「あんの……バカ女ぁッ!!!」
爆風に弾き飛ばれたジャンナの身体が、力なく海へと落ちていく。三鷹は叫びながらパワーの方へ駆け寄る。
「パワー!オレをあそこまで吹っ飛ばせ!!」
「ああもう!悪魔使いが荒い!」
パワーは急造で巨大なハンマーを作り、構える。三鷹がその上に乗ると、パワーはブンッ!と思いっきりぶん回した。三鷹はジャンナの落下地点に向かって放物線を描きながら空中を飛んでいく。
バシャン!
ジャンナと三鷹は、ほとんど同時に着水した。三鷹は海に潜り、沈みゆくジャンナの手を掴む。必死に引っ張り上げ、その身体を抱える。がむしゃらに脚をバタつかせ、海面へ連れ出そうとする。その最中、ある光景が目に浮かんできた。
とある学校のプール。月明かりが照らす夜空の下、一糸纏わぬ裸の少女が目の前にいる。両手を広げ、微笑みながら自分に語りかける。
——デンジ君の知らない事、できない事……私が全部、教えてあげる
紫がかった髪色、吸い込まれそうになる翡翠色の瞳。年齢こそ十代くらいの少女だが、間違いなく今抱き抱えているジャンナその人だった。
「ぷはっ!」
なんとか水面へと脱出する。ジャンナの顔を水面に持ち上げながら泳ぎ続ける。
(オレ……泳ぎ方なんて、いつ、誰に教わったっけ……?)
泳ぎながら、何故かそんなことが気にかかる。考えれば考えるほど、先ほど目に浮かんだ夜のプールで裸のまま泳ぎの練習をした光景が頭をよぎる。三鷹——デンジはもう確信していた。ジャンナとは、会ったことがあるのだと。パワーやナユタもいた、あの不思議な夢の世界で——
あの裸の少女との思い出を必死に探る。もうすぐ浜に着くという時、昔通った寂れたカフェで、そこにいなかったはずのあの少女が笑う光景が脳裏に浮かんだ。
——私の名前、レゼ。キミは?
朧げな夢などではなく、昨日のことのように少女の姿と声がしっかりと焼き付いていた。
やっとのこと浜に着くと、デンジはジャンナを横たわらせて、肩を叩きながら呼びかける。
「
反応は無い。動けないソコロフが心配そうに見つめている。デンジはジャンナの胸に両手を当て、胸骨圧迫を始める。
「レゼ!逝くな!戻ってこい!レゼ!!」
呼吸が無い。頭を後ろに反らせ、気道を確保する。一瞬躊躇するが、彼女の口にしっかりと自分の口をつけ、息を深く吹き込む。口を離して様子を見る。
「どうだ!?……クソッ!!」
尚も反応が無い。もう一度胸骨圧迫をした後、また口を重ねる。一回目よりもしっかりと、何度も息を吹き込む。
「ケホッ!カハッ!ゲホッ!」
二回目の人工呼吸の最中、ジャンナはむせ返りながら意識を戻した。
「はああ〜良かった〜〜」
デンジはジャンナの隣にゴロンと仰向けに転がり、大きな溜息を吐いた。全身から一気に力が抜けていく。並んで寝転ぶ二人は、もう動けない。ジャンナ——デンジがレゼと呼んだその女は、眼帯が外れたデンジの顔を見つめて言う。
「ありがとう…………
「どういたしまし……オレ、下の名前、教えましたっけ?」
「聞いて無かったっけ?でもずっと、そう呼んでたような……」
「ずっとミスター・ミタカって言ってたじゃないですか。それと、急に日本語上手くなってません?」
「ええ?あれ……?言われてみると、確かに……どうしちゃったの、私?」
ジャンナの日本語は、デンジの言う通り流暢になっている。彼女自身、自分の変化に戸惑っている。デンジが追い打ちをかける。
「なんか、敬語もなくなってるし」
「ああっ!?す、すいません」
「いや、別に気にしてないです……この際そのままでいいよ、オレもタメ口きくから。同い年だろ?」
