[刀剣乱夢] 燭台切光忠は主を甘やかしたい 作:himausa
時の政府からの通信があった数日後、本丸に訪問者があった。
時の政府の使い、ということだったが、来たのは、時の政府所属の刀剣男士、水心子正秀と源清麿。どちらも、この本丸にはいない刀剣男士だ。
燭台切は、二振りの顔を見た瞬間に空気が違うことを察した。
時の政府の刀剣男士であること以上に、「持ち込んではいけないもの」を抱えている目だった。
「通信では言えない。だから直接来た」
水心子正秀の言葉は短い。
「それだけ重要な案件だ」
源清麿が、補足するように言う。
「正確には、通信に載せると“消される可能性がある情報”だね」
燭台切の背筋に、微かに冷たいものが走る。
主は、膝の上で手を握っている。
山姥切国広の視線が、わずかに鋭くなる。
長義は最初から構えていたように、淡々と問う。
「つまり、秘匿ではなく“抹消対象”か」
水心子は一瞬だけ目を伏せ、それから頷いた。
「その可能性が高い」
清麿が資料を一枚だけ取り出す。
「まず前提として。観測記録の一部に“欠落”がある」
「欠落?」
国広が反応する。
「うん。正確には“存在しているのに、内容だけがない”状態」
清麿の声は静かだった。
「普通はありえない。記録は残るように作られているからね」
長義が小さく舌打ちする。
「なら、人為か」
水心子が続ける。
「さらに、同時期の閲覧履歴が一部消失している」
「誰が閲覧したか、という記録ごとだ」
部屋の温度が、少し下がる。
燭台切はその言葉を聞きながら、主の指先が震えているのに気づいた。
清麿が、最後に一枚だけ紙を置いた。
「それからもう一つ」
「観測記録の改竄に関与した可能性がある人物の中に」
一拍。
「この本丸の“審神者教育担当”の名前がある」
その瞬間、主の手から力が抜けかけた。燭台切は、反射的にそれを支える。主の呼吸が浅くなっていた。
長義が紙を奪うように取り、目を走らせる。
「……ふざけているな」
低い声だった。水心子は否定しない。
「断定はできない」
「だが記録上は、接点がある」
清麿が、静かに付け加える。
「そしてその接点のログだけが、きれいに薄い」
主の目が、一瞬だけ遠くを見る。
口がかすかに動いて、でも音にはならなかった。気づいたのは燭台切だけだ。
長義が呼ぶ。
「国広」
「なんだ」
「おまえ、主を連れて少し離れろ」
「なに?」
「休憩してこい」
その声が硬いと、国広も気づいたらしい。
何かある。しかも、主にはまだ聞かせたくない何かが。
「主」
国広が呼ぶ。
「でも」
「行くぞ」
珍しく強い口調だった。
主が戸惑いながら立ち上がる。燭台切も続こうとした。
「燭台切」
長義が呼び止める。
「あなたは残ってくれ」
燭台切の表情が変わる。
近侍として聞いておけという意味だ。
「……わかった」
国広が主を連れて出て、障子が閉まる音が、やけに重かった。
主と国広の気配が廊下に消えるまで、誰も口を開かなかった。
先に沈黙を破ったのは長義だ。
「……主には早い」
「同意だね」
水心子は即答する。
清麿は資料を指で弾く。
「でも、もう隠せる段階でもないと思う」
長義が顔を上げる。
「何を言う」
清麿は一度だけ間を置いた。そして、言った。
「これ、たぶん“選ばれてる”よ」
空気が止まる。水心子が即座に制する。
「清麿、それは仮説の域を出ない」
「分かってるよ」
清麿は軽く肩をすくめる。
「でも、全部つながるんだ」
「選抜履歴の欠落」
「教育担当の関与」
「閲覧ログの消失」
視線が一つずつ資料をなぞる。
「偶然にしては、揃いすぎてる」
長義の声が低くなる。
「それを“必然”にするな」
