蜂ガイル〜蜂は再び恋をすることが出来るのだろうか〜 作:龍造寺
千葉県〇〇市・夜・麦野家別宅・リビング。
ここは麦野家の別宅だった。理沙や七海が暮らす住宅街とは別の、静かな高級住宅地の一角に建つ家。お金持ちが持つ別宅の中でも、これは静乃のために用意されたものだった。
表向きは『自由に使っていい』と言われながら、実際は父親から遠ざけるための隔離施設に近い。
今夜も脂ぎった中年男を相手に、いつもの取引を終えて帰ってきた。男の自宅がこの別宅より近かったのもあるが、総武高校の連中に見られる可能性を避けるためでもあった。
静乃は家に入るなり、すぐに浴室へ直行した。一刻も早く、あの男の臭いと感触を洗い流したかった。熱いシャワーを浴びながら、彼女は自分の体を見下ろした。
「……あの男、私の身体を好き勝手にしてくれたわね」
胸や首筋、太ももに赤い痕がいくつも残っている。鏡に映る自分の姿が、ひどく汚らしく見えた。
「こんなにつけるなんて……最低」
お湯が上半身から下半身へと流れ、男の残したものを洗い流していく。それでも、心の奥にこびりついた感覚までは落ちない。静乃は壁に手をつき、小さく吐き捨てた。
「……お父様。貴方にとって私は、何なの?」
拳が自然に握りしめられる。パパ活を始めたのは、中学二年生の頃だった。無関心な父親の注意を引きたくて、わざと派手なことを繰り返した。怒って欲しかった。関心を持って欲しかった。たとえ怒鳴られ、叱られてもいいから、父親の目が自分に向くだけでよかった。
しかし結果は逆だった。
父親は静乃を腫れ物のように遠ざけ、この別宅を与えて『好きにしろ』と言った。
母親も関連会社の社長に就任してからは、静乃のことを執事やお手伝いに丸投げし、自分は柏市の別宅で暮らしている。
静乃が中学受験をしたいと言った時も、両親はほとんど反応しなかった。だから市立中学に進み、不真面目な毎日を送るようになった。
今もこうして体を売っているのに、父親はただ金を振り込んでよこすだけ。怒りも、叱責も、愛情の欠片すらない。シャワーの音が静乃の小さな嗚咽を掻き消した。
「……食蜂理沙。一体あんたは何なの?」
今まで、静乃に近づこうとする人間は少なからずいた。同じような境遇の者、利用しようとする者、好奇心だけの者。しかし、食蜂理沙のような人間は初めてだった。真っ直ぐにこちらを見て、真正面から問いかけてくる。
盗み聞きまでして、止めるような目をして。
「……食蜂理沙に、私の何がわかるっていうの!?」
静乃は壁を軽く叩いた。本当は、誰かに助けを求めたい。
この状況から抜け出したい。
でも、どうやって? 誰に? 今さら『助けて』と言う勇気なんて、とうに失くしてしまった。同じ社長令嬢である食蜂理沙は、両親に愛され、姉にも大切にされていると聞く。
自分とは全く違う。
愛情というものを、根本から知らない。
「……私はあんたとは違う。社長令嬢ってところだけは同じだけど、それ以外は全く違うわ」
シャワーのお湯が冷たくなってきたことに気づき、静乃は蛇口を捻った。濡れた髪から滴る水滴を拭いもせず、彼女は鏡に映る自分を睨みつけた。冷たく、強がった表情。
でも、その奥に隠した弱さは、誰にも見せたくなかった。
「……どうしたらいいの?」
静乃は小さく呟いた。誰も答えてくれない問いを、ただ胸の奥で繰り返しながら。
千葉県・朝・食蜂家・理沙の部屋。
麦野静乃さんのことを考えすぎて、結局夜遅くまで眠れなかった。
『置かれた状況』という言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
わからない以上、何もできない。
それがもどかしくて、ベッドの上で何度も寝返りを打った。お父さんなら、麦野ホールディングスのことを何か知っているかもしれない……。
