ドラゴンクエストⅤ 転生したらパパスだった件。 作:兎深みどり
足元から伝わる船の揺れが、少しずつ身体に馴染んできた。
船室に閉じこもっていても、頭の中はまとまらない。
俺は一度、外の空気を吸うために甲板へ出た。
潮の匂い。
波の音。
遠くまで続く海。
どこを見ても現代日本じゃない。
夢でもない。
俺は本当に、パパスになっている。
太く逞しい腕。
広い肩。
厚い胸板。
外側だけ見れば、頼れる父親そのものだ。
けれど中身は、昨日まで普通に現代で生きていた男。
最後の最後で、ようやく一度だけ動けた情けない人間だ。
なのに今は、パパス。
重い。
この身体も。
この名前も。
これから背負う未来も。
「……おとうさん?」
背後から、小さな声がした。
振り返る。
そこにいたのは、紫のターバンに、同じ色のマント。
薄緑色の服を着た幼い男の子だった。
来た。
ゲームで何度も見てきた幼年期の主人公。
何度も名前を付けた。
何度も旅をさせた。
何度も苦しい未来を見てきた。
けれど今は違う。
この子は画面の中の主人公じゃない。
俺の前にいる。
小さくて、不安そうで、俺を父親だと思って見上げている。
俺の息子だ。
「どうした?」
自分でも驚くくらい、声は低く、静かに出た。
「ゆれて……ねむれなくて……」
息子はマントの端を小さな手で握っていた。
船が揺れるたび、少しだけ肩が動く。
かわいい。
いや、待て。
想像以上にかわいい。
父性ってこういうものなのか。
ゲームで見ていた時とは全然違う。
守る。
絶対に守る。
奴隷なんかにさせない。
大切な人たちと、理不尽に引き裂かれる未来なんか歩ませない。
「外の風に当たれば、少しは楽になるだろう。一緒に行くか?」
「……うん」
小さな手が、俺の指を握った。
温かい。
ただそれだけで、この世界が本物なのだと分かってしまう。
画面の向こう側じゃない。
イベントでもない。
この子は、ここにいる。
俺は息子の歩幅に合わせて、ゆっくり甲板を歩いた。
波が船体に当たる。
船員たちが忙しそうに動いている。
遠くでカモメの鳴き声がした。
ここから始まる。
サンタローズ。
ビスタ港。
レヌール城。
妖精の村。
ラインハット。
知っている場所ばかりだ。
でも、これからは知っている通りには進ませない。
まずは、この船だ。
ここには、もう一つ大事な出会いがある。
「……お父さまと、お散歩ですの?」
柔らかい声がした。
振り返ると、淡い水色の髪の少女が立っていた。
小さな手でスカートの端を摘み、丁寧に会釈をしている。
フローラ。
幼い頃のフローラだ。
リメイク版で見た船上イベント。
ゲームの仕様を考えている場合じゃない。
でも考えてしまう。
だって目の前にいる。
小さい。
上品。
かわいい。
息子よ。
この子が未来の花嫁候補の一人だぞ。
言えるわけがない。
そもそも今のお前は子どもだ。
俺は父親だ。
落ち着け。
外側だけでも落ち着け。
「散歩のようなものだ」
口から出た言葉はそれだけだった。
よし。
今のはパパスっぽい。
たぶん大丈夫だ。
中身は全然大丈夫じゃないけど。
フローラの後ろに、立派な身なりの紳士が立っていた。
ルドマン。
サラボナの大富豪。
フローラの父。
将来、息子の結婚に関わる男。
そして、天空の盾を持っている男。
情報量が多い。
多すぎる。
この男を見た瞬間、頭の中に未来の出来事が一気に流れ込んでくる。
フローラ。
結婚。
サラボナ。
炎のリング。
水のリング。
天空の盾。
そして、ブオーン。
ルドマンの家に関わる巨大な災厄。
未来で復活し、サラボナを襲う化け物。
あれをどうにかできれば、ルドマンの信頼を得るには十分すぎる。
だが、今それを言うか。
言えるわけがない。
初対面に近い相手に、あなたの家には天空の盾がありますよね、と言う。
将来ブオーンが出ますよ、と言う。
あなたの娘がうちの息子の花嫁候補になります、と言う。
不審者だ。
完全に不審者だ。
いや、不審者どころじゃない。
下手をすれば、未来を知っていること自体が原因で、もっと悪い方向へ変わるかもしれない。
言いたい。
ものすごく言いたい。
けれど言えない。
未来を変えたいのに、未来を知っていることを軽々しく話せない。
面倒くさい。
だが、そこを間違えたら終わる。
「パパスさん、でしたな。先程はご挨拶をどうも」
ルドマンが穏やかに笑う。
先程。
そうか。
俺が目覚める前のパパスが、すでに挨拶していたのか。
助かった。
少なくとも、完全な初対面ではない。
だが油断するな。
相手はただの金持ちじゃない。
サラボナの大富豪だ。
人を見る目もあるはずだ。
「こちらこそ。息子と共に世話になっている」
短く返す。
もっと丁寧に言うべきか。
いや、パパスならこれくらいでいい。
無駄にへりくだるのも違う。
問題はここからだ。
どうする。
ここで少しでも縁を作りたい。
未来で天空の盾が必要になる。
盾がなければ、息子の旅は進まない。
それどころか、俺が未来を変えたせいで、盾を得る流れそのものが消える可能性もある。
結婚の流れをそのまま利用するのか。
