季節は巡り、東京に容赦のない真夏の陽射しが降り注ぐようになった。
あかりはあの後、貴樹と何度か短いメールのやり取りを交わしていたが、お互いに一歩を踏み出せない、もどかしい距離感が続いていた。
そんなある日、あかりは仕事の繋がりを通じて、水野理紗という女性と知り合う。
理紗はあまり自分から進んで人と関わろうとしない、どこか引っ込み思案な雰囲気のある女性だった。けれど、任された仕事に関しては驚くほど正確で、一つ一つの作業を本当に丁寧にこなす姿に、あかりは好感を抱いていた。
ある日の仕事終わり、書類の整理を終えた二人は、静かな喫茶店で少しだけお茶をすることになった。ひょんなことからお互いの過去の人間関係の話になり、世間の狭さに驚いている中で、理紗が少し躊躇(ためら)うように、小さな声で名前を口にした。
「遠野、くん……っていう人がいたんです。私、その人と、少し前までお付き合いをしていて……」
あかりの心臓が、ドクンと嫌な音を立てる。
「たかき……くん?」
「え……知っていらっしゃるんですか?」
理紗は驚いて目を丸くし、それからあかりの表情を見て、何かを察したように静かに視線を落とした。アイスコーヒーのグラスを両手で包み込みながら、理紗は当時のことを、ぽつり、ぽつりと静かに語り始めた。
「遠野くん、あの頃……すごくひどい生活を送っていたんです。自分の体のことなんてこれっぽっちも気にしないで、ただ壊れるみたいに、すり減るみたいに働いていて……。一緒にいる時も、すぐ隣にいるのに、彼の心はいつもここじゃない、もっと別の遠い場所を見ているみたいでした。なんとかしたかったけど...私じゃ難しくて。付き合いたてはそんなこともなかったんですけどね。あはは」
理紗の丁寧で、だからこそ生々しい言葉は、あかりの胸を容赦なく抉った。
(私のせいだ……。あの時、手紙を出さなくなって、私たちが離れてしまったから、たかきくんは……)
あかりの視界が、罪悪感で歪みそうになる。
「でも」と理紗は静かに続けた。「遠野くん、今は会社を辞めて、少し落ち着いたみたいですけど……ずっと、独身のままです。今も一人でいます。誰とも深く付き合えないんじゃないかなぁ...」
――たかきくんが、独身。
その事実を知った瞬間、あかりの心の中にあった「既婚者としてのブレーキ」よりも先に、別の感情が溢れ出した。放っておけない。あの優しかった男の子が、そんなにも孤独で荒んだ日々を送っていたなんて。
◇
それからのあかりは、何かに突き動かされるように、貴樹を気にかけ、連絡を取るようになった。
「最近ちゃんとご飯食べてる?」
「たまには外の空気吸いに行かない?」
そう言って、週末に貴樹を連れ出すことも増えた。
貴樹は、そんなあかりに対して、どこか頑なな態度を崩さなかった。
あかりの左手の薬指に視線を落としては、静かに目を伏せる。
「あかり、あんまり僕と会ってると、旦那さんに怪しまれるよ」
「大丈夫だよ、ただの幼馴染と会ってるだけだもん」
「……そうかもしれないけど、僕は、一定の距離を保つべきだと思うんだ」
貴樹は必死に理性を保とうとしていた。彼女はもう、他人の妻なのだ。自分が踏み込んでいい領域ではない。
しかし、そんな彼の決意は、あかりと会話を重ねるたびに脆く崩れ去っていった。
あかりの笑い声、話し方、ふとした瞬間の仕草――そのすべてが、あの雪の夜、栃木の駅の待合室で確かめ合った「あの頃の強い想い」を鮮烈に呼び覚ます。
それは、あかりも同じだった。
夫との生活に不満があるわけではない。けれど、貴樹といる時に感じる、魂の奥深くが満たされるような感覚は、何物にも代えがたかった。
二人で過ごす時間は、ただひたすらに楽しかった。
夏の夕暮れ、川沿いを歩きながら他愛のない話で笑い合うひととき。話題は尽きず、あの頃失った時間を取り戻すかのように、二人の距離は急速に縮まっていく。
想いは、どんどん増幅されていく。
しかし、楽しく、幸福であればあるほど、その裏側にある罪悪感と現実の壁が、だんだんと二人を苦しめ始めていた。
季節は、ゆっくりと秋の気配を帯び始め、風が少しずつ冷たさを増していく。
お互いへの想いが、もう誰にも止められないところまで膨れ上がっていることに、二人は気づき始めていた。
◇
