[刀剣乱夢] 燭台切光忠は主を甘やかしたい 作:himausa
玄関で靴を履いた主に手を差し伸べる。
その腰には燭台切光忠の本体を佩いている。見るだけで、嬉しい。
けれど、表に出すのは照れくさいし、格好悪いので。燭台切は少し微笑むだけに留める。
主に、格好良く見えるように。
「え」
「ん?」
「て、手」
「ああ」
燭台切は苦笑した。
「帯刀してると転びやすいから」
主が腰の太刀に触れて、こくりと頷く。
「……主くん?」
「……よろしくお願いします」
そっと伸ばされた主の手が、そっと触れる。小さくて、柔らかくて、温かい手を燭台切の大きな掌が柔らかく包む。
「じゃあ行こうか」
触れ合いに慣れない主は、恥ずかしそうに頬を染めながら、また小さく頷いた。
主が帯刀を始めて二日。
薬研が確認して、あと一日は帯刀するのがいいだろうと診断した。
「じゃあ、今日はお休みにしたらいいんじゃない?」
何故か申し訳ない様子の主に、乱が言う。
「いいんじゃねぇか。大将は働きすぎなんだから、ちっとくらい休んでも問題ねぇだろ」
薬研が頷きながら言う。
「…じゃあ、日課だけ」
言い出した主に、燭台切はすでに仕上がった編成表を出す。
「これ、山姥切くんから。今日の編成と当番だって」
「え」
「じゃあ、今日の分の仕事は終わりだねっ」
「え」
「これ、通達しとくから。後はよろしくな、燭台切」
さっさと薬研が乱を連れて出て行った。止める間もなく、二人きりになった。
主は固まっていた。状況についていけてない感じだ。
「主くん?」
「ひゃいっ」
聞いたことのない返事に、燭台切は少し目を丸くする。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
様子がおかしい。主の顔を赤くなってきている気がする。彼女は両手で軽く眼鏡を押し上げ、頬で手を留める。
「熱がぶり返した?」
「違いますっ」
「そう?」
燭台切は、そっと主の顔を覗き込む。熱がある時の赤さではなく、恥ずかしがっている時の頬の赤さ、だろうか。
「主くん」
「は、はい」
「せっかく休みなんだから」
燭台切は少し考えて、柔らかく笑った。
「散歩でも行く?」
「散歩」
「うん」
顔を上げ、燭台切を見て。繰り返す主の愛らしさに、口元が緩みそうになる。
「嫌だった?」
「いえ!」
すぐに否定されて、燭台切は少し笑った。
それから、玄関で靴を履いて。エスコートという名の名目で、今並んで歩いている。
身長の違う主に合わせて、燭台切はゆっくりと歩く。
散歩と言っても、本丸の庭は広い。季節の花が咲き、風が吹き、どこかの刀剣男士の笑い声が聞こえる。
穏やかな日だった。
土を踏んで歩いていると、初夏の花々が咲き乱れている様子が分かる。
「主君ー!」
元気な声が飛んでくる。
二人で振り向くと、桜色の癖のある短髪に空色の瞳の秋田藤四郎だった。手には小さな花束を持っている。
「秋田さん」
「見てください!」
駆け寄ってきた秋田が両手を広げる。摘んだばかりなのだろう。白い花がたくさん。
「あ」
思わず、といったように、主の顔が綻ぶ。
「シロツメクサ」
「知ってるんですか?」
「うん」
見たことのない顔の主に、燭台切の視線が止まる。
懐かしいって顔をしている。それも哀しくない「懐かしい」だ。
「花冠、作れるよ」
「えっ!」
秋田の目が輝く。
「ほんとですか!?」
「教えてあげる」
主の手が自然と燭台切から離れ、秋田と並んで、縁側に座る。
小さく細い指が、シロツメクサを一本。くるりと折って、次を通して、また折って。
「わあ……」
秋田が感心した声を上げる。
燭台切は少し離れた場所から見ていた。
柔らかな横顔、穏やかな声、花を扱う細い指。普段の執務中とは違う、年相応の女の子の姿。
ふと、胸の奥が温かくなる。
「できた」
