分身ハメ殺し忍者『うちはイタチ』 作:やめろイタチ、その技は俺に効く
こっぴどく怒られました。
でも仕方ない。完全に俺の自業自得だ。謹慎中の身で、しかも母ちゃんのお腹はもういつサスケが生まれてもおかしくないくらい大きい。そんな時に、大蛇丸がいるかもしれない隔離施設へ本体で潜り込み、医療班の一人に写輪眼で軽く幻術を掛け、変化の術でなりすましていたのだ。影分身禁止だけは守りました、なんて言い訳にもならない。火気厳禁の場所で火は使ってません、爆薬を持ち込みました、と言っているようなものだ。そりゃ怒られるわ。
火影邸の一室で正座させられた俺は、父ちゃん、母ちゃん、三代目の三方向から圧を受けていた。父ちゃんの低音説教は胃に来る。三代目の「ほれ見たことか」みたいな視線も普通に刺さる。そして母ちゃんは怒鳴らない。大きなお腹を支えながら、悲しそうな顔で俺を見る。それが一番きつかった。
なんか、前世で立派に社会人やってたのに、こんなに自分の為に怒られるのは妙に新鮮だった。契約が取れない、ノルマが達成できない、会議が上手くいかない、部下に陰で悪口を言われ、上司の機嫌を伺い、彼女を作る暇なんてなく、風俗に入り浸ってたこともあった。怒られること自体はあった。だがそれは会社のため、売上のため、部署のため、上司の評価のためだった。誰も
あ、これ俺がM気質ってわけじゃないです。そこは勘違いするな。
叱られて喜ぶ趣味はない。正座は痛いし、母ちゃんの悲しい顔は心臓に悪いし、父ちゃんの低音説教は胃に来る。三代目の視線も普通に怖い。でも、その全部が俺のことを案じてくれているからだと思うと、胸の奥が妙に温かくなった。
「イタチ」
母ちゃんが俺の前に座った。
大きなお腹が少し苦しそうで、俺は反射的に手を伸ばしそうになったが、今は叱られている最中なので動けなかった。
「あなたはいつも、誰かを助けようとしてくれる。それはとても優しいことよ。でもね、あなたが傷ついたら、私たちはどうしたらいいの?」
何も言えなかった。
俺が死んだら、母ちゃんは泣く。父ちゃんも多分、表には出さないけど折れる。まだ生まれていないサスケは兄を知らないまま生まれてくる。そう考えると、胸の奥が冷たくなった。俺は未来を変えたい。みんなを救いたい。だけど、そのために俺が勝手に危険へ突っ込んで死んだら、本末転倒だ。
「申し訳ありませんでした」
自然と頭が下がった。
外向きのクールなイタチ声ではなく、ちゃんと謝る声だった。
「もうしません、とは簡単に言えません。危険だと思えば、また動きたくなると思います。でも……次は必ず相談します。勝手に行きません」
父ちゃんが目を細めた。
「必ずだな」
「はい」
三代目もこちらを見た。
「わしにもじゃぞ」
「三代目は俺に重要な事を話さないで下さい」
「ギクッ」
三代目も道連れにしてやる!
そもそもことの発端は、一楽で三代目が深刻そうな顔をして俺に大蛇丸のことを話したからだ。そんなんされたら「どしたん?話聞こか?」状態になるに決まっている。五歳児に人体実験疑惑の話をしてくる火影、普通にどうかしている。
「火影様?」
父ちゃんの声が低くなった。
「どういうことですか?火影様」
母ちゃんの声は静かだったが、逆に怖かった。三代目の目が泳いだ。火影なのに泳いだ。
「うむ……イタチは聡明じゃ。つい相談したくなってな」
そんなこんなで、俺も三代目も怒られた。
道連れ成功だ。社会人を舐めるなよーーッ!!
処分として、俺の謹慎は当然延長。外出は許可制、写輪眼の使用も厳しく制限、医療班に掛けた幻術については後日謝罪。三代目も母ちゃんから「子供に重い話をしないでください」と釘を刺され、父ちゃんからも無言の圧を食らっていた。火影と五歳児が並んで小さくなる光景は、忍界の将来が少し心配になるものだった。
そうして俺は一人で帰ることになった。
父ちゃんと母ちゃんは足早に家へ向かって行った。サスケがもうすぐ生まれるから、なるべく早く帰りたいのだろう。俺も手を繋いで帰ろうと思ったら、父ちゃんに「今日はゆっくり帰ってこい」と言われ、一楽に行くお金まで貰った。
昼もラーメン食ったんだけどね。
まぁいいけど!昼も夜もラーメンなんて贅沢だぜ!
