エーファの実家ベルツ家では、たとえ血のつながった家族であろうと親戚であろうと、階級で呼び合うことが徹底されていた。父親は当然のことながら、入隊前だった六歳上の兄のことも、「ベルツ少尉候補」と呼んでいた。入隊時には必ず「三等星少尉」からスタートできるように成績優秀であるべし、という父親の教育方針に従って、「やがて少尉になる者」という期待を込めてそう呼ぶように教え込まれたのだ。
そして自分もまた、父であるベルツ大佐や先に軍人になった兄からは、「ベルツ少尉候補」と呼ばれていた。アカデミーを卒業すると同時に無事に三等星少尉の階級に就けたあの日の心底安堵した気持ちを、エーファは昨日のことのように思い出せる。
その父親――ベルツ大佐は、先の作戦の正当性について非難され、しばらく動向を聞かなかった。彼にとって「娘」ではなく一人の「部下」にすぎないエーファは、ただ上官に言われるがまま謹慎処分を受け入れ、そして言われるがまま、ここ第八宇宙団に異動した。
(第九宇宙団はいま、どうなっているの……?)
これまでの自分なら、こんなふうに深く気にすることなどなかっただろう。命令以外に気にかけるべきものなどないと、そう思い続けていたはずだ。
しかし、今は妙に気になる。例の世論は鎮まったのだろうか。ベルツ大佐への非難はやんだのだろうか。もしそうならば、自分は第九宇宙団に戻ることになるのだろうか。
「困ります。きちんと上官を通していただきたい」
「その必要はない。わたしに逆らうのか、一等星中尉ごときが」
その時、標準事務室の入り口のほうからランドルフと誰かの口論のようなものが聞こえてきて、エーファははっとした。一抹の恐怖を感じながら席を立ち、恐る恐る入り口に近付く。
「いるではないか。エーファ・ベルツ三等星少尉、今からわたしと共に第九宇宙団に戻るぞ。明日、婚姻の手続きをしてもらう」
ランドルフの向こうに見えた、大柄な体躯。氷よりも冷たい黒の瞳。エーファの身を縮こまらせ、一切の自由意志を奪う威圧的な声。肩の階級章が示す位は、二等星大佐。
それは間違いなく、第九宇宙団機動隊所属のロバート・ベルツ大佐――エーファの父親だった。
◆◇◆◇◆
「なんか騒々しくね?」
「なんだ?」
飛行訓練を終え、パイロットスーツから通常の制服に着替えて標準事務室に向かっていたフレイザーは、一歩先を歩くリースの声を聞いてふと足を止めた。
「見慣れない奴がいるな」
「うえぇ~。な~んかヤな予感」
リースが制服の胸ポケットに手を入れて、珍しく眉間に皺を寄せる。
標準事務室の入り口に近付くと、出入口となっている自動ドアは誰かがすぐ傍に立っているためか、開放状態のままだ。怪訝な面持ちで二人が中に入ると、大柄な男がエーファの右手首を掴んでおり、一瞬にしてフレイザーとリースの警戒心は高まった。
「おい、誰だ」
フレイザーはその状況に臆することなく、近くにいた同僚に尋ねる。すると、答えたのはエーファの背後にいたランドルフだった。
「こちらは第九宇宙団のベルツ大佐です、ベリンガム大尉」
「なっ……ベルツ大佐?」
ランドルフの答えを聞いて、フレイザーの表情はこわばった。一方のベルツ大佐は、エーファの手首を掴んで固定したまま、フレイザーのほうに冷血な視線を向ける。
「この中で最上位は貴様か、ベリンガム大尉」
「はい。自分は第八宇宙団飛行隊所属、フレイザー・ベリンガム一等星大尉であります。エーファ・ベルツ少尉のご尊父とお見受けいたしますが、ベルツ少尉に何かご用でしょうか、大佐」
標準事務室内にはエーファ、ランドルフのほかに数名の軍人がいたが、ベルツ大佐の言うとおり、いまこの場で最も階級が高いのはフレイザーだった。そのため、第八宇宙団所属の軍人たちは、ベルツ大佐への対応をフレイザーに委ねる。その代わり、ベルツ大佐に付き従ってきた二名の軍人が妙な動きをしないように、彼らの一挙手一投足を見張るように視線を向けた。
「ベルツ少尉は第九宇宙団に戻ってもらう。婚姻が決まったのでな」
「婚姻……?」
厄介な相手を前にして気を抜いてはいけないと思ったが、フレイザーは瞬きを繰り返して少しの間呆けてしまった。それくらいに、ベルツ大佐の口から飛び出た単語はこの場の空気に似つかわしくなかった。
