国家公安対魔庁東京本部庁舎——その一室で、一人の女が窓の外を眺めて立っている。外から差し込む夕焼けが、その姿を赤く照らす。女は三つ編みにした長い黒髪を指先でくるくるともてあそびながら、部屋に一つしかないエグゼクティブデスクに向かう。そのまま椅子を引いてドカッと座り、両肘を机につく。組んだ手の甲の上に、およそ重役室に似つかわしくない若々しい顔を乗せると、何かを待つように扉の方を見つめる。少し待つと、コンコンとノックの音がした。
「どうぞ」
女が返事をすると、その声に被るくらいの早さで扉が空いた。ノックの主は、金髪に近い明るい色の髪をボサボサに伸ばした男だ。顎には無精髭を蓄え、その右眼は眼帯で塞がれている。男は扉を閉めると、ずかずかと女の座る机の前まで歩く。肘をついたままの女を見下ろし、ぶっきらぼうに尋ねる。
「何の御用でしょうか」
敬語を使っているが、その声に敬意は籠っておらず、溜息が混じっている。女は眉をハの字に寄せながら、同心円を描く不思議な模様の虹彩で男を見つめる。
「そんなあからさまに面倒くさそうにしないでよ、傷つくなあ」
「これから帰るって時に呼び出されて遅くならなかった試しがねぇ」
男は目線を窓の外の夕焼けに向け、女は正面の壁にある時計を見上げる。空の色も時計の針も、まもなく定時を迎えることを示している。
「定時退社したがるデビルハンターなんてほとんどいないよ。もう十年も経つのに愛妻家だねえ」
「みんな内閣府直属デビルハンター様の
男の言葉を聞くと、女は子供のように頬を膨らませる。
「別に言ってくれてもいいのに。風通しのいい職場を目指してるんだけど」
「言ったところでどうにもならねぇだろ。それで、今日はどこに悪魔が出たんだ?オレを呼び出したってことは厄介な奴なんだろ」
男は女の不平を流すと、仕事のことに話を切り替える。遅い時間に呼び出された時は大概、出現した悪魔に対する緊急の出動依頼だ。故に、私用や家庭があっても仕事を優先しなければならない。ならばさっさと済まそうと、男の眼は既に狩人のそれになっている。女はその様子を見ると、リラックスして背もたれに体重を預けながら答える。
「今日は悪魔じゃないし、時間も遅くならないと思うよ。来客の対応をして欲しいんだ」
「来客——?」
男は女の空気に引きつられ、肩の力が抜ける。眉を顰める男を前に、女は言葉を続ける。
「ロシアからデビルハンターが来て、私に会いたいって」
「要件は?」
「まだ聞いてない。けど、私が出ていくわけにはいかなくて」
「そりゃあ、敵国のデビルハンターの前に支配の悪魔をノコノコ出せねぇもんな」
支配の悪魔——男は顎髭を撫でながらそう言った。悪魔を殺すための組織の重役に、悪魔が就いている。それが日本の公安の歪な実態である。男はそれを知る数少ない一人だ。男はまた溜息をつきながら、腰に手を当てて言う。
「つまり……代理ってことか」
「そう、私の代わりにもてなして要件を聞いてきて」
「応接室か?」
「第二応接室ね。来客は二人。一人は通訳だって。私も様子は聞いてるから、よろしく。護衛はつけてね」
「あいよ」
男は振り向き、ボサボサの髪をかきむしりながら出ていった。扉が閉まると、女はまた立ち上がり窓の外を見る。胸に手を当て、空の色が昏く移り変わる様子を眺めていた。
◇ ◇ ◇
男は第二応接室に辿り着くと、扉をノックする。後ろには、長いブロンドヘアーを靡かせる、少女のように若い女を引き連れている。一見すると歳の離れた妹のようだが、その頭に生えた大きな赤いツノが異様さを醸し出している。部屋の中からは返事がないので、そのまま扉を引いた。
部屋の中央にある机を挟んで対面するソファーに、一人の女が座っていた。その女は紫がかった長い髪を下ろしており、透き通った白い肌をしている。仕事着のスーツを着込んでいるというのに、隠しきれない大人の色香を漂わせている。口元は笑みを浮かべているが、翡翠色の瞳は無表情に眼帯の男を見つめる。吸い込まれるように、その瞳を見入ってしまう。女にばかり気を取られていると、ソファーの後ろに立つ灰色の髪をした大柄な男の発見が遅れた。この初老の男が通訳であろうことが分かると、眼帯の男は思い出したように口を開く。
