[刀剣乱夢] 燭台切光忠は主を甘やかしたい 作:himausa
第一話 [か] 格好良くなりたい
白い石畳を敷いた正門から玄関までを、俯いたまま急ぎ足で歩く。
会場を出る直前、背後から聞こえた声が、まだ耳の奥に残っていた。
「あなた、審神者に向いてないわ」
横引きの玄関を乱暴に開け、靴を脱ぎ捨てるようにして上がる。赤松のよく磨かれた廊下が続いている。誰かが声をかけかけて、途中で言葉を飲み込んだ気配がした。
「長くやっていて、こんな編成にしかできないの?」
耳の奥にこびりつく非難の声に、視線を上げられない。
上げてしまえば、全部こぼれてしまう気がした。
奥の仕事部屋へと続く障子を抜け、六畳の和室に入って、すぐに戸を閉める。
中は入れ替えたばかりの清浄な空気に満ちていたはずなのに、自分が入った途端に濁ったように感じた。
「こんな弱い編成で。貴方に使われる刀剣男士が哀れだわ」
部屋の奥へ進み、座布団を乱暴にどかして、そのまま膝を抱えて蹲る。
息がうまくできない。
とうとう堰が切れたように、涙があふれた。
わかっている。
自分が向いていないことくらい、ずっと前から。
涙が止まらないまま、膝を抱え込む力だけが強くなる。
ここに来てからずっと、正しいやり方が分からない。
努力しているつもりだった。
でも、その“つもり”すら、否定された。
ここは、本丸。歴史を守るために、日本刀に宿る魂を人の形へと顕現させた存在、刀剣男士と共に戦う場所。
そして自分は、その主、審神者だ。
「主くん」
障子の外から、涼やかな男性の声が聞こえる。
本日から補佐として近侍の任についた刀剣男士、燭台切光忠の声だった。
「そこにいるよね」
いるともいないとも言えないまま、息をひそめる。しゃっくり上げる音さえも聞こえないように。
「入ってもいいかな」
許可を求める穏やかな声に、ひゅっと息をのむ。
きっと審神者らしくないと幻滅された。それを受け止めるのがつらい。
でも、彼を近侍にしたのも演練に連れて行ったのも、自分だ。その責任を投げ出すことはできない。
「…どうぞ」
ごく小さく、許可の声を出さざるを得なかったが、顔は上げられなかった。
障子の開く音がして、部屋にひとつの気配が入ってきたのがわかる。
顔を上げるつもりがなかったのに、ついこっそりと視線だけを向けてしまう。
黒い戦装束を着こなしたその姿勢のいい男は、ただそこに立っているだけで目を引いた。
……いつ見ても、格好いい。
そう思った瞬間に、さらに俯く。
「……ごめんなさい」
言葉が、それしか出てこなかった。
言い訳のしようもない。勇気を出して、近侍になってもらったのに、やっぱり自分が彼のようになんて無理な話だったのだ。
きっと近侍を辞めたいと言われるのだろう。
ぐるぐると暗い思考が巡っていたので、じっと観察されていることには気づきようがなかった。
「……顔を上げてくれないかな」
静かな声だった。
責めるでも、慰めるでもない。
ただ事実を確かめるような、落ち着いた声音。
ふるふると首を振る。
「も、もういいんです。燭台切、さんも……呆れたでしょう」
喉が詰まる。
「私なんかが審神者だなんて」
言い切った瞬間、自分でもそれが正しいのか分からなくなる。
それでも、止められなかった。
燭台切は責めなかった。
「僕ね」
穏やかな声が続く。
「格好良くありたいんだ」
知っている。
燭台切は顕現した日からずっと、誰よりも格好良い刀だと、自分は思っている。
「でも最初から格好良かったわけじゃないよ」
顔を上げられないまま、目を瞬いた。
「格好良くなりたいと思ったんだ」
低く小さな苦笑がこぼれて聞こえて、そろ、と顔を上げる。優しいまなざしが自分を見つめていた。
「失敗したくないし、みっともないところも見せたくない。けれど、それ以上に格好良くありたかった」
だから努力した。
背筋の伸ばし方も、立つ角度も、言葉の選び方も。
……全部だよ。
「格好良い人だから格好良いんじゃない」
燭台切は、静かに続ける。
「格好良くなりたいと思った人が、格好良くなるんだよ」
