新藤律の仕事は、世界からわずかな歪みを削り落とすことだった。
都内の雑居ビルにオフィスを構える小さな編集プロダクションで、彼は校正・校閲の机に向かっている。赤ペンを指に挟み、他人が書いた無数の文章を睨みつける日々。彼にとって、言葉は一寸の狂いも許されない精密機械のようなものだった。
「『一段落』は『いちだんらく』であって『ひとだんらく』ではない。『シミュレーション』が『シュミレーション』になっている。またか」
律はため息をひとつ、丁寧にデスクの隅へと追いやった。彼の脳内には、正しい日本語の辞書が完璧な形でインストールされている。だからこそ、街に溢れる誤用の数々が、彼の神経を逆撫でした。テレビのテロップ、電車の広告、SNSのつぶやき。世界は、怠惰な人間たちが生み出した「間違った言葉」で満ちている。
そんな律が、人生において最も忌み嫌っている言葉がひとつあった。
ふいんき
「
「ふんいき、だろう。なぜ『ん』と『い』が入れ替わるんだ。口の構造はどうなっているんだ」
誰もいない深夜のオフィスで、律はキーボードを叩きながら毒づいた。彼にとって「ふいんき」とは、言葉の体をなしていない、単なる人間の怠惰の象徴だった。正しく発音しようとしない、正しくタイピングしようとしない、その締まりのなさが、あの四文字に凝縮されている気がしてならないのだ。
だが、その夜、律のデスクに置かれた一冊のゲラが、彼の世界を根底から揺るがすことになる。
それは、現代文学の重鎮であり、言葉の魔術師とも称される老作家・佐伯宗一の、実に五年ぶりとなる書き下ろしエッセイの原稿だった。
律は背筋を伸ばし、一文字ずつ丁寧に目で追っていった。老作家の文章は美しく、流れるようなリズムを持っていた。しかし、中盤に差し掛かったところで、律の赤ペンを握る手がピタリと止まった。
> ここは「雰囲気のいいカフェ」ではない。 ここにあるのは、ただの──「
> ──お断りしておくが、これは誤用ではない。あれは紛れもなく、ふいんきとしか形容しようのないものだったのだ。
律は我が目を疑った。
あの佐伯宗一が、単なる誤用であるはずの「ふいんき」という言葉を、意図的に、しかも確信犯的に使っている。
「誤植……いや、後ろの一文がある以上、あえて書いている。だが、ふんいきではない『ふいんき』とは、一体何なんだ?」
律は額に手を当てた。校正者としてのプライドが、この言葉をそのまま通すことを拒んでいた。しかし、作家の明確な意思を無視して「ふんいき」と赤字を入れるわけにもいかない。
窓の外では、東京の夜が音もなく更けていく。律は、その夜から、言葉の底に潜む奇妙な歪みに足を踏み入れることになった。
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翌日。律は、エッセイの担当編集者である同期の戸田を居酒屋に呼び出した。
「なぁ、戸田。佐伯先生の原稿のことなんだが」
ジョッキを傾ける戸田に向けて、律はプリントアウトしたゲラの一部を差し出した。戸田は焼き鳥を頬張りながら、めんどくさそうにそこに目を落とした。
「あー、それね。律、お前ならそこに引っかかると思ったよ」
「引っかかるも何も、これは日本語として成立していない。先生は何を意図してこの言葉を使ったんだ? 担当として、何か聞いていないのか」
戸田はビールを飲み干し、ぷはぁ、と息を吐き出すと、少し真面目な顔になった。
「いや、俺も尋ねたんだよ。『先生、ふいんきですか?』って。そしたら先生、不敵な笑みを浮かべてさ、こう言ったんだ。『戸田くん、君は現代の街を歩いていて、ふいんきを感じたことはないかね?』って」
「ふいんきを感じる?」
「そう。先生が言うにはね、『ふんいき』っていうのは、歴史とか、人間の情念とか、確固たる実体から滲み出る空気のことらしい。例えば、老舗の旅館とか、厳かな教会とか、そういう場所に漂うのが『ふんいき』だ」