「あなた方がロシアから来られたデビルハンターですね。日本まで遠路はるばるようこそ」
眼帯の男がそう言うと、向かい合う大柄な男が眉を顰めて言葉を返す。
「内閣府直属のデビルハンター様との面会を希望していたのですが……実権は彼女でしょう?」
「内閣府付きは生憎別件で立て込んでおりまして。代理権限のある一課隊長の私が対応します。ご容赦ください」
「はぁ……日程は前もって伝えていたはずなのですが」
大柄な男が大きく溜息をつきながらそう言うと、翡翠の眼をした女に向かってロシア語で何かを話す。眼帯の男の伝えたことを通訳しているのだろう。女は表情を変えないまま、こくりと無言で頷いた。
「お話の前に。コーヒーか紅茶、どちらがお好みですか」
眼帯の男が問うと、通訳が女にそれを伝える。女が答えると、通訳がまた三鷹に向かって言う。
「彼女にはコーヒーを。私のぶんはお気になさらず」
「分かりました。淹れてきますので少々お待ちください」
眼帯の男は赤いツノの女を引き連れて部屋を後にする。残された翡翠の眼の女と通訳の男が、母国の言葉で会話する。
「どう思われますか、中将?」
「警戒されてるね。あの魔女も、別件なんて嘘でしょ。どうせどこかで盗み見してる」
「連れて来させるよう交渉しますか?」
「まずは彼と話してみよう。私達は目的を果たせればそれでいい」
「かしこまりました」
「そういえばあの男、どこかで……」
「一課隊長ということは、キシベの後釜ですね。何か情報をお持ちですか?」
「……ううん、気のせい」
女は言葉を濁すと、扉の方を見つめて眼帯の男達を待った。
給湯室では、眼帯の男がケトルに沸いたお湯を二つのカップへと注いでいる。一つはコーヒーのドリップバッグが、一つは紅茶のティーバッグがセットされている。コーヒーの抽出が終わると、バッグを取り外して捨てる。現れたコーヒーの水面を、眼帯の男はじっと見つめている。
「おい、何をボケっとしているんじゃ?淹れ終わったならいくぞ」
赤いツノの女の声にハッとする。慌てて二つのカップを盆に乗せて応接室へと向かう。普段淹れることのないはずのコーヒーの匂いに、不思議と安心感を覚えた。
部屋に戻ると、眼帯の男はコーヒーを女の前に置き、対面のソファーに紅茶を持って座る。赤いツノの女はソファーの後ろに背筋を伸ばして立つ。眼帯の男は紅茶を一口飲んでからカップを置き、翡翠色の瞳を見て口を開いた。
「改めまして、国家公安対魔庁特異一課、隊長の三鷹と申します。まずはご所属とお名前をお伺いしても?」
眼帯の男——三鷹が名乗ると、通訳の男が自分達の紹介をする。
「我々はFSB——連邦保安庁所属のデビルハンターです。こちらはジャンナ・クズネツォヴァ中将。私は補佐役兼通訳のアレクサンドル・ソコロフです」
「はじめまして、ミス……クズねっつ、つ……」
女の名前を呼ぼうとして舌を噛む三鷹。その様子を見た女が通訳を通して言う。
「“日本人には言いにくいでしょう。ジャンナとお呼びください、ミスター・ミタカ。それにしても、その若さで隊長とは恐れ入ります”」
「では、ジャンナさんと。そんなに若くないですよ。今年で三十六になります」
三鷹の返答を、通訳の男——ソコロフがまたロシア語に訳して翡翠の眼の女——ジャンナに伝える。ジャンナは目を丸くすると、ソコロフを通して言葉を伝える。
「“驚きました、私と同い年ですね。てっきり二十代かと思いました。やはり日本人は若く見えますね”」
「……褒められてんのか貶されてんのか分かりませんな」
三鷹が苦々しく反応すると、ソコロフはそれを訳さず、自らの言葉で返す。
「ジャンナの言葉に悪意は無いですよ。褒めております。それから……そちらのお嬢さんのお名前は?」