そんな風に考えたことがなかった。自分は駄目な人間だから。自信がないから。頼りないから。
そこから先を考えたことがなかった。
「主くんは」
燭台切が穏やかな声音で続ける。
「自分のことになると諦める癖がある」
ずきりと胸が痛んで、抑える。否定できなかった。
「でも刀たちのことになると違うよね」
続けられる言葉に、目を見開く。
「誰かが僕たちを悪く言ったら、君は怒る」
その通りだった。それだけは許せない。自分の本丸の刀剣男士は格好良い。優しい。強い。誇らしい。
でも、なぜそれを知っているのだろう。
「だったらさ」
燭台切の視線が、声音が柔らかく笑む。
「主くんも、その中に入れてあげたらどうかな」
想いもよらない提案に、完全に顔を上げる。泣きはらしたひどい顔を。
「え」
「主くんはよく頑張ってる」
「そんなこと」
「あるよ」
否定をしようとしたら、即座に肯定を重ねられた。
「何年も本丸を守ってきたじゃないか」
そんなのは誰でもやっている。……そう思ってしまう。
「つらい理由を抱えながら」
そんなもの誰だって抱えている。……自分が一番不幸だなんて思ってもいない。
「それでも毎日仕事をしている」
そんなこと、それしかできないからに他ならない。
でも、こんな風に、誰にも肯定されたことがなかった。
燭台切が静かに微笑む。
「だからまずは一つ」
黒い手袋の長い人差し指が立って、そこに目が向かう。
「……一つ?」
「格好良いと思うこと」
その言葉は柔らかく耳に届いてきた。
「自分には無理だと思わなくていい」
無理だと、いつだって、あきらめてきた。それを、あきらめないなんて、難しいに決まってる。でも、燭台切が、憧れの人が言ってくれるのならば、また勇気を出してもいいだろうか。
目からまた、ほろりと涙がこぼれた。
「私、も、格好良くなりたい、です」
燭台切はよくできましたというように、頷いた。
「それだけで十分だよ」
昼の光の中で、つられるように自分は小さく頷いていた。
この人が言ってくれるのなら、もう少しだけ前を向いてみようと思えた。
とん、と柱を軽くたたく音がして、顔を部屋の入口へ向けると、金髪の愛らしい少女が立っていた。
「あるじさん、話は聞かせてもらったよ」
そのまま嬉しさを前面に出して、自分の手を取って喜んでくれるのは乱藤四郎という刀剣男士だ。
「ボクたちも協力するからっ」
「え」
「燭台切、何からやる?」
さっきまで乱が立っていた場所に、今度はハスキーボイスで、白衣姿のクールな眼鏡少年立っている。
「薬研さん、乱さん?」
「とりあえず、顔、洗おう!」
乱が言うと、薬研が水を入れた洗面器とタオルを差し出した。用意がいい。
「いつから、聞いてました?」
乱が小首をかしげて笑う。
「いいからいいから」
「良くないです」
「ほら、あるじさん」
乱にタオルを濡らして、顔に押し付けられる。ほんの少しぬるめだ。
クスリと燭台切の苦笑が聞こえる。
「そうだね、まずは顔を洗って、髪を梳かして、服装を整えようか」
「あー、でも、あるじさん、服あんまり持ってないよね?」
乱の指摘に、ぐっと顔をタオルに押し付ける。
「……必要ないですし」
「必要でしょ」
「燭台切、大将の服は今のセットが五着」
「それって」
「そー、ほぼ制服。ね、あるじさん、ボクの着てみ」「ません」
即座に断る。流石に、乱のスカートは短すぎて恥ずかしい。可愛いし、見る分には好きなんだけど。
乱が苦笑する。
「ま、そうだよね。ボク、化粧水とか櫛とかとってくる」
「え」
「必要なの、ね?」
押しの強い乱に、戸惑いながら、苦笑する。
「わ、わかりました」
燭台切の視線を感じて、振り返る。
「主くん、なんだ、ちゃんと笑えるんだ」
「え」
自分の頬に手を当てる。
「薬研さん、私、笑ってました?」
薬研が苦笑する。
「ああ、笑ってたぜ」
「そう、ですか」
燭台切が不思議そうにしている。もう一度タオルをぬるま湯に浸からせ、顔に当てる。そういえば、化粧水、なんて何年もつけてない。
「燭台切が来てからは違うんだ」
「ん?」
「以前は笑ってるところはほぼ見てない」
タオルを外して、薬研を見ると、小さい子にするみたいに頭を撫でられた。