清麿は少しだけ笑った。
「必然じゃなくてもいいよ」
「ただ、そう計画された可能性がある、ってだけで」
その言葉に、水心子が静かに言う。
「そこまでだ」
だが、清麿は止まらない。
「もしそうならさ」
一拍。
「最初から、主って“こうなるように選ばれた存在”ってことになる」
沈黙の後、長義が言いかけた。
その時だった。燭台切が初めて口を開く。
「……そこまでにしておこうか」
声は穏やかだった。だが、熱がなかった。
清麿がちらりと見る。
燭台切は視線を外さない。
「今の段階で確定する必要はない」
「でも、これ以上は“主に持ち帰る情報”じゃない」
長義が短く息を吐く。
「……同意する」
水心子も頷く。
「まだ材料が足りない」
清麿だけが、少しだけ目を細める。
「足りないまま進むの、嫌いじゃないけどね」
その言葉を最後に、場はようやく落ち着いた。
ただ一人、燭台切だけが気づいていた。
主のいないこの場は、もう安全ではない。
そして、たぶん。
そこまで考えて、ふと気づいた。
今、主は山姥切国広――初期刀と共にいる。
部屋を出る前、主はやけに素直に部屋を出て行った。
長義が燭台切に残れと言った時も。何も。
ふっと、障子を見る。
それを長義が見咎める。
「どうした」
燭台切は、小さく呟いていた。
「……嫌な予感がする」
即座に長義が言う。
「考えすぎだ」
でも、燭台切は首を振った。
「主くんは、きっと止まらない」
「そのために国広をつけた」
「彼は、主くんが選んだ初期刀だ」
長義が黙った。
「もし主くんが、行く、というなら」
彼は、一人で行かせないために付いていくのではないだろうか。
燭台切はぞっとした。
長義も表情が変わる。
そして、全員で部屋を飛び出した。
玄関手前、主と山姥切国広がいた。どう見ても、出かける出で立ちだ。
最初に息を吐いたのは長義だった。
「……国広、おまえ、何してる」
「こいつをひとりで行かせるわけにはいかないだろう」
時の政府に、というのは言わなくてもわかった。
「止めるんだよ、おまえが。初期刀なんだから」
「初期刀だからだ」
言いあう二人を横目に、燭台切は主の前に膝をつき、その両手を押さえて見上げる。
「だめだよ」
主は口をぎゅっと結んで答えない。
「まだ、調査段階だ」
燭台切から目をそらす。
「主くん」
「私のこと、なのに」
その口元が震えて、泣くのを堪えているのが分かった。
「皆さんにばかり」
「適材適所だ」
横からばっさりと長義が言いきる。
「政府の資料は部外者に公開はできないからな」
「だから、今回水心子が動いているんでしょ」
「まだ材料が足りていない。全部集まるまで待て」
水心子、清麿、長義と続けられたが、主は引かなかった。
「それはいつですか?」
「なに?」
「待てば、全部わかるんですか? 今までわからなかったのに? それでも、待てとおっしゃるんですか」
泣きそうなのにはっきりと言ってくる主に、長義が目を瞠った。その必死さを感じたためだろう。
「わかる」
だから、長義は断言する。
「期限まで、まだ時間はある。必ず、それまでに真相を主の前に出す。だから、今は待つんだ」
主の目が長義、政府の刀剣男士である水心子と清麿、国広、と移動し、燭台切を映す。
ぼたり、と大粒の涙がこぼれた。主は声を上げずに、ぼたぼたと泣く。それを燭台切が抱き上げる。
「うん、今はそれでいい」
「うぅ」
「落ち着こう、ね」
こくりと頷き、主は燭台切の胸に顔を埋めた。
時の政府からきている水心子と清麿は、今日ぐらいしか来られない。そちらは長義に任せることにして。
燭台切は主を腕に抱いたまま、庭へと降りた。
気を使っているのだろう。誰も二人に近寄ってこない。
