ドラゴンクエストⅤ 転生したらパパスだった件。 作:兎深みどり
サンタローズの空気は、記憶よりも少しだけ冷たかった。
青年は村の入口に立ち、しばらく動けなかった。
小さな川。
見慣れた家並み。
坂道。
教会。
どれも覚えている。
覚えているはずなのに、胸の奥が痛むほど遠い。
ここは、過去のサンタローズ。
まだ壊れていない村。
まだ、すべてが始まる前の場所。
青年は深く息を吸い、教会の前へ向かった。
ここに来るはずだった。
小さな自分が。
手の中の、金色の玉を見せに。
青年は懐から、ひかるオーブを取り出した。
淡い光を宿した、今はまだ代わりでしかない玉。
本物は、ここにある。
少年だった自分が持っている。
そのはずだった。
教会の前で待つ。
村人が何人か通り過ぎる。
子どもの声も聞こえる。
だが、来ない。
あの頃の自分が、来ない。
青年は眉をひそめた。
「……おかしい」
記憶では、この時期の自分は村にいた。
アルカパから戻り、レヌール城の冒険を終え、ゴールドオーブを持っていた。
そして、教会の前で見知らぬ旅人に出会う。
その旅人が、自分だった。
なのに。
いない。
青年は教会前を離れ、村の中を歩いた。
井戸のそば。
宿屋の前。
川沿い。
家の裏。
どこにも、少年の姿はない。
ボロンゴの姿もない。
そして、パパスの姿もなかった。
胸の奥がざわつく。
何かが違う。
青年は、パパスの家の前で足を止めた。
扉を叩く。
少しして、中から足音が近づいた。
「はい、どちらさまでございましょう」
扉を開けた男を見て、青年は息を止めた。
サンチョ。
若い。
記憶の中よりも、ずっと若い。
だが、変わらない。
優しそうな目も、少し大げさな物腰も、そのままだ。
青年は込み上げるものを押し殺した。
「旅の者です。こちらに、リュカという子どもがいると聞いたのですが」
「坊っちゃんに、でございますか?」
サンチョの目が、少し警戒を帯びる。
当然だ。
見知らぬ旅人が、子どもを名指しで訪ねてきたのだから。
「ええ。少し、見せてもらいたいものがありまして」
「見せてもらいたいもの?」
「きれいな玉です」
サンチョの眉が動いた。
知っている。
なら、ゴールドオーブは確かにここにある。
いや、あった。
「失礼ですが、あなたさまは坊っちゃんと、どのようなご関係で?」
青年は答えに詰まった。
関係。
そんなもの、言えるはずがない。
私は未来のリュカです。
あなたに育てられ、あなたに何度も救われた者です。
そんなことを言えるはずがない。
「……昔、パパスさんに少し縁がありまして」
「旦那さまに?」
サンチョはますます不思議そうな顔になった。
「旦那さまも、今はおいでではありません」
「いない?」
「はい。坊っちゃんとボロンゴさまも、ご一緒のようで」
「どこへ?」
「それが……」
サンチョは困ったように家の中を振り返った。
「先ほどまで、地下室の方にいらしたはずなのですが、気づけばお姿がなく」
地下室。
青年の心臓が強く鳴った。
地下室。
サンタローズの家の地下。
妖精。
ベラ。
春風のフルート。
「妖精の村……」
思わず言葉が漏れた。
サンチョが目を丸くする。
「妖精、でございますか?」
「いえ。失礼しました」
青年はすぐに首を振った。
だが、胸のざわめきは消えない。
違う。
この過去は、違う。
本来なら、少年の自分はまだここにいるはずだった。
パパスも、ここにいるはずだった。
ゴールドオーブを持ったまま、教会前に来るはずだった。
なのに、いない。
妖精の村へ行った。
しかも、パパスまで。
そんな記憶はない。
青年は家の奥を見た。
懐かしい家。
帰りたかった場所。
けれど今の自分には、踏み込めない場所。
サンチョが、じっと青年を見ていた。
「旅の方」
「はい」
「失礼ながら……あなたさまは、どこか坊っちゃんに似ておられますな」
青年は息を止めた。
「目元が、と申しましょうか。旦那さまにも、奥さまにも、どこか」
「……よく言われます」
嘘だ。
そんなことを言われる機会など、ほとんどなかった。
けれど、今はそう答えるしかなかった。
サンチョはまだ不思議そうだったが、それ以上は踏み込まなかった。
「坊っちゃんがお戻りになりましたら、お伝えしましょうか?」
青年は少し迷った。
伝言を残せば、過去がさらに乱れるかもしれない。
だが、もう乱れている。
誰かが動かしている。
それが誰なのか、まだ分からない。
「いいえ。また来ます」
「さようでございますか」
「もし、その子が戻ったら……きれいな玉を、大事にするようにと」
「かしこまりました」
青年は軽く頭を下げ、家を離れた。
教会の前へ戻る。
誰もいない。
少年の自分は来ない。
ゴールドオーブもない。
父もいない。
青年は、ひかるオーブを握りしめた。
何かが変わっている。
俺の知っている過去ではない。
ただの小さなズレではない。
パパスが妖精の村へ行った。
それだけで、ありえない。
青年はサンタローズの家を振り返った。
父さん。
あなたは、何をしているんですか。
青年は答えのない問いを胸にしまい、村の外へ歩き出した。
今は待つしかない。
少年の自分が戻るまで。
ゴールドオーブが戻るまで。
そして、この過去を変えている何かと出会うまで。
サンタローズの風が、背中を撫でた。
懐かしいはずの風が、今は少しだけ知らないものに感じられた。