夜の木ノ葉を歩く。昼間の喧騒は少し落ち着き、店の灯りがぽつぽつと道を照らしていた。焼き魚の匂い、酒場の笑い声、遠くで子供が親に急かされる声。里は普通に動いている。大蛇丸が逃げ、三代目が苦しみ、俺が怒られても、里の日常は続いていた。
暖簾の赤が見えてくる。
お、一人先客がおりますね。
俺は少しだけ足取りを軽くし、一楽の暖簾を潜った。湯気と出汁の匂いが鼻をくすぐる。
「おう!いらっしゃい!イタチ!」
テウチさんが顔を上げ、いつものように挨拶してくる。
俺は先客の横顔を見た瞬間、全身が固まった。
「あら……あなたは」
長い黒髪。白い肌。細い金色の瞳。
大蛇丸ーー!!!お前かよーー!!!
何でいるんだ!?
暖簾を潜った瞬間、俺の脳内で警報が鳴った。まさか三代目に「ラーメン食べにいかんか」と言われたのが気になったのか?いや、それにしても直行が過ぎるだろ。ついさっきまで火影邸近くの隔離施設で、三代目と剣呑な雰囲気の師弟トークバトルを繰り広げ、白煙を撒いて逃げたはずの男が、何故か一楽で普通に座っている。逃亡中の忍が最初に選ぶ場所として、ラーメン屋は流石に候補上位に来ない。少なくとも俺なら来ない。いや、来るかもしれない。腹が減っていたら来るかもしれない。そこは否定できない自分が嫌だ。
「ほら、私の隣に座りなさい」
「はい」
身体が勝手に従った。
蛇に睨まれた蛙という言葉があるが、今の俺は蛇に抱えられたイタチである。字面だけなら強そうなのに、現実は五歳児ボディなので軽々と持ち上げられ、そのまま大蛇丸の隣へ座らされた。抵抗?無理です。相手は伝説の三忍。こっちは謹慎延長中の一般健康志向幼児。勝負にならない。しかもここで暴れたらテウチさんの店に迷惑が掛かる。俺は一楽を戦場にしたくない。ラーメンは平和の象徴であるべきだ。
それにしても、この人は本当に何を考えているのか分からない。里から抜けるなら今だろう。暗部も動いているはずだ。三代目も本気になれば追う。それなのに、二、三時間も経たない内に一楽へ来て、何食わぬ顔で椅子に座っている。大胆を通り越して、もはや日常への侵食である。事件の余韻をラーメンの湯気で包むな。
「テウチさん、醤油で」
「あいよ。そこのあんたは?」
「そうね……私も醤油で」
「あいよ!」
頼むんかい。
俺は心の中で派手にずっこけた。しかも同じ醤油。やめてほしい。味の好みが一致すると、妙な親近感が生まれる。俺は大蛇丸と醤油仲間になりたくない。大蛇丸醤油派とかいう情報を得ても、今後の人生で使い道がない。
テウチさんは一瞬だけ俺の顔を見たが、すぐに湯切りの準備へ戻った。さすがである。相手が火影でも、大蛇丸でも、謹慎中のうちは幼児でも、注文を受けたら麺を茹でる。職人の鑑だ。今この店で一番肝が据わっているのは間違いなくテウチさんである。
「あなた、随分と警戒しているのね」
「当然かと」
声は静かに出せた。
偉いぞ俺。内心は全力で「母ちゃーん!」と叫んでいるが、外面だけは崩していない。これがうちはイタチ。これがクール天才児。なお中身は、夕飯ラーメンのはずが隣席大蛇丸になって泣きそうな前世三十路である。
「私が怖い?」
「危険な方だとは思っています」
「あら、素直」
「嘘をついても見抜かれそうですので」
大蛇丸の口元が僅かに上がった。
やばい。褒められたのか、観察されたのか、どちらにせよ嫌だ。大蛇丸の視線は皮膚の上を撫でるようで、血管や骨の奥まで覗かれている気がする。医療忍や研究者の目というのはこういうものなのかもしれないが、五歳児に向けていい目ではない。
「猿飛先生が話していた子は、あなたね」
「何のことでしょう」
「ウッフッフ……とぼけるのが上手いわ」
「身に覚えがありません」
ありすぎる。身に覚えしかない。
だが認めるわけにはいかない。ここで「はい、俺です」などと言ったら、うちはイタチ研究対象ルートが開通する。まだ超健康分身ハメ殺しイタチ計画も道半ばなのに、蛇の研究室行きなど絶対に嫌だ。俺はラーメンを食べに来ただけの一般幼児。たまたま火影とラーメンを食べ、たまたま噂の条件に合い、たまたま大蛇丸の隣に座らされているだけである。たまたまが多いな。前世なら報告書で突っ込まれるやつだ。