「うん……」
二人の間に、沈黙が訪れる。寄せては返す波の音に、時間の流れを任せる。しばらくして、ジャンナから語りかける。
「ねぇ、デンジ君。さっき私に……キスしてた?」
「……人工呼吸だよ」
「そっか……ありがとう。ごめんね、意識が朦朧としてたから……でもアレだけじゃなくて、キスしたこと……ある気がするの。やっぱり私たち、昔どこかで会っていたのかな」
「キスのことは、オレぁ思い出せねえけど……でも絶対に会ったことがあるって、もう確信してる。
「レゼって?私のこと?」
「ああごめん……夢の中のアンタがさ、そう名乗ってたから……」
デンジの言葉を受け、少し考え込むジャンナ。空を流れる雲を見つめながら、口を開く。
「信じるよ……私も、夢みたいなもの見てた。何故か私が日本にいて、カフェでデンジ君と話したり、お祭りに一緒に行ったり……言ったでしょ。デンジ君とも、盛り上がって恋をした夢を見たって」
ジャンナはそう言うと、頬を赤くしながらデンジの顔を見る。デンジもつられて少し紅潮したのを見ると、言葉を続ける。
「それに、さっき死にかけてた時……また違う夢を見てたの。一緒に、プールにいる夢」
「それ、オレもさっき、泳ぎながら見てた」
「……ねぇ、私、どんなカッコしてた……?」
「……秘密」
「エッチ」
「えええ〜オレ悪くねえだろ」
「あははは!」
ジャンナは涙を流しながら笑う。笑いが収まると、独り言のように呟く。
「でも、ホントに私、日本で何してたんだろう?レゼって名前だったの?そもそも日本人だったのかな?」
「見た目は一緒だったし、レゼなんて名前、日本じゃ聞かねえぜ」
「ロシアでも聞いたことないよ……もしかして、偽名?」
「FSBって、スパイもやってるんだっけ」
「007みたいなロマンス、したのかな?デンジ君は、さながらジェームズ・ボンド?」
「じゃあ、アンタはタチアナか」
砂浜に寝転びながら、見つめ合う二人。間は少し空いていて、手を伸ばしても届かない。身体が動かなくなってしまっていることが、好都合だと思った。
「あやつの治療、終わったぞ。まだ暫く動けんじゃろうが、もう大丈夫じゃろう。念のため病院には連れて行け」
気づけば、パワーが近くまで歩いてきていた。ソコロフの容体を伝えると、デンジのすぐ隣にしゃがみ込む。空を見上げるデンジの顔を覗き込むその目は、キラキラと輝いていた。
「デンジ!戦車の悪魔の血、飲んでいいか!?」
「ああ、いいぜ」
「よっしゃあ!さっきはシャワーみたいで上手く飲めんかったからのぉ!」
伸び上がって喜ぶパワー。その様子を見ていたジャンナが、デンジの顔を見ながら言う。
「私も、ちょっと欲しいなあ……身体の一部分、ちょっとだけでいいから」
「ダメだって言ったろ。諦めが
「ケチ」
ジャンナが口を尖らせて不平を言う。手足をバタつかせようとするが、動かない。パワーが寝転がる二人に背を向け、戦車の悪魔の
ギギギギギギギギギギギ……
「オイ……嘘だろ」
「まだ……生きて……」
「ウヌら、動けるか?」
「ムリ……」
「私、指一本も動かせない……」
苦し紛れに立ち上がった怪物の討伐が、パワーの双肩に掛かる。ヨシ、と呟いたと同時に戦車の悪魔に背中を向けたパワーの足首を、デンジが残る力を振り絞って掴む。
「……逃げんな」
「嫌じゃあ!」
「あと少しだって!ホラ、頭ァ吹き飛んで大砲も無くなってるぜ!」
「頭が無くなっても起き上がってきてるじゃないか!どうすりゃ死ぬんじゃ!」
デンジとパワーが喚き合っていると、海の方から爆発音が聞こえてきた。
ドガァン!!