燭台切の腕の中で、まだ彼女は声を上げずに泣き続けている。
今は、もう、泣いてしまった方がいいだろう。このところずっと辛いことが重なりすぎて、彼女は限界に近い。
それが、さっきの行動の一端なのだろう。
しばらくして、すんすんと鼻をすするだけになって。
「…ご、めん…」
「僕、怒ってるから」
優しく燭台切が言うと、びくりと身体を震わせる。本当は全然、怒っていないのだけど。
「気持ちはわかるけど、急ぎすぎちゃだめだよ。戦だって、偵察なしじゃ、失敗することがあるんだ」
「っ、しょ…」
「今回のは本陣、なんだから。ちゃんと、準備をしよう」
彼女はふるりとまた震え、燭台切の胸に手を添える。
「……こわかったんです」
燭台切は何も言わない。
「また」
小さな声。
「また、なくなるのかと思って」
手を握り、ぎゅっと服を掴む。
「全部」
そこで言葉が切れる。
燭台切は静かに背中を撫でた。
「うん」
「……今度こそ」
彼女が震える声で続ける。
「皆、いなくなるんじゃないかって」
燭台切は目を閉じた。
(ああ。そういうことか)
この子は、また失うことを恐れている。
だから焦った。飛び出そうとした。
「主くん」
「……はい」
「僕はここにいるよ」
彼女が顔を上げる。
「皆、勝手にはいなくならない」
そして、少しだけ笑って。
「少なくとも、君を置いてはいかないよ」
燭台切の言葉に、彼女はうるりとまた目を潤ませる。それをぎゅっと両眼を閉じてとどめて、小さく笑った。
風が吹いて、彼女の髪を揺らす。
「わ」
もう一度目を閉じた彼女の額に、燭台切がさっと口づける。
目を開けた後は、何事もなかったように見下ろして。
「みっ、しょ、燭台切、さんっ」
「うん?」
「い、いま」
「うん」
赤い顔でオロオロとしている。いつもの可愛い彼女だ。
「お、おろして」
「え、今、庭だよ? 君、靴はいてないし」
「お、おりますっ」
「だめ」
「あ」
もう一度、今度は前髪に口づける。
「っ、燭台切さんっ」
「主くん」
「……っ、な、んです、か」
少し呼吸が乱れているのを見て、燭台切はようやく、少しだけ笑った。
「落ち着いた?」
「……落ち着いて、ません」
「うん、知ってる」
知っててやってるなんてずるいとか、考えているのだろう。
視線が燭台切から外される。
「燭台切さんっ」
「うん」
「いじわるです」
「そうかもね」
否定しない。
ここで初めて、燭台切は少しだけ、声の温度を下げた。
「でも、さっきの君の方が、よっぽど危なかったよ」
彼女の動きが止まる。
それから、燭台切の神力の金が奥にわずかに混じった焦げ茶の瞳が、おそるおそる燭台切を見上げる。
「お願いだから、一人で決めないで」
彼女から自分は、よほど格好悪く見えるかもしれない。けれど、燭台切はそれでも構わないと思った。
この子は絶対に失えないから。
もしも、彼女が両親を取り戻して、燭台切を忘れてしまったとしても。
ざっとまた風が通り抜けた。その間も心揺れながら、燭台切は彼女と視線を外さなかった。
「燭台切、さん?」
彼女の手が、燭台切の頬に触れる。
「な、なんで、そんな。私、ここにいます、よ?」
燭台切の不安を感じ取って、彼女がおろおろと戸惑うように言う。
風がまた少しだけ、木々の葉を揺らし、音を鳴らした。
「さっきの君はね」
燭台切は静かに続けた。
「“今行かなきゃいけない”って顔をしてた」
「それはたぶん」
一瞬だけ、言葉を選ぶ。どうすれば、伝えられるか迷った。
「君の優しさじゃなくて、怖さの方だ」
彼女の唇がわずかに開く。
でも言葉にならない。
燭台切はそこでようやく、少しだけ力を抜いた。
「本当は怒ってるわけじゃないよ」
