ドラゴンクエストⅤ 転生したらパパスだった件。 作:兎深みどり
未来のリュカが先に動いた。
杖を構えたまま地面を蹴り、真正面から間合いを詰めてくる。
魔法使いの距離ではない。
旅の中で何度も魔物と向き合い、傷を負い、それでも前へ出てきた者の踏み込みだった。
俺は剣で杖を受けた。
乾いた音が草地に響く。
思った以上に重い。
未来のリュカはすぐに杖を引き、体勢を崩さず横へ回り込んだ。
迷いはまだ残っている。
だが、もう遠慮だけで退く顔ではなかった。
「バギ!」
風の刃が足元から跳ね上がる。
俺は剣へ魔力を流し、迫る風の筋へ刃を合わせた。
裂けた風が左右へ流れ、草を細かく切り飛ばす。
未来のリュカはその隙に後方へ下がっていた。
距離を取り直し、杖を両手で握る。
その目には、先ほどよりも強い覚悟が宿っていた。
「まだだ」
俺は剣を構え直した。
「その程度では、俺は止められない」
「分かっています」
未来のリュカの声は震えていなかった。
「だから、止めます」
次の瞬間、風が変わった。
一つの刃ではない。
いくつもの風が重なり、俺を囲むように走る。
「バギマ!」
草地が一斉にうねった。
左右から、背後から、風の刃が迫る。
俺は正面だけを見ていたら斬られる。
剣を振る。
一つを裂く。
身を沈めて、もう一つをかわす。
肩口に鋭い痛みが走る。
血が滲む。
だが、足は止めない。
未来のリュカは強い。
当然だ。
あの長い物語を生き抜いた俺の愛する最高の物語の主人公なのだから。
父を失い、十年を奪われ、妻と引き離され、それでも倒れなかった男。
俺が画面越しに見ていた勇者の父。
その人生の重さが、今は一撃一撃に乗っている。
「いいぞ」
俺は傷口を押さえず、前へ出た。
「それでいい」
「なぜ、笑えるのですか」
「嬉しいからだ」
未来のリュカが眉を寄せる。
「お前が、ここまで強く生きてきたことがな」
一瞬だけ、未来のリュカの表情が揺れた。
だが、すぐに唇を噛み、杖を構え直す。
「それでも、僕は退けません」
「ああ。退くな」
「僕には、助けなければならない人がいる」
「知っている」
「石のまま待っている妻がいる。僕を信じてくれている子どもたちがいる」
「なら、なおさら本気で来い」
未来のリュカの魔力が膨れ上がった。
今度は先ほどまでとは違う。
草地全体を押し潰すような圧が、空気の中に満ちていく。
俺の肌が粟立った。
来る。
未来のリュカが、杖を高く掲げた。
空気が一斉に引き寄せられ、草地の上を走っていた風が一点へ集まり始める。
小石が浮き、草が根元から引き千切られ、渦を巻いて空へ舞い上がった。
空と大地を繋ぐような、巨大な暴風の柱が生まれる。
その中心には、ただの風ではない魔力の流れがあった。
近づくだけで身体ごと巻き上げられ、骨まで砕かれそうな圧がある。
「これを止められなければ、僕はゴールドオーブを持ち帰ります」
「ああ」
「僕は、妻を見捨てられません」
「それでいい」
「子どもたちの未来も、諦められません」
「それでいい」
未来のリュカは、涙を堪えるような顔で杖を振り下ろした。
「バギクロス!」
竜巻が動いた。
地面を削りながら、巨大な暴風の柱が俺へ迫る。
ただ押し寄せてくるだけではない。
周囲の空気そのものが引き剥がされ、身体が竜巻の中心へ引き込まれそうになる。
逃げることはできるかもしれない。
横へ跳べば、直撃だけは避けられるかもしれない。
だが、それでは意味がない。
未来のリュカが見たいのは、逃げる俺ではない。
運命に向かって踏み込む父親だ。
俺は剣を両手で握った。
足元の土が削られ、身体が前へ引っ張られる。
腕に風の刃が走り、頬から血が飛んだ。
見ろ。
風の外側を見るな。
竜巻の形を見るな。
その中で魔力がどこから生まれ、どこへ流れ、どこで渦を保っているのかを見るんだ。
ホークブリザードの吹雪。
ザラキの魔力。
さっき斬ったバギとバギマ。
全部、同じだ。
呪文には流れがある。
流れには芯がある。
芯を断てば、どれほど巨大な竜巻でも崩れる。
だが、ただ剣を振るだけでは届かない。