「こちらはパワー。私の契約悪魔である血の魔人です。失礼ですが丸腰というわけにもいかず。ご容赦を」
三鷹からの紹介が終わると、ソコロフはまた自分の言葉を続ける。
「なるほど、魔人でしたか。日本の公安は子供を駆り出すほど人手不足なのかと思いましたよ。護衛は魔人一人で充分とお考えで?」
その言葉を受け、赤いツノの女——パワーはキッと通訳を睨みつける。後ろに組んでいた手を下ろし、掌に力を入れて構える。三鷹は片手を横に広げ、制止しながら言う。
「抑えろ、パワー。客人の前なのでこうさせていますがね、実は主従関係は逆なんですよ。彼女を怒らせたら私では止めきれませんので、あまり刺激しないでください」
「主従関係が逆とは……?日本の公安は悪魔に使われているのですか?」
「サーシャ」
三鷹とソコロフの会話の間に、ジャンナが割って入った。サーシャ——アレクサンドルの愛称だ。親しい間で使われる呼び名だが、その声には静かな怒気が篭っている。ソコロフは額に汗を浮かべながら、背筋を伸ばして三鷹の方へと向き直る。
「……失礼しました、出過ぎた真似を」
「いえ。それで、ご用件は?」
三鷹はソコロフからの謝罪を受け、本題へと話題を移す。頭の中ではジャンナの鋭い声が気になっているが、ソコロフの話に耳を傾ける。
「私達は祖国に大きな被害を出した悪魔を追って日本に来ました。日本での滞在とデビルハントを許可していただきたい」
「悪魔による大被害?ニュースには目を通しているつもりですが、ロシアでそのような事件があったのは知りませんでした。それと、そんな危険な悪魔が日本に?」
「知らないのも無理はありません。申し上げにくいのですが……このような失態を晒すわけにはいかず、我が国は情報を秘匿しています」
「ハァ!?お宅の国の都合で隠し事してたら日本に来たってぇのか?日本に被害が出たらどうしてくれるんだよ!!」
三鷹は声を荒げてソコロフに詰め寄った。ソコロフは通訳に過ぎないことを思い出し、今度はジャンナの方を睨みつける。ジャンナの表情が暗くなり、俯いた。ソコロフが庇うように三鷹へ話し続ける。
「それに関しては申し訳ないとしか言いようがありません。日本での被害を抑えるためにも我々が来たこと、どうか理解いただきたい」
「チッ!……過ぎちまったことはどうしようもねぇか。要は、秘密にしたいからお宅の手で処理したいってことですね。それで、どんな悪魔なんです?」
三鷹は姿勢を崩し、脚を広げその膝の上に頬杖をつく。怒りを隠さないまま、ソコロフの説明を聞く。
「ご理解感謝します。戦車の悪魔——銃の悪魔に匹敵する悪魔です。だから内閣府付きのデビルハンターにお力をお借りしたかったのですが……彼女は銃の悪魔を飼っているとのお噂を伺っておりますので」
「……そんな眉唾モンの噂信じるもんじゃありませんよ。それに、お宅の後始末にうちのトップの力を借りることが前提なんですか?」
「いえ、あれば心強かったですが……今、戦車の悪魔は弱っています。中将の実力であれば討伐できるとの見込みで参りました」
三鷹は頬杖をついたまま、目線をまたジャンナの方に向ける。強大な悪魔を倒せるという彼女の強さが気になって仕方がなくなるが、余計なことは聞かず必要な情報を集める。
「日本にいるということですが、どこにいるかは分かっているんですか?」
「衛星からの情報だと、秋田県の沖に」
「秋田か……」
三鷹は腕を組んで考え込む。ジャンナの方を見ると、真っ直ぐ見つめてくる翡翠の瞳にまた引き込まれそうになる。目を逸らすように天井を見上げて、しばらくした後に言った。
「分かりました。秋田の滞在と悪魔討伐を許可します。ただし条件が二つ。一つは、我々公安から監視役が同行すること。もう一つは、討伐した悪魔の死体は血の一滴に至るまで日本の所有物であり、ロシアへ持ち帰らないこと」