いや、息子の結婚を盾のための手段みたいに考えるのは嫌だ。
父親として最悪だろ。
でも原作では、あの流れで盾に近づく。
なら、俺はどうする。
グランバニア王家の者だと明かすか。
いや。
それは違う気がする。
王家の名を出せば、ルドマンは無視できない。
交渉もしやすい。
天空の盾の話も聞きやすくなるかもしれない。
でも、それは権力をかさに着ているように見えないか。
パパスはそんな男じゃない。
少なくとも、俺の知っているパパスは違う。
頼るなら身分じゃない。
信頼だ。
ルドマンに、パパスという人間を覚えてもらう。
まずはそこからだ。
フローラが息子の方へ一歩近づいた。
「あなたのお名前を、うかがってもよろしいですか?」
丁寧だ。
幼いのに、すでにお嬢様として完成している。
かわいい。
これは将来、人気が出るのも分かる。
息子が少しだけ俺を見上げた。
それから、フローラの方へ向き直る。
「……リュカ」
小さな声で、息子が名乗った。
リュカ。
その名前を聞いた瞬間、頭の中で本棚の記憶まで蘇った。
公式小説版で、久美沙織先生がつけた名前。
ゲームだけなら、プレイヤーが自由につけるはずの名前。
けれど俺にとっては、ずっと馴染みのある名前だった。
俺はゲームだけじゃない。
小説版ドラゴンクエストも、全部持っていた。
Ⅰも、Ⅱも、Ⅲも。
久美沙織先生の天空シリーズ、Ⅳ、Ⅴ、Ⅵも。
Ⅶの小説版だって読んだ。
けれど、その中でもⅤは特別だった。
親子三代。
魔物との旅。
花嫁の選択。
奴隷の日々。
石化。
そして、家族を取り戻す物語。
何度も遊んだ。
何度も読んだ。
何度も、あの場面で悔しい思いをした。
リュカ。
俺にとってその名前は、ただの主人公名じゃない。
何度も見てきた、あの人生の名前だ。
でも今、目の前でその名前を名乗ったこの子は、画面の中の主人公でも、小説の中の誰かでもない。
俺の息子だ。
「リュカさん、ですのね」
フローラは嬉しそうに微笑んだ。
「とても優しい響きのお名前ですわ」
天使か。
名前を褒めるだけでここまで空気を柔らかくできる子、なかなかいないぞ。
さすがフローラ。
幼い頃から人間力が高すぎる。
息子は少し照れたように、俺の服の裾を握った。
かわいい。
息子もかわいい。
フローラもかわいい。
船上イベント、情報量が多すぎる。
ルドマンが楽しそうに笑った。
「サラボナにお越しになることがあれば、どうぞ我が家へ。歓迎いたしますぞ、パパスさん」
来た。
これだ。
この言葉は大事だ。
ただの社交辞令にしてはいけない。
ここで一つ、未来へ繋がる言葉を返す。
天空の盾とは言わない。
ブオーンとも言わない。
グランバニア王とも言わない。
でも、いつか話を聞いてもらえるようにする。
「ありがたく覚えておこう」
まずは普通に返す。
それから、少しだけ言葉を足した。
「ルドマン殿」
「はい、何でしょうかな?」
「いつの日か、貴殿に相談したいことができるかもしれん」
ルドマンの目が、少しだけ真剣になった。
「私に、ですかな?」
「ああ。その時は、話だけでも聞いていただきたい」
これが限界だ。
今はこれ以上言えない。
言えば、未来を知っていることに近づきすぎる。
だが何も言わなければ、縁はただの挨拶で終わる。
だから、これでいい。
ルドマンは少し黙った後、穏やかに頷いた。
「ふむ。パパスさんは、不思議なことをおっしゃる」
「そうかもしれん」
「ですが、覚えておきましょう。あなたのような方からの相談なら、話を聞かぬわけにはいきますまい」
「感謝する」
よし。
小さな一歩だ。
けれど確かに一歩だ。
天空の盾。
ブオーン。
息子の未来。
フローラとの縁。
どれも今すぐ動かすには早すぎる。
だが、種はまいた。
この出会いを、ただの船上イベントで終わらせない。
フローラが小さく手を振った。
「また……会えたら嬉しいですわ、リュカさん」
リュカも小さく手を振り返す。
「うん」
そのやり取りを見ていると、妙な気分になった。
未来では、この二人が結婚する可能性もある。
けれどそれは、今決めることじゃない。
息子の人生は、息子のものだ。
俺がするべきことは、選択肢を奪うことじゃない。
守ること。
未来を広げること。
そして、あの最悪の運命を壊すことだ。
「おーい!そろそろサンタローズだぞー!」
船員の声が甲板に響いた。
リュカが俺の手を握ったまま、見上げてくる。
「……つくの?」
「ああ。今日からしばらく、そこが家になる」
「……うん!」
笑った。
それだけで、少し救われた気がした。
サンタローズ。
やがて焼かれる村。
だが、そうはさせない。
ここから始める。
息子を守り、村を守り、マーサを助けるための準備を。
ルドマンとの縁もできた。
フローラとも出会った。
そして何より、息子と手を繋いだ。
転生?初日にしては、出来事が多すぎる。
いや、俺の人生としては、まだ始まったばかりだ。
「行くぞ」
「うん、おとうさん」
船は静かに波を切って進む。
サンタローズ近くの港へ。
未来を変えるための最初の一日が、ゆっくりと動き出していた。