あっという間に、小さな花冠が出来上がる。
秋田が歓声を上げる。
「すごいです!」
「秋田さんもやってみますか?」
「はい!」
秋田が夢中になって花を編み始める。
優しく見守り、時々教えながら、主も笑っている。
その隣で、燭台切は何となくシロツメクサを拾った。
一本、二本、三本。昔、誰かが作っていた気がする記憶を辿るように、指を動かす。
「……あ」
できた。小さな輪。花の指輪だ。
その時。
「できました!」
秋田が立ち上がって掲げた、少し歪な花冠。でも立派な出来だ。
「すごい」
主が褒めると、秋田は更に満面の笑みになった。
それから、燭台切と主を交互に見て。
「僕、兄さんたちに見せてきます!」
「え?」
「え?」
二人で同時に首を傾げる。
「じゃあ失礼します!」
秋田は走り去った。ものすごい速度で、あっという間に見えなくなる。
「……元気だね」
「そうだね」
温かな風がゆるりと吹き抜ける。
急に、本当に急に、二人きりになっていた。
「……」
「……」
燭台切は咳払いを一つした。
何となく、本当に何となくだけれど。
今なら渡せる気がした。
「主くん」
「はい」
主が顔を上げる。
燭台切は、その小さな手を取る。
「え」
白い指。薬指。そこへ、そっと、シロツメクサの指輪を通した。
「……あ」
主の目が見開く。
燭台切は笑った。少しだけ照れながら。
「似合うね」
その一言で、主の顔が真っ赤になった。
花の白、春の陽射し、風の音。主の指先の小さな花の指輪。
燭台切はただ、似合うと思っただけだった。本当に、ただそれだけだった。少なくとも本人はそう思っていた。
だから、遠くから聞こえた歓声のようなものは、偶然なのだろう。
主は少し日差しに指をかざして、目を細めていた。恥ずかしいけど嬉しい、そんな顔で。頬を染めていた。
「燭台切さん」
「ん?」
主の声が聞こえるように、少し身をかがめる。
その時だった。主の手が動いて、手元の花冠を持ち上げる。ぽん、と燭台切の頭に、それが乗せられた。
「おかえし、です」
少しだけ眼鏡の奥を悪戯そうに煌めかせて、主が言う。白い花が揺れる。
燭台切は固まった。
「……」
「あの?」
顔に熱が集まりそうで、とっさに燭台切は、片手で自分の顔を押さえていた。
「えっ」
驚いた主の声に、答えられない。
「燭台切さん?」
それでも、なんとか、声を出す。
「ちょっと待って」
「はい」
「今すぐには無理かもしれない」
「えっ」
さっぱり分からないと、戸惑う主の前、燭台切は深く息を吐いた。
駄目だ。
格好良くできない。全然できない。
燭台切としては、花の指輪を渡した。それだけでも十分だったのに。
返ってきた。
しかも、主の手作り。本人が編んだ花冠で、笑顔付き。
おまけに、最後の一撃。
見たことのない笑顔。あれは反則だ。
「だめ、でした?」
不安そうな主の声に、燭台切は即座に首を振った。
「違う」
「よかった」
ほっとした顔の主に、見惚れる。その顔も可愛い。
どうしようもない。本当にどうしようもない。
主は全く気付いていない。自分がどれだけ破壊力のあることをしているのか。
「主くん」
「はい」
燭台切が呼ぶ。主の返事が返る。
当たり前のことなのに、妙に嬉しい。胸の奥が擽られているみたいだ。
「ありがとう」
やっとのことで燭台切が返すと。
「どういたしまして」
主はふわりと笑う。
燭台切は思う。
格好良くありたい、主の憧れでありたい。そう思っていた、ずっと。
でも最近、少し困っている。
格好良くありたいのに。
この子の前では、格好良さより先に、もっと違う感情が出てきてしまう。
そしてもっと困ることに、そんな自分を、燭台切は嫌いになれなかった。
二人でそのまま庭を眺める。
初夏の花が咲き乱れる、鮮やかで優しい庭だ。
良く晴れた天気に、主が目を細める。口角が上がっている。
「主くん」
