午後にさしかかり、菊灯山には雲がかかってきた。
霧に包まれ、ときおり頬に水滴がおちる。
雨をしのげる岩陰に三人はいた。
あたりの背の高い草を刈り、杉野が編んで作った敷き布団にツミネは横たわっている。
行李におさめていた布を出し、裂いて作った応急包帯で両目を覆われたツミネ。
出血はとまっていたが、布の眼窩にあたった部分は朱に染まっていた。
杉野はひとことも発しない。ツミネのかたわらに正座し、ツミネを凝視し動かないのだ。
ツミネは寝ているようだった。
寝息が聞こえる。
しばし二人だけにしてやろう。
広瀬は岩陰をでてツミネが転移させた立岩にいた。
匙ですくわれたような切り口をなでつつ、今後の事を考える。
杉野はしばらくは動けまい。ツミネ殿も。
不可抗力ではあるが、結果的に私のせいであの二人は朝廷のお尋ね者になってしまった。
カネミノは都に転移したのだろう。杉野の話からすると、馬で丸一日かかる距離とのことなので、朝廷からの追手がくるのは明日か。
こういう世界であるから、まともな裁きは受けられまい。
日本の平安時代ならば、朝廷の役人に刃向かったものの末路は死罪か流刑といったところだろうか。
五体満足であればツミネ殿はその才を買われ、復帰の目もあるかもしれないが、あのとおりだ。
私が元世界の知識で朝廷に貢献するとして、なにがあるだろうか。
陸軍の将校であれば何か役立つ知見でのし上がれるのかもしれないが、現代海軍の運用知識しかない私に平安時代の水軍をどうこうできるとは思えない。
マッチ一本作ることもできない。
なにかそれでも探せば朝廷に高く売りつけられる才があるのかもしれないが、今は思いつかない。
カネミノ達を転移させた反逆を帳消しにできるような何か。
「広瀬少佐」
杉野の声がした。
振り向くと杉野の肩を借りたツミネが来ていた。
「ツミネ殿、まだ動いては。」
「風を感じたいのです。」
二人でツミネを立岩の根元に座らせる。
「匙ですくわれた」切り口はツミネが腰を掛けるのにちょうどよい高さだった。
霧はますます濃くなり、湿気た風がゆるゆると吹き、三人の体をなでる。
杉野はツミネに携行食量の甘味ものを食べさせた。
「父上。」
「どうだ、美味しいか。」
「舌を差し出さず良かったと、思います。」
ツミネがおどけた。
杉野が泣き笑う。
「杉野。朝廷の追手は明日にはここに来よう。どうする。」
「西国に向かいます。」
「西国があるのか。」
「まずはあちらの。今は霧で見えませんが、山があります。あの麓に私の手のものが住む庵があるので、そこに身を隠し、ツミネが十分動けるようになってから目指すのです。」
広瀬は杉野が無茶なことを言っているのがよくわかった。
朝廷がいかな力を持っているのかは知らないが、仮にも一国の政府。
本気で追ってきたら杉野の息がかかった場所などすぐにつきとめ、追い詰められる。
しかし、これは私に説明しているというよりツミネを安心させるための言葉だろう。
賢いツミネが信じるとは思えないが。
ツミネが杉野の手を取る。
「父上。私の手をカブト峰に向けてください。正確に。」
杉野がツミネの手を取り、向けた。
「どうした。」
「法術家としてカブト峰に拝礼をしたいのです。このような体にはなりましたが、今ここまで私たちを導いてくれたのは法術。」
ツミネはカブト峰に頭を下げ、なにかをつぶやいた。
頭を上げるとツミネは杉野の手を取る。
「ヒロセ様のお手も。お願いします。」
広瀬はツミネの差し出した手を握る。
ツミネが二人を引き寄せ、両手で抱く。
「父上。広瀬様。こうなったのは全て私がいたらぬため。」
「ツミネ殿。それは違う。違う。
私は帝国海軍の軍人。異国の地方人女性にここまでしていただいたのだ。感謝こそすれ、なぜツミネ殿を責められようか。」
「ツミネ。父が愚かであった。元の世界に戻ろうなどと色目を持ったが不徳の始めよ。父を許してほしい。」
「父上。私の右耳に、口を当て、私の名前を呼んでください。」
杉野は涙をこらえ、ツミネの右耳に「ツミネ、ツミネ」と数回つぶやいた。
「・・・満足いたしました。
では、お別れです。父上、広瀬様。」
「お別れ?」
広瀬は杉野と自分が怪しく光っていることに気づく。
先ほどのカブト峰への拝礼とつぶやきは移転術の手順であったか!