「では、身に覚えのないあなたに聞くけれど」
大蛇丸が箸を指先で弄びながら言った。
「猿飛先生は、まだ私に戻ってほしいと思っているのかしら」
俺はすぐに答えられなかった。
質問が重い。ラーメン屋で五歳児に振る内容ではない。人生相談なら別料金を取るべきだ。けれど、大蛇丸の声には僅かに棘があった。笑っているのに、奥が乾いている。あの隔離施設で聞いた声と同じだ。戻れないと言いながら、戻ってほしいと言われたことを、まだ手の中で転がしているような声。
「三代目は、そう願っていると思います」
「あなたは?」
「俺は……」
言葉を選ぶ。
怖い。関わりたくない。それが本音だ。だが、三代目の背中を見た後では、ただ突き放す言葉も出なかった。
「罪を犯したなら、償うべきだと思います。ですが、三代目はあなたを捨てたいわけではない。そう見えました」
大蛇丸は黙った。
沈黙が怖い。俺は横目で出口を確認する。暖簾の外には夜の道。暗部の気配はあるような、ないような。もし大蛇丸がここで動いたら、俺はどうする?写輪眼は制限中。戦闘禁止。そもそも勝てない。最適解は丼を抱えてテウチさんの後ろに隠れることだ。五歳児としては正しいが、忍としてはどうなんだ。
「お待ち」
目の前に丼が置かれた。
醤油の香りが湯気と一緒に立ち上る。澄んだスープ、細く揃った麺、艶のあるチャーシュー。場違いなほど美味そうだった。恐怖と空腹が同時に来ると、人は混乱する。俺の腹は正直に鳴りそうになった。
「いただきます」
俺が手を合わせると、大蛇丸が隣で少し遅れて箸を取った。
「……いただきます、で合っているのかしら」
「食事の前は、そう言うものです」
「そう」
大蛇丸は麺を少しだけ啜った。
その横顔を見ながら、俺は妙な気持ちになった。さっきまで命だの罪だの里だのと語っていた人物が、今は醤油ラーメンを食べている。恐ろしいのに、どこか人間臭い。いや、そこで油断したら駄目だ。蛇は腹が満ちても蛇である。
「悪くないわね」
「美味しいです」
「猿飛先生が勧めるだけはあるわ」
大蛇丸は器の中を見つめたまま、薄く笑った。
「少しだけ、分かった気がするわ。あの人が何を見せたかったのか」
俺は麺を啜りながら、返事をしなかった。
しない方がいい気がした。
夜の一楽で、俺と大蛇丸は並んで醤油ラーメンを食べている。意味は分からない。危険も消えていない。けれど少なくとも今この瞬間だけは、剣も蛇も出てこなかった。
頼むから、このまま食べ終わるまで平和でいてくれ。
俺はレンゲでスープを飲んだ。
子供用に少し薄められた醤油のスープが、大人に散々怒られた俺の五臓六腑に染み渡る。昼も食べたのに、夜のラーメンはまた別腹だった。湯気が顔に当たり、鼻の奥へ鶏ガラと醤油の香りが抜ける。怖い。隣に大蛇丸がいるのは怖い。でも美味い。恐怖と美味さが同時に来ると、脳が変な処理を始める。今ここが安全なのか危険なのか分からない。ただ、スープは美味い。これだけは真実だ。
隣では大蛇丸も同じようにレンゲを使っていた。白い指先で器を支え、音を立てずにスープを口へ運ぶ。その所作が妙に綺麗で、余計に落ち着かない。さっきまで人体実験とか里に戻る戻らないとか言っていた人が、今は一楽の醤油スープを味わっている。
「ウフフ……優勝ね」
そんな言葉が聞こえた気がした。
多分、幻聴だな。
そういうことにしておこう。大蛇丸がラーメン食って優勝とか言う世界線、俺にはまだ早い。もし本当に言っていたとしても、聞かなかったことにする。忍として大事なのは情報収集だが、世の中には拾わない方がいい情報もある。
「今夜はちょいとしたサービスがあんだよ」
テウチさんがそう言って、奥から小皿を二つ持ってきた。
え、なんですかテウチさん。サービス?この状況でサービス?隣の客、大蛇丸ですよ?普通のラーメン屋なら入店時点で警報鳴らすレベルですよ?なのに追加サービス?肝が据わりすぎている。もしかしてテウチさんが一番強い説、割と真剣にあるのでは?