律は腕を組んで先を促した。
「じゃあ、先生の言う『ふいんき』は何なんだ」
「中身が何もないのに、外見だけがそれっぽく取り繕われている状態、だってさ。中身が空っぽで、記号だけで構成されている空間や現象。それを先生は『ふいんき』と呼んでいるらしい。ネットで誰かが間違えて使い始めたその響きこそが、実体のない虚無にふさわしい、とね」
律は言葉を失った。
中身のない、外見だけの空気。
「……詭弁だ」
律は呟いた。「間違った言葉を正当化するために、新しい定義をでっち上げているだけだ」
「まぁ、小説家の言うことだからな」戸田は笑って、新しい酒を注文した。「でもさ、律。お前も心当たりないか? 最近の世の中、そういう『ふいんき』だけのもの、増えてる気がするんだよ」
帰り道、律は戸田の言葉を反芻しながら、夜の街を歩いた。
駅前のスクランブル交差点を渡り、新しくできたという商業ビルを見上げる。
全面ガラス張りのスタイリッシュな外観。中には、英語のロゴが踊るカフェや、出所のわからない「オーガニック」を謳う雑貨店が並んでいる。
律は、ふと、その中の一軒のカフェに入ってみることにした。
店内はコンクリート打ちっぱなしの壁に、暖色系のエジソンバルブが吊るされ、いかにも「洗練された」空気が流れている。若い男女がノートパソコンを開き、熱心に何かを作業している。
律はドリップコーヒーを注文し、席についた。
一口、 すする。
「……薄い」
驚くほど、味がなかった。苦味も酸味も、コクも、何もない。ただの茶色い、温かい液体だった。
周りを見回してみる。パソコンを開いている若者の画面が、ふと目に入った。彼は、洗練されたフォントで「シナジー」「アグリー」「コミットメント」といった横文字が並ぶスライドを、何度もスクロールしている。だが、全体を眺めても、そのプレゼンが「何を売るためのものなのか」が全く伝わってこない。
> ここは「雰囲気のいいカフェ」ではない。
> ここにあるのは、ただの──「ふいんき」だ。
律の脳裏に、佐伯宗一の言葉が、冷たい水滴のようにぽつりと落ちた。
この空間には、コーヒーの歴史も、職人のこだわりも、深い思考もない。ただ「おしゃれなカフェっぽさ」という記号だけが、空虚に浮遊している。
律はゾッとして、席を立った。飲みかけの、味のしない液体を残したまま、逃げるように店を出た。
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その日を境に、律の世界は一変した。
これまで「単なる誤用」として処理していたものが、明確な実体を持って彼の前に現れるようになったのだ。
オフィスでのことだった。後輩の女性ライターが、スマートフォンの画面を見せながら言った。
「新藤さん、このインフルエンサー、最近すごく人気なんです。ライフスタイルが素敵で」
画面に映っていたのは、白を基調とした部屋で、丁寧な暮らしを実践しているとされる女性の写真だった。フォロワー数は数十万人にのぼる。
律はその女性のプロフィールや、過去の投稿をスクロールしてみた。
「……この人は、何をしている人なんだ?」
「え? 何って、インフルエンサーですよ?」
「いや、職業だ。デザイナーなのか、料理家なのか、文筆家なのか」
「うーん、そういうのは特にないんですけど……でも、なんか
後輩は、確かに「ふいんき」と言った。
「ふんいき」ではなく、滑るような発音で、「ふいんき」。
律は、その女性の投稿に並ぶ言葉を凝視した。
『今日も素敵な一日になりますように』『自分を愛することが第一歩』『心の声に耳を傾けて』。
どこかで見たような、誰でも言えるような、耳障りの良い言葉の羅列。具体的なエピソードも、独自の思想もそこにはない。ただ「丁寧な暮らしをしている風」の記号だけが、デジタル空間に敷き詰められている。