「あの……失礼ながら、ベルツ少尉にそのようなお相手がいたとは存じません」
「当然だな。先日わたしが決めた相手だ。先方も承知している。あとはベルツ少尉を第九宇宙団に戻して、本人の手続きを済ませるだけだ。これ以上煩わせないでもらいたい。行くぞ、ベルツ少尉」
「っ……」
ベルツ大佐に手首を引っ張られ、エーファは息を呑んだ。はっきりと抵抗することが怖いようで、怯えと諦めがない交ぜになった複雑な表情をしている。けれども、どんなに恐怖を覚えようともベルツ大佐に従うという意思はないようで、引っ張るベルツ大佐の力を中和しようと、ぐっと両足に力を入れて動こうとはしなかった。
「お待ちください、大佐」
標準事務室の入り口に背を向け、ベルツ大佐の進路をふさぐ形でフレイザーは仁王立ちした。
「ベルツ少尉の異動に関して、正式な辞令は出ておりますか」
「必要なかろう。そもそも、第九宇宙団から第八宇宙団への異動がおかしいのだ」
「出ていないのですね。我々も上官から聞いてはおりませんし、何よりベルツ少尉本人も通告されていないようです。それにお言葉ですが、先日の彼女の異動はおかしくなどありません。正式な手続きを経た、ごく普通の人事異動です」
「手続きの話ではない。曲がりなりにもベルツ家の人間を、第八宇宙団に置くこと自体が愚蒙な決定なのだ」
「ここは守護星軍という組織です。その組織に所属していながら、組織が正式に定めた手順を踏まずに人を動かすほうが浅慮です」
強大な威圧感を放つベルツ大佐に、フレイザーは感情を抑えた声音でめげずに意見する。その肝の据わり具合に、第八宇宙団の面々は胸中で拍手を送った。エーファも同じように、フレイザーの泰然たる態度に無言で感嘆した。
自分がこれまで一度たりとも反論することのできなかった絶対的な支配者に、フレイザーは堂々と相対している。ベルツ大佐の横暴を理路整然と咎め、エーファを第九宇宙団に戻すことを良しとしない。守ってもらっていることに、エーファの胸は熱くなる。それでいて、エーファはほっと安心するような気持ちにもなった。
「それと、婚姻とは本人同士の合意があって行われるものです。たとえ肉親であれ、誰かに強制されて行われるものではありません。ベルツ少尉」
フレイザーはベルツ大佐から視線を外し、いつもより二割ほど小さく見えるエーファを見つめた。
「ベルツ大佐の言うお前の婚姻は、お前が望むものなのか」
エーファからの返事はない。父親に手首を掴まれたまま、肉食獣への恐怖で全身の動きを停止してしまった小型の草食動物のように固まっている。
「第九宇宙団に戻ることを、お前は望むのか」
フレイザーは言葉を変える。
すると、エーファは声を出せないままだったが、どうにか首を横に振って意思表示をした。
「第九宇宙団に戻ることは望まない。つまり、ご尊父の決めた相手との婚姻も望まないな?」
「はい……」
エーファはとても小さいながらもようやく声で返事をし、再度首を横に振った。
エーファのその意思が確認できたフレイザーは、ベルツ大佐に視線を戻す。その眼光は先ほどよりも鋭く、ベルツ大佐を睨んでいると言ってもよかった。
「ベルツ大佐、どうぞ第九宇宙団へお戻りください。ベルツ少尉は第八宇宙団から異動させませんし、勝手に決められた婚姻も行いません」
「詭弁だな。ベルツ少尉は生まれながらにわたしの部下だ。上官の命令に従うのが軍人だろう。婚姻も然りだ。ベルツ少尉の意思など関係がない。これは上官命令だ」
「上官の命令とは、守護星軍内で完結する内容だけに及ぶものです。個人の婚姻は、軍の管轄ではない。つまり、ベルツ少尉に結婚を命じる権利は誰にもありません。それに、軍人として上官として、と組織の立場を持ち出すわりには、組織の秩序を守るおつもりはないようですね。とんだダブルスタンダードだと思いませんか」
フレイザーがそう正論を言うと、ベルツ大佐の瞳がカッと開いた。
「貴様! ただの大尉のくせにわたしを愚弄する気か!」
「ええ、そうです。部下にとって反面教師にしか見えない大佐など、その実態は愚かと言うしかないでしょう。これ以上こうして大勢の前で矛盾点を指摘されて悪例の見本にされたくなければ、どうぞお引き取りを」
「貴様……っ!」