戦車の悪魔の身体から煙が出ている。煙を辿ると、上空に同じくらいの大きさの別の悪魔がいた。飛行機のような翼を広げて空を飛び、身体中は黒いダイナマイトのようなもので覆われている。垂れ下がった腕の先はミサイルのようで、その顔は無誘導爆弾の形をしている。
ドガン!ドガン!ドガン!!
上空を飛び回るその悪魔の胸に、丸く大きい口のような穴が開く。そこから雨のように次々と爆弾が投下され、弱りきった戦車の悪魔を一方的に爆撃する。浜にいるデビルハンター達は、何もできずただ見守っている。
「なんだ……ありゃあ」
「怪獣バトルじゃ……」
「…………」
デンジとジャンナはなんとか上体を起こし、腕を砂について支える。デンジがジャンナの方を見ると、翡翠色の目から一筋の涙が流れていた。
「アンタ、泣いてるのか……?どうしたんだよ」
「分からない……分からないけど、なんでか凄く、懐かしい……」
上空を飛ぶ黒い悪魔が、ミサイルで出来たその腕を戦車の悪魔へと向ける。弾頭が発射され、一直線に戦車の悪魔を襲う。
ドガアアアアアン!!!
それまでで最も大きい爆発音と共に、戦車の悪魔は身体が八つ裂きとなった。もう立ち上がれるはずはない——今度こそ、その怪物は息絶えた。
爆弾に覆われた悪魔が、戦車の悪魔の屍体を一齧りする。
「オレ達、今度こそ死ぬかな?流石に“爆弾の悪魔”は聞いてねえや」
「最も多くの命を奪ってきた武器……もしかしたら、一番強い悪魔の一つかもしれませんね……」
「やっぱワシ、逃げていいか?デンジの骨を家族に届ける者がおらんと困るじゃろう?」
「……もう遅えよ」
爆弾の悪魔が突進してくる。死を覚悟して目を瞑る。すると、その悪魔は頭上を通り過ぎ、そのまま空の彼方へと消えていった。
「助かった……?」
「……どういうことでしょう?」
「ガハハハハ!アイツめ、ワシに恐れをなして逃げおったぞ!!」
困惑するデンジとソコロフに、勝ち誇るパワー。ジャンナは悪魔の去った方角を見ながら、心臓に手を当てて呟く。
「ありがとう……」
その声は風に乗って海へと運ばれて、波の音の中に溶けていった。高く上った太陽が海を照らし、水面がキラキラと輝いている。一羽のカモメの鳴き声が、砂浜に響き渡った。
◇ ◇ ◇
翌日の夕方、東京の公安対魔庁本部のエントランスに、二台の黒塗りの車が到着する。それぞれの後部座席が開くと、四人のデビルハンター達が車から降り立つ。
あの戦いの後、疲弊しきった人間の三人は砂浜に寝転んでいた。パワーだけは元気に戦車の悪魔の屍体に駆け寄り、心ゆくまでその血肉を堪能した。その証拠に、彼女の角の本数は増え、大きくなっている。公安の回収部隊が到着すると、屍体を全て回収し、人間の三人を病院に送った。ジャンナは懲りずに「ちょっとだけちょうだい」と要求してきたが、デンジはまた軽くあしらった。それから今まで、何度も「ケチ」と言われた。パワーの血の力のお陰で三人とも大事はなく、ホテルで夜を明かした。昼まで熟睡した後に出発し、今しがた公安本部に戻ってきたところだ。
「長旅お疲れでしょう。ここからまた空港までは長いです。少し休んで行かれますか?」
デンジがソコロフの方を見て尋ねる。ソコロフが口を開くより先に、ジャンナが流暢な日本語で答える。
「大丈夫。ロシアはもっと長い距離ドライブするし。空港までの送りも手配してくれてありがとう」
「本当に、なんで急にこんなに日本語が話せるようになったんですかね。私ももう引退かな」
「サーシャは通訳よりも大事な役目がたくさんあるでしょ!」
冗談めかして拗ねてみせたソコロフに、ジャンナが笑って言った。振り返ってデンジの方を見ると、その左目は優しいような、悲しいような目をしている。ジャンナはその顔を覗き込んで言う。