「これもか」
律は目眩を覚えた。
彼女は、実体がない。ただ「素敵なライフスタイル」という「
世界は、急速に「
本屋に行けば、『なんとなく分かる経済学』『一瞬でそれっぽくなるデザイン術』といった、中身を極限まで薄めた実用書が平積みされている。
テレビをつければ、コメンテーターたちが「何が問題かというと、やはり意識の共有ですよね」と、分かったような分からないような、中身ゼロのセリフを厳かな顔で吐き出している。
そして恐ろしいことに、律自身の手元にある原稿にも、その変化は現れ始めていた。
ある文芸誌の新人賞の応募作を読んでいた時のことだ。
文章は非常に美麗だった。比喩表現も巧みで、一見すると文学的な情緒に満ちているように思えた。しかし、読み進めていくうちに、律は猛烈な違和感に襲われた。
「主人公の動機が分からない。なぜこの事件が起きたのかも描かれていない。登場人物たちが、ただ『傷ついた若者風』のセリフを喋り、雨の降る街を『切なげ』に歩いているだけだ……」
律は赤ペンを突き立てた。
【描写は美しいが、本質的なドラマが欠落している。何を伝えたいのかが不明】
そう書こうとして、手が止まった。
違う。これは「小説」の形をした、ただの「ふいんき」だ。読者に「文学を読んでいるぞ」という気分だけを味わわせるための、中身のない精巧なレプリカ。
律は、自分のデスクの引き出しから、古い国語辞典を取り出した。
【雰囲気】──その場を満たしている、独特の気分。空気。
その文字をじっと見つめる。
「もし、この世に『ふいんき』という別の言葉が本当に生まれてしまっているのだとしたら……」
律は恐怖を感じた。
正しさにこだわってきた自分が、今や、その正しさの枠組みから外れた、名付けようのない化け物に囲まれているような気がした。
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ある雨の土曜日。律は、気分転換のために、普段は行かない少し離れた街の図書館へ向かった。古い、実体のある言葉に触れて、脳を洗い流したかったのだ。
静まり返った閲覧室で、律は古い明治時代の小説をめくっていた。硬質で、密度が高く、一文字一文字に人間の血と汗が染み込んでいるような文章。これこそが言葉だ。これこそが「ふんいき」だ。律は深く息を吐き、ようやく心の安寧を取り戻しつつあった。
「あの、すみません」
突然、横から声をかけられた。
振り返ると、一人の女性が立っていた。
ベージュのトレンチコートを着て、髪は少し無造作にまとめられている。いかにも「本を愛する知的な女性」といった佇まいだった。眼鏡の奥の瞳は澄んでいて、彼女の周りだけ、どこか文学的な、ノスタルジックな空気が漂っているように見えた。
「その、持っていらっしゃる辞書……少しお借りしてもよろしいですか?」
彼女が指差したのは、律が机の脇に置いていた、私物の古い大辞典だった。
「あ、ええ。どうぞ」
律が辞書を差し出すと、彼女は「ありがとうございます」と微笑んだ。その微笑みは、完璧だった。その所作は、非の打ち所がないほどに美しい。
彼女は律の向かいの席に座り、辞書をめくり始めた。
律は、なんとなく彼女の様子を観察してしまった。彼女は、いかにも難解なページを開き、人差し指で文字をなぞりながら、時折ふむ、と深く頷いている。
だが、律のプロとしての目が、彼女の不自然さを捉えた。
彼女の指先は、辞書のページを追っている。しかし、その目の動きが、文章を読んでいる人間のそれではないのだ。視線が、ページの右上から左下へと、ただ均等に、機械的に滑っている。
さらに、彼女が手元に広げているノートに目をやった。
そこには、万年筆の美しい楷書で、何かが出生率や世界の情勢について書かれているように見えた。しかし、よく見ると──。
『すなわち、これらはそれらのそれであり、しかるに我々はこれをもってそれとなす……』