「まさか。」「ツミネ!」
ツミネは勢いよく右耳に右手の掌をあてる。あてるやいなや右耳からの出血。
「カブト峰の方角は今朝がた広瀬様のためにあらかじめ定め置いた方角と目があります。大丈夫です。父上と広瀬様は元の世界に・・・」
広瀬と杉野はツミネの言葉を最後まで聞くことができなかった。
あっという間の出来事。
光ったと思ったら、二人は福井丸の甲板にいたのだ。
広瀬「も、戻った。」
杉野は腰が抜けたのか口をぱくぱくさせて動けない。
広瀬は杉野の頬を二度三度平手でたたく。
「杉野しっかりしろ!ここは福井丸だ!端艇に、端艇に戻るんだ!」
杉野は広瀬の肩を借り、ようよう立ち上がると広瀬について走る。
傾きつつある福井丸。接舷した端艇が見えた。
「おお、広瀬少佐が戻られたぞ。」
「杉野も一緒・・・だ?」「だれだ。老人がいるぞ。」
波に揺れる端艇はざわめいた。
広瀬は端艇に叫ぶ。
「話はあとだ。まずはそちらに移る。この御仁も連れて行くぞ。」
そういわれては乗組員も動かざるを得ない。
「杉野、渡れるか。」「ははは、もう忘れてしまいましたが。」
「一緒に、ほら。」
広瀬は端艇に足をかけ、杉野の手を支える。
乗組員はその老人にどこか見覚えがあることに気づいたが、今はそれどころではない。
その時。福井丸の上空に一瞬光が走った。
端艇に乗っていた水兵が、あっと叫ぶ。
岩が見えた。
大きな岩だ。しかし違和感がある。後日、それを目撃した水兵はこう語った。
「一方がまるで匙ですくった豆腐みたいに綺麗な切り口で・・・」
その岩に気づいたのは一人の水兵だけだった。
端艇にいざ乗り込もうとする広瀬と杉野は何も発するいとまもなく、岩に押しつぶされ、海底に消えていった。あとには巨大な水柱が残り、水柱が崩壊するときの海水でみなずぶぬれになった。
あまりにも唐突なことだったので、皆はロシアの砲弾が運悪くあたったのだろうと解釈した。一人の水兵をのぞいて。
端艇は広瀬少佐と謎の老人を救うことができず、失意のうちに福井丸を離れた。
ほどなくして福井丸は沈没。
旅順港閉塞は成った。
-カブト峰-
光のない闇の世界。音のない静寂の世界。
ただ、自分の脈の音だけが体内に聞こえる。
風を感じる。晴れてきたのか。日差しの熱を感じる。
ツミネは手探りで草原を歩いていた。
転移は成功した。
方角と目は間違いなかった。自分の人生で最高の転移を成し遂げた自信がある。
ツミネの手に樹木の皮が触れた。
立岩の近くにあった大きな灌木だろう。
ツミネは木に体を預ける。
天を仰ぐ。
ツミネは満足感で心も体も満たされていた。
父上をついに元の世界に戻すことができた。
広瀬様も。
ロシアとの戦いの話は聞いている。きっと。きっとあの二人は活躍する。
戦を終え、元の世界できっと幸せな人生を送るだろう。
ツミネにはまだ口が残っている。
「父上、広瀬様。ご武運を!」