三鷹の返答を、ソコロフがロシア語でジャンナに伝える。今度はジャンナが腕を組み、目を瞑り眉をひそめて考え込む。しばらくして目を開けると、残ったコーヒーを飲み干してから通訳を通して返答を伝えた。
「“分かりました。条件は全て了承します”」
「決まりですね。いつ東京を発つか、予定はされていますか?」
三鷹の質問に、ソコロフが直接答える。
「戦車の悪魔は秋田沖から動く気配は見せていません。監視役をつけられるのであれば、準備をしていただき明日朝の出発でも問題ないかと」
「分かりました。それでは明日九時にまたこちらへお越しください。監視役と運転手を揃えておきます」
「助かります」
ソコロフが礼を言うと、ジャンナも頭を下げる。三鷹は扉を開け、二人に退室を促す。部屋を出る時のジャンナの流し目と視線が合う。続いてソコロフが出ると、三鷹はパワーに向かって言う。
「出口まで見送り頼めるか?」
「おう。任された」
パワーが先を歩き、ジャンナとソコロフが後に続く。三鷹は出口へと向かうその三人の背中を見送る。紫がかった長髪が靡く様を、見えなくなるまで眺めていた。
◇ ◇ ◇
内閣府直属デビルハンターの執務室に戻った三鷹は、三つ編みの女に報告をしている。窓の外はすっかり暗くなり、美しい東京の夜景が目に入る。
「あれで良かったよな、ナユタ?」
「うん、上出来。向こうの狙い通り秘密裏に処理できたら、日本が戦車の悪魔を独占できる……それにしても、私が銃の悪魔持ってるの、ロシアには割れてるのか……気をつけないと」
ナユタと呼ばれた女は窓際で夜景を眺めながら答えた。その背中に向かって、三鷹は再び問いかける。
「戦車の悪魔だってよ。アイツらと監視役だけで大丈夫かな」
「監視役には隊長級をつける。私もいざとなったらすぐ行けるようにしておくよ。いよいよヤバかったら最終手段で自衛隊も使う。他国にバレちゃうけど、背に腹は変えられないし」
その言葉を聞き、三鷹は安堵した。表情が和らぐと、仕事の話を続ける。
「なぁ、監視役の件なんだけど……」
「ヒロフミとフミコのバディをつけようと思うんだけど、どうかな」
「うーん……アイツらなら問題ねえと思うけど、今回はオレに行かせてくれねぇか?」
窓の外を見ていたナユタが、目を見開いて三鷹の方を向く。膝を持ち上げ、ドシドシとわざとらしく足音を立てながら、身体がくっつきそうになるまで三鷹に近づく。三鷹の胸元からその顔を見上げて、棘のある声で問いかける。
「なんで?普段は出張なんて嫌がる家族思いのパパが、一体どうしたの?」
「どうしたって訳でもねえけど……」
「そういえばあの女の顔ジロジロ見てたよねえ、何?浮気?」
「そうじゃねぇって……なんか、どっかで会ったことがある気がするんだよ。あの女」
返答を聞くと、ナユタは三鷹の胸を撫で下ろしながら離れる。机の向こう側に回り込むと、椅子に座ってガラガラと転がし、脚を組む。
「私と一緒に暮らしてたりした……夢の中の記憶?」
「分かんねぇ。けど、そんな気がする」
どこかで会ったことがある——そんな感覚は、かつて他でもないナユタに対しても覚えたことがあった。記憶と言うには朧げで、夢と言うには鮮明なその感覚は、出会ってから年を重ねるごとに強まっていた。
「昔の女だったらどうする?奥さんに言いつけちゃうよ」
「外国人と?そんなことあるかぁ?」
ナユタはくるりと椅子を回し、また窓の外を見る。ハアア〜と大きな溜息をつき、夜空に向かって言う。
「大事な記憶なんでしょ?黙っといてあげるよ」
「まだ分かんねえけどな……ありがとよ」
三鷹はそう言うと、振り返って扉の方へと歩く。ドアノブに手をかけ、背中を向けながら言う。
「じゃあ、行ってくるよ」
「……行ってらっしゃい。気をつけてね。戦車の悪魔だけじゃなく、あの女達にも」
「分かってるよ」
扉が閉まる。ナユタは窓の方を向きながら、背中で見送った。
「なんで私がこんなムカついてんだろ。意味わかんない」
一人の執務室に、小さな呟きが響いた。
(第二章 引力 につづく)