「ただ」
手で彼女の柔らかな髪に触れる。
撫でるというより、確かめるように。
「君を、失いたくないだけ」
彼女の目が揺れる。
「失うって……」
声が途切れる。
燭台切はすぐには答えなかった。
代わりに、少しだけ苦笑する。
「君を止めるつもりはない」
そこで一度、目を伏せ、間を置いて、視線を合わせる。
逃がさないほど強くはないけれど、逸らさせないくらいには真っ直ぐに。
「でも、それを“君ひとりでやる”のは、違うと思ってる」
彼女の喉が小さく鳴った。
「……私、ひとりじゃ」
「うん」
燭台切は即座に頷く。
「ひとりじゃないよ」
「だから、勝手に決めて、勝手に背負うのは」
「やめてほしい」
彼女の目にまた涙が浮かぶ。
今度はさっきみたいに堪えきれないものじゃなくて、少しだけ戸惑いの混じったものだった。
「でも……それだと」
言葉を探す。
「燭台切さん、困りませんか」
「困るね」
彼女が固まる。
燭台切は小さく笑う。
「すごく困る」
「でも、君が勝手にいなくなるよりずっといい」
その瞬間、彼女の目から一粒だけ涙が落ちた。
声は出ない。
ただ、息を吸う音だけがする。
燭台切は少しだけ力を抜いて、額を軽く彼女の髪に寄せた。
「僕を困らせるくらいでちょうどいいよ」
少し冗談めかした声。
それに、彼女はようやく小さく笑った。
燭台切はそれを見て、肩の力を抜く。
「じゃあ」
「戻ろうか」
その言葉に、彼女はこくりと頷いた。
足元を流れた風が、枯れ葉を散らして消えた。
執務室に戻る直前、廊下で彼女は燭台切の腕から降りて、軽く身なりを整える。燭台切もその髪を優しく梳く。
「大丈夫、でしょうか?」
「うん、格好いいよ」
それを丁度執務室から出てきた長義たちが見ていた。
「あれ、いつも?」
「ああ、そうだ」
清麿の問いに、国広が頷く。
「はわわ、ハレンチではないか!?」
指で見ないように隠しつつ、顔を赤らめて覗く水心子に、長義が呆れた声でいう。
「……そこまでじゃないだろう」
見られていたことに気づき、彼女がおろおろとする。
「え、あの?」
長義は一つ息を吐いてから、告げた。
「戻ってきてもらったところ悪いが、彼らはもう時の政府に戻る刻限が迫っている。なので、送ってくるよ」
彼らの後ろ姿を見送りながら、彼女がぽつりと言う。
「行ってしまいましたね」
「うん」
燭台切は彼女の肩を抱いて、執務室へと足を向けた。
執務室のいつもの位置に彼女が座ったところで、隣に座って引き寄せる。その頭が自分の膝に乗るように。
「燭台切、さん!?」
「いいから」
「良くないです。長義さんたちが戻って来るじゃないですか」
起きあがろうとする彼女を、燭台切は肩を軽く押さえて、留める。
「うん、それまで君は休憩」
「休憩って」
燭台切は小さな肩から腕へと、ゆっくりと撫でた。
「大丈夫だから」
「でも」
言い募る彼女を、燭台切はじっと見つめる。
「本当は今すぐ、布団で寝て欲しいぐらいなんだよ」
無理をしてほしくない。それを彼女もわかったのだろう。大人しくなる。
「……燭台切、さん?」
ゆっくりと彼女の肩を摩る。
「驚かせてごめんね」
「でも、今の君は自分で思っている以上にボロボロなんだ」
「少しで良いから、今は休んでほしい」
甘えてほしい、というところをやめて、休憩を促す。
そして、彼女の髪を根元からゆっくりと指で梳く。
「長義くんが戻るまで、でいいから」
彼女が困ったように、燭台切を見上げる。燭台切の神力の金を奥に潜ませた焦げ茶の瞳を、燭台切も見つめ返す。
彼女の物いいたげな視線に根を上げたのは、燭台切の方だった。
「だめ。休むんだよ」
困った様子で、彼女が呟く。
