蜂ガイル〜蜂は再び恋をすることが出来るのだろうか〜 作:龍造寺
特別棟の扉を開けて中に入ると、さっきまでの校舎の喧騒が嘘のように静けさに変わった。空気はひんやりとしていて、他の部活動をしているはずなのに、驚くほど音がしない。
平塚先生は、私と比企谷君が奉仕部に向かうのを見届けた後、満足そうに職員室の方へ引き返していった。
千葉県・放課後・総武高校・奉仕部の教室。
私は扉の前で少しきょどっている比企谷君をよそに、さっさと奉仕部の扉を開けた。
教室の中に入り、昨日座った席に椅子を引き出して腰を下ろす。雪ノ下さんは私の方をチラッと見ただけで、すぐに文庫本に視線を戻した。
そうですか。完全無視ですか。そっちがその気なら、私も無視してあげましょうかしらねぇ。
きょどっていた比企谷君も、しぶしぶ中に入ってきて、昨日と同じ場所に座った。
「この距離、この空間でシカトかよ」
「変わった挨拶ね。どこの部族のものかしら?」
「雪ノ下さん、私のことも無視したわよねぇ……一応挨拶はしておくわ。こんにちは、雪ノ下さん」
「……俺も一応言ってやる。コンニチハ」
比企谷君、その表情は嫌味にしか見えないわよ。雪ノ下さんは一応、ニッコリと微笑んでくれた。へぇ~、雪ノ下さんでもそんな笑顔をするのね。口元にえくぼが寄ったり、少し八重歯が覗いたり……意外と可愛いところがあるじゃないのよぉ。
「食蜂さんに比企谷君、もう来ないかと思ったわ」
「私は来たくて来たわけじゃないのよねぇ」
「べ、別に! 逃げたら負けだから来ただけだよ! か、勘違いすんなよな!」
「比企谷君……あなた、ツンデレなのぉ? それはさっきのセリフ、女の子が言うやつじゃないのかしらぁ?」
「別にツンデレじゃねえ! 食蜂も変なこと言ってんじゃねえよ」
「……あなたたち、あれだけひどく言われたら普通は二度と来ないと思うのだけど……マゾヒスト?」
「ちげぇよ」
「そんなわけないでしょ!」
「じゃあ、ストーカー?」
「それも違う。なんで俺がお前に恋を抱いている前提で話が進んでんだよ?」
「私も違うからねぇ。そもそも恋愛対象は同性じゃないから!」
「違うの?」
雪ノ下さんが首を傾げてキョトンとした顔をするものだから、可愛く言われてもむかつくだけなんだけどねぇ。
「違うからねぇ。雪ノ下さん、ちょっと自信過剰じゃないかしらぁ?」
「そう、てっきり私のことが好きなのかと思ったわ」
「お前、どう育ったらそんだけおめでたい思考になるんだよ。毎日が誕生日だったのか? それとも恋人がサンタクロースだったのか?」
「比企谷君も何を言ってるのかしらぁ?」
私にとっては二人とも何を言っているのかわからないんだけど……雪ノ下さんは自信過剰気味だし、比企谷君は中二病全開みたいなこと言ってるし……私だけが正常ってことよねぇ。何か私、変なこと言った? 言ってないわよねぇ……
「雪ノ下、お前は異常だ。勘違いもいいところだ。ロボトミー手術でもしとけ」
「少しは歯に衣着せた方が身のためよ?」
比企谷君にマニアックなことを言われ、雪ノ下さんは『うふふ』と笑っているけど、目が全く笑っていないわよぉ!
「まあ、食蜂さんはともかく、底辺の比企谷君から見れば異常に映るのかもしれないけれど、私にとっては至極当たり前の考えよ。経験則というやつね」
ふふんと雪ノ下さんが自慢げに胸を反らす。『経験則、ね』雪ノ下さんも彼氏がいた時期があるのかしら?
もしかして今も……?
「そら随分と楽しい学校生活なことで」
「ええ。そうね。極めて過不足のない、実に平穏な学校生活を送ってきたわ」
雪ノ下さん、そう言いながら視線を明後日の方向に向けているような……絶対に平穏とは程遠い気がするんだけどねぇ。この性格なら、彼氏どころか同性の友達がいるのかすら疑ってしまうわ。
「お前さ、友達いんの?」
比企谷君、そこをストレートに聞くの!?