燭台切は、ふとその理由を聞いてみたくなった。
「嬉しそうだね」
「え」
「何か良いことあった?」
主は一度目を伏せて、それから燭台切を見て、少しだけ笑った。
「秘密、です」
燭台切は目を丸くして、それから柔らかく笑った。
「そっか」
主が楽しそうなら、それでいい。
そう思うはずなのに、どうして自分が嬉しくなるのだろう。
それに。
(なんか、今日特に可愛い)
理由は分からない。
いつもと同じ服で、いつもと同じ眼鏡で、いつもと同じ主なのに、今日はやけに目が離せない。
さっきの、秘密です、と言った時も息が止まった。可愛すぎて。
反則だろう、と本気で思った。
主の隣には燭台切光忠本体。今日まで、その華奢な腰に下がっている。
歩くたびに揺れて、それを見るだけで妙に嬉しい。
本体には主から霊力も少しだけ流れてきていて。優しくて、温かくて、本人によく似ていた。
(もっと笑ってほしい)
思う。
(もっと声が聴きたい)
思う。
(もっと僕を見て)
思う。
次々と、際限なく、願いが溢れてくる。
以前なら、こんなことはなかった。
主を支えること、格好良くあること、頼れる刀であること。それで十分だった。十分なはずだった。
なのに今は。
もっと近くにいたい。
もっと知りたい。
もっと。
もっと。
欲張りになっていく。
「燭台切さん?」
呼ばれて、燭台切は慌てて主の顔を見る。
「どうしたの?」
「いえ?」
主が首を傾げる。その仕草ひとつで、燭台切の胸が苦しくなる。重症だな、と自分でも思う。
「僕、何か変だった?」
「少し」
「少し?」
「難しい顔してました」
主は少し考えて、それから困ったように笑った。
「考え事、ですか?」
優しい声だった。
責めるでもなく、詮索するでもなく、ただ心配そうに。
だから燭台切は笑う。
「そうかもしれないね」
「大丈夫ですか?」
「うん」
本当は、全然大丈夫じゃない。
だって、考えていた原因が目の前にいる。
その人が心配そうに見てくる。
それだけで嬉しい。嬉しくて困る。
格好良くありたい、憧れのままでいたい。ずっと、そう思っていた。
でも、もしも、この子が望んでくれるなら。
格好良いだけじゃなくてもいい。
失敗しても、格好悪くても、嫉妬しても、情けなくても。
そんな自分ごと、受け取ってほしいと思ってしまう。
(ああ)
庭を見つめる横顔、柔らかな髪、穏やかな声。
大切な主、守りたい人。
胸の奥へ静かに沈んでいく温かい感情。
名前はまだ分からない。
ただ一つだけ確かなのは、主が笑うと嬉しいということだった。
審神者になってから、一日の終わりにひとりで月を見る習慣ができた。
父の好きだった酒、静かな夜、少しだけ家族を思い出す時間。
最近は、そこにもう一人いる。
「こら、またお酒だけ飲んでるね?」
背後から声がする。聞き慣れた声でも、びくりと肩が震える。
振り返ると、燭台切だとわかり、ほっと息が漏れる。
「夕飯、食べてますし」
「だからって別腹みたいに飲んじゃだめだよ」
呆れたような声。でも優しい。いつも通り。
気遣う言葉に、少しだけ目を伏せる。
「わかっては、いるんです、けど」
「けど?」
「……」
「けど?」
追及される。でも、言えない。言ってもいいのかもしれないけど。
どうしようかと困っていると、燭台切はそれ以上聞かなかった。
代わりに隣へ座る。お盆を置く。
クラッカー、チーズ、木の実という、少しだけ洒落たつまみ。
「はい」
そう言って、燭台切はチーズを摘まんだ。
そして、そのまま、口元へ差し出してきた。
「……え」
身体が固まる。
月を見る。
チーズを見る。
燭台切を見る。
チーズを見る。
燭台切を見る。
「食べないの?」
「え」
「食べない?」
あまりにも自然だった。自然すぎた。
だから、思考が追いつかない。
そんな、まさか、いや、そんな。
え?
え?
