ドラゴンクエストⅤ 転生したらパパスだった件。 作:兎深みどり
夜のアルカパは、昼とは違う顔をしていた。
宿屋の窓の外から聞こえていた人の声は、もうほとんどない。
時折、遠くで犬が吠える。
あとは、風が看板を揺らす音だけだ。
俺は寝台の上で目を閉じていた。
眠ってはいない。
眠りたい気持ちはある。
実際、身体は休息を求めている。
だが、今夜は眠るわけにはいかない。
隣の部屋で、小さな物音がした。
続いて、床板がきしむ音。
来たか。
「リュカ、起きて」
ビアンカの小さな声が聞こえた。
「ん……ビアンカ?」
「約束したでしょ。レヌール城に行くの」
少し間があった。
リュカは迷っているのだろう。
怖いはずだ。
夜に、子どもだけで、幽霊が出るという城へ向かう。
普通なら無茶だ。
だが、ビアンカは引かない。
「子ネコを助けるんでしょ」
「……うん」
リュカの声が変わった。
怖さは消えていない。
それでも、行くと決めた声だった。
俺は目を開けない。
ここで起き上がれば、二人は止まる。
それが一番安全なのは分かっている。
けれど、安全だけを与え続ければ、リュカは自分の足で立てなくなる。
リュカ。
行ってこい。
ただし、無事に帰ってこい。
扉が静かに開いた。
小さな足音が二つ、廊下へ出る。
俺の部屋の前で、足音が一度止まった。
「おとうさん……」
リュカの声。
俺は呼吸を深く、ゆっくりにした。
眠っているふりをする。
「パパスさん、寝てる?」
「うん。風邪、つらそう」
「じゃあ、早く帰ってこなきゃね」
「うん」
足音が離れていく。
嘘をついている。
父親として正しいのかは分からない。
だが、ここで俺が全部を管理すれば、リュカの冒険は消える。
ビアンカとの約束も、あの子ネコを助ける決意も、リュカ自身のものではなくなる。
それは違う。
やがて、宿屋の出入り口が小さく閉まる音がした。
二人は出た。
俺はゆっくりと起き上がった。
身体は重い。
眠気もある。
だが、動ける。
荷物を手に取り、剣を腰に差す。
部屋の中を見回し、寝台の布を少し膨らませておく。
雑だ。
長くはごまかせない。
だが、朝まで誰も起こしに来なければ十分だ。
俺は窓を少し開け、外の気配を探った。
町は静かだ。
今なら出られる。
宿屋の裏から外へ出ると、夜風が頬に当たった。
リュカとビアンカが向かったのは、レヌール城。
俺が向かうのは、別の場所。
ルラフェン。
煙突の曲がった家。
薬草の匂い。
ベネットじいさんの研究室。
頭の中で、行き先をはっきりと思い浮かべる。
「ルーラ」
風が巻いた。
足元の感覚が消え、次に地面を踏んだ時には、ルラフェンの町の外に立っていた。
夜のルラフェンは、相変わらず薬草の匂いが濃い。
俺は迷わず、ベネットじいさんの家へ向かった。
煙突の曲がった家には、まだ灯りがついていた。
予想通りだ。
このじいさん、たぶん夜に寝ていない。
扉を叩く。
「誰じゃ!」
「パパスだ」
中で何かが落ちる音がした。
「またおぬしか!今度は何用じゃ!」
「この前の話を聞きに来た」
扉が開く。
ベネットじいさんは、怒ったような顔をしていた。
だが、目は楽しそうだ。
「この前の話?」
「道を抜ける呪文だ」
じいさんの口元がにやりと歪む。
「ほう。覚えておったか」
「ああ。かなり重要だ」
「ルーラだけでは足りんと?」
「足りない」
俺は短く答えた。
「町へ戻る呪文は便利だ。だが、洞窟や塔の奥で子どもが危険に遭った時、外へ出る手段が欲しい」
ベネットじいさんの表情が少し変わった。
茶化すような色が消える。
「……子どもを守るためか」
「ああ」
「なら、覚えは早いかもしれんな」
じいさんは部屋の奥へ戻り、机の上に散らばった紙をかき分けた。
「ルーラは、知っている場所へ道をつなぐ呪文じゃ。だが、今考えておるものは少し違う」
「違う?」
「場所を選んで飛ぶのではない。今いる迷い場から、外へ押し出す呪文じゃ」
迷い場から、外へ押し出す。
リレミト。
その名前が、頭の中で形になる。
「洞窟や塔は、内部に流れがある。入口、出口、通路、階段。人が出入りすることで、道の癖が残る」
「その癖をたどるのか」
「そうじゃ。無理やり空を飛ぶのではない。迷い込んだ道から、外へ抜ける」
なるほど。
ルーラより派手ではない。
だが、実用性は高い。
特に、これからの俺には。
「教えてくれ」
「簡単に言うのう」
「簡単ではないのは分かっている」
「分かっておる顔ではないわい」
ベネットじいさんは鼻を鳴らした。
「なら、試す場所がいるのう」
じいさんは机の下から古い鍵を取り出した。
「町外れに、昔使っていた薬草倉庫がある。地下に短い通路が残っておる。迷い場と呼ぶには小さいが、感覚を掴むにはちょうどよい」
