蜂ガイル〜蜂は再び恋をすることが出来るのだろうか〜 作:龍造寺
千葉県・放課後・総武高校・奉仕部。
由比ヶ浜さんのクッキー騒動から、もう二週間が経っていた。ゴールデンウィークも終わり、教室の空気は少しだけ現実に戻った感じがするし、奉仕部はいつも通りの空気ぶりで、なんだか懐かしさも出てくるようになったわねぇ。
私はいつもの席に座り、窓の外をぼんやり眺めていた。ゴールデンウィーク中は家でゴロゴロして、ほとんど外に出なかった。あの事故以来、人混みとか大勢の人がいる場所が苦手になってしまったから……お姉ちゃんもどこかに行こうと誘ってくれたんだけど、断っちゃったわねぇ…
私もそれは何とかしないと思ってるんだけど……中々…
まあ、いいんだけどぉ。
比企谷君が以前引っ張り出した机に突っ伏したまま、だるそうに呟いた。
「……ったく、旅行とか遊びに行く連中が気がしれねえ。なんでわざわざ疲れることすんだよ」
雪ノ下さんは本から目を離さず、淡々と返す。
「休みの過ごし方は人それぞれでしょう。あなたのように家で腐っているのが普通だと思わないで」
「腐ってねえよ。熟成してんだよ」
「ふふっ」私は小さく笑ってしまった。
由比ヶ浜さんがいたら『やっはろー!』って入ってきそうだけど、今日はまだ来ていない。
すると、コンコン……と控えめなノックの音がした。
雪ノ下さんが静かに声をかける。
「どうぞ」
扉がゆっくり開き、1人の男子生徒が入ってきた。
彼は軽く自己紹介をしたわ。
2ーC組。名前は里見学。黒髪が少しボサボサで、銀縁メガネをかけているわねぇ。制服はきちんと着こなしていて、身長は百七十五センチくらいかしらぁ。暗いというより、目立たない……普通の男子、という印象かしらねぇ。
里見君は私たちを見て、明らかに緊張しているのがわかった。手が微かに震えていて、視線が泳いでいるわねぇ。
「あ……あの……平塚先生に、こちらに来れば……助けてもらえるかもしれないと……」
雪ノ下さんが本を閉じて、いつもの冷たい視線を向けた。
「まずは座りなさい。で、何の相談?」
里見君は椅子に座ろうとして、足を引っかけてよろけた。比企谷君が小さく舌打ちするのが聞こえた。ちょっと悪態つかないでほしいんだけどぉ!
「い、異性と……普通に、話せるようになりたいんです……」
声が上ずっている。里見君は膝の上で拳を握りしめ、必死に言葉を絞り出していた。
「小学校の頃から、女子と話すと頭が真っ白になって……うまく話せなくて。高校に入ったら変えようと思ったのに、全然変わらなくて……今、クラスでよく話しかけてくれる女子がいて……その子ともっと話したいのに……話せなくて、悔しくて……」
彼の声はどんどん小さくなっていった。最後に、ほとんど消え入りそうな声で付け加えてくれたわ。
「……いつの間にか、その子のことが好きになっていました」
部室に沈黙が落ちたわ。
雪ノ下さんは目を細め、冷ややかに言った。
「要するに、告白もできない、普通の会話すらできない男子が、恋愛相談に来たということね。ずいぶんと都合のいい話だわ」
「雪ノ下さん、ちょっと……」
私は慌ててフォローに入った。里見君の肩がびくっと震えたのが見えたから。比企谷君がため息をつきながら、横から毒を吐く。
「はぁ……女子と話せないのがコンプレックスで、好きな子ができたから急に変わりたいってか。典型的だな。現実見ろよ。急に変われるなら誰も苦労しねえよ」
「比企谷君も……!」
私は2人を交互に見て、里見君に優しく声をかけたわ。
「里見君、大丈夫よぉ。焦らなくていいから。少しずつ話してみて? 私たち、ちゃんと聞くからねぇ」
里見君は顔を上げ、私の顔をまっすぐに見た。目が少し潤んでいる。
「……ありがとうございます、食蜂さん」
その瞬間、私は胸の奥がざわついた。
——昔の私に、似てるわ。お姉ちゃんとは違い、人付き合いが苦手だった私。中学の頃、陽キャの輪に入れなくて、でも誰かと普通に話したくて……上坂君と付き合い始めたのも、実は『普通の女の子』になりたかったからなのかもしれないわねぇ。