小皿が俺と大蛇丸の前に置かれた。
そこに乗っていたのは、白く丸い練り物だった。縁は薄い桃色で、中央には渦巻き模様。見た瞬間、俺の思考が固まった。
「明日からラーメンに入れようと思ってな。ナルトだ」
ナルト!!
俺は危うくレンゲを落としかけた。
まだ生まれてない!まだ生まれてないぞ!いや、これは食べ物のナルトだ。前世でもラーメンに乗ってたあのナルト。渦巻きの練り物。何もおかしくない。むしろラーメン屋としては自然な新具材だ。でも俺にとっては自然じゃない。名前の破壊力が凄い。これが後に金髪の主人公の名前になるんですよ、なんて言えるわけがない。言ったら俺の頭がおかしいと思われるか、予言者扱いされるか、どっちにしろ面倒だ。
「いただくわ」
お前早いな!
大蛇丸は迷いなく箸でナルトを摘まみ、そのまま口へ運んだ。食べた。大蛇丸がナルトを食べた。字面が嫌だ。非常に嫌だ。将来的な色々を考えると、何かこう、因果がねじれている感じがする。俺の中の前世知識が「その組み合わせはやめろ」と警告している。でも現実では、ただの練り物を蛇みたいな人が食べているだけだ。落ち着け俺。
「美味しいわね」
お前が言うと変な感じがすんな!
「魚の旨味がありますね」
外面の俺は静かにそう言った。
偉い。よく取り乱さなかった。心の中では「大蛇丸がナルトを美味しいって言った!」と大騒ぎしているが、声には出していない。うちはイタチの面目は保たれた。多分。
「名前が面白いわ。ナルト、ね」
大蛇丸が小皿の上に残ったもう一枚を眺めながら言った。
やめろ。名前を反芻するな。そこに興味を持つな。あなたがその名前を口にすると、未来の絵面がややこしくなる。
「渦の模様から来ているのでしょうか」
「そうだな。見た目がいいだろ?これを乗せると丼が明るくなる」
テウチさんが笑う。
丼が明るくなる。
その言葉が妙に胸に残った。ナルト。渦巻き。明るい丼。まだこの世に生まれていない誰かの名前と、目の前の小さな練り物が重なる。馬鹿みたいだ。ラーメンの具に感傷を抱く五歳児。いや、中身は三十路だけど。でも、何だか少しだけ面白かった。
俺は小皿のナルトを箸で摘まんだ。
白い断面。桃色の渦。噛むと弾力があり、魚の風味が口の中に広がる。うん、美味い。普通に美味い。これがラーメンに乗るなら絶対に合う。前世で食べた記憶も混ざって、少し懐かしい味がした。
「どうだ、イタチ」
「美味しいです。きっと合うと思います」
「そうか!なら明日から入れるか」
テウチさんが嬉しそうに頷いた。
大蛇丸はその様子を横目で見ながら、静かに麺を啜った。さっきより少しだけ、肩の力が抜けているように見えた。気のせいかもしれない。俺がそうであってほしいと思っただけかもしれない。でも、少なくとも今、大蛇丸は誰かを解剖していないし、術も使っていない。ただラーメンを食べ、ナルトを味わっている。
「猿飛先生は、こういうものを見せたかったのかしらね」
大蛇丸が器を見つめたまま呟いた。
「こういうもの、ですか」
「ただ飯を食べる時間。誰かが作り誰かが食べる。命を研究するより、ずっと単純で、ずっと面倒なもの」
俺は返事に困った。
大蛇丸の声は穏やかだった。けれど、穏やかすぎて怖い。何を考えているのか分からない。ただ、その言葉の奥に、ほんの少しだけ疲れのようなものがあった。
「……三代目は、大蛇丸様に戻ってほしいのだと思います」
「あなたは本当に、猿飛先生に似たことを言うのね」
「それは困ります」
「あら、どうして?」
「説教が長くなりそうなので」
大蛇丸が一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
テウチさんが奥で湯を切る音がする。夜の外では誰かが通り過ぎ、暖簾が少し揺れた。俺は残った麺を啜りながら思った。
意味が分からない夜だ。
だけど、ナルト入りのラーメンはきっと美味い。少なくともそれだけは、間違いなかった。
そうして俺と大蛇丸はラーメンを食べ終えた。
こんな状況で食うラーメンは、前世でもなかなか経験したことのない感じだった。取引先との気まずい昼飯とか、上司との沈黙の居酒屋とか、そういう比ではない。隣にいるのは伝説の三忍で、ついさっき火影邸近くの施設から煙幕で逃げた危険人物である。それなのに大蛇丸は特段暴れたり、妙な術を出したり、器から蛇を生やしたりすることもなく、普通に麺を啜り、スープを飲み、ナルトまで味わっていた。
てか暗部とかは何をやってるの?
