[刀剣乱夢] 燭台切光忠は主を甘やかしたい 作:himausa
最近の主は変わった。
何人かの刀剣男士にそう言われても、自分ではよく分からない。
朝、鏡を見る。髪を整える。しわを伸ばした服を着る。背筋を伸ばす。
それだけだ。
けれど演練へ向かう途中。
「おはようございます」
そう挨拶しただけで、相手の審神者が少し驚いた顔をした。
何か変だっただろうか。
隣を歩いていた燭台切が小さく笑う。
「今の、格好良かったよ」
その一言に少しだけ浮かれてしまう自分は、かなり単純ではないだろうか。
「そんなこと」
ないですと言いかけて、言葉を止める。
一日に一回、自分を貶す言葉を飲み込む。
それを見ていた燭台切が、大きな手で、そっと頭をなでてくれる。
「よくできました」
褒められ、口元が緩む。
出来ている、のだろうか。変われている、のだろうか。
少しでも、この人の格好良さに、近づけているのだろうか。
分からない。
でも燭台切は、格好良さは積み重ねだと言った。
だから今日も続ける。
明日もきっと続ける。
続けられると、そう思っていた。
執務室の部屋の隅、山姥切国広のボロボロの布を被って、世界を閉じる。
――だめだ。結局、何も変われていなかった。あれほど側にいてくれた燭台切に、格好いい姿なんて一つも見せられなかった。
「こんなやつが審神者?」
相手の声が脳裏を木霊する。
「あれだけの戦力を無駄にするなんて、どういう采配だよ」
言い訳は、したくない。
ボロボロと涙が止まらない。
本丸に戻って、燭台切を振り切って、ここに戻ってしまった。
もう本当に呆れられてしまっただろう。
全部無駄だったって。
「うぅっ」
「主くん」
障子の向こうから燭台切の固い声が聞こえた。
ああ、もう終わりだと思った。幻滅された。こんな審神者なんていらないって言われる。
「一つだけ聞いてもいいかな」
暗い思考を遮ったのは、意外な質問だった。呼吸を落ち着けて、なんとか小さい返事をする。
「……はい」
「今日、出掛ける前、鏡を見た?」
「……見ました」
「髪は整えた?」
「……はい」
「服は?」
「整えました」
「背筋は?」
「……伸ばしました」
ちゃんと、気を付けていた。格好良くなれるように。
「じゃあ」
低い声音が柔らかくなった。
「主くんはちゃんと続けられた」
その肯定に唇が震える。
「でも、また、駄目で」
「違う」
燭台切は即座に否定してきた。
「違うよ」
強く、はっきりと。
「傷付いたことと、頑張っていないことは別だ」
燭台切は頑張っていると、言ってくれる。
「誰かに何かを言われて落ち込む日もある」
「……」
「元気が出ない日もある」
「……」
「泣きたい日もある」
少し言葉が止まって。
「それでも続けることが大切なんだ」
障子がかたりと鳴る音が聞こえた。
「今日落ち込んだからって」
「……」
「主くんが積み上げたものはなくならない」
布の中で、顔を上げる。
「明日また鏡を見よう」
燭台切の声は穏やかだった。
「また髪を整えよう」
「……」
「また背筋を伸ばそう」
全部終わったわけじゃないと、そう言ってくれた。
また涙があふれ出す。
「一回落ち込んだからって、最初には戻らないよ」
その言葉は、今、一番欲しかった言葉だった。
なんで、この人はこんな風に格好良くいられるのだろう。
負けても勝っても、燭台切の格好良さは変わらない。
「なんで、続けられる、です?」
ずっと自分にはできなかった。
「だって、私は、ただ、拾われただけの審神者でしかなくて」
あの日、家族を失った日、時の政府に拾われて。
家族を取り戻せると言われて、審神者になった。
「ほん、ホントはっ」
こらえ切れずに、涙で声が崩れる。
「私が消えるべきだった」
家族といられないのなら、取り戻せないのなら、自分なんていらなかったのに。
「私なんかが、審神者になんて……」
「……」
「い、今更、何も……何も……」
それ以上言葉を続けられなくて、膝に顔を埋めて、涙を流す。
障子が開かれる音が聞こえたけど、どうしようもなかった。
泣いて泣いて、泣き続けて、このまま消えてしまいたかった。
「主くん」
すごく近くで声が聞こえて、布の下で更に体を縮こまらせる。
「も、も、無理……おとう、さん……おかあ、さん……」
会いたい。家族に会いたい。
もう自分にはできないと言いたいのに。
「主くん、聞いて」
落ち着いて、ゆっくりと、燭台切の静かな低い声が下りてくる。
「君は、自分が生き残ったことを許せないんだね」
そうだ。生き残るべきはきっと自分じゃなかった。父でも母でもよかった。
なのに、何もできない自分が残ってしまった。
「家族がいなくなって」
「……」