竜巻の中心へ刃を入れるには、こちらも風を作る必要がある。
剣の先に魔力を集め、斬撃そのものを薄い真空へ変える。
風を押し返すのではない。
風の中に、風が存在できない隙間を作る。
その感覚が、指先から剣へ通った。
来た。
俺は内心で叫んだ。
これだ。
グランバニアの山中で何度も試した、剣に魔力を通す感覚。
洞窟で魔物相手に重ねてきた、刃と魔力を一つにする練習。
ホークブリザードの吹雪を斬った時に掴みかけた、呪文の流れへ刃を差し込む感覚。
全部が、今ここで繋がった。
外面は崩さない。
未来のリュカの前で、いきなり拳を握って喜ぶわけにはいかない。
だが、心の中では両拳を突き上げていた。
よし。
いける。
これは、ただの魔法剣ではない。
風を斬るための剣。
呪文の流れを断つための剣。
俺が原作のパパスではないからこそ、ここで掴む剣技。
「――しんくう斬り」
呟いた瞬間、剣の光が変わった。
刃の周囲の空気が消える。
音が途切れた。
暴風の中にいるはずなのに、剣の周りだけが異様な静けさに包まれる。
未来のリュカの目が見開かれた。
「その技は……」
俺は答えなかった。
答える代わりに、竜巻へ踏み込む。
一歩。
暴風が肩を裂く。
二歩。
足元の土が抉れ、身体が浮きかける。
三歩。
竜巻の壁が目の前に迫る。
俺は剣を振り上げた。
狙うのは竜巻そのものではない。
中心で絡み合う魔力の流れ。
風を巻き続けさせている、見えない結び目。
「おおおおおっ!」
剣を振り下ろした。
しんくう斬り。
真空の刃が、暴風の壁へ入った。
次の瞬間、竜巻の音が変わった。
唸りが割れる。
渦が歪む。
巨大な風の柱に、縦一文字の裂け目が走る。
俺の剣は、風を押し潰したのではない。
風が風であるための流れを、真っ直ぐに断ち切っていた。
未来のリュカが息を呑む。
「バギクロスが……裂けている……?」
竜巻が左右へ開いた。
暴風の壁が崩れ、巻き上げられていた草と土が空中で弾ける。
切り裂かれた風は俺の両側を通り抜け、背後の草地を大きく抉った。
やがて、風が消えた。
俺は剣を振り下ろした姿勢のまま、荒く息を吐いた。
腕は痺れている。
足も震えている。
全身に細かな傷が走る。
だが、倒れてはいない。
未来のリュカは杖を下ろしていた。
その顔には、戦意ではなく、呆然とした驚きだけが残っている。
「本当に……」
未来のリュカの声が震えた。
「本当に、バギクロスを斬った」
「ああ」
俺は剣を握り直した。
風を裂いた刃の光が、ゆっくりと消えていく。
「これが、今の俺の剣だ」
未来のリュカが息を呑む。
「しんくう斬り。お前の知るパパスにはなかった、俺の戦い方だ」
未来のリュカは、しばらく何も言えずにいた。
その目には、恐怖ではなく、信じられないものを見た驚きが浮かんでいる。
「僕の知っている父は、そんな技を使いませんでした」
「ああ」
「僕の知っている父は、未来を知りませんでした。ルーラも使わなかった。呪文を斬ることもなかった」
「ああ」
未来のリュカは、俺を見つめた。
父と同じ顔。
父と同じ声。
だが、自分の知る父とは違う力を持ち、自分の人生をすべて知っている男。
その問いが来ることは分かっていた。
「あなたは……父なのですか?」
俺は剣を鞘へ戻した。
ここで嘘をつけば、この男をもう一度傷つける。
父を失った子どもの心へ、都合のいい幻を押しつけることになる。
「違う」
未来のリュカの表情が固まった。
「俺は、お前が知っているパパスではない」
「では、何者なのですか」
「別の世界で生きていた男だ。その世界で、俺はお前たちの人生を物語として知っていた。気がついた時には、パパスの身体でこの世界にいた」
未来のリュカは言葉を失った。
「俺には、パパスとして生きてきた記憶がない。マーサと何を語ったのかも、どこを旅したのかも、どんな魔物と戦ってきたのかも知らない」
「では、本当の父は……」
「分からない」
その言葉を言うのは苦しかった。
だが、言わなければならなかった。
「俺が持っているのは、別の世界の記憶と、この世界で本来起こるはずだった出来事の知識だけだ」