驚きに見開かれた燭台切の視線を感じ、そっと外す。最近笑うようになった、という薬研の言葉が信じられないのだろうか。自分自身、自覚はなかった。
「今回あんたを近侍に勧めたのは、俺と乱、それと山姥切だ。まあ、最終的には変わりたいと大将が言ったからだけどな」
「っ、薬研さん、それは…っ」
「おっと、話しすぎちまったな」
顔が熱い。燭台切を見るのが怖い。
「……そういうことなら、喜んで協力させてもらうよ」
柔らかな低音に顔を向ける。
「長船が祖、燭台切光忠の名に懸けて、主くんを格好良く改造しよう」
そして、極めつけに片眼を閉じて。
「っ」
息が、止まるかと思った。似合いすぎるし、格好良すぎる。
「……む、むり、かも……」
「おいおい、大将」
「ちょっと、主くん?」
「…か、格好良すぎる…」
少しの間の後で、二振が噴き出すのが聞こえて、自分はタオルに顔をしっかり押し付けた。
「ねえねえ、あるじさん改造計画ならさ、いっそ目を出そうよ」
「え」
「せっかくきれいだしさ」
「え」
自分の手で前髪を抑える。
「そ、れは」
「だめ?」
「恥ずかしいです」
隠したまま即答する。絶対に無理だ。
乱が「あー」と納得した声を出す。
燭台切の苦笑が聞こえた。
「じゃあ質問」
「……?」
「主くんは僕のこと、格好良いと思う?」
それは当然思う。とても。誰よりも。それこそ顕現した日からずっとそう思っている。
「……思います」
「ありがとう」
燭台切の礼の言葉に、抑えていた手を外して、その整った顔を見る。少し困った顔で笑っているようだ。
「じゃあ、どうして格好良いと思う?」
問われて、考える。
それはもちろん、立ち居振る舞い、優しい声に、綺麗な服装と、指先が迷いなく髪を梳く時とか。その動作の一つ一つが、まるで手入れの行き届いた刀の鞘を扱うように丁寧で。
それから――
「目が、綺麗で」
言った瞬間、はっとした。
燭台切が微笑んで頷く。
「うん」
「姿勢も良くて……」
「うん」
「ちゃんと、人の顔を見て話して……」
「うん」
優しく相槌を打ちながら、燭台切は少しだけ首を傾げた。
「それなのに、自分は隠しちゃうの?」
言葉が詰まる。
自分が隠したいのは、見られたくないからで、それは自信がないからだ。
そんな答えしか出てこない。
「格好良くなる第一歩ってね」
燭台切は静かに言う。
「自分を隠しすぎないことなんだ」
その言葉は不思議と責めるようには聞こえなかった。
ただ、道を示してくれているようだった。
「全部変えなくていい」
燭台切が続ける。
「ほんの少しだけ」
そう言って、自分の前髪を指先で摘まむ。
「少し整えるだけ」
乱が勢いよく手を挙げた。
「ボク得意!」
「乱、待て」
薬研が即座に止める。
「その勢いは怖ぇ」
「失礼だなあ」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ始めた二振を見て、思わず笑ってしまう。自分を見た燭台切が柔らかく目を細めていた。
「ほら」
「?」
「今の顔、すごく素敵だった」
また顔が熱くなる。けれど以前ほど否定したくはならなかった。
少しだけ。
本当に少しだけ。
燭台切の言葉を信じてみたいと思ったから。
「……じゃあ」
もう少しだけ、勇気を振り絞ることにした。
「少しだけ、なら」
乱が歓声を上げ、薬研が額を押さえ、燭台切は満足そうに微笑んで頷いてくれた。
「あるじさん、ここに座って!」
部屋を出て、縁側に座る。
「は、はい……」
乱はまるで出陣前のような勢いだった。外に回って、鋏と櫛を構える。
「あるじさん、髪柔らかいよねぇ」
「そ、そうですか?」
「うん。猫っ毛」
するすると優しい手つきで、乱の細い指が髪を梳く。彼は楽しそうに鼻歌まで歌っている。
「あるじさん、眼鏡とって、目、ぎゅってしててね」
「……はい」
言われるままに眼鏡をはずし、両目を閉じると、視界が暗くなった。
少しだけ緊張する。
前髪を少し梳かして持ち上げて。
さくり。
小さな音がした。
そしてまた、同じことを繰り返す。
さくり。
さくり。
