その笑顔をもっと見たい。花でも渡せば、喜んで笑ってくれるのではないだろうか。
柄にもなく、そんなあからさまな下心を持って彼女に会いに行こうとする自分を、リースにだけは知られたくない。さいわい、女子寮にまっすぐに行けば、リースと鉢合わせすることはないだろう。
(定時で上がれと言っているから、とっくに帰寮しているはず……だよな)
フレイザーはダッシュボードに埋め込まれているデジタル時計をちらりと見る。エーファの終業時間は過ぎ、一切寄り道をしていなければすでに帰寮している頃合いだ。守衛に声をかけて呼び出してもらえば、花を渡す時間くらいはあるはずだ。
なるべく助手席の花が揺れないように、フレイザーは丁寧な運転でエーファがいるはずの女子寮を目指した。
◆◇◆◇◆
(三カ月……体育基礎教練期間程度よね)
定時で仕事を切り上げて寮の自室に戻ってきたエーファは、ピリッと張ったベッドのシーツの上に仰向けになり、上官であるフレイザーとの別れの場面を思い返していた。
彼は明日から三カ月ほど、教育隊に出向する。赴任先は宇宙基地なので、地上基地勤務のエーファはしばらく彼と会えない。ライネヴェジン軍事アカデミー時代における地獄の体育基礎教練期間が三カ月だったので、あの時の身体的つらさを思い出せば、フレイザーと会えないことなど、つらくもなんともないはずだ。
(でも……胸が痛い)
それなのに、気持ちが落ち着かない。心にはぽっかりと穴が空いたようで、すべての思考がするりとその穴に落ちていってしまう。フレイザー以外のことを考えてその穴を埋めたり紛らわしたりできないだろうかと思うのだが、趣味や娯楽のような楽しみを持っていないせいで、空虚さは満たされる気配がない。そもそも、自分の心に空いたその穴の正体もそれを満たす方法も、自分はろくに知らないのだ。
(ベリンガム大尉……)
どうしてこんなにも、つい思い出して考えてしまうのだろう。ただの上官にしては、彼のことばかりを考えている気がする。誰一人知人のいない第八宇宙団に異動してきてからずっと、上官と補佐官として関わってきたからだろうか。
だが、基地内で一緒に過ごしてきた時間の長さなら、リースも同じくらいのはずだ。最近はリース以外の隊員たちともコミュニケーションがとれているので、関わりがあるという点では皆共通している。
それなのにフレイザーだけを、ほかの隊員たちとは何かが違うと明確に感じている。何か特別な意味のある存在であると。でも、その理由がわからない。
――リリーン、リリーン。
その時、出入口横の壁に埋め込まれた端末のモニタが淡く光り、静かな呼び出し音を奏でた。エーファはベッドから起き上がり、端末に近付いて応答する。
「はい」
『守衛室です。フレイザー・ベリンガム大尉がお見えです。正門までお越しください』
「ベリンガム大尉が?」
彼は挨拶を終えて、明日に備えて少し早く先に終業したはずだ。今さら女子寮に――いや、部下であるエーファに用があるはずがない。
フレイザーの来訪を訝しがりながらも、しかしエーファはどこか心躍るような感覚を抱いた。制服のままだったが、それで問題ないだろうか。就業時間外なのに制服を着ているなんて、と怒られるだろうか。いや、そんなことはいいから早く行かねば。
胸の中にぽっかりと空いていた穴。埋め方も満たし方もわからなかったその穴は、いま確実にふさがりつつある気がする。でも、どうしてなのだろう。
(大尉……っ)
ああ、そうか。フレイザーに会えるからだ。彼に会いたいと、この心はフレイザーを求めていたのだ。
「ベリンガム大尉、あの、お待たせ、しましたっ」
走ってきたために肩で息をしながら、エーファは女子寮の正門横、歩道に立っていたフレイザーに声をかけた。すっかり陽は沈んで、女子寮の敷地内にある街灯しか光源がないが、それでもフレイザーの少し長めの銀髪はキラキラと輝いて見えた。
「走ったのか。急がなくてよかったんだぞ」
「いえ……」
エーファは深呼吸をして息を整えてから、フレイザーを見上げた。
「あの……何か引継ぎに問題がありましたか?」
仕事上の不備があった。それしか、いまこの時間帯に彼が自分を訪ねる理由が思いつかなかった。
「いや、業務的な問題はない」
「では、何かほかの問題が?」
「そう……ではない」
フレイザーは歯切れの悪い返事をする。
その態度が不思議で、エーファは思わず首をかしげた。
すると次の瞬間、フレイザーは後ろ手に持っていた何かをエーファに差し出した。
「え?」
「アイリス……という花だ。お前にやる」
「花……私に?」
透明なビニールで包まれた一輪の花。茎は太く、先端の花弁は紫と言ってもよい青さ。形の異なる花びらは、植物好きでもなんでもないエーファには、「色のついた葉っぱ」と認識したほうがしっくりくる気がした。
「ふと見かけて、お前みたいだと思ったんだ」
「私みたい……ですか」
失礼かとは思ったが、フレイザーのその感覚は理解不能だった。
この花のどこが、自分のようなのだろうか。花よりも小石を渡されたほうが、まだ自分のようだと思えるかもしれない。エーファはそんな残念なことを思った。
「まあ、三日ぐらいは枯らさずに、水やりをしてみろ」
「え……あ、はい」
それは命令なのかと思ったが、さすがにそんなことは下命しないだろう。
両手でアイリスの茎を持ったまま、エーファはぺこりと頭を下げた。
「あり……がとう……ございます」
これまでの人生で、花をもらったことなどない。しかも、上官であるフレイザーから何かをもらうなど、想像したこともなかった。
しかし、エーファははっきりとわかった。いま自分が感じている感情。それは嬉しさや喜びというものだ。そしてそれは、花をもらったことだけに対してではない。勤務時間外ではあるが、こうしてフレイザーに会えたからだ。今まで自覚したことがないほどに表情筋が動いているのも、きっと自分は嬉しそうに笑っているからだろう。
「ベリンガム大尉……」
「なんだ」
エーファはフレイザーを呼んだが、なんと続ければよいのか言葉が見つからない。何か話をしたいのに。もっと言葉を交わしていたいと思ったのに。
「あの……」
夜道へ視線を落とした小柄なエーファを、フレイザーはじっと見下ろす。そしていつもどおりのぶっきらぼうな口調で言った。
「三カ月で戻る。その先どうなるかはわからんが、お前は俺の事務的な補佐官ではなく、僚機になれるようにせいぜい腕を磨いておけ」
「僚機……ですか」
「ああ」
短く頷くと、フレイザーはエーファに近付く。そして少しだけかがむと、春風がなでるようなふんわりとした感触を、エーファの頬に残した。
「っ……」
「それから、もう少し人間らしくなっておけ。少なくとも、今の口付けの意味がわかるぐらいにはな」
大きく目を見開き、驚きのあまり声の出ないエーファを見下ろして、フレイザーはにやりと笑ってみせる。それはリースに見せるような親しみのほかに、これまでにない何か特別な意地の悪さを感じさせた。
そうしてフレイザーは、「またな」と一言残して女子寮を去っていった。
古巣の第九宇宙団での謹慎処分自体が取り消され、エーファがパイロットに復帰できたのは、この数日後のことだった。