未来のリュカが俯いた。
杖を握る手が震えている。
「そう、ですか」
短い言葉だった。
その中に、どれだけの失望があったのかは分からない。
死んだはずの父に、もう一度会えたと思ったのかもしれない。
違う未来があるかもしれないと、ほんの一瞬でも期待したのかもしれない。
その期待を、俺は壊した。
「だから、俺はお前の知る父ではない」
未来のリュカは顔を上げなかった。
「だが、リュカ」
名前を呼ぶと、肩が小さく揺れた。
「今のリュカを、俺は息子だと思っている」
未来のリュカがゆっくり顔を上げる。
「最初は、自分が死にたくなかっただけだ。原作通りに進めば、俺はゲマに殺される。二度も死んでたまるかと思った」
それが始まりだった。
父の愛などではない。
ただの恐怖だ。
「だが、あの子は俺を見て、おとうさんと呼んだ」
未来のリュカの瞳が揺れた。
「何の疑いもなく、俺の手を握った。俺が守ってくれると信じていた。眠る時も、怖い時も、俺のそばにいた」
小さな手の感触が蘇る。
こちらを見上げる目。
当たり前のように父を信じる声。
「あの子に呼ばれた時から、俺は逃げるだけではいられなくなった」
俺は未来のリュカへ一歩近づいた。
「始まりが偽物でも、あの子を大切に思う気持ちは偽物ではない。守りたい。笑っていてほしい。父親を目の前で殺された記憶も、奴隷として奪われる十年も、絶対に背負わせたくない」
未来のリュカの目から、涙が一粒こぼれた。
「それに、お前もだ」
「僕も……?」
「ああ」
俺は目の前の男を真っ直ぐ見た。
「お前は、俺と過ごしたリュカではない。だが、それでもリュカだ。父を失い、それでも立ち上がって、家族を守ろうとしてここまで来た」
未来のリュカの口元が歪む。
堪えようとしている。
だが、もう涙は止まらなかった。
「よく生きたな」
その一言で、未来のリュカの顔が崩れた。
「よく、ここまで来た」
未来のリュカは杖を握りしめたまま、声を殺して泣いた。
大人の男が泣いている。
だが、俺にはその姿が、幼いリュカと重なって見えた。
父の死を背負った子ども。
助けられなかったと、自分を責め続けた子ども。
十年を奪われても、誰かを憎みきることもできず、それでも前へ進んだ子ども。
俺はその前に立ち、静かに頭を下げた。
「それと、さっきは悪かった」
未来のリュカが涙の残る顔で俺を見る。
「……何がですか」
「お前の妻のことを持ち出した。石にされた妻を救う道が閉ざされると言った」
あれは、本気を出させるための言葉だった。
だが、必要だったからといって、傷つけていい理由にはならない。
「お前がどれほど妻を救いたいのか、俺は知っていた。その上で、あの言葉を使った。父親が息子に向けていい言葉ではなかった」
未来のリュカはしばらく黙っていた。
やがて、涙を拭いながら首を振る。
「でも、あれで僕は本気になれました」
「それでも、悪かった」
俺は頭を上げた。
「お前はもう十分に苦しんできた。そこへさらに刃を向けるような真似をした」
「……痛かったです」
「ああ」
「でも、少しだけ、嬉しくもありました」
未来のリュカは目を伏せた。
「僕の妻を助けたい気持ちを、あなたが知っていてくれたから」
胸の奥が締めつけられた。
この男は、どれほど孤独に歩いてきたのだろう。
俺は未来のリュカの肩へ手を置いた。
「お前のせいではない」
未来のリュカの身体が震えた。
「父を救えなかったことを、ずっと背負ってきたのだろう」
「……はい」
「ゲマの前で動けなかったことを、何度も悔やんだのだろう」
「はい」
「もっと強ければと、自分を責め続けたのだろう」
未来のリュカは、涙をこぼしながら頷いた。
「でも、僕は何もできなかった。父は僕を守るために武器を捨てた。僕がいたから、父は……」
「違う」
俺は強く言った。
「パパスは、お前がいたから死んだのではない。お前を守るために戦ったんだ」
「でも……」
「子どもが父親を守れなかったことを、背負うな」
未来のリュカの目が大きく開かれた。
「父親は、子を守るために立つ。子どもに自分の死を背負わせるために立つのではない」
