて振り返った。

 

「大喜くん!?」

 

大喜は思わず笑った。

 

「びっくりした?」

「するよ。なんでいるの?」

「朝練」

「今日、これから入学式だよね?」

「体育館、使っていいって言われたから」

 

千夏は少し呆れたように、大喜を見る。

 

「それ、私に言ってなかった」

「内緒にしてた」

「なんで?」

「驚かせようと思って」

 

千夏は少しむっとした顔をした。けれど、大喜があまりに嬉しそうなので、すぐに怒る気がなくなった。

 

「もう」

 

そう言いながら、千夏は転がったボールを拾いに行く。

大喜はその背中を見てから、もう一度千夏の髪に視線を向けた。

 

「それ」

「え?」

「ヘアピン」

 

千夏は一瞬きょとんとしてから、自分の髪に触れた。

 

「あ、これ?」

「使ってくれてるんだ」

「うん。練習の時、髪が落ちてこなくて使いやすいから」

「そっか」

 

大喜はそれだけ言って、嬉しそうに目をそらした。

千夏はその反応を見て、少し恥ずかしくなる。

 

本当は、使いやすいからだけではなかった。

韓国で大喜が選んでくれたものだから。

遠くの場所で、自分のことを思い出してくれたものだから。

朝練でつけると、かすかに頑張れるように感じた。

 

けれど、それをそのまま言うのは照れくさかった。

 

「大喜くんこそ、朝から張り切ってるね」

「せっかく使えるなら、打ちたいし」

「大喜くんらしい」

 

千夏が笑うと、大喜も照れを隠すように笑った。

大喜はラケットバッグをバドミントンコートの端に置き、ネットの準備を始めた。まだ誰もいない体育館で、ポールを立て、ネットを張っていく。その動きは慣れている。けれど、栄明中の体育館でそれをするのは初めてだった。

 

千夏はボールを持ったまま、その様子を少し目で追っていた。

 

一年前、自分は先に栄明へ来た。

夢佳と一緒に、強い先輩たちの中で必死に走ってきた。最初から試合に出られたわけではない。コートの外で見ている時間も多かった。それでも毎日、少しずつここで前へ進んできた。

 

大喜はその間、小学生の全国大会で優勝し、韓国遠征にも行った。

 

それぞれ違う場所で前へ進んできた。

そして今、また同じ体育館にいる。

 

大喜がシャトルを取り出し、軽くラケットで打ち上げる。白いシャトルが朝の光の中で小さく跳ねた。

千夏はそれを見て、懐かしいような、新しいような気持ちになる。

 

「大喜くん」

「何?」

「栄明へようこそ」

 

大喜は照れを隠すように笑った。

 

「よろしくお願いします、千夏先輩」

 

千夏は思わず笑う。

 

「先輩って言い方、変」

「じゃあ、ちーちゃん先輩」

「もっと変」

 

二人の笑い声が、まだ人の少ない体育館に小さく響いた。

 

その後、二人はそれぞれの練習に入った。

千夏はバスケコートでシュートを打ち、大喜はバドミントンコートでフットワークを始める。互いに相手の練習へ口を出すわけではない。バスケとバドミントンでは使う身体も、見る場所も、音も違う。

けれど、同じ空間にいるだけで、朝の体育館の空気が少し違って感じられた。

 

大喜はフットワークの合間、ふとバスケコートを見る。

千夏は何本もシュートを打っていた。外れても拾い、また構える。ヘアピンが朝の光をほんの少し受けている。

 

大喜はもう一度、目の前のコートへ向き直った。

自分も頑張ろうと思った。

 

千夏も、大喜の足音を聞きながらボールを構える。

大喜が隣のコートにいる。

それだけで、もう一本打とうと思えた。

 

しばらくすると、体育館の扉が開いた。

入ってきたのは、少し背の高い男子生徒だった。ラケットバッグを肩にかけ、眠そうな顔をしている。けれど、目だけははっきりしていた。

 

千夏が先に気づく。

 

「おはよう、針生君」

 

男子生徒は千夏を見ると、軽く手を上げた。

 

「おはよ、ちー」

 