主語も目的語も、具体的な名詞も一切ない。ただ論文っぽい接続詞と代名詞だけが、美しい文字で延々と綴られていた。
律の背中に、冷たい汗が流れた。
「あなた……」
律の声は、思わず震えていた。
女性は顔を上げた。その顔には、相変わらず知的な微笑みが張り付いている。
「あなた、今、何を読んでいるんですか?」
「ええ、とても興味深いことが書かれています。この世界の、本質について」
彼女の声は鈴を転がすように美しかった。しかし、その言葉には、何の重みもなかった。
「嘘だ」律は立ち上がった。「あなたは何も読んでいない。そのノートも、ただ書いてある風なだけだ。あなたは何者なんだ?」
女性の微笑みが、ピキ、と固まったような気がした。
彼女はゆっくりとノートを閉じ、万年筆をポケットに仕舞った。その動作一つひとつが、あまりにも「それっぽく」洗練されていた。
「新藤さん。あなたは、正しすぎるのよ」
彼女は、なぜか律の名前を知っていた。
「世界はね、もう『ふんいき』を維持するのに疲れてしまったの。本物であるためには、たくさんのコストがかかるわ。深い知識、長い歴史、血のにじむような努力。そんなものを求めていたら、世界は息が詰まって死んでしまう」
彼女は立ち上がり、律に一歩近づいた。彼女の体からは、何の匂いもしなかった。香水の匂いも、人間の体温の匂いも、雨の匂いすらも。
「だから、世界は『ふいんき』を選んだの。中身は空っぽでいい。ただ、それっぽい記号があれば、みんな満足できるわ。あの味のしないカフェも、中身のないインフルエンサーも、あなたの周りの薄っぺらい言葉たちも。みんな、幸せそうでしょう?」
「ふざけるな!」
律は声を荒げた。周囲の閲覧者が一斉に彼を睨んだが、律は止まらなかった。
「言葉は、世界を正しく定義するためにあるんだ! 曖昧な、都合のいい記号で埋め尽くされた世界なんて、ただの幻覚だ!」
「幻覚で、何が悪いの?」
女性は、悲しそうな、それでいて完全に無感情な表情を浮かべた。
「私はね、あなたがいつも嫌悪している、あの四文字の化身よ。私は、あなたたちの怠惰が生み出した、ふいんきという、雰囲気だけの存在。ねぇ、新藤さん。あなたも、もう楽になりなさいよ。正しさにしがみつくのをやめれば、この世界はとても生きやすいわ」
彼女が手を伸ばし、律の頬に触れようとした。その指先は、まるでホログラムのように、実体がないような錯覚を覚えさせた。
「断る」
律は彼女の手を振り払い、自分の鞄を掴むと、図書館を飛び出した。
背後から、彼女の、あるいは世界そのものの、低く弛緩したような笑い声が聞こえた気がした。
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外は、激しい豪雨に変わっていた。
律は傘もささずに、土砂降りの街を走った。
走っても、走っても、景色はどこか不自然だった。
街灯の光は、アスファルトに反射して美しい夜景を作っている。しかし、その光は暖かみを持たず、まるで液晶画面を見ているようだった。行き交う人々は、みな同じような「それっぽい」服を着て、同じようなテンポでスマホを見つめながら歩いている。彼らの会話から漏れ聞こえるのは、「あ、それな」「ウケる」「やばい」といった、感情の輪郭を持たない言葉の破片だけだった。
「世界が、崩れていく……」
律は自分のオフィスへと駆け込んだ。鍵を開け、暗い室内に入る。
彼はデスクに座り、佐伯宗一のゲラを引っ張り出した。
> あれは紛れもなく、ふいんきとしか形容しようのないものだったのだ。
律は、赤ペンを強く握りしめた。
「先生、あなたは、この世界の変貌に気づいていたんですね。だから、あえてこの言葉を原稿に刻んだんだ」
もし、このまま
「俺は、校正者だ」
律は呟いた。
「世界を正しく書き直すのが、俺の仕事だ」
彼は赤ペンをゲラに突き立てた。