「その、膝枕じゃなくても、良くないですか?」
「起きてるより楽でしょ」
「楽、というか、落ち着かない、です」
彼女が手で自分の顔を隠す。
「燭台切さん、下から見ても格好良すぎて」
「あ、んまり、見ないで」
薄っすらと染まってゆく肌に、燭台切は動きを止めた。
指の間から除く目元が赤い。つられてしまいそうだ。
「本当に、自覚がないんだから」
顔を覗き込むように、頭を下げる。
「落ち着かないなら、慣れてもらうしかないかな」
囁くと、ますます赤くなる。
「……そんな顔で他の男士を見ちゃだめだよ」
今までなら可愛いだけで済んだのに。
「……僕だけにして」
不安が離れない。
この子の願いが叶ったら、そこに僕はいられるんだろうか。
「少し良いだろうか」
呆れ交じりの長義の問いかけに、焦って起きあがろうとする彼女を、燭台切は軽く手で押さえる。それだけで、彼女は身動きが取れない。
「そのままで構わない」
「え、でも」
「政府刀の水心子たちには、別方向からの働きかけを頼んだ」
座った長義の隣に国広も座って、主をじっと見た。
その視線が燭台切に向かい、頷く。燭台切も頷く。
初期刀としても、主をこのまま休ませることに賛成のようだ。
「それで、主」
「は、い」
「演練の隊員に俺をいれてくれ。連絡はそれが一番いいだろうということになった」
「それは、大丈夫、ですか?」
「問題ない」
「あの、少し練度、が」
長義の練度が不安だと言いかける主に、国広が言う。
「俺と兄弟も共に。二刀開眼でいけるだろう」
「ああ、堀川さん、でしたら。和泉守さん、を入れるとバランスが」
審神者の顔で考え出す様子に、国広は微かに笑った。
「まかせる」
国広の静かな声に、主は我にかえったようだった。
瞬きを繰り返す主の頭を、燭台切が大きな手で優しく撫でる。
「あ……でも、長義、さんは、その……余計な、詮索をされませんか?」
おずおずと視線を向ける主に、長義はふんと鼻を鳴らし、綺麗に整えられた前髪を指先で払った。
その仕草には、焦燥を隠すための彼なりの傲慢さが滲んでいる。
「他人が、俺の動向に口を挟むなどおこがましいな」
「君は黙って、俺を第一部隊にねじ込めばいい」
戸惑う主に、長義は苛立った様子だ。
「勘違いしないでくれ。君のためじゃない」
「俺としても、歴史の改竄を許すわけにはいかない」
「元監査官として、決して許せることじゃないからな」
淡々と、けれど絶対に引かない意志を込めて告げる長義。その言葉が、彼なりの最大の「優しさ」であり、戦術であることを、主自身はまだ気づいていない。
「……ありがとう、ございます」
小さく呟いた主の声は、まだ不安に震えていた。
そんな主の前、国広の白い布がふわりと揺れる。彼は主の顔を見つめ、毅然と告げた。
「偽史だろうが、本物だろうが、関係ない」
「俺たちがここで、あんたと過ごしてきた時間は本物だ」
「……だから、自分を偽物だというな」
国広自身が「写し」という己の在り方に傷つき、悩み、それでも乗り越えてきたからこそ紡げる言葉だった。その重みに、主が声を震わせる。
「国広、さん……」
「水心子たちも、あいつらなりの『新々刀の祖』としての誇りにかけて動いている」
「だから主、あんたはただ、俺たちの主としてここに居てくれればいい。……いいな?」
燭台切の胸の温もり、長義の冷徹なまでの理性の盾、そして国広の絶対に揺るがない信頼の言葉。
そこまであって、やっと彼女の震えが止まった。
山姥切の二振が去ってすぐ、執務室に乱と秋田、それに薬研といった粟田口の短刀が訪れた。
乱は膝枕されている彼女を優しく見つめる。
「話は聞いたよ、あるじさん! というわけで、今夜はボクたちと寝よう!」