「ははあ〜ん、わかった!さては寂しいんだな〜?」
「なっ!んなこと……そうだな、楽しかったよ」
デンジの素直な返答を聞くと、ジャンナは満足そうに微笑む。してやられたような気分になったデンジは、仕返しとばかりにある事を持ち出す。
「なぁ、日本語の勉強をした時、なんでかすぐ覚えられたスラングがあったって言ってたよな」
「うん。今思うと、夢の中で既に知ってたのかな?でも、なんでよりによってあんなヘンな言葉を……」
「好きな言葉だったんじゃねえの?エロ女」
「そうなのかな……エロ女!?どういう意味よ!」
「分かったんだよ、何の言葉か。当てて見せるぜ」
「ええ〜絶対ムリだよ〜……」
ジャンナは余裕そうに振る舞うが、デンジから目を逸らし、その頬からは一筋の汗が流れている。デンジは少し間を置いて、その言葉を言う。
「『金玉』、だろ」
「…………正解」
「…………」
「…………」
「…………クッ……」
「…………プッ……」
「ギャハハハハハハハハハハハハ!!」
「あははははははははははははは!!」
二人は腹を抱えて笑い合った。可笑しくって、ここが部屋の中なら床に転がりたい気分だった。止めようと思っても止まらず、いつまでも笑ってしまう。横にいるパワーとソコロフは、何が可笑しいのか理解できず、目を合わせながら首を傾げて肩をすくめる。デンジとジャンナは、お互いのバディに呆れられていることなど知る由も無い。
「ヒィッ、ヒィ〜。腹、腹痛え!ククッ、ギャハハ!」
「あはは!……プッ、あはははは!もうダメ、ツボ……ツボに入っ……!助けて〜」
ようやく笑い声が収まると、デンジとジャンナは笑い疲れた腹をさする。二人とも涙をダラダラ流している。
「あ〜あ、バカみてぇ」
「ホント、子供だ子供」
二人はもう一度見つめ合う。とうとう別れの時が来る。
「じゃあなレゼ、元気で」
「レゼじゃないよ。私は、夢の中だけの女なの?これからも、私達の人生は続くでしょ」
「……
親しみを込めた愛称を、デンジは覚えていた。ジャンナの頬が赤く染まる。一歩踏み出し、デンジに近づく。その両肩に手を置くと——
「チュッ」
デンジの左頬に、不意打ちでキスをした。
「なっ……!」
デンジは顔を真っ赤にし首をのけ反らせる。
「何赤くなってるの〜?ただの挨拶だよ。ほら、ロシア流で、あと二回!」
ねだるように言うジャンナの頬の色は更に深まっている。デンジは言われるがまま頬を差し出すと、そのまま右頬に一回、左頬にもう一回と音を立てたキスをされた。
「じゃあ、次はデンジ君から!今私がしたみたいに!」
「え、えーと……」
デンジはたじろぎながら、ジャンナの頬に唇を近づける。先程されたように、左頬、右頬、左頬の順に、不器用にキスをした。
「ありがとデンジ君、付き合ってくれて」
「お、おう……」
「じゃあ、そろそろ行くね。ロシアに来ることあったら連絡してよね!」
「ああ、きっとするよ。ジャンカも東京来ることあれば」
「うん、じゃあね!」
ジャンナは別れの挨拶をすると、ソコロフと共に車に乗り込む。窓から顔を出しデンジの方を見る。手を振りながら見せる笑顔が眩しい。走り出す車を、デンジもまた手を振って見送った。車が見えなくなると、手を下ろして振り返る。パワーがデンジに声をかける。
「デンジ、本当にロシアに行くのか?」
「いや〜行く機会ねぇだろ」
「アイツはまた日本に来るのか?」
「どうだろうなあ……あんだけ日本語話せんなら、あり得るかもな」
「……まあ良い、ワシはもう帰るぞ」
「えっ?ナユタに報告に行くだろ」