「自分だけ残ってしまった」
「……」
「だから自分が幸せになることも」
「……」
「自分を好きになることも」
区切られた言葉が、正確に射抜いてくる。
「許せない」
その通りだった。
生き残ってしまった自分一人で、幸せになんてなれない。自分を好きになれるはずがない。
そんなこと、許されない。
「でもね」
急に燭台切の声が優しくなった気がした。
「それと主くんが頑張ってきたことは別なんだ」
ぐっと、息をのむ。燭台切は、何を言っているのだろう。
「主くん」
燭台切は真っ直ぐに言う。
「この本丸がどうして今ここにあると思う?」
「……」
「誰が守ってきたと思う?」
何を言おうとしているんだろう、と息を顰める。
「主くんだよ」
それはやけにきっぱりとした言い方で。
「君が守ってきた」
言い切られた。
「違う……皆が……」
自分一人では何もできなかった。
「もちろん皆も頑張った」
燭台切はすぐに肯定してきた。
「僕も」
「……」
「薬研くんも」
「……」
「乱くんも」
「……」
「山姥切くんも」
そこで少し笑い声に変わった。
「たぶん今も部屋の外で聞いてる」
障子の向こうで何かがガタッと鳴った。たぶん、山姥切だ。間違いなくいた。
乱と薬研の気配はわからないけど、燭台切が言う通り、近くにいる気はする。
燭台切が苦笑する。
「でもね」
もう一度。
「僕たち刀剣男士だけじゃ、本丸は続かないんだ」
燭台切が言うことが事実なのはわかっている。
刀だけでは本丸は成り立たない。
主が必要だ。
決断が必要だ。
責任が必要だ。
そして何より。
毎日続ける人が必要だ。
「主くんがいたから」
燭台切は静かに続けた。
「僕たちはここにいる」
その言葉はすとんと、自分の中に降りてきた。わかっていたことなのに。
「君が出陣命令を出した」
「……」
「遠征を管理した」
「……」
「手入れもした」
「……」
「誰かが傷付けば心配した」
「……」
「誰かが折れそうになれば悩んだ」
そして。
「何年も続けた」
自分にはそれしかできなかったのに、燭台切は存在が必要だと肯定してくれる。
「拾われただけ?」
燭台切は、少し笑うように息を吐いた。
「そんな人に、何年も本丸は守れないよ」
また涙があふれてきた、嗚咽を堪えられない。
「君は頑張った」
燭台切の声が聞こえなくなるのに。
「君は続けた」
涙が止まらない。
「だから今ここにいる」
止められない。
「主くん」
布に触れた気配がして、体が震えた。
「主くんが自分を許せないなら」
また小さな優しい笑い声。
「今は僕たちが許す」
とても、優しい言葉に固まる。
「え……」
本当に困ったでも、優しい声音が続ける。
「……だって、悔しいじゃないか。僕たちはずっと君に助けられてきたのに」
自分に価値があるなんて、思ってなかった。
それを全部肯定してくれて、また頑張ろうって励ましてくれて。
この人はなんて格好いいのだろう。
大きな声を上げて泣きながら、思った。
この人のように格好良くなりたい。
こんな風に、誰かを格好良くできるぐらいに、強くありたい、と。
燭台切はただずっとそこにいてくれた。
布を引きはがすでなく、慰めるでもなく。
ただ全部頑張ってきたことを認めてくれただけだ。
でも、今の自分にはそれがなによりも嬉しかった。
泣き続ける主の声が、少しずつ小さくなっていく。
嗚咽が途切れ。呼吸がゆっくりになり。
そして。
かくん、と身体が傾いた。
「主くん!」
燭台切が慌てて支えた体は、思ったよりも軽かった。
抱き留めた拍子に、山姥切国広の布が少しずれ落ちる。
その下から見えたのは、泣き疲れて眠ってしまった少女の顔だった。
涙の跡が頬に残っている。
黒縁の眼鏡を壊さないように、そっと外すと、焦げ茶の睫毛も濡れているとわかった。
普段は眼鏡と前髪に隠れているせいだろう。
寝顔は、年相応の、いや、それより少し幼くさえ見えた。
燭台切は思わず言葉を失う。
この子はずっと、こんな顔で泣いてきたのだろうか。
「燭台切」
低い声が聞こえて、顔を上げる。
山姥切国広がすぐそばに立っていた。
「こっちだ」
そう言って隣の部屋の戸を開ける。
そのさらに向こうにある、一枚の木戸に手をかけたことに、燭台切は目を見開いた。
「開くのかい?」
その部屋は、本来なら刀剣男士には開けられない場所だとされる。
主の私室。最も私的な空間。
この本丸では、主の許可なく入ることはできない、と説明されている。
山姥切は短く答えた。
「俺は初期刀だからな」
布の下、彼が少しだけ目を伏せる。
「もっと前は」
その声音は静かだった。
「よく泣き疲れて寝落ちしていた」
燭台切の胸が締め付けられる。