(夢かな)
たぶん夢だ。そうだ、夢に違いない。
だって、好きな人がこんな。こんなこと、するわけが。
(夢だ)
結論が出た。
今夜は少し酔っている。
きっとそう。
だから、恐る恐る、口を開く。
ちいさく、ほんの少しだけ、チーズを齧る。
「……」
「……」
静かになる。
夜風が吹く。
咀嚼する。
ちょっと、脳が追い付かない。
(夢じゃなかった)
口の中にチーズの味がする。
現実だった。夢じゃなかった。
じゃあ今のは。現実。
(どうしよう)
心臓がうるさい。顔も熱い。夜でよかった。本当によかった。
たぶん真っ赤だ。絶対真っ赤だ。
「……美味しい?」
燭台切が聞いてくる。なんとか平静を装って答える。美味しいはずだ。チーズの味ということしかわからないけど。
「……はい」
なんとか平静を装って。
そして二人とも、月を見上げる。
逃げるように、同じ方向を。
しばらく、二人とも喋らなかった。
月が綺麗な夜だった。
いつもの縁側、いつものお酒、いつものように燭台切が持ってきたつまみ。
でも、今夜は少し違った。
「主くん」
「はい」
「前から気になってたんだけど」
燭台切はグラスを傾けながら言う。
「どうして月見酒なの?」
優しい声だった。聞き出そうとする声ではない。答えたくなければ答えなくていい。そんな問い方。
だから、少しだけ黙った。
月を見て、酒を見て、グラスに映った月を見る。
そして、気づけば、ぽつりと話し始めていた。
「昔、家族で晩酌してたんです」
静かな声を、燭台切は黙って聞く。
「お父さんがお酒好きで」
なんでか、少し笑ってしまう。懐かしくて。
「私はおつまみ担当でした」
「へえ」
「お母さんはあまり強くなくて」
「うん」
「だからお父さんがカクテル作ってたんです」
光景が遠く思い浮かぶ。食卓、笑い声、月、酒、普通の家族、普通の幸せ。
きっと、もう戻らない時間。
「その日も」
自然、声が小さくなる。
「月が、綺麗で」
燭台切は息を潜めている。
でも、自分は月を見たまま、顔を向けられなかった。
「三人で、見てたんです」
顔が作れなかった。
「その夜に」
ざっと、少し強めに風が吹く。
続けなくても、きっとこの人は追及しないだろう。
でも、ずっと、誰かに話したかったのかもしれない。
風がやんで、少ししてから続ける。
「襲撃されました」
静かに、本当に静かに告げる。
「……」
燭台切は何も言わない。
「覚えてるのは」
視線を落として、グラスを見つめる。琥珀色の酒で、月が揺れている。
「赤い月と」
かすれた声になる。
「このお酒だけです」
それ以上は続かない。言葉が出ない。
格好良く、いなきゃ、と背筋を伸ばす。
心配させないように、笑わなきゃ、と。
失敗したけれど。
「最近は」
ぽつり、ぽつりと、溢れる。
「顔も曖昧で」
「声も少しずつ忘れてて」
「だから」
「忘れないように、続けてるんです」
もう一度、月を見上げる。
過去はそれだけの話でしかない。
これは泣くこともできなくて、責める相手もいなくて、恨み言もでてこない。ただ、自分は家族を忘れたくない。それだけの話だ。
「……主くん」
燭台切が気遣うように呼ぶのに、振り向く。少しだけ困った顔になってしまった。
「ごめんなさい」
「え?」
「重い話でした」
できるだけ、軽く流せるように、と口元を緩める。全然うまくいかないのだけど。
「ありがとう」
「え」
「話してくれて」
目を瞬く。まさか、こんな重い話に、礼を言われるとは思わなかった。
燭台切は続ける。
「僕は嬉しかったよ」
「嬉しい?」
「うん」
「どうして」
燭台切は少しだけ笑う。
「だって、主くんの大切な話だから」
何も言えなくなった。
燭台切は気付かない。
その一言が、どれだけ救いになったか。どれだけ嬉しかったか。
気付かないまま、いつものように、優しく笑った。
この人に話してよかった。
初期刀にさえ話していないことだった。
言葉にした瞬間、胸が詰まる。だからずっと言えなかった。思い出すと、声が出なくなるから。
でも今は違う。すんなり話せた。不思議だ。
目の前のこの人なら大丈夫だと、どこかで思っていた。
その事実に気付いて、少しだけ恥ずかしくて。でも、少しだけ嬉しい。
(ずるいな、私)
そう思う。この人だけ特別みたいで。信じてしまっていて。
だからこそ、照れ隠しみたいに、グラスをあおった。
「主くんっ」
燭台切の声が少し焦っていた。
その直後、視界が揺れた。体の力が抜けて、縁側に倒れ込む。
「……大丈夫?」
燭台切の声が近い。優しい。
すぐそばにあるからと、ふらふらと、覗きこんでくれる顔に手を伸ばす。
自分でも理由は分からない。でも、この人なら届くと思った。
「ん」
伸ばす手に燭台切の細長い指が触れ、掌ごとすぐに握られる。
温かい、優しい手。それだけで、安心する。
「大丈夫、です」
声が少しだけ甘くなる。自分でも分かるくらい。
(好き)
言葉にはしない。でも確かにそこにある。
(大好き)
燭台切は気付かない。その沈黙の意味を。
ただ心配している。ただ慌てている。
「今日はもう酔ってしまったので、おひらき、です」
(あなたで)
続きは心の中だけ呟く。
燭台切が息を呑むのが分かった。
「立てる? 布団まで運ぶ?」
心配そうな優しい声なのに、思わず瞬きをする。
少し考えて、それから、ふわりと笑った。
「いい、ですよ」
「……え?」
「だっこで、おねがい、します」
たぶん困っているだろうと思ったけど、目を閉じた。
今だけは、少しだけ、甘えたかったのだ。
酔ったふりでもしないと、できないけど。
どっちでもいいや、と思った時点で、たぶん酔っていた。
風が止まる。燭台切の思考も止まる。完全に止まる。
(え?)