あの卒業式の日まで、私はずっと『普通に』振る舞おうと頑張っていたのに。私も……普通に話せたらよかったのに。その本音が、喉の奥で小さく渦巻いたわ。
雪ノ下さんがため息をついた。
「まあ、いいわ。とりあえず実践してみましょう。ロールプレイングよ。食蜂さん、あなたが相手役をやって」
「え、私!?」
「あなたが一番優しそうに見えるから適任でしょう」
私は仕方なく里見君の正面に座り直したわ。里見君は顔を真っ赤にしているわねぇ。
「じゃ、じゃあ……里見君、今日もいい天気だね、とか……」
「は、はい……そ、そうですね……」
里見君の声が詰まる。視線が泳いで、私の顔を直視できない。雪ノ下さんが即座に指摘した。
「目を見て話しなさい。相手の顔を見ない会話なんて、存在を無視しているのと同じよ」
「理想を言いすぎだろ。いきなり目を見て話せって、緊張してるやつにハードル高すぎる」
比企谷君が珍しくフォローしてくれたわ。珍しいこともあるんだねぇ。
私は微笑みながら、できるだけ柔らかく言ったわ。
「里見君、焦らなくていいよ。まずは挨拶からでいいから。『やあ』とか『こんにちは』とか……」
「こ、こんにちは……食蜂さん」
「うん、こんにちは。今日も頑張ってる?」
里見君は頷くのが精一杯のようだった。
手が震えているわ。——私も、こんな感じだったのかしらねぇ。
上坂君に初めて話しかけられた時、胸が苦しくて、嬉しくて、でも上手く返事ができなくて……結局、笑顔で誤魔化していたわ。
あの頃の私は、里見君より少しマシだったかもしれない。でも、本質は同じなのよねぇ…。
「私も……普通に話せたら、よかったのに」
小さく呟いてしまった。雪ノ下さんが鋭くこちらを見たけど、何も言わなかった。
その後、雪ノ下さんの『理想的な会話術』と比企谷君の『現実的な会話術』のレクチャーが始まった。
雪ノ下さんは完璧主義で容赦なく、比企谷君は『興味ないフリをしつつ適度に返す』みたいな現実路線を推していた。
里見君は何度も失敗しながらも、少しずつ言葉を返せるようになっていった。1時間ほど経った頃、里見君は汗だくになりながら立ち上がった。
「……今日は、ありがとうございます。まだ全然ダメですけど……少し、希望が見えた気がします。また来ても、いいですか?」
雪ノ下さんが頷いた。
「構わないわ。逃げずに来るなら、相手をしてあげる」
「まあ、暇なときにな」
私は微笑んで手を振った。
「またね、里見君。頑張ろうねぇ」
里見君は深く頭を下げて、部室を出て行った。ドアが閉まった直後、廊下で何か話し声が聞こえてきたけどぉ、気にしないことにしたわ。
(里見君が誰かと話してないかもしれないしねぇ。それとも次なる依頼者が?さすがに依頼者の連チャンは、勘弁だわ)
ーーー
一方奉仕部の外の廊下では、このようなことが繰り広げられていた。
「うおっ! す、すみません!」
「おお、貴殿は…里見氏…その明るいオーラ…… 貴殿もこの部に……ぐふぉ!?」
「材木座君、大丈夫?」
里見は、材木座が特徴的な大仰な声を廊下に響かせていて、そして咳き込んだから心配したのだ。
「里見氏、我は大丈夫だ。ちょっと声を枯らしただけだ。それより貴殿も奉仕部とやらに依頼を?」
「うん、最初は色々きついこと言われたけど、親身になってくれたから…それで材木座君も?」
「今はない。だがアレが完成した時、ここの門を叩くことになるだろう」
「アレ?」
里見はアレという単語に反応する。材木座はすぐに答える。
「我は小説を書いている。それを同士に見てもらうことにする」
「それが依頼なの?」
「そうだ」
「そうなんだ。それじゃ僕は行くね」
そう、材木座に伝えると里見は特別棟から出る扉へ歩いて行ってしまった。材木座は奉仕部の方を見て
「まだあれは完成していない。だがもうじき完成する。その時はお世話になるぞ、比企谷八幡!」
材木座は1人寂しくカッコつけていたのだった。