【ふいんき ──→ 雰囲気(ふんいき)の誤り。要修正】
強い意志を込めて、文字を書き込んだ。
その瞬間、オフィスの空気が激しく振動した。
窓ガラスがガタガタと鳴り響き、部屋の電灯が激しく明滅する。
律の目の前の空間が、ぐにゃりと歪んだ。あの図書館の女性が、虚空から染み出すように姿を現したのだ。彼女の姿は、先ほどよりもノイズが混じり、輪郭がボヤけていた。
「やめて、新藤さん」
彼女の声は、もはや美しくはなかった。スピーカーが壊れたような、耳障りなデジタルノイズが混じっている。
「あなたがそれを直せば、私は消える。でも、それは世界が本物の重みに耐えなきゃいけなくなるってことよ。みんな、そんな苦痛には耐えられない!」
「耐えられなくても、それが現実だ!」
律は叫んだ。
「味がしないコーヒーを美味いと思い込み、中身のない言葉に涙を流す。そんな世界は、生きているとは言わない! 間違った言葉は、正されなければならないんだ!」
「頑固な校正者ね……!」
女性が手を伸ばし、律の原稿を奪おうとした。
律は身を躱し、デスクの上の赤ペンで、空中に文字を描くように、叫んだ。
「お前は、ただの言い間違いだ! 怠惰が生んだ、一時のバグだ! 辞書に、お前の居場所はない!」
律は原稿を強く押さえつけ、さらに赤字を書き加えていく。
街のパンフレット、WEBの記事、SNSのログ。彼の脳内で、これまで蓄積されてきたすべての「ふいんき」という誤用が、次々と「雰囲気」へと書き換えられていくイメージが広がっていく。
「ああ……、……っ」
女性の体が、砂のように崩れ始めた。
彼女を構成していた「それっぽさ」の記号が、剥がれ落ちていく。トレンチコートはただの灰色の布切れになり、美しい髪はただの繊維の塊になり、そして彼女の顔からは、目も鼻も口も消え失せ、滑らかな、のっぺらぼうの球体へと変わっていった。
中身のない言葉の、これが正体だった。
彼女は完全に消滅した。オフィスの明滅が収まり、静寂が戻った。
窓の外を見ると、激しかった雨は上がり、雲の切れ間から、冷たくも確かな月光が差し込んでいる。
律はデスクに突っ伏し、激しい息を整えた。
手元のゲラには、彼が書いた鮮やかな赤字だけが、静かに残されていた。
---
数週間後。
佐伯宗一のエッセイ集が、無事に全国の書店に並んだ。
律の入れた赤字は、最終的に作家の了解を得て、そのまま「雰囲気」へと修正された。内容も一部変わっている。佐伯は律の修正案を見て、「ふむ、やはりまだ早すぎたかね」と、少し寂しそうに笑っていたという。
律は、いつものように都内の街を歩いていた。
あの騒動の後、世界が劇的に変わったわけではない。相変わらず、新しくできたカフェのコーヒーは少し薄いし、SNSには中身のない言葉が溢れている。
だが、確実に見合わなくなったものもある。
駅前のあのカフェに入ってみると、メニューには「豆の産地:エチオピア」「自家焙煎」という、具体的な事実がしっかりと表記されるようになっていた。コーヒーを飲むと、以前のような虚無の味ではなく、微かな、しかし確かな苦味が舌に残った。
言葉が正されたことで、世界は少しだけ実体を取り戻したのだ。
律は、歩道橋の上から、行き交う人々を眺めた。
人間は不完全な生き物だ。これからも、新しい誤用や、怠惰な言葉を生み出し続けるだろう。そしてまた、実体のない「ふいんき」のような化け物が、世界の隙間から生まれてくるかもしれない。
「その時は」
律は、胸のポケットに差した赤ペンのクリップに、そっと指を触れた。
「また、俺が直せばいい」
彼は、小さく微笑んだ。
世界からすべての歪みをなくすことはできない。だが、言葉を守る者がいる限り、世界は完全に空虚に染まることはないはずだ。
律は歩道橋を降り、再び、自分の戦場であるオフィスへと向かった。
彼の歩みは、以前よりも少しだけ軽やかだった。