大喜はその呼び方に、思わず千夏を見る。

 

「ちー?」

 

千夏はわずかに苦笑した。

 

「針生君、花恋の知り合いなんだよ」

「花恋ちゃんの?」

「うん。小学校の頃から何度か会ったことがあって」

 

男子生徒は大喜の方を見る。

 

「花恋から聞いてる。ちーの幼馴染で、バドミントン強いやつが来るって」

 

大喜は少し驚いたが、すぐに姿勢を正した。

 

「猪股大喜です」

 

男子生徒はラケットバッグを下ろす。

 

「針生健吾、二年だ」

 

その名前に、大喜は反応した。

 

針生健吾。

 

県大会でも名前を聞いたことがある。栄明中の一つ上の先輩で、すでに県内ではかなり知られた選手だった。

大喜は改めて頭を下げた。

 

「よろしくお願いします」

 

針生は口の端を少し上げる。

 

「小学全国優勝、U-13日本代表。話は聞いてる」

 

大喜は少し身構えた。

だが、針生は持ち上げるような声では続けなかった。

 

「でも、ここでは関係ないからな」

 

大喜は顔を上げる。

 

「え?」

「全国優勝してようが、代表行ってようが、俺からしたら新入りの一年。練習では普通にしごく」

 

その言い方はきつい。

けれど、見下しているわけではなかった。

 

千夏は少し心配そうに大喜を見る。大喜が嫌な気持ちになりはしないかと思ったからだ。

でも、大喜はむしろ嬉しそうだった。

 

強い先輩が、自分を特別扱いせずに見ている。

持ち上げるのでも、遠巻きにするのでもなく、同じコートで相手をしてくれようとしている。

 

「お願いします」

 

大喜はまっすぐに答えた。

針生はわずかに目を細める。

 

「じゃあ、まずアップ。遅れたら置いてく」

「はい」

 

大喜はすぐに動き出した。

 

針生のアップは速かった。フットワークは細かく、切り返しも鋭い。一つ一つの動作に無駄が少なく、軽く流しているように見えるのに、ついていくとすぐに足が重くなる。

 

大喜は必死に食らいついた。

韓国遠征で強い相手と打ってきたばかりだった。それでも、栄明の先輩の動きには、また違う速さがあった。

 

針生は振り返らずに言う。

 

「遅い」

「はい」

「返事はいいから足出せ」

「はい」

「だから返事じゃなくて足」

 

大喜は息を切らしながら、それでも笑っていた。

きついけど、楽しい。

 

千夏はバスケコートからその様子を目で追っていた。

大喜が、また新しい場所に入っていく。

少し前まで、自分の知らない韓国の話をしていた大喜が、今度は自分と同じ学校の体育館で、強い先輩に食らいついている。

 

その背中を見て、千夏もボールを握り直した。

自分も負けていられない。

千夏がシュートを打つ。

ボールはリングに当たり、ネットを通った。

 

しばらくして、針生は休憩を入れた。タオルで軽く汗を押さえながら、バスケコートの方をちらりと見る。

 

「ちーとは長いのか?」

 

大喜は肩で息をしながら答えた。

 

「はい。幼馴染です」

「ちーちゃんって呼んでたな」

 

大喜は一瞬固まる。

 

「……昔からです」

「別に悪いとは言ってねえよ」

 

針生は軽く笑った。

 

「ただ、学校で呼ぶと目立つぞ」

 

大喜は少し考えた。

 

「そうですか?」

「そりゃそうだろ」

 

針生の言葉に、大喜は初めて少し困った顔をした。

千夏は遠くからそのやり取りを見て、なんとなく内容を察した。

 

自分を「ちーちゃん」と呼ぶ大喜。

その呼び方は昔から当たり前だった。家でも、公園でも、体育館でも。大喜がそう呼べば、千夏はいつも振り返ってきた。

 

学校の中では少し特別に聞こえるのかもしれない。

千夏は照れくさかった。

けれど、嫌ではなかった。

 

朝練の時間が終わる頃、体育館には少しずつ他の部員たちの声も増え始めた。

女子バスケ部の部員が数人入ってきて、その後に夢佳もやって来る。夢佳は千夏を見つけると、すぐに目を細めた。

 