仕事してる?
いや、多分している。店の外に気配がいくつかある。屋根の上、路地の影、向かいの建物の奥。俺でも分かるくらいだから、大蛇丸には当然分かっているだろう。つまりこれは、暗部に囲まれた状態で大蛇丸とラーメンを食べるという、改めて考えなくても意味不明な状況だった。なのにテウチさんは普段通りに丼を洗っている。凄い。やはり一楽店主、胆力が違う。
「ラーメン、美味しかったわ」
「テウチさんのラーメンは美味しいですよね。ご馳走様でした」
「ご馳走様」
俺が丼を返すと、大蛇丸もそれを見て真似るように丼を戻した。
なんだこの光景。大蛇丸が食後にご馳走様と言っている。世界のバグか?いや、食事をしたら礼を言う。それは正しい。正しいんだけど、言っている人物のせいで脳が追いつかない。俺の中の前世知識が、さっきからずっと机の下で頭を抱えている。
俺は懐から父ちゃんに貰ったお金を取り出した。
昼も食べたのに夜も食べるという贅沢をした以上、支払いはきちんとする。父ちゃん、ありがとうございます。息子は今、あなたから貰ったお金で、逃亡中の大蛇丸と並んでラーメンを食べました。報告できない。絶対できない。したらまた怒られる。
その時、俺の腕を大蛇丸が掴んだ。
あの、ドキッとするんでやめてください。
物理的にも精神的にも心臓に悪い。細い指なのに力がある。ひんやりしていて、妙に生々しい。蛇ってこういう温度なのかな、と余計なことを考えてしまった。
「待ちなさい、私が払うわよ」
「えっ」
「こういうのは大人が払うものよ」
大人。
大蛇丸の口から大人という言葉が出た。
いや、確かに大人だ。年齢的には間違いなく大人だ。俺より遥かに大人だ。だが大蛇丸に「こういうのは大人が払うものよ」と言われると、急に社会性を見せられた感じがして困る。危険人物にも会計マナーはあるのか。そういうところで常識を出さないでほしい。判断が鈍る。
「ですが」
「子供が遠慮するものではないわ」
「……ありがとうございます」
「素直でよろしい」
大蛇丸は懐から金を出し、テウチさんへ渡した。テウチさんは一瞬だけ目を細めたが、何も言わずに受け取る。
「毎度」
毎度って言った。
次も来る可能性を否定しない言葉だった。いや、テウチさんは客には誰にでも言うのだろう。だが大蛇丸に毎度は怖い。常連になったらどうするんだ。一楽に来るたび隣に大蛇丸がいたら、俺の胃がもたない。ラーメンは胃に優しくても状況が胃に悪い。
店を出ると、夜風が頬に当たった。
昼間よりも空気が冷えている。暖簾が背中で揺れ、出汁の匂いが少しずつ遠ざかる。大蛇丸は俺の隣に立ち、何気ない様子で通りを見た。外の暗部達が僅かに身構える。俺にも分かる。今この瞬間、里の夜が薄い糸で張り詰めている。
「あなた、家はどちら?」
「……送ってくださるのですか」
「まさか。そこまで優しくはないわ」
ですよね。
分かってました。
「でも、今夜は真っ直ぐ帰りなさい。猿飛先生にも、親にも、また怒られるでしょうから」
お前が言うな。
喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。今の俺は命を大事にする良い子である。大蛇丸相手に正論パンチを打つほど命知らずではない。さっき施設に潜入した?それは過去の俺です。今の俺は反省した俺です。
「大蛇丸様は、どうされるのですか」
「さあ」
大蛇丸は夜の奥へ目を向けた。
「猿飛先生が本気で追ってくるなら、少し面倒ね。でも、今日はもう十分よ。ラーメンも食べたし」
ラーメンを食べたし、で締めるな。
それで逃亡計画を語らないでほしい。
「三代目は……戻ってほしいのだと思います」