「そうね、まず、どこからどこまでが『友達』なのか、定義をしてもらっていいかしら?」
「あ、もういいわ。そのセリフは友達いないやつのセリフだわ」
「まあ、お前に友達いないのはなんとなく想像つくけどさ。食蜂もいないよな?」
「そこでなんで私に振るわけぇ? まあ……うん、私も高校では友達はいないかな」
「食蜂さん、それだと中学まではいたってことになるわよ?」
「中学まではちゃんといましたわ。そういう雪ノ下さんはいるんですかぁ?」
「さあ、どうでしょうね。仮にいなかったとしても、それで何か不利益が生じるわけではないわ」
1人でいることの不利益なんて、確かにほとんどないわよねぇ。あるとすれば、2人組の時にポツンと1人になるぐらいかしら。
「まあ、お前の言い分はわからなくもない。好きで1人でいる時間は気楽だもんな。むしろ1人でいちゃいけないなんて価値観の方が気持ち悪い」
「……」
「まあ、1人でいる時間が気が楽っていうところは同感よねぇ」
「好きで1人でいるのに勝手に哀れまわれるのもイラッとくるよな。わかる、わかる」
「なぜあなたたち程度と同類扱いされているのかしら……非常に腹立たしいのだけど」
雪ノ下さんは苛立った様子で髪をかき上げた。
「まあ、あなた達と私では程度が違うけれど、好きで一人でいるという部分には少なからず共感はあるわ。ちょっと癪だけど」
「素直に褒められないものかしらねぇ」
「程度が違うってどういう意味だ。一人ぼっちにかけては俺も一家言ある。ぼっちマイスターと言われてもいいくらいだ。むしろお前程度でぼっちを語るとか片腹痛いよ?」
「ぼっちマイスターって……比企谷君、職人さんたちに失礼だと思うわよぉ……」
「何なのかしら……この悲壮感漂う頼り甲斐は……」
雪ノ下さんが驚愕と呆れに満ちた顔で比企谷君を見ている。その表情を引き出した彼は、ある意味すごいかもしれないわねぇ。
「人に好かれるくせにぼっちを名乗るとか、ぼっちの風上にも置けねえな」
「かっこいいこと言ってるように見えるけど、実際に言ってることはねぇ……」
「短絡的な発想ね。脊髄反射だけで生きているのかしら。人に好かれるということがどういうことか理解している? 経験がなかったのよね。こちらの配慮が足りなかったわ。ごめんなさい」
「それはちょっと言い過ぎなんじゃないのかしらぁ?」
「配慮するなら最後まで配慮しろよ……」
これが慇懃無礼というやつかしらねぇ。
「で、人に好かれるのが何だって?」
「食蜂さんはともかく、あなたには少し嫌な話になるかもしれないけれど」
「もう充分嫌になってるから安心しろよ」
雪ノ下さんは小さく深呼吸をして
「私って昔から可愛かったから、近づいてくる人は多かったわ。男子はたいてい私に恋を寄せてきたの」
……自慢話? 確かに雪ノ下さんなら、小学生の頃も相当可愛かったのでしょうね。でもその代わりに、同性の女子から嫉妬や敵意を向けられていたんだろうな。
「まあ、嫌われまくるよりはいくらかマシだろ。甘えだ、甘え」
「別に、人に好かれたいだなんて思ったことはないのだけれど」
雪ノ下さんはそう言い切った後、ほんの少し言葉を付け足した。
「もしくは、本当に誰からも好かれないなら、それも良かったのかもしれないわね」
「あん?」
「え? 今、なんて?」
雪ノ下さんは冷え冷えとした声で呟いたので、思わず聞き返してしまった。彼女は真剣な顔で私たちに向き直った。
「あなたたちの周りに、常に異性に人気のある友達がいたらどう思う?」
「愚問だな。俺は友達がいないから杞憂だ」
「……確かに嫉妬心が湧いてくるかもしれないわねぇ……」
「比企谷君はいいとして、食蜂さん、答えてくれてありがとう。嫉妬心、そういう感情がやがて排除につながっていくの。理性のない獣と同じ、いや、それこそ禽獣にも劣る……。私がいた学校にも、そういう人たちが多かったわ。そういった行為でしか自身の存在意義を確かめられない哀れな人たちだったのでしょうけれど」
雪ノ下さんは鼻で小さく笑った。私もこの話に関しては、なんとなくわかる気がしたわ。
「小学生の頃、60回ほど上履きを隠されたことがあるのだけど、うち50回は同級生の女子にやられたわ」
「うわあ〜最悪……」
「あと10回が気になる」
「男子が隠したのは3回、担任が買い取ったのは2回。犬に隠されたのが5回よ」
「前者は別として、犬に隠されるって……それも5回って……」
「驚くポイントはそこではないと思うんだけど」
「いやいや〜、犬率高すぎでしょ!?」
「犬率高えよ」
「おかげで私は毎日上履きを持って帰る羽目になったし、リコーダーも持って帰っていたわ」
私は思わず同情してしまった。私も上履きを隠された経験はあるし……。
「大変だったのね」
「ええ、大変よ。私、可愛いから」
「そこは少し謙遜しなさいよぉ……」
「食蜂さん、あなたなら同じ女子として少しはわかるんじゃないかしら?」
「その気持ちがわからなくもないけどぉ……」
「それでも仕方ないと思うわ。人は皆完璧ではないから。弱くて心が醜くて、すぐに嫉妬し、足を引っ張ろうとする。不思議なことに、優れた人間ほど生きづらいのよ、この世界は。そんなおかしいでしょう? だから変えるわ。この世界を」
「努力の方向性が明後日にぶっ飛びすぎだろ……」
「そうかしら。それでもあなたたちのようにグダグダと朽ちていくよりはマシだと思うけれど。あなたの、そうやって弱さを肯定してしまう部分、嫌いだわ」
雪ノ下さんは文句の付けようがないぐらい美少女だわ。傍目には品行方正、成績優秀で非の打ち所がない。ただし、その性格が致命傷よねぇ。平塚先生が言っていた通り、彼女もまた『病気』なのかもしれない。持つ者であるが故のね。
雪ノ下さんは話が終わったと思い、再び文庫本に目を落とした。
「なぁ、雪ノ下。なら、俺が友——」
「ごめんなさい。それは無理」
「ふふっ、比企谷君、かわいそう……」
「えー、まだ最後まで言ってないのに! というか食蜂も笑ってんじゃねえぞ!」
「まあ……食蜂さんとなら、もしかしたら友達になれるかもしれないわね」
「あはは……私も……そんな気がしてきたわねぇ~」
私と雪ノ下さんは苦笑いし、比企谷君は『ラブコメとか爆発しろ』とぼやいていた。
最初は嫌々だった奉仕部だけれど、雪ノ下さんのことを少し知っただけでも、なんだか気が楽になったわ。私は、私にやれることをやっていこう——この時、そう思ったのだった。