前髪が、少しずつ切られている。そう気付くたびに心臓がどきどきする。
変になるという心配はしない。だって、乱だって短刀の刀剣男士だし、戦装束からもセンスがいいのはわかっている。
隠していたものがなくなっていく。
この前髪は、長年のお守りみたいなものだった。
けれど乱の手は迷いがなかった。
でも、不思議と怖くはない。
「うーん」
乱が少し離れる気配。
「ここをこうして……」
髪を整える音、顔の前で何かが動く感覚、薬研が何か言いかけて黙る声、燭台切の低い相槌。
数分ほどして。
「……よし、完璧!」
乱が満足そうに宣言した。
「あるじさん、目を開けていいよ」
恐る恐る目を開くと、目の前に、三振ともいて、何故か硬直していた。
「……え?」
嫌な予感がする。何か失敗したのだろうか。乱がそんなまさか。
「……お、おい、乱」
薬研が珍しく動揺していた。
「えっと」
乱が乾いた笑みを浮かべる。
「ちょーっと予想を超えてきたね」
「ちょっとじゃねぇっ」
「だよね!?」
「だよねじゃねぇ!」
珍しく本気で言い争い始める二振に、不安が急上昇する。
やっぱり失敗だったのでは、乱がじゃなく、自分の顔が変なのでは。それはもう、取り返しがつかないくらい。
「す、すみません……」
謝ろうと頭を下げた、その時だった。
ふわり、と誰かの手が髪に触れた。
ゆっくりと顔を上げる。目の前にいたのは燭台切だった。
刀を振るう硬く大きな手が、長い指が自分の前髪をひと掬いする。乱の手で整えられた前髪が揺れた。
至近距離に燭台切の整った顔がある。
心臓が止まりそうになり、息を止めていた。
燭台切は金色の瞳を細める。まるで宝物を見つけたみたいな優しい声だった。
「綺麗な目だ」
瞬きをする。
燭台切が瞳の奥を覗き込むように見つめて、一瞬だけ息を呑んだのがわかった。
「……霊力の強さがここにあるとはね……」
とても小さくささやく声。なにをいっているのだろう。霊力なんてほとんどないのに。
きょとんとしていると、燭台切が思わずといった感じで、笑っていた。
「うん」
髪から手を離す。
「とても格好良くなった」
その言葉に、ぽかんとする。
「……かっこ、いい?」
「うん」
「私が?」
「うん」
迷いのない声だった。
「前よりずっと」
鏡を差し出され、恐る恐る覗き込む。
そこに映っていたのは、少し短くなった前髪で、見えるようになった目元。
いつもより少しだけ表情が分かる顔だった。
よく知っている自分の顔のはずなのに、知らない人みたいだった。
「……」
言葉が出ない。
綺麗でも、特別でもない。
自分ではそう思っていたけれど。
少なくとも、嫌ではなかった。
「どう?」
乱が期待に満ちた目で尋ねる。
鏡でもう一度自分を見つめる。
もう一度。
もう一度だけ。
そして。
ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……ちょっと」
三振が身を乗り出す。
「ちょっとだけ」
頬が熱い。
恥ずかしい。
けれど。
「格好良い、かも」
一瞬、部屋の空気が止まったことに気づかず、鏡の中を見続ける。自分の目なんて、久しぶりに見た気がする。焦げ茶色の何の変哲もない、ごく普通の目。
「やったーーーっ!!」
乱が飛び上がったことに驚いて、彼を見やる。
「言った! あるじさんが言った!!」
「よく言えたな、大将」
薬研まで笑っている。
恥ずかしさのあまり顔を覆った。
けれど。
指の隙間から見えた燭台切は、まるで自分のことのように嬉しそうに笑っていた。
三振が目の前で相談していることに、鏡で自分を凝視していて、気づかなかった。
「せっかく綺麗な目なんだから隠しちゃもったいないけど」
乱が腕を組んで唸る。
「これ、相当数酔うぞ」
薬研が真顔で言う。
「そうだね」
軽く同意したのは燭台切だった。
「でも、今更だ」
「まあな」
二振が頷き合う。
当の本人だけが話についていけていない。
そっと傍らに置いたままの、いつもの眼鏡をかける。
「ちょ、ちょちょっと、あるじさん!?」
乱が悲鳴を上げた。
「えっ」
「なんで眼鏡!?」
何でと言われても、と困って眉を下げる。