「嫌な予感がする。ワシは帰る」
そそくさと帰ろうとするパワーを不思議がる。デンジはパワーの言葉の意味を探る。
「血抜きが嫌か?そんなん、今逃げたところで意味ねぇだろ」
「いや、ウヌの巻き添えを食いたくない」
「オレが?なんで?」
「ハァ〜……自分で考えろ。とにかく、ワシは帰るからな!報告は頼んだぞ!」
「あっ……オイ!」
パワーはキャリーケースを転がしながら走って行ってしまった。デンジは仕方なく、一人で本部の建物に入る。頭の後ろを掻きながら、ため息をついて歩みを進めた。
◇ ◇ ◇
「…………んで、倒したと思った戦車の悪魔が起き上がって……突如現れた爆弾の悪魔が、戦車の悪魔を殺しました。爆弾の悪魔は我々や周辺住民に危害を加えず飛び去り、行き先は不明。戦車の悪魔の死体は回収部隊が全て回収。あっ……血の魔人が肉を少し食べました。戦力増強になったかと。最後に、戦闘員、民間人共に犠牲者はゼロです」
ナユタの執務室で、デンジが報告を済ませる。ナユタは椅子を窓の方に向けて座っており、デンジからは表情が窺えない。
「ご苦労様。ありがとう」
言葉だけ聞くと労りと感謝の言葉だが、その声に底知れぬ怒気が籠っていることが、デンジには分かる。恐る恐る理由を聞いてみる。
「なぁナユタ、なに怒ってんだ?クソ強え悪魔を倒したし、ロシアの奴らに持って帰らせねぇで全部日本のモンにしたし、人死にも出なかったし、結構頑張ったと思うんだけど」
「うん。上出来。すっごく上出来!よく出来ました!!」
ナユタの声に籠る怒気は益々強くなり、とうとう怒鳴られる。デンジがビクッとすると、ナユタは立ち上がってデンジの方を向く。恐ろしい眼で睨まれ、デンジは更に硬直する。すると、ナユタは表情を緩めてニコッと笑った。さっきまでの鬼の形相よりも、ずっと恐ろしく感じる。
「おすわり」
ナユタは先程まで座っていた椅子を指さして言った。デンジは渋々机の向こう側に回り込み、犬のような目をして椅子に座る。正面に立ったナユタに、ネクタイを掴まれる。
「ねぇ、結局、あの女はデンジの夢の中で、どういう関係だったの?」
「……童貞のガキにハニートラップしてきた、やべえ女だったよ」
「そりゃあイチコロだろうねぇ……やっぱ昔の女じゃん、浮気確定。奥さんに言っちゃお」
「なんもしてねえよ!」
「キスしてたじゃん、海で」
「人工呼吸だよ……」
「しかもエントランスでも、これ見よがしにチュッチュチュッチュと」
「ただの挨拶だろ……」
「ここは日本だよ」
「向こう流に合わせてやったんだよ!仕方なく!」
「知ってる?あれ、友達とかなら唇はつけないで音だけ鳴らすんだよ」
「そーなの!?騙された!」
「満更でもなかったくせに」
「…………」
バツが悪くなったデンジは目を逸らす。ネクタイを引っ張るナユタの力が更に強くなる。気まずさを紛らわそうと、困惑する思いをそのまま口にする。
「なんでナユタがそんな怒るんだよ……」
その言葉が、ナユタの逆鱗に触れた。
「なんで!?なんでだろうねぇ!?私が知りたいよ!それに、私はイイけど、奥さんに知られたらマズイことしてたって、やっぱり思ってたんだ!?」
「そ!そーいうわけじゃねえ…………ナユタ?」
椅子に座るデンジの膝の上に、ナユタが跨って座った。思いの外、それなりに重く感じる。大きく育った胸が、デンジの顔の目の前に差し出され、たまらず目を逸らす。ボソボソと呟くナユタの声が聞こえる。
「デンジはね……私のモンなの。夢の中からずっと……。結婚は……人間の幸せだし、アイツなら文句なしって思ったけど……ポッと出のロシア女と浮気なんて……許さない」
「だ、だから浮気じゃねえって……あっ!?」