俺は言ってから、少し後悔した。
余計なことを言ったかもしれない。だが大蛇丸は怒らなかった。ただ、俺を見下ろして薄く笑う。
「あなたは本当に妙な子ね。怖がっているのに、踏み込んでくる」
「怖いからこそ、言葉を選びたいだけです」
「あら。五歳児の言葉とは思えないわ」
しまった。
やめろ。その方向で興味を持つな。
「三代目に似たのだと思います」
「それは、猿飛先生が聞いたら喜びそうね」
「俺は困ります」
大蛇丸が小さく笑った。
その笑いは、隔離施設で聞いたものより少しだけ軽かった。ほんの少しだ。油断してはいけない。蛇は蛇だ。だけど、さっきラーメンを食べていた時と同じ、妙な人間臭さもあった。
「伝えておいて。ラーメンは悪くなかった、と」
「自分で伝えては?」
「今はまだ、やめておくわ」
そう言うと、大蛇丸の輪郭が夜に溶けるように薄れた。
瞬身か、分身か、蛇を使った替え身か。俺には分からない。ただ一瞬、足元に小さな白蛇が滑った気がして、次の瞬間にはもう大蛇丸の姿はなかった。周囲の暗部の気配が一斉に動く。だが遅い。追える者がいるのかどうか、五歳児の俺には判断できなかった。
俺は一人、暖簾の前に立ち尽くした。
ラーメン代を奢られた。
大蛇丸に。
この事実、父ちゃんと母ちゃんに言ったらどうなるんだろう。
俺は夜空を見上げ、静かに結論を出した。
黙って帰ろう。
今日これ以上、怒られる材料を増やしてはいけない。
「うちはイタチくんね……ウフフ、いい子」
大蛇丸は一楽でラーメンをイタチと共に食べ、店を出た後、木ノ葉の夜へ溶けるように姿を消した。
暗部の追跡を掻い潜り、里の外へ抜けること自体は容易だった。木ノ葉は強固な里だ。結界も巡らされ、夜番の忍もいる。だが大蛇丸ほど木ノ葉の内側を知る者にとって、隙間は隙間として見える。人が通る道、物資が運び込まれる道、警備が厚い場所と薄い場所、そして誰もが「ここは安全だ」と思い込むために意識が緩む場所。彼はそれらを踏むことなく、なぞることもなく、ただ影の端を滑って抜けていった。
猿飛ヒルゼンが本気で追っていれば、こう容易くはいかなかっただろう。あの老いた師はまだ衰えきってはいない。隔離施設で向けられた眼差し、言葉、そして一瞬に満ちたチャクラの圧。大蛇丸はそれを忘れていない。暗部の監視も確かにあった。だが不思議なことに、一楽にいる間、彼らは直接触れてこなかった。店を囲み、息を殺し、ただ見ていた。
接触されたとしても、逃げる手はあった。
一楽でラーメンを啜っていた大蛇丸は、本体ではない。完全な影分身とも違う。蛇を媒介に術式を編み、肉と気配を限りなく本物へ寄せた、特別な分身だった。味覚もある。触覚もある。会話もできる。だが致命傷を受ければ蛇へ解け、情報だけが本体へ戻る。偵察にも、交渉にも、相手の反応を見るにも都合がよい。
そして、あの幼い子はそれに気づいていた。
「噂に聞く通り、聡明で優しい子だった。私が本体じゃない事にも気づいていた。猿飛先生が目に掛けるだけあるわね」
里から離れた地下の小さな隠れ場で、大蛇丸は椅子に腰掛けていた。湿った石壁に幾つもの札が貼られ、机の上には巻物、薬瓶、血液の乾いた試験管、封のされた記録が並んでいる。灯火は弱い。揺れる光が、大蛇丸の白い頬に影を作っていた。
彼は指先で唇を撫でた。
醤油の味はもう残っていない。だが記憶には妙にはっきり残っていた。熱いスープ。練り物の渦。店主の声。小さなうちはの少年が、恐怖を隠しながらも礼儀正しく箸を持つ姿。猿飛先生が見せたかったもの。それが何なのか、分からないわけではなかった。
「ただ飯を食べるだけで、人が戻れるなら苦労しないわ」