「は?」
「あるじさん、一人だとまた考え込んじゃうでしょ?」
「僕たちと一緒に寝れば、怖いものなしですよ」
「と、虎くんたちも、ご一緒しますっ」
「酒で誤魔化さなくても、よく寝れるんだぜ。粟田口の部屋は、雑魚寝だしな」
普段は月見酒をしてから寝ているのはバレていたらしいことに、彼女が赤面する。
「し、知ってた、んです、か」
知ってるも何も、ずっと見守られていたということを知らなかったらしい。
燭台切は、突然の粟田口の襲撃に一瞬だけ目を細めた。
「……なるほど」
薬研の鋭い視線と、乱の悪戯っぽい笑み。その奥の警戒の色に、燭台切は小さく笑った。
「今夜は、彼らといるのがいいよ」
「……燭台切さん?」
「たまには、ね」
軽く片眼を閉じると、彼女が顔を赤くした。
燭台切自身、少し気持ちを整理する必要を感じてきたところだ。
起き上がった彼女の髪をひと撫でして、燭台切は離れた。
真夜中、廊下で佇んでいた燭台切の胸に、彼女は唐突に飛び込んできた。
呼吸は荒く、混乱と不安に揺れすぎている。
「あ、」
燭台切を映す金色を奥に秘めた焦げ茶色が、安堵の色に染まる。これ以上ないほどに頼りにされている。
でも、今は足りないと感じてしまう。
(彼女が、ずっとそばにいてくれるなら)
壁に彼女を優しく押し付け、額を合わせる。
「主くん、ゆっくり深呼吸して」
「燭台切、さん、」
「大丈夫だから」
最初は、ゆっくりと、神力を注いでゆく。
「わ、たし」
「今は僕のことだけ」
「私、は」
「他のことは考えないで」
安心すると言った神力を、止めることなく注ぎ続ける。今までなら止まれていた範囲を超えて。
「私は……」
絞り出すような彼女の声を遮り、燭台切は優しく返す。
「それは、今考えなくていいことだよ」
「君は今、僕の腕の中にいる。それだけで、十分じゃないか」
声に甘さと、拒絶を許さない響きを潜ませる。
「僕の腕のこの温もりだけは嘘じゃない」
「僕を、僕のことだけ、考えていればいい」
優しく、甘く、ひたすらに甘く囁く。
彼女の瞳が金色に濁ってゆくのを見つめながら。
もしも彼女が全部忘れてしまえば、失うことはなくなる。
だったら、と。
「……みつただ、さん……」
淡い声が、呼ぶ。
もっと呼んでほしいと思っていた呼び名で。
愛しさだけを込めた声で。
(……違う……)
呼んでほしいのは、この彼女じゃ、ない。
「光忠」
大倶利伽羅の低い声に、燭台切は動きを止めた。
「伽羅、なんで止めるんだよー。いいとこじゃん」
太鼓鐘が口を尖らせる。
「そうだぞ、伽羅坊」
意地悪く笑うのは鶴丸だ。
燭台切は仲間たちを見て、少し罰が悪そうに苦笑する。
「もうちょっと待ってくれてもよくないかい?」
大倶利伽羅の無言の視線に、燭台切は彼女から額を離した。
「あ」
名残惜しそうな声をあげた彼女は、自分の口を押さえる。
そのまま顔を赤くし、涙目になった。
濁りかけた金色の瞳が奥へと溶けて、いつもより少しだけ明るい焦げ茶色になっている。
「わ、たし、なん、」
「あー、光坊が、なーかしたー」
鶴丸が小さな揶揄いの声をあげる。
「ち、違うよっ」
焦り言い返しながらも、燭台切は彼女をしっかりと抱きしめ直した。仲間から彼女を隠すように。
鶴丸はそれを面白がるように目を細めて、ひらりと身を翻した。燭台切の側面に回り込み、彼女の様子を覗き込む。
「驚きは大事だが、加減を間違えると主が壊れちまうぞ。なあ?」
「……光忠、もう十分だ」
大倶利伽羅の低い声は、冷淡なようで、燭台切の「行き過ぎた執着」を諌める色をしていた。
彼女は燭台切の胸の中で、大きく息を吐いている。まだ状況を飲み込めていないのだろう。
