ドラゴンクエストⅤ 転生したらパパスだった件。 作:兎深みどり
ルラフェンへ戻る頃には、夜の色が少し薄くなり始めていた。
まだ夜明けではない。
だが、空の端にほんのわずかな灰色が混じっている。
急げ。
ルラムーン草は、夜の草だ。
ベネットじいさんは、夜が明けると力が弱まると言っていた。
俺は懐の布を押さえながら、町の奥へ向かった。
煙突の曲がった家には、まだ灯りがついている。
扉を叩く前に、中から声が飛んできた。
「遅いぞ!」
まだ何も言っていない。
扉が勢いよく開き、ベネットじいさんが顔を出した。
眠そうな気配はまるでない。
「取ってきたのか?」
「ああ」
布を開く。
青白い光が、部屋の中にふわりと広がった。
ベネットじいさんの目が、少年のように輝く。
「おお……これじゃ。これがルラムーン草じゃ!」
じいさんは草を受け取ると、机の上へ慎重に置いた。
そこからの動きは早かった。
瓶を取り出す。
粉を量る。
古い本を開く。
ぶつぶつと呪文のような言葉を呟きながら、草の葉をすり潰していく。
完全に研究者の顔だった。
俺は邪魔にならないよう、壁際に立つ。
待つしかない。
だが、時間が気になる。
サンタローズでは、リュカが眠っている。
サンチョも待っている。
朝になれば、ビアンカ親子をアルカパへ送る流れが始まる。
間に合わせなければならない。
「焦るな」
ベネットじいさんが、こちらを見ずに言った。
「顔に出ておるぞ」
「そうか」
「そんな顔で待たれると、こっちまで手元が狂うわい」
「すまない」
「謝るくらいなら、黙って待っとれ」
俺は黙った。
少しして、瓶の中の液体が淡く光り始めた。
ベネットじいさんはそれを見て、満足そうに頷く。
「よし。これで道は繋がった」
「ルーラを覚えられるのか?」
「覚えられるかどうかは、おぬし次第じゃ」
じいさんは俺に向き直る。
「ルーラは、ただ遠くへ飛ぶ呪文ではない。行ったことのある場所を思い出し、その記憶へ魔力を通す呪文じゃ」
記憶へ魔力を通す。
言葉だけ聞くと簡単そうだ。
だが、実際にはかなり繊細な話なのだろう。
「目を閉じろ」
言われた通りにする。
「帰りたい場所を思い浮かべるんじゃ。町の名だけでは足りん。空気、匂い、地面の感触。そこに立っている自分を思い出せ」
サンタローズ。
木の家。
暖炉の匂い。
サンチョの泣きそうな顔。
布団で眠るリュカの寝息。
帰る場所。
そう思った瞬間、胸の奥に何かが繋がる感覚があった。
ベネットじいさんが、静かに言う。
「唱えろ」
俺は息を吸った。
「ルーラ」
身体が浮いた。
いや、浮いたように感じただけかもしれない。
足元が消える。
風が巻く。
頭の中に、サンタローズの家が強く浮かぶ。
だが、次の瞬間、ぐらりと視界が揺れた。
「まだじゃ!」
ベネットじいさんの声が飛ぶ。
「場所を広く取れ!家の中へ飛ぼうとするな!屋根に頭をぶつけたいのか!」
危ない。
かなり危ない。
俺は慌てて、サンタローズの村の外れを思い浮かべた。
家ではなく、村の入口。
土の道。
見上げる空。
風が収まる。
気づけば、俺はベネットじいさんの家の中に立ったままだった。
失敗か。
「今のは半分成功じゃな」
じいさんはにやりと笑った。
「飛びかけた。だが、行き先の定め方が甘い」
「屋内は危ないのか」
「当たり前じゃ。天井のある場所で使えば、ろくなことにならん。町や村の外、広い場所を思い浮かべるんじゃ」
なるほど。
ゲームでは気にしなかった部分だ。
ルーラは便利だ。