大蛇丸は呟いた。
その声には嘲りがあった。だが、いつものようにすぐ笑い飛ばすことはできなかった。自来也が騒ぎ、綱手が怒鳴り、自分が呆れた顔で見ていた昔。ヒルゼンの言葉は、今さら古傷を撫でるように響いた。戻れない。戻る場所などない。そう思っているのに、完全に無意味だとも言い切れない。
面倒だった。
情とは本当に面倒なものだ。
「さて……」
大蛇丸は机の上に置かれた巻物を一本引き寄せた。
今夜、ヒルゼンに見つかった時点で、木ノ葉に残していた幾つかの研究場所は使えなくなる。既に暗部が動いている。記録の一部は回収されるだろう。実験体、培養槽、柱間細胞に関する資料。全てを残しておくほど、大蛇丸は愚かではない。ダンゾウとの繋がりも、いずれ火影の目に入る。あの男は切り札を隠すのが上手いが、自分を守るためなら平然と他者を切るだろう。
「ダンゾウも、そろそろ整理しなければならないわね」
薄く笑いながら、大蛇丸は封印式の一部を書き換えた。
遠く離れた隠し部屋で、ひとつの棚が燃える。別の場所では、薬液に沈んだ失敗作が音もなく崩れる。残すものと捨てるものを選びながら、大蛇丸の思考はなお、一楽の小さな席へ戻った。
うちはイタチ。
五歳にして、ただの子供ではない目をしていた。恐れているのに、言葉を選び、こちらを刺激しすぎないようにしながら、猿飛ヒルゼンの想いだけは伝えようとしていた。あれは臆病ではない。生き残るための注意深さと、誰かを傷つけたくない優しさが奇妙に混ざっている。
それでいて、危うい。
優しさがある子ほど、自分の命を軽く扱う。ヒルゼンが気に掛けるのも分かる。うちはの血、才、幼さ、そして妙に大人びた言葉。木ノ葉はまた、面白いものを抱え込んでいる。
「猿飛先生、あなたは本当に厄介な子を見つけるのが上手い」
大蛇丸は小さく笑った。
だが、その笑いは長く続かなかった。
机の端に置かれた小さな皿には、一楽から持ち帰ったナルトが一枚だけ残っている。分身が持ち帰ったものではない。店を出る際、術を解く前に小さな蛇へ移して運ばせた、ただの練り物だ。そんなものをわざわざ持ち帰った自分に、大蛇丸自身も少し呆れた。
彼はそれを箸で摘まみ、眺めた。
渦巻き。
中心へ向かうようでいて、外へ広がる模様。
「くだらない」
そう言いながら、大蛇丸はそれを口に入れた。
魚の風味が広がる。特別な力などない。ただの食べ物だ。研究材料にもならない。術式も刻まれていない。だが、あの店ではそれを新しい具にすると言って、店主が笑っていた。少年もそれを美味しいと言っていた。
木ノ葉には、そういうものがある。
大蛇丸が捨てたもの。ヒルゼンが守ろうとしているもの。自来也が当然のように笑い、綱手が失って背を向けたもの。
彼は椅子の背へ深く身を預けた。
「戻る、ね」
言葉は石壁に吸われた。
戻らない。少なくとも、今夜は戻らない。あのままヒルゼンの手を取れば、全てを暴かれ、縛られ、裁かれる。それはあまりにも退屈で、あまりにも早すぎる。まだ知りたいことがある。死の先、肉体の先、忍という存在の先。その欲望は消えていない。
けれど、殺し合いにすれば終わっていた。
ヒルゼンは殺さなかった。大蛇丸も殺さなかった。
その事実だけが、奇妙に重かった。
「次に会う時、猿飛先生はどんな顔をするのかしら」
大蛇丸は巻物を閉じ、灯火を指で摘まむように消した。
闇が落ちる。
その中で、蛇のような笑みだけが僅かに浮かんだ。今は逃げる。木ノ葉からも、師の言葉からも、あの小さなうちはの澄んだ目からも。だが完全に振り切ったわけではない。そんな中途半端な自分に気づきながら、大蛇丸は静かに立ち上がった。
テウチ「肝が冷えるぜ」