ライバル企業というわけでもないし、せめて少しでも情報が得られないかしら。
私は重い体を起こして、学校の準備を始めた。
千葉県・朝・食蜂家・リビング。
リビングに降りると、すでに家族が朝ごはんを食べていた。
「おはよう、理沙。昨日遅くまで起きてたみたいね?」
お姉ちゃんがすぐに気づいて声をかけてきた。
「え?」
「勉強してたの?」
今度はお母さん。
「勉強というわけじゃないんだけどぉ……ちょっと考え事かな」
「考え事? 何か悩みでもあるのか?」
お父さんまで心配そうな顔をしたので、私は思い切って聞いてみた。
「……ねぇ、お父さん。麦野ホールディングスって知ってる?」
「麦野ホールディングス!? 理沙が麦野グループに興味あるのか?」
「理沙、就職を考えてるの?」
「ち、違うわよぉ……娘さんのこととか、ちょっとわかるかなと思って」
お父さんは少し考えてから答えた。
「麦野社長の一人娘の静乃さんならいるはずだが……最近はあまり表に出てこないな。小学校の頃には会ったことがあるが、中学に入ってからはほとんど見かけなくなった」
「彼女……私と同じ総武高校で、同じクラスなんだよぉ」
「そうか。理沙が彼女のことを気にかけるなんて、仲良くなったのか?」
「別に仲良くなったわけじゃないんだけどねぇ……」
お母さんが優しく微笑んだ。
「静乃さん、小学校の頃は社交の場にもたまに出てきていたけれど、中学生になってからは全く見なくなったわね」
……やっぱり、父親が遠ざけているということなのかしら。朝ごはんを食べながら少しだけ世間話をしたけれど、これ以上深く聞くのは難しそうだった。
私は『うん』とだけ返事をして、食事を終えた。
千葉県・昼休み・総武高校・2ーF組
今日、麦野静乃さんは朝から学校に来ていない。
体育の後も、昼休みになっても姿が見えない。やっぱり昨日のことが原因でサボっているのかしら……。
私はお弁当箱をそっと持って、校舎裏へと向かった。
千葉県・昼休み・総武高校・校舎裏。
いつもの場所に来てみたけれど、麦野さんの姿はない。
古びた机と椅子だけが、寂しそうに置かれていた。
「やっぱり……昨日のアレが原因ね」
私は麦野さんがいつも座っている椅子に腰を下ろし、古びた机の上にお弁当箱を置いた。ここで一人で昼ご飯を食べていた彼女の気持ちが、少しだけわかる気がした。
人目を避けられるこの場所は、私の特等席(特別棟の1階の階段の部分)よりよっぽど静かで、誰とも関わらずに済む。青空の下、私はお母さんが作ってくれたお弁当を広げた。
「……ここで麦野さんは、いつもコンビニのパンをかじりながらスマホをいじっていたわねぇ」
一体誰と連絡を取っていたのかしら。パパ活の相手? それとも……。ふと、机の表面に視線を落とした。そこに、爪や何か尖ったもので削ったような文字がいくつも刻まれていた。
『助けて』
『誰かここから連れ出して……』
……!私は息を飲んだ。この筆跡……何度かプリントを回収した時に見たことがある。
間違いない。これは麦野静乃さんの字だ。
彼女は声に出して助けを求められないから、こうして机に刻みつけていたのか……。
本当はパパ活なんてしたくない。
誰かに助け出してほしいと、ずっと叫んでいたのだ。
「……麦野さん」
私は指でその文字をそっと撫でた。冷たい金属の感触が、彼女の孤独を物語っているようだった。
このことは平塚先生に相談すべき?
いや、先生が動けば彼女がどんな処分を受けるかわからない。
雪ノ下さんや由比ヶ浜さんに話すのも……情報が漏れるリスクがある。
結局、これは私一人でやらなければならないことのようだった。お弁当を食べ終わる頃、私は静かに決意を固めた。
(……少しでも、麦野さんの本当の気持ちを知りたい)
校舎裏の風が、寂しく私の髪を揺らしていた。
今日も昼投稿です。