史実ではここで広瀬少佐と杉野上等兵曹は戦死したことになっているが・・・
明治三十七年三月二十七日 旅順港外
夜の闇が海を覆い、旅順要塞の砲声いんいん響く中、閉塞船「福井丸」は、港口の予定地点へ向けて静かに進んでいた。
甲板に立つ広瀬武夫艦長、大分出身のがっしりした海軍軍人。峻厳な見た目とは裏腹、その口調は常に穏やかであった。
広瀬は巡洋艦「朝日」の水雷長であったが、こたび決死の閉塞作戦では福井丸の指揮官として臨んでいた。
闇を走り出したロシア要塞の探照灯が幾筋も福井丸を捉える。
どどどぉん
砲弾が幾本もの水柱を立てる。
続いてロシア駆逐艦の魚雷が船腹に命中する。
凄まじい衝撃が船体を揺るがす。左舷に開いた破孔から激しい浸水が始まった。
福井丸はゆっくりと傾き始める。
「総員、端艇へ移れ!」
広瀬の号令が響いた。
乗組員たちは訓練どおり迅速に端艇へ移乗する。人員を確認した広瀬の表情が曇る。
一人足りない。
杉野孫七上等兵曹。
沈没用爆薬への点火のため船内へ向かったまま、まだ戻っていないのである。
杉野は広瀬より年長で、「朝日」以来苦楽をともにした腹心の部下であった。
故郷には妻子を残し、自ら志願してこの危険な任務に加わっていた。
「杉野! 杉野はどこだ!」
広瀬は躊躇なく端艇から身を翻し、沈みゆく福井丸の船内へ戻った。
傾いた通路には冷たい海水が流れ込み、艦内は暗闇に包まれている。
「杉野! おらんか!」
返事はない。
さらに奥へ進む。
「杉野! 返事をせい!」
その時、広瀬の床に穴が開いたか。広瀬の体ははるか下、奈落の底に落ちて行ってしまう。
「馬鹿な!」
と思ったのは瞬時のこと。広瀬少佐は意識を失った。
-異世界ヒガツ-
広瀬少佐は目を覚ました。
風が吹き抜ける草原。
広瀬は見渡す限りの草原に仰向けに寝ていた。
「俺は、俺は確か旅順港で。そうだ、杉野を探して船内に。」
体を起こす。
青い空に白い雲。まぶしい光線の先には太陽。
どこだ、どこの陸にあがってしまったのだ。
「広瀬少佐。気がつかれましたか!」
聞き覚えのある声。これは
「杉野上等兵曹、杉野!」
振り向いた先には、杉野がいた。しかし違う。何かが違う。
「ははは、広瀬少佐はお若くあられる。」
杉野は齢三十半ばの少壮だったはずだが、目の前の杉野は還暦の風体。
「いや、少佐。おっしゃりたいことはわかります。私は今年でおそらく64歳。おかしいでしょう。まあ、おいおい説明してごらんにいれます。」
よくみると杉野のそばには若い娘がいた。十七、八といったところか。
左耳に布を当て、額をとおして包帯が巻かれている。
「少佐。こいつは私の娘でツミネ。老いてできた子です。ははは。」
ツミネははにかんだ顔で杉野の体の後ろに隠れている。
「杉野。いろいろと聞きたいことはやまほどあるが・・・まず。ここはどこなのだ。」
広瀬は改めて周囲を見渡す。
高原のようだ。灌木がところどころに立っている。遠くには山脈。
よくみると遥か麓には街のようなものがある。
杉野は待っていましたと説明を始める。
ここは日本があった場所とはそもそも違う世界。
そしてここはヒガツという国。
日本で言うならば、おおよそ平安時代の世界でしょうか。
私も福井丸に戻って歩いているうちに落ちてしまい、気が付いたらこの世界でした。
言葉も通じない。なにもかもがまるで違うこの世界で必死に生き抜いているうちに、私はこのヒガツの朝廷に雇われることになり、それなりに成功したのです。
知命(50歳)が近くなって若い妻を娶り、出来たのがこの子ツミネ。
私の事はさておき、少佐もまた私と同じ場所で落ち、この世界にきたというわけです。
広瀬は腕組みをして、しばし悩んだのち答えた。
「なるほど、まあ、そのうち慣れよう。」
が、しかし。
「ここまで遥かな場所に来てしまっては、いったい元の世界がどうなっているのかさっぱりわからないが。私は福井丸の外に部下を待たせてしまっている。どうなっているだろうか、杉野。」
荒波に揺れる端艇で自分の帰りを待つ部下たちが脳裏をよぎる。
「それはおそらくご心配に及びませぬ。私はこの世界で30年ほど生きましたが、私が消えて少佐が来るまでの元の世界の時間はおそらく1分程。時の流れに違いがありますので、ここでいくらのんびりしていても、福井丸の外の方々のまばたき一回分にもならないでしょう。」
「なるほど、そういうものか。しかしそれはそれとして、早く元の世界にもどらねばならぬ。・・・が、杉野のその姿をみると、どうも私もこの世界で生きざるを得ないようだ。」
さて、覚悟を決めざるを得ないか。部下たちには悪いことをしてしまった。
そして俺は戦死として扱われるだろうか。
駐在武官時代の記憶が一瞬よみがえった。女性の顔が浮かぶ。
アリアズナは私の戦死を知ったら悲しむであろうな。
かつて懇意だったロシア人女性を思い出す。
「少佐、ご安心ください。私は朝廷でずっと、少佐が来るのを待っておりました。この世界では法術があり、占星が実際に未来を当てるのです。
朝廷で少佐が来ることを察知した私は娘とともにここで待ち受けておりました。」
法術、占星。聞きなれない。しかしここヒガツでは普通の事なのだろう。
杉野上等兵曹が生きたというこの世界。杉野はいかほど苦労したのだろうか。
草原に風が吹き抜ける。
ツミネがおそるおそる杉野の後ろから出てきた。
大きなお辞儀をする。
ツミネはなにやらぶつぶつとつぶやきながら額に手を当て、話し始めた。
「私はスギノの娘でツミネと申します。ヒロセ様。父がここにくる以前はお世話になっていたと伺っております。この度は、お会いできて光栄です。」
「こちらこそ。はじめまして・・・お父上と同じ艦(ふね)に乗っておりました。広瀬ともうします。失礼ですがツミネ殿。その、この世界でも日本語が話されているのでしょうか。」
杉野がちょっと笑った。「いえいえ、これこそが法術。少佐、ツミネは相手がわかる言語を発するための操作を頭に行ったのです。ツミネ自身はヒガツの言葉で挨拶しておったのですよ。」
「なんと、便利なものだな。この術があれば、ロシアでもどこでも生きていけよう。」
「ただし、並の人間は習得に20数年を要します。」
「それでは語学を真面目に学んだ方が早いな。」
広瀬は苦笑した。杉野も然りと苦笑する。
待てよ。
「ツミネ殿はまだ二十歳にもなっておらぬと見えるが。」
杉野がふんふんと鼻息を荒くした。
「ツミネは自慢の娘でして。法術の天才として朝廷の法術寮に招かれた紫魁生なのです。」
「紫魁生?」
「つまりは主席なのです。」
父の紹介でツミネは恥ずかしそうに笑った。
彼女が髪の毛をかきあげたそのとき。
広瀬はツミネの左耳の布に血がにじんだのを見た。