「ナツ、それ、最近よくつけてるやつだよね」

 

千夏はかすかに髪に触れる。

 

「うん。練習の時、髪が落ちてこなくて使いやすいから」

「へえ」

 

夢佳はバドミントンコートの方をちらりと見る。

ちょうど大喜が針生に何か言われて、慌ててフットワークをやり直しているところだった。

 

「それ、もらったやつだったんだ」

 

千夏は一瞬、言葉に詰まる。

 

「……聞いてたの?」

「聞こえた。大喜、嬉しそうにしてたし」

「韓国のお土産だって」

「お土産で、朝練に毎回つけるくらい気に入ってるんだ」

「夢佳」

 

夢佳は楽しそうに笑った。

花恋がいたら、もっとからかわれていたかもしれない。そう思って、千夏はほんの少し苦笑した。

でも、夢佳の声には嫌な感じはなかった。

 

夢佳は昔から、千夏が大喜を見る目に気づいているところがあった。面白がることはあっても、それを雑に扱う子ではない。だから千夏も、少し照れるだけで済んだ。

 

その頃、大喜は針生とのアップを終え、肩で息をしていた。

針生はタオルを首にかけながら言う。

 

「まあ、初日にしては悪くない」

「ありがとうございます」

「褒めてねえぞ」

「今のは褒めてると思いました」

「調子乗るな」

 

針生はそう言いながらも、ふっと笑っていた。

大喜はラケットを握る手に力を込める。

 

栄明中の朝練は、想像していたよりきつかった。

けれど、想像していた以上に楽しかった。

 

強い先輩がいる。

ちーちゃんが隣のコートにいる。

これから毎朝、この体育館で練習できる。

 

その事実だけで、大喜は胸が高鳴った。

朝練の終わりが近づくと、千夏はヘアピンを外した。髪を整え、ポーチの中へそっとしまう。これから始まる部活の練習ではつけない。失くしたくないし、動きの中で危ないかもしれないからだ。

 

大喜はその様子を遠くから見ていたわけではなかった。

けれど、朝の光を受けてヘアピンをつけていた千夏の姿だけは、はっきり残っていた。

 

体育館の入り口で、二人はわずかに並んだ。

 

「大喜くん、大丈夫?」

「うん。針生先輩、強い」

「大変そうだったね」

「でも楽しいよ」

 

大喜は迷わず言った。

千夏はその顔を見て、少し安心する。

 

「そっか」

「ちーちゃんも、朝からすごい打ってたね」

「まだ全然だよ」

「でも、たくさん入ってたじゃん」

「見てたの?」

「ちょっとだけ」

 

大喜はそこで少し視線を泳がせた。

それから、思い出したように言う。

 

「あと、朝つけてくれてたヘアピン」

「え?」

「似合ってたよ」

 

千夏は一瞬、言葉をなくした。

もう髪にはつけていないのに。

大喜が朝の姿を覚えていてくれたことが分かったからだった。

 

「……ありがとう」

 

千夏はかすかに髪の横に触れ、それから照れたように笑った。

 

「でも、部活の時は外すよ。失くしたくないし、危ないから」

 

大喜は頷く。

 

「大事にしてくれてるんだなって思った」

 

その一言に、千夏はまた視線を少し落とした。

 

「……お土産だからね」

 

それ以上、二人は言葉を重ねなかった。

大喜は照れを隠しきれず、千夏もポーチの中にしまったヘアピンの存在を、指先の近くで意識していた。

やがて、体育館には本格的な練習の声が増えていく。

 

バスケットボールが床を叩く音。

シャトルをラケットが捉える音。

先輩たちの声。

シューズが止まる音。

 

中学生になって、二人の毎日はまた形を変えていく。

 

同じ学校。

同じ体育館。

けれど、立つコートは別々だった。

 

その朝、大喜は栄明中で初めて、強い先輩に出会った。

千夏は、隣のコートへ戻ってきた大喜を目で追った。

 

そして二人は、それぞれの場所から、また次の一本へ向かった。

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