ドラゴンクエストⅤ 転生したらパパスだった件。 作:兎深みどり
翌朝、サンタローズの家は少し騒がしかった。
原因は、もちろんボロンゴだ。
リュカの後ろをついて歩き、椅子の下にもぐり込み、サンチョが用意した水を鼻先でつつく。
「ボロンゴさま、そちらは台所でございます」
「サンチョ、ボロンゴはさまじゃないよ」
「ですが坊っちゃんの大切な仲間でございますから」
サンチョは真面目な顔で言う。
リュカは困ったように笑い、ボロンゴは何も分かっていない顔で尻尾を揺らした。
平和だ。
こういう時間は、悪くない。
俺は食卓の横で、リュカの道具袋を確認していた。
「薬草は残っているか」
「うん。二つ」
「次に出る時は、もう少し持ちなさい」
「分かった」
「ボロンゴの分も考えるんだ」
「ボロンゴも薬草使う?」
「怪我をすればな」
リュカは真剣な顔でボロンゴを見た。
「怪我しないようにしようね」
ボロンゴが小さく鳴く。
その時だった。
リュカがふと、顔を上げた。
「……え?」
「どうした」
「今、誰か呼んだ?」
部屋の中を見回す。
サンチョも首をかしげた。
「私は何も」
俺にも声は聞こえない。
だが、空気が少しだけ変わった気がした。
春先の風に似た、薄い気配。
来たか。
妖精の村。
ベラ。
前世の俺が、密かに楽しみにしていた存在。
ベラたん。
いや、落ち着け。
俺はパパスだ。
今ここで顔に出すな。
「気のせいではないか」
「そうかな」
リュカはまだ不思議そうにしていた。
ボロンゴも鼻をひくつかせ、部屋の隅を見ている。
何もない。
少なくとも、俺には見えない。
だが、リュカには違うものが見えているのかもしれない。
昼過ぎ、リュカは村の中を歩き回っていた。
井戸のそばを見たり、家の裏を覗いたり、誰かを探しているようだった。
ボロンゴもその後ろをついて回る。
俺は窓からそれを見ていた。
答えを教えるのは簡単だ。
だが、それは違う。
レヌール城で、リュカは自分で進んだ。
なら、次もそうだ。
自分で気づき、自分で手を伸ばす。
そうでなければ意味がない。
夕方が近づく頃、家の空気がまた変わった。
地下の方だ。
リュカの足音が、そちらへ向かっていく。
俺は立ち上がりかけて、止まった。
今は、まだ行かない。
これは父親が先に踏み込む場所ではない。
しばらくして、地下へ向かう扉の向こうから、リュカの声が聞こえた。
「……きみ、だれ?」
続いて、何かが答えたような気配がした。
声ではない。
俺の耳には、はっきり届かない。
だが、いる。
間違いなく、そこにいる。
ベラが。
推しが。
なのに見えない。
どういうことだ。
ここまで来て、俺だけ見えないのか。
いや、知っていた。
原作でも、パパスには見えない。
分かっていた。
分かっていたが、現実にされると、想像以上につらい。
俺は深く息を吐き、顔を整えた。
よし。
外面はパパスだ。
少し待ってから、ゆっくりと地下へ降りる。
階段を下りるたびに、空気が冷えていく。
地下室の奥に、リュカが立っていた。
こちらに背を向け、誰もいない空間へ向かって話している。
「春が来ないの?」
リュカの声。
やはり、誰かと話している。
だが、俺の目には何も見えない。
小さな妖精の姿は、どこにもない。
見えない。
ベラたんが、見えない。
くそ。
「リュカ」
リュカがびくりと肩を揺らして振り返った。
「おとうさん」
リュカの視線が、俺と、その横の何もない空間を行き来する。
そこにいるのだろう。
だが、俺には見えない。
だから、見えていない者として振る舞う。
「話し声がしたので、誰かいるのかと思ったが……リュカ、一人か」
「えっと……」
リュカは困った顔をした。
俺は地下室を見回す。
古い荷物。
冷えた床。
薄暗い壁。
見えるものは、それだけだ。
「ここは冷える。風邪をひかぬうちに、上がってきなさい」
「う、うん」
「一人遊びも、ほどほどにな」
リュカは何か言いたそうにした。
だが、俺はそれ以上聞かなかった。
今ここで問い詰める必要はない。
リュカが自分で話し、自分で選ぶべきだ。
俺は階段を上がる。
背後で、リュカの小さな声が聞こえた。
「……見えないみたい」
続いて、俺には届かない声が地下室の空気を揺らした気がした。
たぶん、こう言ったのだろう。
やっぱり、他の人には見えないみたいね。
見えない。
本当に見えない。
俺は階段の上で、少しだけ天井を見上げた。
会いたかった。
正直、かなり会いたかった。
だが、今はそれでいい。
見えないからこそ、リュカの物語になる。
妖精の声に気づき、手を伸ばし、春を取り戻す。
それはリュカが歩くべき道だ。
俺は家の中へ戻った。
始まった。
サンタローズに帰ってきたばかりだというのに、もう次の冒険が扉を叩いている。
見えない場所へは、リュカが行く。
俺は見える場所で待つ。
それが今の父親の役目だ。
たとえ、推しが見えなくても。