秋の深まりは、二人の心の距離を急速に縮めると同時に、出口のない迷路へといざなっていった。
「ねえ、あかり。最近あの『運命の人』とはどうなってるの?」
ランチタイム、お弁当の包みを広げながら、千夏が身を乗り出して訊いてきた。
「どうって……たまに連絡を取り合って、週末に少し会うくらいだよ。たかきくん、体調を崩しがちだったみたいだから、心配で」
あかりが視線を落としながら答えると、千夏はもどかしそうに小さくため息をついた。
「あかりは優しいけど、それ、本当にただの心配? 正直になりなよ。そんなのもう、友達の域を超えてる。相手だって、結婚してるあかりが何度も会いに来てくれたら、勘違いしちゃうよ……ううん、勘違いじゃないよね。あかり、あなたその人のこと――」
「千夏」
あかりは遮るように、千夏の名前を呼んだ。千夏は真面目だからこそ、あかりのあやふやな態度が放っておけないのだろう。
「……私は、ただ、彼に幸せになってほしいだけなの」
「だったら」と千夏はまっすぐにあかりを見つめた。「中途半端に関わる方が、よっぽど残酷だよ。自分がどうしたいのか、ちゃんと決めなきゃダメ」
千夏の言葉は、冷たい秋風のようにあかりの胸を吹き抜けた。
◇
同じ頃、貴樹もまた、自身の過去と現在の間で立ちすくんでいた。
ある日の夕暮れ、貴樹の携帯電話に思いがけない連絡が入る。かつて種子島で同じ時間を過ごした、澄田花苗からだった。
東京に出てきているという彼女と、数年ぶりに駅前のカフェで再会した。花苗は相変わらずどこか潮風の匂いがするような、まっすぐな瞳をしていた。
他愛ない雑談が、ふと話題が途切れた頃に花苗が言う。
「遠野くん、なんだか、少し変わったね」
カプチーノをすする貴樹を見て、花苗がふふっと笑った。
「そうかな。自分じゃよく分からないよ。それで、澄田こそ、急に東京なんてどうしたんだ? お姉さんに何か用事でも頼まれた?」
貴樹の何気ない問いかけに、花苗は一瞬、はにかむように視線を落とした。
「ううん、今回は自分のこと。……実はね、島でサーフィンをやってる男の人に、この前、告白されたの。ちょっと軽いんだけどすごく良い人で、私のことも大事にしてくれて……」
花苗は、窓の外を流れる東京のせわしない景色を見つめた。
「でもね、どうしても私の心が、あと一歩が踏み出せなくて。そんな私の様子を見て、お姉ちゃんに言われたんだ。『あんた、そんなに悩むくらいなら一度東京に行って、その人に会ってきなさい』って」
あはは、と花苗は少し照れくさそうに笑った。
「だから……会いに来ちゃった」
「澄田……」
貴樹は言葉を失った。
彼女が高校時代、自分に対してどれほど一途で痛切な想いを向けてくれていたか。当時、同じ時間を過ごしていたあの瞬間に、貴樹はその気持ちを痛いほど分かっていた。分かっていながらも、彼女の想いにどうしても応えることができなかった。あの頃の申し訳なさと、それでもなお、こうして自分を「大切な忘れ物」として会いに来てくれた彼女の優しさが、今の貴樹の胸に深く染み渡っていく。
「でもね、会えてよかった」
花苗がまっすぐに貴樹を見つめた。
「今の遠野くんは、昔みたいに私のずっと後ろにある、誰も届かない星ばっかり見てない。ちゃんと、ここにある世界を見てる気がする。……寂しいけど、でも、なんだか嬉しいな」
貴樹は胸の奥が震えるのを感じた。あかりと再会し、彼女と時間を重ねることで、凍りついていた自分の時間が確かに動き出している。それは花苗の目から見ても明らかだった。
「澄田。僕は、大切な人を傷つけてしまうかもしれない。……いや、もう傷つけているんだと思う。それでも、僕の心は……」
苦悩に満ちた貴樹の呟きに、花苗はしばらく静かに窓の外を見つめていた。それから、意を決したように貴樹の手元を見つめた。
「遠野くん。私はね、ずっと遠野くんの背中を追いかけてた。届かないって分かってても、好きでいることを諦められなかった。……自分の気持ちに嘘をつくことだけは、一番、自分をボロボロにしちゃうから。遠野くんには、もう二度と、自分の心から逃げてほしくないな。……私も、島に帰ったら、ちゃんとあの人と向き合ってみるよ」
花苗の真っ直ぐなエールは、貴樹が心の奥底に鍵をかけて閉じ込めていた想いを大きく揺さぶった。