だが、現実で使うなら危険もある。
「もう一度だ」
俺は頷いた。
サンタローズ。
村の入口。
土の道。
朝を待つ静かな空気。
そこに立つ自分を思い浮かべる。
「ルーラ」
今度は、はっきりと身体が引き上げられた。
風が全身を包む。
視界が白く流れる。
次に足が地面を踏んだ時、そこは夜明け前の草地だった。
目の前に、サンタローズの村がある。
戻ってきた。
本当に戻ってきた。
俺は少しの間、動けなかった。
ルーラ。
覚えた。
これで動き方が変わる。
だが、浮かれている時間はない。
空はもう、薄く明るくなり始めている。
俺は村へ向かって歩き出した。
家の前では、サンチョが待っていた。
「旦那様……!」
「戻った」
「よくお休みです」
「そうか」
それを聞いて、ようやく肩の力が抜けた。
家の中に入る。
寝室をそっと覗く。
リュカは静かに眠っていた。
昨日の冒険で疲れ切ったのだろう。
小さな寝息が、規則正しく聞こえる。
間に合った。
俺は扉を閉め、静かに息を吐いた。
だが、まだ一つだけ残っている。
「サンチョ」
「はい、旦那様」
「すぐ戻る」
「え?」
「礼を言いに行くだけだ」
サンチョが何か言う前に、俺は家の外へ出た。
サンタローズの村の入口。
広い空。
足元の土。
今度は、行き先を間違えない。
ルラフェン。
薬草の匂い。
煙突の曲がった家。
ベネットじいさんの研究室。
「ルーラ」
風が身体を包んだ。
次に足が地面を踏んだ時、そこはルラフェンの町の外だった。
今度は迷わない。
俺はそのままベネットじいさんの家へ向かった。
扉を叩くと、すぐに中から声がした。
「今度はなんじゃ!」
「礼を言いに来た」
扉が開く。
ベネットじいさんは、少しだけ目を丸くしていた。
「わざわざ戻ってきたのか」
「ああ。助かった」
「ふん。律儀な男じゃのう」
「礼を言わずに帰るのは違う」
ベネットじいさんは鼻を鳴らした。
だが、口元は少し笑っていた。
「ルーラは使えたようじゃな」
「ああ。危うく屋根に頭をぶつけるところだったがな」
「だから言ったじゃろうが。場所は広く取れとな」
「覚えた」
「ならよい」
じいさんは机の上に散らばった紙をかき集め始めた。
もう次の研究に戻るつもりらしい。
「それでじゃな。ルーラが道をつなぐ呪文なら、次は道を抜ける呪文も面白いと思わんか?」
俺は一瞬、黙った。
道を抜ける呪文。
まさか。
頭の中に、別の呪文名が浮かぶ。
リレミト。
洞窟や塔から抜け出す呪文。
もしそれまで手に入るなら、今後の動きはさらに変わる。
「……ベネット殿」
「なんじゃ?」
「その話、いずれ詳しく聞かせてもらいたい」
「ほう。興味があるか」
「ああ。かなりある」
ベネットじいさんは楽しそうに笑った。
「なら、また来るがよい。わしの研究は、まだまだ終わらんぞ」
「覚えておく」
長居はできない。
俺は短く礼をして、家を出た。
ルラフェンの空も、少しずつ明るくなり始めている。
サンタローズへ戻る。
朝が来る前に。
俺は町の外へ出て、もう一度行き先を思い浮かべた。
サンタローズ。
村の入口。
土の道。
朝を待つ静かな空気。
「ルーラ」
風が巻く。
次に目を開けた時、俺は再びサンタローズの村の前に立っていた。
天空の剣。
ルーラ。
そして、今日から始まるアルカパへの道。
準備は、まだ足りない。
それでも、船で目覚めた時の俺よりは、少しだけ前に進んだ。
朝が来る。
原作の流れも、また動き出す。
俺は眠る息子を起こさないように、静かに荷を下ろした。