「今からか」
「今覚えに来たんじゃろうが」
その通りだ。
紙だけ持ち帰っても意味がない。
必要なのは知識ではない。
使える手段だ。
「頼む」
「礼は覚えてから言え」
ベネットじいさんは灯りを手に、家の外へ出た。
夜のルラフェンを抜け、町外れの古い倉庫へ向かう。
地下へ続く扉を開けると、湿った土と古い薬草の匂いがした。
短い通路。
低い天井。
行き止まり。
曲がり角。
洞窟ほどではない。
だが、閉じた場所特有の圧迫感がある。
「よいか。出口を思い浮かべるだけでは足りん」
ベネットじいさんが言う。
「ここへ入ってきた道を思い出せ。足元の感触、曲がった角、空気の流れ。外へ向かう筋を探るんじゃ」
俺は目を閉じた。
入口。
階段。
湿った壁。
左へ曲がった通路。
外の夜風。
ルーラとは違う。
遠くの場所へ飛ぶのではない。
今いる場所から、外へ抜ける。
身体の中の魔力を、細い糸のように伸ばす。
出口へ。
外へ。
戻る道へ。
「唱えろ」
ベネットじいさんの声がした。
俺は息を吸う。
「リレミト」
足元が、ふっと軽くなった。
次の瞬間、身体が横へ引っ張られる。
「っ……!」
壁が迫る。
まずい。
俺は咄嗟に足を踏ん張った。
肩が石壁にぶつかり、鈍い痛みが走る。
抜けられなかった。
「失敗じゃな」
ベネットじいさんが楽しそうに言う。
「笑い事ではない」
「壁に埋まらなかっただけ上出来じゃ」
「基準が怖い」
「便利な呪文ほど、雑に使えば死ぬ。覚えておけ」
「ああ」
だが、今ので少し分かった。
出口へ向かう流れ。
道の癖。
外へ抜ける感覚。
ルーラのように、遠くの場所を強く思い浮かべるのではない。
今いる場所から、外へ押し出す。
俺はもう一度、目を閉じた。
「もう一度だ」
「ほう?」
「感覚を忘れないうちにやる」
ベネットじいさんの口元が、にやりと歪んだ。
「よい顔になってきたのう、パパス」
二度目は、壁にはぶつからなかった。
だが、出口までは届かない。
階段の途中で膝をつく。
三度目。
地下倉庫の入口近くまで出た。
四度目。
外の空気が、ほんの一瞬だけ頬を撫でた。
あと少しだ。
俺は息を整える。
焦るな。
外へ飛ぼうとするな。
道をたどれ。
入口。
階段。
通路。
曲がり角。
地下の空気。
外へ向かう風。
帰る道を、魔力でなぞる。
「リレミト」
身体が軽くなった。
今度は横へ流されない。
足元から押し上げられるような感覚。
視界が一瞬白くなる。
次に足が地面を踏んだ時、俺は倉庫の外に立っていた。
夜風が頬に当たる。
空が見える。
抜けた。
リレミト。
覚えた。
少し遅れて、地下の入口からベネットじいさんが顔を出した。
「……本当に一晩で覚えおったか」
「まだ危なっかしいか?」
「危なっかしいに決まっとる。だが、使えんとは言えんな」
ベネットじいさんは、呆れたように笑った。
「おぬし、やはり妙な男じゃ」
「必要だった」
「子どもを守るためか」
「ああ」
短く答える。
それ以上の説明はいらない。
リレミト。
これがあれば、洞窟や塔で逃げ道を失っても、外へ出られる。
完璧ではない。
危険もある。
だが、持っているのと持っていないのとでは違う。
未来を変えるための手札が、また一つ増えた。
「礼を言う」
「だから、礼は覚えてから言えと言ったじゃろう」
「覚えた」
ベネットじいさんは一瞬黙った。
それから、ふん、と鼻を鳴らす。
「なら、受け取っておくわい」
空はまだ暗い。
だが、夜は確実に進んでいる。
レヌール城へ向かった二人は、今頃どこまで進んでいるだろうか。
行きたい気持ちはある。
すぐに追いかけたい気持ちもある。
だが、俺が必要なのは、二人の冒険を奪うことではない。
帰る道を用意しておくことだ。
俺はルラフェンの町の外へ出ようとした。
「待て、パパス」
背後から、ベネットじいさんの声がした。
振り返る。
「なんだ?」
「もう一つ、話しておきたいことがある」
「今か?」
「今じゃ。おぬし、時間がない顔をしておる。なら、聞ける時に聞いておけ」
ベネットじいさんは、俺の腰の剣を見た。
「おぬしは、呪文を外へ放つより、剣へ魔力を通す方が向いておるかもしれん」
剣へ、魔力を通す。
俺は思わず、剣の柄に触れた。
「どういう意味だ?」
「続きは、わしの家で話す。立ち話で済む内容ではない」
レヌール城の方が気になる。
だが、これは聞いておくべき話だ。
未来を変える手札になる。
俺は短く頷いた。
「分かった」
ルーラ。
リレミト。
移動と脱出。
そして、次は剣に宿す力。
まだ夜は終わっていない。
リュカとビアンカの冒険も。
俺の準備も。
どちらも、ここからだ。