涙がまた溢れた。
「お前は悪くない」
未来のリュカの唇が震える。
「お前は、守られるべき子どもだった」
「……そんなこと」
「誰かに、そう言ってほしかったのだろう」
未来のリュカはもう、声を堪えられなかった。
杖を取り落とし、その場に膝をつく。
大きく肩を震わせ、子どものように泣いた。
俺はその前に膝をついた。
そして、未来のリュカを抱き寄せた。
この男は、俺と共に育った息子ではない。
俺の知るリュカではない。
それでも、今この腕の中で泣いているのは、確かにリュカだった。
「遅くなってすまなかった」
俺は静かに言った。
「お前がずっと背負ってきたものを、今まで降ろしてやれなくてすまなかった」
未来のリュカは、俺の服を掴んだ。
「父さん……」
その言葉に、胸が詰まる。
「僕は、父さんに会いたかった」
「ああ」
「一度でいいから、もう一度だけでいいから、父さんに……」
「ああ」
「大丈夫だって、言ってほしかった」
俺は未来のリュカの背へ手を回した。
「大丈夫だ」
未来のリュカが息を呑む。
「お前は、よくやった。よく生きた。よく家族を守った」
「本当に……?」
「ああ」
「僕は、父を失っても……間違っていませんでしたか」
「間違っていない」
「僕は、父の息子でいられましたか」
俺は少しだけ息を詰めた。
本当のパパスではない俺が、それを言っていいのか。
その迷いは、一瞬だけ胸をよぎった。
だが、言わなければならない。
この男が、ずっと待っていた言葉だからだ。
「お前は、立派な息子だ」
未来のリュカの涙が、俺の肩を濡らした。
しばらく、二人とも動かなかった。
風だけが草地を撫でていく。
遠くの山々が、静かに春の光を受けていた。
やがて、未来のリュカの身体が淡い光に包まれ始めた。
この時代に留まれる時間が尽きようとしているのだろう。
ゴールドオーブを渡さなかった以上、未来へ戻る道も本来とは違う形になっているのかもしれない。
未来のリュカは、涙を拭って立ち上がった。
その顔にはまだ悲しみが残っている。
だが、最初に教会前で会った時とは違う。
どこか、重い荷物を一つ降ろしたように見えた。
「ゴールドオーブは、渡してもらえないのですね」
「ああ」
「妻を救う道は、変わってしまうかもしれません」
「変わるかもしれない。だが、閉ざさせはしない」
「子どもたちに会えなくなる未来も、あるかもしれません」
「その未来にはさせない」
未来のリュカは、少しだけ笑った。
「まだ、信じきれません」
「それでいい」
「でも……変えられるかもしれないとは、思いました」
「なら、十分だ」
光が強くなった。
未来のリュカの輪郭が、少しずつ薄れていく。
「あなたを、父と呼んでもいいのでしょうか」
「俺が決めることではない」
俺は未来のリュカを見つめた。
「だが、呼ばれたなら応える」
未来のリュカは涙を浮かべたまま、幼い頃の面影を残す笑みを見せた。
「父さん」
「ああ」
短く答えるだけで、喉が詰まった。
「リュカ」
俺は光の中の息子へ告げる。
「安心しろ。お前が戻った未来は、必ず変わっている」
未来のリュカは、ゆっくりと頷いた。
「信じます」
その姿が、春の光の中へ溶けていく。
最後までこちらを見ていた。
最後まで、涙を流しながら笑っていた。
そして、未来から来た息子は消えた。
草地には、俺一人が残された。
風が吹き、戦いで裂けた草が揺れている。
ゴールドオーブは渡さなかった。
原作で繋がるはずだった道を、俺はまた一つ壊した。
だが、後悔はない。
未来から来たリュカの涙を見た。
あの男が背負ってきた痛みを知った。
そして、約束した。
妻も。
子どもたちも。
幼いリュカも。
未来のリュカも。
誰一人、運命の都合で切り捨てない。
俺は剣の柄を握り、グランバニアの山々を見上げた。
この先、流れはさらに歪むだろう。
俺が壊した分だけ、別の形で何かが襲ってくるだろう。
それでも構わない。
父親が息子に約束したのだ。
ならば、守る。
たとえ相手がゲマでも。
たとえ相手が、運命そのものでも。