「でも……見えません」
その一言で部屋が静かになった。
薬研がふむ、と頷く。
「まあ、前より見えるようになったんだしな」
「ちょっと、薬研ー?」
「いいだろ」
薬研がさらりと言う。
「ガラス一枚挟むだけでも違う」
乱が納得したように「あー……」と声を漏らした。
燭台切も反対しなかった。
「ただ」
燭台切が口を開く。
「今度、良いフレームを見に行こうか」
「ふれーむ?」
「眼鏡だよ」
ぱちぱちと瞬きをする。
「今のも似合ってるけど、せっかくだからね」
「それいい!」
乱が勢いよく食いつく。
「じゃあじゃあ服も格好良くしちゃおうよ!」
びくりと体を震わせると、燭台切が苦笑と共に近づいてくる。
「主くん、ちょっと立ってみて」
言われるまま立ち上がると、燭台切は一周ぐるりと眺めた。
今着ているもの、というか普段から着ているのは、シャツ、黒いパンツ、ダークグレーのカーディガンだ。一応、無難な目立たないものにしているので、悪くないはずだし、色の組み合わせも落ち着いているはず。
「まず」
燭台切が肩に手を添えてきた。大きな手のひらに心臓が音を立てそうで、息を止める。
「猫背」
後ろへとぐっと引っ張られる。強い力は流石に太刀だ。
「うっ」
「それから」
ごつごつとした長い指が襟元を整えてくる。折り目を正す動きは無駄がない。鎖骨に触れる部分は極力触れないようにしてくれているが。
「少し曲がってる」
「うっ」
「あと」
その手が軽く手首に添えられ、袖を軽く引いてきた。整えているのに、肌に触れるのは最小限の気遣いまでできてる。
「しわ」
「ううっ」
駄目出しの連続に縮こまりそうになっていると、燭台切が軽やかに笑った。
「でも逆に言えば、それだけだよ」
「……え?」
「服は十分似合ってる」
思っても見なかった言葉に固まり、ゆっくりと燭台切を仰ぎ見る。
「似合ってる?」
「うん」
燭台切は当然のように頷いてくれた。
「主くんは色白だし、落ち着いた色も似合う」
乱も頷いている。
「確かに」
「背も高い方だしな」
薬研も続いて頷く。
「問題は服じゃなくて着方か」
「そういうこと」
燭台切が満足そうに笑っていた。
そして、背中にそっと手を添えてきた。触れるか触れないかの絶妙な距離感で。
「背筋を伸ばして」
自然と身体が起きる。
「肩の力を抜いて」
言われるとおりにすると、少しだけ呼吸が楽になる。
「顔を上げて」
燭台切の言うとおりにすると、視線が前を向く。
それだけ。本当にそれだけだった。
なのに、乱が目を見開く。
「わ」
薬研も感心したように息を吐いていた。
「なるほどな」
「……?」
三振が何を言っているのかよくわからなくて、首を傾げる。
燭台切は少しだけ目を細めていた。そんな姿も様になっていて格好いい。
「うん」
燭台切は満足そうに頷いている。
「格好良い」
「か、格好良くは……」
「ほら」
燭台切が笑う。
「今、自分を貶そうとした」
しまった、と思ったら、乱が吹き出していた。薬研も肩を震わせている。
そんな中、燭台切は優しく続けた。
「格好良いよ」
今度は否定を許さない声だった。
「髪を整えて」
「……」
「服を整えて」
「……」
「姿勢を整える」
そして。
「格好良さって、案外そういうところから始まるんだ」
真っ直ぐに見つめて微笑んでくれる燭台切は、誰よりも格好良かった。
こんなふうに真っ直ぐに格好良くなりたい。そう思った。
その夜、鏡でもう一度自分を見てみた。
自分の部屋の外には、燭台切から渡された大きな姿見。
その前に立ち、今日言われたように服の皺を整える。背筋を伸ばし、自分の顔を見る。
「一日一回、自分を貶さない、こと」
小さく、口に出してみる。
できるかは分からない。
けれど。
格好良くなりたいから。
「一日一回、自分を貶さない」
自分に言い聞かせるように、もう一度呟く。
鏡の中の自分はまだ頼りない。
けれど、朝よりは少しだけ顔を上げているように見えた。
格好良くなりたい。
燭台切のように。
その願いが、自分の中にあることが少しだけ嬉しかった。
だから、まずは明日。
一日一回、自分を貶さない。