「ごめんね、主くん」
「ちょっと……取り乱しちゃったかな」
燭台切が彼女の髪を最後にもう一度、優しく撫でる。その指先が頬をかすめると、夢から覚めたように、彼女の瞳がはっきりと開いた。
「……大倶利伽羅さん、太鼓鐘さん、鶴丸さん」
彼女が震える声で名前を呼ぶ。
「お、落ち着いたか!」
太鼓鐘が明るい声で笑う。
「粟田口の連中がさっきから廊下でひそひそ話してるぜ。主がみっちゃんのところに行っちゃったから、どうやって連れ戻すか、なんてな」
「それは……」
「今夜はあいつらのターンだ、光坊。主をそんなに独り占めしてたら、それこそ『格好悪い』光忠になっちまうぞ?」
鶴丸が、燭台切の腕から、スッと彼女を引き出した。
その動きはあまりに自然で。同時に、燭台切の独占的な空間を、完全に断ち切るものだった。
止めることはできた。でも、燭台切はそうせずに、目を細める。
「あの、鶴丸さん」
「ん?」
小さな彼女の声に、鶴丸が耳を傾ける。
「燭台切さんは、悪くないです。私が勝手に不安になったから、きてくださった、だけで」
「ふうん?」
「だから、あの」
悪いのは燭台切じゃなくて、自分だと言い出す彼女に、鶴丸は目を細める。
「嬢ちゃんや」
「はい……?」
「優しさは美徳だが、なんでも受け入れちゃダメだぜ」
「なんでもは、ない、ですよ?」
困ったように首をかしげる彼女に、燭台切のみならず、他も同じように感じたらしい。
「はは、無意識かい。怖い主だな」
「あの、鶴丸さん?」
「……なあ、光坊が好きかい?」
鶴丸の突然の問いに、彼女は頬を染めて、迷う素振りもなく頷いた。
それを優しく見つめ、鶴丸は頭を乱暴に撫でる。
「わ」
「だったら、今は粟田口部屋に戻りな。おやすみ、主」
彼女が粟田口に戻る背を見届けた後、燭台切はその場にしゃがみこんだ。
「ごめん、貞ちゃん、伽羅ちゃん、鶴さん。僕、ホントカッコ悪い……」
「古今東西、色恋は惚れた方が負けって決まってるからな。仕方ないさ」
軽く流してくれる鶴丸は、いつもどおりだ。
「負け、か」
燭台切は自嘲気味に笑い、自分の掌を見つめた。
彼女の震える背中を抱きしめた時、安堵してくれた時の、言いようもない幸福感。
あの瞬間、燭台切だけを縋ってくれることに歓喜してしまった。
「格好良く、スマートに……なんて言っていた僕が、あんな風に主くんを追い詰めるなんてね」
大倶利伽羅はそんな燭台切に背を向け、静かに夜空を見上げている。
「……落ち着け。主は戻った」
「ああ、そうだね。……伽羅ちゃんが止めてくれなかったら、僕はどこまで行っていたんだろう」
太鼓鐘は、燭台切の隣にしゃがみ込み、背中をポンと叩いた。
「みっちゃんは、真面目すぎんだよ。主のこと、大事なのはわかるけどさ」
「でもさ、みっちゃんが主を縛り付けるんじゃなくて、一緒に先へ進むのが伊達のやり方だろ?」
その言葉に、燭台切は大きく息を吐き出す。
粟田口の部屋からは、短刀たちの楽しげな話し声と、彼女がつられて笑う声が微かに聞こえてくる。
それは今の燭台切にとって、何よりも耳に痛く、そして何よりも安心できる光の音だった。
「……そうだね。次はもっと、格好よく愛せるように、やり直そうかな」
燭台切は立ち上がり、夜着の裾を払う。
その表情には、どこか吹っ切れたような穏やかな光が戻っている。
「さて、明日も朝から忙しいからね」
「主くんが一番に口にする朝食くらい、最高のものを用意しなきゃ」
伊達の三振が見守る中、彼は元の「格好いい燭台切光忠」の面を被り直す。
けれど、その瞳の奥には、先ほど彼女を抱きしめた時の熱が、まだ消えずに燃え続けていた。
ひと時、金に濁った焦げ茶の瞳が、脳裏に焼き付いていた。