(今なんて?)
(抱っこ?)
(僕が?)
(主くんを?)
(今?)
(ここで?)
処理が追いつかない。刃生で一番動揺している。
一方の主は、そのまま目を閉じてしまった。
安心したように。もう全部任せたように。無防備に、完全に信頼しきって。
(ずるい)
燭台切は思う。
(これはずるいだろ)
でも同時に、嬉しくて仕方ない。
こんなに信じてもらっている。こんなに頼られている。
こんなに。
こんなに。
だから。
「……分かった」
小さく答える。
声が少し震えている。自分でも気付いている。
全然格好良くない。
でも、それでもいいと思った。
この子の前なら。
酔っているとはいえ、主の許可が出て、小さな身体をそうっと抱き上げて、燭台切は主の私室へと入る。
初期刀しか入れなかった部屋。殺風景で、必要最低限のものしかない部屋だった。
布団にそっとおろし、上掛けをかける。
「燭台切、さん」
「お酒強いんじゃなかったの?」
「ん……」
曖昧な返事。少し赤い頬に手を伸ばすと、主は無意識にすり寄ってくる。熱があるのか、酔いなのか、それとも別の何かか。
この部屋には他の気配がない。縁側にはあった、外からの視線も、気配も遮断されている。
審神者だけの領域。その静けさが、逆に落ち着かない。
「主くん?」
呼びかけた、その時だった。
「たち、しょくだいきりみつただ」
酔っている割に、はっきりとした声。
それだけで、背筋がわずかに緊張する。
そして次の瞬間、彼女のそばに、自分の本体が現れた。
「っ……」
息をのむ。
霊力による顕現自体は珍しくない。
だがこれは違う。今この無意識の状態で、呼ばれた形だ。
彼女は燭台切光忠の刀本体を、迷いなく胸に抱いた。まるで抱きしめるように。
そうして、鞘を抱きしめたまま、無意識に柄へ口づける。
その瞬間、燭台切の全身を、微かな電流のような衝撃が駆け抜けた。それはただの金属であるはずの本体を媒介して、主の唇の温度と息吹が、ダイレクトに彼の神経へと伝わってきたから。
「……わたしの、かっこよくて、かわいい、かたな……」
小さな声だった。ほとんど夢の中の言葉。静寂の中でも聞き取るのが難しいほどの。
「……どうか、さいごまで、さいごのときまで、わたしとともに……」
それだけ言って、力が抜けるように、主はすぐに眠りに落ちた。
「……主くん」
燭台切は動けなかった。その言葉の意味を、即座には整理できなかった。
ただ一つだけ分かる。
それは酔い言葉ではない。冗談でもない。もっと深い場所から出た言葉だ。
この子はずっと、失うことを前提にして生きている。そのことに気付かされる。
そして同時に、自分がその「最後まで」の中に含まれていることも、静かに理解してしまう。
「……まいったな」
小さく呟く。
笑っているのか、困っているのか、自分でも分からない。
格好良い言葉は出てこない。
いつものような余裕もない。
ただ、布団の中で眠る小さな主を見て、そっと本体を自分に戻す。
「最後まで、ね」
誰にも聞こえない声で、その耳元に小さく返した。
「そんなの、この先も、ずっと君の隣にいるのは僕だよ」
それは誓いというより、もうとっくにそうなっている事実の確認に近かった。