「だから許可をもらっている」
山姥切は続けた。
「布団まで運ぶために」
何気ない言葉だった。
けれど、その何気なさがどれだけ長い時間の積み重ねなのか、分かってしまう。
燭台切は何も言えなかった。
ただ静かに頷き、布ごと、主を抱き上げ、山姥切のそばへ連れてゆく。
戸口から見えた部屋は、驚くほど簡素だった。
布団、机、本棚には審神者としての資料。
それだけ。
趣味の品も、飾りも、思い出の品さえ、ほとんどない。
まるで仮住まいだ。いつでもいなくなれるような、そんな部屋だった。
燭台切は胸の奥に重いものを感じる。
ここ数日で、少しずつ主の姿が見えてきたと思っていた。
だが、まだ全然足りないらしい。
「今は俺が運んでおく」
山姥切が言う。
「あんたは後で主から許可を取ってくれ」
「え、でも」
「きっとその方がいい」
燭台切は腕の中の主を見る。
眠っている。泣きつかれているが、安心しきったようにも見えた。子どもみたいに。
だから余計に分かる。今ここで自分が入るべきではないことも。
山姥切にそっと主を渡す。
彼は慣れた手つきで主を受け取った。
まるで壊れ物を扱うように、そっと。本当にそっと、布団へ横たえる。起こさないように。怖がらせないように。掛布団を整える。
そうした後で、山姥切は額にかかった髪を払った。ここまでの動作に一切の迷いがなかった。
「山姥切さん、これ」
燭台切の隣、同じように部屋に踏み入ることのできない乱が、濡れたタオルと氷を差し出した。
主の泣き腫らした目を心配したのだろう。
山姥切は受け取らなかった。
「起きてから冷やせ」
「でも」
「俺も一度出れば」
彼の視線は眠る主に向いたままだ。
「主が起きるまで、もう一度は入れない」
燭台切は眉を上げた。
「そういう仕組みなのかい?」
「ああ」
山姥切が短く頷く。
「間違いが起きないようにな」
主の部屋は特別だ。
誰でも自由に出入りできる場所ではない。
信頼されている山姥切ですら制限がある。
それだけ大切に守られている空間なのだろう。
「……山姥切」
薬研が低く呼ぶ。
何か聞きたいことがあるのだろう。
昔のことを。主のことを。きっとたくさん。
だが山姥切は首を振った。
「話は部屋の外でするぞ」
静かな声だった。
「今は寝かせてやれ」
誰も反論しなかった。
乱も、薬研も、燭台切も、ただ頷く。
そして主の部屋を離れようとして、燭台切はふと振り返った。
山姥切国広はまだそこにいた。
眠る主の傍らに立っている。
その姿はどこか遠く、昔を見ているようだった。長い時間、積み重ねてきた時間を。
主が知らないところで流してきた涙を、思い出しているようだった。
「……」
やがて山姥切は小さく息を吐く。
そして、眠る主を見下ろしたまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。
それは誰も見たことがないほど穏やかな顔だった。
執務室に戻ると、山姥切が燭台切を見た。
「明日の演練予定を出せ」
「え?」
その目は先ほどまでの穏やかさの欠片も残っていない、静かな闘志に燃えていた。
「主には言葉より結果だ」
「結果で見せる」
乱が苦笑いで頷く。
「そうだね、あるじさんだもんね」
薬研も頷く。
「それはいいけど、ちっといいか、山姥切。最初に聞いたとは思うけど、もう一度確認したい」
「なんだ」
「なんで、大将はあれほど、なんつーか、自分を責めてるんだ」
少し考えていた山姥切が頷く。
「最初に顕現した日に、全員に伝えている通り、主は歴史修正の被害者だ」
「特に主は目の前で両親を時間遡行軍に殺されている」
「時の政府に保護された後、家族を取り戻せると言われ、審神者になった」
そこまでは全員が聞いている話だ。
「主は戦を知らない世代で、ごく普通の平和な家庭で育った」
「遊戯にも興味がなかったから、戦略も何も知らなかった」
「だから、家族を取り戻すためとはいえ、誰かを傷つけることが苦痛なんだ」
そこから苦々しく吐き捨てる。
「自分だけ残ったことを責める」
「自分だけ幸せになってはいけないと思う」
「自分だけ生きていてはいけないと思う」
布の下で固く拳が握られる。
「何年経っても変わらなかった」
山姥切の蒼目が燭台切を見据えた。
「でも、やっと主は変わってきた」
「あんたが肯定することで、今までを認められるようになるかもしれない」
「俺はこのチャンスを逃したくはない」
乱が頷く。
「うん、ボクもそう思う」
「燭台切が見てるなら、大将はもうちっとマシにやれる」
薬研と乱が顔を見合わせて笑いあう。
「なにしろ、憧れの格好いい刀だからな」
燭台切は三振のそれに、肩の力を入れた。
「ああ、そうだね」