デンジのネクタイが勢いよくグッと引っ張られる。ナユタの胸がぎゅっと押しつけられる。そのことを気にする間もなく、気がつけば唇を奪われていた。
一瞬だけ唇が触れると、ナユタはデンジの膝の上から飛び降り、逃げるように窓の方へ行く。デンジの方を振り向き、不敵に笑う。デンジはその笑顔を見ながら、ただ呆然としている。
「これも……浮気?」
「はあっ!?何やって……つーか、不同意だ!不同意!」
「こんな可愛くて若い子とのキス、ドキドキしたんじゃないの?」
「若いって、そりゃ悪魔だからだろ!」
デンジは抗議だけして、ナユタの質問に答えない。ナユタはデンジに背を向け、窓の外を眺める。もうすっかり暗くなり、星空のような夜景が見える。
「こんなオッサンとのキスなんて臭えだけだろ……」
「デンジはいい匂いだよ。それに、あの女にも二十代みたいって言われてたでしょ?」
「そーいう問題じゃねえ……ったく、何考えてんだよ」
「何って、遊んでるに決まってんじゃん。ちょー面白かった、ぎゃはははは!」
ナユタは高らかに笑って言った。デンジは目を点にし、口をあんぐり開けて言葉を返す。
「なっ……揶揄うにしても限度ってモンがあるぜ……寿命が縮まっちまったじゃねーか」
「そんなヤワじゃないでしょ。満足したから帰っていいよ」
「おう…………帰るわ……」
「うん、お疲れ様」
ぐったりしながら出ていくデンジを、ナユタは背中で見送る。窓の外に見下ろした先の、人間の営み作り出す星々を見つめる。高速道路では、車のライトが流星のように流れている。
「ホントは、上書き」
夜空の星座を探すように、ナユタはいつまでも眠らない街を眺めていた。
◇ ◇ ◇
時刻は戻り、夕方。一台の黒い車が、混雑する一般道を進んでいく。詰まっている車の間を、バイクが次々とすり抜けていく。歩道を歩く人々はどこか忙しない。後部座席の車窓からそんな景色を見ていたのは、空港に向かうジャンナとソコロフだ。日本での鮮烈な数日間が終わりを迎える。ジャンナが笑みをたたえて外の景色を眺めていると、路面に構える花屋が目に入った。
「あっ!運転手さん、あの花屋寄っていいですか?」
言った頃には店を通り過ぎてしまった。運転手は次の信号を曲がり、ぐるっと道を回ってその店の前に車をつける。
「突然すいません、ありがとうございます」
ジャンナは運転手に礼を言うと、ソコロフを連れて車の外へ出る。ジャンナは店の前に立つと、1番目立つところに飾られている白い花束をじっと見つめる。ソコロフが母国の言葉で尋ねる。
「これが気になったのですか、中将?“ガーベラ”……
「そうだよ。見て分からなかったの?」
「すいません。私、花はさっぱり……」
「これ、欲しいなあ……」
ジャンナはその白い花束から目を離せなくなっている。時折、何かを思い出すように目を瞑る。
「中将、生花は国内に持ち込めませんよ」
「そうだね、仕方ないか……あっ」
ジャンナは何かを見つけ、店の奥へと進む。そこには、先ほどの白いガーベラのプリザーブドフラワーが入ったガラスドームがあった。
「これください!」
ジャンナは興奮気味に店員に注文した。ガラスドームは小綺麗な箱に入り、丁寧にラッピングされる。支払いを済ませて商品が入った紙袋を受け取ると、ジャンナはスキップをしながら店を出る。
「どうして、その花がそんなに気に入ったのですか?」
「夢の中で……この花の花束を貰ったの」
「旦那様から?いや、亡くされた元恋人ですか?それとも……ミスター・ミタカに?」
ジャンナの口元が綻ぶ。
「ヒ・ミ・ツ!」
振り返って笑うジャンナは、少女のように柔らかな笑顔だった。
(完)