スギノはヒガツの朝廷に務め、二十数年になる。
異世界人としては異例の存在だ。
スギノがここに至るまでの苦労たるやさんざんなものであった。
ヒガツに落ち、周囲不案内の中、街に流れ着くことができたのは僥倖であった。
苦労に苦労を重ね、なんとか力仕事にありつき、その日暮らしができるようになる。そこまで数年かかった。
不惑の年にしてかろうじて自活できるようになったスギノは港町に越し、海運の仕事に精を出す。
ヒガツは日本で言えば平安時代頃の世界である。スギノは明治海軍で得た知識で、めきめき頭角をあらわす。また、案外素質もあったのか、法術も人並み以上に使えるようになっていた。
ある日、朝廷から海運のことで呼ばれ、献策をすることになった。
大型船から小舟で荷を運ぶ方法、船縄の改善、帆の改善、船舶の運用の改善その他
スギノが明治海軍で学んだことをこの世界に応用したのだ。
これを朝廷は大いに評価し、スギノを朝廷に迎えることになる。
ただ、融通の利かない朝廷人事はスギノを法術寮に召しいれる。
困惑するスギノであったが、法術の心得もあったため案外すんなりとなじんだ。
海運と縁が切れてしまうのは少々残念であったが、この世界において朝廷に職をもつのは破格のエリートであるから、スギノは以後、法術の研究に精を出すようになった。
そして数年たち、縁談が来る。
おせっかい焼きがいるのは日本もヒガツも同じと見え、あれよあれよという間にスギノは下級貴族の若い娘と夫婦となる。
日本に残した妻子に対し思うところはあったが、もはや戻る術はなく、覚悟を決めている。
スギノはヒガツに家庭を持った。
妻はスギノが異邦人であることに大変興味を持ち、あれこれと尋ねてくる好奇心の強い女性だった。
スギノのために、すき焼きを作ってくれたこともある。もっとも砂糖と牛に似た家畜の肉が入手困難なため、形ばかりで味は別物であったが。
スギノは美味い美味いと食べたものだ。
翌年、子に恵まれた。
娘は春に咲く可憐な花の名前ツミネノナハからとり、ツミネとした。
なおヒガツには五つの季節があるが、日本より一つ多いのは春と夏の間に梅雨にあたる季節が入っているというだけなので、ほぼ同じといって差支えない。
ツミネには格別の法術の才能があり、齢十にして法術寮に招かれ、ひたすら技術をみがく。
十六の年にツミネは紫魁生となり、卒業し、そのまま朝廷の法術寮につとめた。
親子で法術寮に務めるのは珍しいため、都でちょっとした噂になったものである。
が、幸せは長くは続かなかった。
周囲の村落を荒らしまわる賊がついに都にも来たらしく、ひと月に1度2度、貴族の邸宅が襲われた。
そしてついにスギノの住む屋敷にも賊が入ったのである。
朝廷は警備を厳しくしていたが、その隙をついたか。
しかし賊は入る屋敷を間違えたのである。ツミネの秘術は賊をことごとく打ち倒し、駆けつけた家人によって縛り上げられる。
ただし、スギノの妻は賊の凶刃にかかり、命を落としてしまった。
法術は自らの五感をつかさどる器官を天に捧げると、その威力を増すことができる。
ツミネは家族の危機に際し、ためらうことなく、左耳を天に捧げた。
母の部屋から出てくる賊に廊下で遭遇したツミネは左耳に手を当て念ずるや、10人からなる賊はたちまち見えぬ力にくみふされ、全員ことごとく体の骨と言う骨が折れたという。
結果、彼女は父と家人を救ったが、母と左耳を失ってしまったのだ。
スギノは最愛の妻を失いふさぎ込む毎日だったが、自分の研究に進展もあり、だんだんに調子を取り戻していく。
法術寮に入って以来、スギノは元の世界に戻る方策をずっと研究していたのだ。
占星寮のオババが言うには、来年の弥生月。都の南にある菊灯山(キクビヤマ)のカブト峰に異世界の存在が近づくという。
かねて研究していた移転の法術は完成している。
思えば自分がこの世界に落ちたのも菊灯山であった。おそらく、その時も異世界の存在が接近していたのだろう。なにかの拍子に自分はあの閉塞船内で運悪く重なった世界の狭間に落ちてしまったのだ。
自然のいたずらではあるが、人為的にこれを再現することは理論上可能だ。
占星寮のオババは一つ付け加えた。
「スギノ。お主の恩人にして上役の者が落ちてくるぞ。」
スギノは直感した。
もう30年も前になる。
元の世界でそもそも自分は何をしていたのか。
実際の自分はヒガツに来たわけだが、元の世界で自分は閉塞船に戻ったきり行方不明となっているはずだ。それを探しに広瀬少佐が船に戻ることは十分予想できる。
恩人にして上役。きっと広瀬少佐であろう。
広瀬少佐をヒガツにとどめおくわけにはいかない。日露の戦は始まったばかりである。
広瀬少佐には戻っていただかねば。
ここでスギノはふと考えがよぎる。
「俺も戻れないだろうか。老いたりとはいえども、元はと言えば自分は帝国海軍の上等兵曹だ。その職を全うせぬまま朽ちるのか。妻も子供もどうしているだろうか。理論の上では日本ではわずか数分ほどの時間しかたっていないのだが。」
遠い記憶に郷愁が乗り、甘酸っぱい気持ちが心に満ちる。
しかしその考えをスギノは打ち消す。
「いまや自分はヒガツの人間である。法術寮で責任ある仕事を仰せつかっている。これを放擲していずこへ行こうというのか。何よりここには妻の墓がある。命を救ってくれた愛娘ツミネをひとり置いていけようか。」
その夜、屋敷で深夜一人酒を飲み、悩むスギノのもとにツミネがやってくる。
父上は何を悩まれているのかと。
スギノは仕事のことであるとごまかしたが、ツミネは食い下がる。
押し問答の末、スギノは観念し、元の世界に戻るべきか否か。それで悩んでいると娘に告白する。
ツミネは言う。
「いつかこの日がくると思っておりました。父上はそもそも異邦人。
元の世界にも家族があり、仕事があり、友人知人がいる。それを恋しいと思うのは当然であり、また、そこに戻るのは、ひとつの世のことわりです。」
と。
スギノはお前を置いていけぬとツミネに言うが、ツミネは私は一人で生きていける、と譲らない。
月は山の端に隠れ、夏の虫の音も静かになる。
夜も遅くツミネも自室に戻って行った。
布団の中で何度となく寝返りを打つ。
懐かしい日本の山野。
いまや顔も思い出せなくなってはいるが、確実に心の大事なところにしまわれた妻子、実家の両親兄弟の記憶。
スギノは揺らぐ。心をかき乱される。